〈書評〉体験基に 救われない孤児描く 井上ひさし『四十一番の少年』
2024.10.01
井上ひさしはこんな言葉を遺した。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく……」。彼の作品にこの信念は生きている。作家としてのデビュー作『ブンとフン』(1970年)では、奈良の大仏から人間の記憶まで何でも盗んでしまう怪盗フンの大騒動を通し、権威に縛られる現代の在り方を風刺した。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」(1964〜69年)では、子どもの視点から社会を捉えたユーモラスなセリフを入れ、老若男女の支持を得たという。
だが、井上としては珍しく「ふかいことをおもしろく」とは言えない作品がある。1974年に文春文庫から出版された『四十一番の少年』。特有の軽妙な「面白さ」が全くと言っていい程感じられない作品だ。
本作は三つの短編小説から成る。三編とも、戦後間もない頃にやむなく孤児院で暮らす「救われない」主人公を描く。全日制高校に通えるかもしれない。祖母の家で暮らせるかもしれない。そうした淡い希望は最後には儚く潰える。彼らが孤児院の生活から抜け出すことはない。
本作は、井上が実際に孤児院で過ごした経験を参考にした自伝的小説である。井上は生前、孤児院では楽しいことも多かったと話していたというが、その楽しさは本作からは全く読み取れない。陰湿ないじめが蔓延る弱肉強食の世界が広がっているだけで、本文中の言葉を拝借すれば「他に行くあてがないとわかればいいところ」でしかない。
三編の中で最も救いのない話は、表題作「四十一番の少年」だろう。中学生の利雄は、唯一の身寄りであった母親が肺結核で療養所に入院するのに際して、孤児院に入所。高校を卒業したばかりの昌吉と同じ部屋になる。昌吉は気に入らないことがあるといつも殴ってくる。利雄は「針でとめられた蝶」のように抵抗できない。他に家もないからひたすらに耐え続ける日々。孤児院での生活に「救い」は見出せない。
毎日利雄を殴っていた昌吉も、物語中盤では殴られる。昌吉は孤児院を金銭面で支援している一家の娘に恋をして、一方的に会う約束をする。だが、待ち合わせ場所に娘は現れなかった上、一家専属の運転手からみぞおちにパンチをくらい、「お嬢様に二度とつきまとうな」と宣告される。愛という「救い」を求めた昌吉も、辛い現状に回帰する。
昌吉が辛い目に遭っていると、利雄、さらには読者の胸がスカッとしても可笑しくない。だが、殴られて口から糸のような涎を垂らす昌吉を見ても、利雄は「今晩殴られるぞ」と怯えるだけ。昌吉は娘のことを諦めきれずに恐ろしい計画を企て、自ら破滅の道を歩んでいく。読者の胸にはより一層悲壮な思いが募る。誰も救われない物語が、井上の繊細な言葉遣いで紡がれていく。
終戦で他に行き場のない子どもたちを「救う」はずの孤児院が、子どもたちを追い詰める場と化す。そんな信じ難い状況を作ったのは戦争、ひいては社会と言える。井上は、孤児院の楽しさにあえて言及しないことで、孤児院の在り方から浮かび上がる戦後社会を、暗に、だが強く批判しようとしたのかもしれない。読み応えのある一冊だ。(郷)
だが、井上としては珍しく「ふかいことをおもしろく」とは言えない作品がある。1974年に文春文庫から出版された『四十一番の少年』。特有の軽妙な「面白さ」が全くと言っていい程感じられない作品だ。
本作は三つの短編小説から成る。三編とも、戦後間もない頃にやむなく孤児院で暮らす「救われない」主人公を描く。全日制高校に通えるかもしれない。祖母の家で暮らせるかもしれない。そうした淡い希望は最後には儚く潰える。彼らが孤児院の生活から抜け出すことはない。
本作は、井上が実際に孤児院で過ごした経験を参考にした自伝的小説である。井上は生前、孤児院では楽しいことも多かったと話していたというが、その楽しさは本作からは全く読み取れない。陰湿ないじめが蔓延る弱肉強食の世界が広がっているだけで、本文中の言葉を拝借すれば「他に行くあてがないとわかればいいところ」でしかない。
三編の中で最も救いのない話は、表題作「四十一番の少年」だろう。中学生の利雄は、唯一の身寄りであった母親が肺結核で療養所に入院するのに際して、孤児院に入所。高校を卒業したばかりの昌吉と同じ部屋になる。昌吉は気に入らないことがあるといつも殴ってくる。利雄は「針でとめられた蝶」のように抵抗できない。他に家もないからひたすらに耐え続ける日々。孤児院での生活に「救い」は見出せない。
毎日利雄を殴っていた昌吉も、物語中盤では殴られる。昌吉は孤児院を金銭面で支援している一家の娘に恋をして、一方的に会う約束をする。だが、待ち合わせ場所に娘は現れなかった上、一家専属の運転手からみぞおちにパンチをくらい、「お嬢様に二度とつきまとうな」と宣告される。愛という「救い」を求めた昌吉も、辛い現状に回帰する。
昌吉が辛い目に遭っていると、利雄、さらには読者の胸がスカッとしても可笑しくない。だが、殴られて口から糸のような涎を垂らす昌吉を見ても、利雄は「今晩殴られるぞ」と怯えるだけ。昌吉は娘のことを諦めきれずに恐ろしい計画を企て、自ら破滅の道を歩んでいく。読者の胸にはより一層悲壮な思いが募る。誰も救われない物語が、井上の繊細な言葉遣いで紡がれていく。
終戦で他に行き場のない子どもたちを「救う」はずの孤児院が、子どもたちを追い詰める場と化す。そんな信じ難い状況を作ったのは戦争、ひいては社会と言える。井上は、孤児院の楽しさにあえて言及しないことで、孤児院の在り方から浮かび上がる戦後社会を、暗に、だが強く批判しようとしたのかもしれない。読み応えのある一冊だ。(郷)
◆書誌情報
『四十一番の少年(新装版)』
著:井上ひさし
文春文庫
発売日:2010年12月3日
価格:671円
『四十一番の少年(新装版)』
著:井上ひさし
文春文庫
発売日:2010年12月3日
価格:671円