解かずに読む 共テ書評2026
2026.02.16
共通テスト「国語」や「公共、倫理」で出題される文章は、世相や世代にあったテーマを扱う文献から引用されることも多く、じっくり読むと意外に面白い。とはいえ問題を解く立場だと、問題文をのんびり読んでる場合ではないし、内容にちょっと興味を持ったとしても、試験後の忙しさにかまけて忘れてしまう受験生が少なくないだろう。
京大新聞では例年、共テ問題文の出典から数冊をピックアップし、その書評を掲載している。本面をきっかけに出題文を思い出し、受験後にでも読んでみようか、と思ってもらえれば幸いだ。(編集部)
【国語 第2問】「影に対して」
【国語 第3問】『イワシ』
【公共,倫理 第4問】『堕落論』
『美術教育の可能性』と題する本書は、教育学の専門家・小松佳代子氏の編著による専門書である。編著者に加えて複数の美術制作者・研究者が執筆に参加することで、教育学の立場だけでなく、制作者による実践を通して、原理的な美術教育像を提示するという意欲的な課題に取り組んでいる。
本書を貫くテーマのひとつに、ABR(芸術に基づく研究)がある。ABRは制作者が制作を通じて行っている探究を「研究」として位置づけしなおす試みだが、方法論的な吟味はまだ途上にある。編著者は本書の前半において、ABRを社会学研究の手段や社会的実践の場面に限定してきた社会学・教育学のアプローチからは距離をおく。編著者は、ABRの可能性を制作における「芸術的省察」に見出し、実際に美術制作に携わる制作者らによるABRへのアプローチに襷をつなぐ。本論考はそのひとつと位置づけられる。
著者は、贈与品のなかに、贈り手個人の物語が交換不可能な「余剰」として付随するとしたモースの人類学的贈与論や、有用性の論理を破壊することで交換不可能な「非‐知」の次元が露わになるとするバタイユの純粋的贈与論に立脚し、美術をこうした「贈与」の次元に位置づけた。これは、言語的に把握し価値を客観的に推量できると信じられている既存の枠組み、すなわち科学的・論理的思考や、言語・貨幣による「交換」の次元と対置される。
続いて、著者はABRを「贈与」の次元に位置づける。著者がかつて取り組んだABRの実践では、作品制作への考え方の相違について、異なるバックグラウンドを持つ制作者の間でなされた対話の内容をマッピングし、鑑賞者に提示した。マッピングの過程で対話を振り返ると、対話における誤解が明らかになり、新たな対話や解釈が生み出された。
著者はこの経験に基づき、個人の考え方のように完全な言語化が難しく「わかりえない」もの、つまり言語によって交換不可能な「贈与」の次元に属するものについての探究を、マッピングのような形で「もの」として実体化することで、「わかりえない」性格を維持したまま、他者との交換に開かれた形にできるとした。その上で、著者はこうした実体化が、あらゆる美術制作に通じると論じた。著者によれば、こうした「わかりえない」ものについての探究、すなわち「贈与的省察」を伴うあらゆる美術制作はABRと言える。
著者の幼少期の体験や制作行為にまつわる個人的な経験と、モースやバタイユによる贈与論の議論とが接続されることで、堅実な学術的議論に立脚しつつも、専門内外の読者が追いかけやすい展開となっている。また、美術制作は「贈与的省察」を伴う限りABRである、と定義することで、芸術を専門としない学生にとっての美術教育を贈与的省察の訓練として意義づけ、本書が問う「美術教育の可能性」に一つの解答を提示することに成功している。
著者は「交換」としての社会科学と「贈与」を対置するバタイユのポスト構造主義的な図式に立脚し、贈与的省察に基づく探究を、社会科学的研究の隙間を埋めるものとして位置づけるにとどめている。以下は評者の私見になるが、美術教育によって訓練される「わかりえない」ものをその多義性を維持したまま探究する態度は、こうした図式にとどまらず、たとえばショート・ナラティブの拡散や、それに伴う思考の分極化・先鋭化といった、さまざまな現代的事象に対置することも可能に思える。「わかりえない」ものを探究する枠組みとして、美術制作や美術教育の可能性に光をあてた好書である。(汐)

親も他人である。人は誰しも、そう気づいた瞬間があるのではないだろうか。つまり、目の前にいるその人が、自分の父親/母親であるだけでなく、誰かの子供であり、友人であり、恋人であったことに改めて気付かされた時、突然親が知らない人のように見えるのだ。
本作は国語第2問に一部が出題された短編小説だ。遠藤周作の死後25年、2020年に未発表原稿として発見された異色の経歴を持つ。未発表だった理由について、遠藤周作の息子・遠藤龍之介は「極めて私小説的」とし、本作の主人公・勝呂は明らかに遠藤周作自身だと指摘した。
勝呂は小説家になる夢を諦め、妻と子供を養うため翻訳家として働く男性だ。両親は勝呂が幼い頃に離婚しており、父は再婚しているが、母は既に亡くなっている。勝呂の母はヴァイオリンに熱中し、練習中は勝呂が声をかけても気にも留めないような人物だった。音楽を崇高な精神で追究する母に対し、「平凡」を求める父が理解を示さずに離婚したことに反発を覚える勝呂は、父を「俗人」と嘲り、恨んでいる。
話は少年時代の勝呂の思い出と現在の勝呂の視点が交錯して進んでいく。空間的・時間的に異なる場面が交互に映し出されるうちに、読者の目には2つの家庭が重なって見えるようになる。過去の勝呂の父は現在の勝呂に、勝呂の母は勝呂の妻にその影を延ばしている。
問題文に取り上げられたのは、勝呂の母が人生を捧げたヴァイオリンをやめて「平凡な主婦」として家事を行うようになった場面だ。勝呂はヴァイオリンから母を独占できたことを喜ぶが、音楽を奪われた母の寂しさをどこかで感じ取っている。母が自分の「母」だけでいてくれないことを、勝呂は理解しつつも承服しかねているのだ。この場面は「他人としての親」を最も象徴している。
ところが、本作の一番の主題はおそらくそこにはない。むしろ、「自分の一部である親」が作中には繰り返し描かれる。勝呂は父を軽蔑しているものの、結局自分の仕草や癖が父から受け継がれたものであると気付いている。小説家の夢に未練を抱きながらも今の日常に妥協する臆病さが、父とそっくりであることを自覚しているのだ。しかし、勝呂は平凡な幸せに安住するわけにはいかない。敬愛する母の言葉が勝呂を囚えているからだ。「アスハルトの道は安全だから誰だって歩きます。(中略)海の砂浜は歩きにくい。歩きにくいけれどもうしろをふりかえれば、自分の足あとが一つ一つ残っている。そんな人生を母さんはえらびました。あなたも決してアスハルトの道など歩くようなつまらぬ人生を送らないでください。」自らの内の父と母に悩まされる勝呂は、結局何者にもなる決心を固められないままだ。
本作は全体を通して遠藤周作の自省の姿勢に貫かれており、過去の生傷を読者の前に提示するような激しさも持っている。彼だけでなく、多くの人の人生には親の影が投げかけられているものだ。望もうが望むまいが、それが喜ばしいものであろうが憎いものであろうが。そうした親子の関係という他者には触れがたい部分、読者の秘所を本作は抉り照らし出す。勝呂と遠藤周作の過去に触れることで、読者は自らの内側を覗き込むという希少な経験を得るのだ。(燈)

表紙から惹きこまれた。目の水晶体を輝かせ、微細なプランクトンに向けてあらん限りに口を開けるイワシ。半透明の口には餌を濾しとる鋭い鰓耙が見え隠れする。口を開ける筋肉は張り出して、光をギラギラと反射している。本作に登場するマイワシは20センチ前後が一般的だが、表紙で口を開く奴は、風を満載した3メートル級こいのぼりに似ている。
本作は国語第3問に登場した絵本だ。問題文中、編集者・山形昌也氏のインタビューが紹介される。ピカピカの5、6歳が対象であるため、「イワシは群れて生きる」というメッセージ以外は全て削り、極限まで情報を絞り込んだという。
しかし筆者は、くたびれた20歳。研ぎ澄まされた少ない情報から書評を書くのは非常に難しい。そこで「5歳児になる」ことにした。あぐらをかいて、本に顔を埋める。幼児は視力が発達しきっていないので、本に食べられるかのように読むのだ。
一面の青の中、ボボボボとくぐもった音が聞こえてくる。イワシの群れが筆者に襲い掛かってきた。なんたる存在感。少し怖い。次ページ急転、イワシの群れは縮み、コアジサシが飛び込んでくる。咥えられたイワシは生をすっかり諦めて、無気力に海面を眺めている。ブリ、クジラ、人間の巻き網と、どんどん巨大な存在に捕食されていく。残ったのは目算40匹のしょぼくれた群れのみ。しかし彼らは他の群れと合体して、再び大きな群れを形成し、冬から春にかけて卵を産む。産まれたシラスはかわいくて間抜け。かの子らもまた、群れを形成していくのだ。
ふっと息を吐いて絵本から離れた。「群れ」という生存戦略のダイナミックさと残酷さが真っすぐに伝わってくる良書だ。しかし離れて見ると、なんと美味しそうな。メシにしか見えない。子供になりきれない筆者は、今晩の夕食を考えている。束の間の幼児退行は、しかし「退」の字に似合わず美しい体験だった。そうだ、今夜はあれにしよう。イワシ。(雲)
公共,倫理第4問では、坂口安吾『堕落論』の一部が引用された。タイトルに「落」と付き、引用文中には「堕ちる」が4度も繰り返されるという、受験生の心を乱す問題。作問者の倫理観を疑いたくもなるが、著者の安吾が前々回の丙午生まれで今年生誕120年を迎えることを踏まえれば、なかなか粋な出題に見えてくる。
本評論は戦後間もない1946年4月に発表された。短い論考ながら、当時の世相と人間の本質を鋭く分析し、戦後の人々に生きる指針を示している。
「人間は堕落する」。これが本評論の大前提だ。そのうえで安吾は、堕落を全肯定する。特攻隊員の生き残りが闇屋になろうが、戦争で夫を失った未亡人が新たな恋を始めようが、それが人間の本性なのだから問題はない、と安吾は説く。
なぜ安吾は堕落を肯定するのか。そこには反戦への強い意志がある。人間は堕落するが、堕ち抜けるほど強くはない。だから人間は、堕落を食い止めるためのシステムを作る。戦時下では、武士道や天皇制がそれにあたった。「昨日の敵は今日の友」という楽天性を武士道で縛り、死にたくない気持ちを「天皇のため」という大義名分でかき消して、人々は戦争に向かった。しかしそんなシステムも終戦とともに廃れた。では、次なる道は堕落だ。堕ちるまで堕ちて、自己を見つめなおし、そして新しいシステムを作り出そう。堕落を避け、古いシステムにしがみついたままでは、悲劇を繰り返すことになるぞ――。安吾はこう警鐘を鳴らしているのである。
古いシステムから、堕落を経て、新しいシステムへ移行するというスクラップアンドビルドの繰り返しこそ平和への近道だと、安吾は考えていたようだ。『堕落論』の後に発表された『続堕落論』では、ほんの短い命を生きる人間が永続的な制度を作ろうとすることを「ナンセンス」と切り捨て、「我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということ」と述べている。旧体制への固執も大改革も認めず、着実に前進することのみを是とする安吾の姿勢は、「生きよ堕ちよ」などの熱くセンセーショナルな言葉とは裏腹に、冷たささえ感じるほど理知的だ。
江戸時代、丙午生まれの女性・八百屋お七は、恋焦がれた人に会いたいと願うあまり放火事件を犯したという。同じく丙午生まれの安吾も、『堕落論』の発表によって、混迷を極める戦後日本に火を放った。その火は猛烈な熱さと確かさをもって、真っ暗だった日本の未来を照らし、人々を前進させた。そうして生まれた私たちができることは、「少しずつ良くなれ」の精神を受け継ぎ、体現して、将来に繋いでいくことではないだろうか。『堕落論』は戦後を生きるすべての人々のスタート地点として燦然と輝く評論である。(梅)

京大新聞では例年、共テ問題文の出典から数冊をピックアップし、その書評を掲載している。本面をきっかけに出題文を思い出し、受験後にでも読んでみようか、と思ってもらえれば幸いだ。(編集部)
目次
【国語 第1問】「『贈与』としての美術・ABR」【国語 第2問】「影に対して」
【国語 第3問】『イワシ』
【公共,倫理 第4問】『堕落論』
【国語 第1問】「『贈与』としての美術・ABR」
〝「交換不可能なもの」が、「もの」としての形を与えられることで、言語化不可能な多義性を含んだ「もの」そのものとして、他者との交換の俎上へと載せることが可能になる〟
『美術教育の可能性』と題する本書は、教育学の専門家・小松佳代子氏の編著による専門書である。編著者に加えて複数の美術制作者・研究者が執筆に参加することで、教育学の立場だけでなく、制作者による実践を通して、原理的な美術教育像を提示するという意欲的な課題に取り組んでいる。
本書を貫くテーマのひとつに、ABR(芸術に基づく研究)がある。ABRは制作者が制作を通じて行っている探究を「研究」として位置づけしなおす試みだが、方法論的な吟味はまだ途上にある。編著者は本書の前半において、ABRを社会学研究の手段や社会的実践の場面に限定してきた社会学・教育学のアプローチからは距離をおく。編著者は、ABRの可能性を制作における「芸術的省察」に見出し、実際に美術制作に携わる制作者らによるABRへのアプローチに襷をつなぐ。本論考はそのひとつと位置づけられる。
著者は、贈与品のなかに、贈り手個人の物語が交換不可能な「余剰」として付随するとしたモースの人類学的贈与論や、有用性の論理を破壊することで交換不可能な「非‐知」の次元が露わになるとするバタイユの純粋的贈与論に立脚し、美術をこうした「贈与」の次元に位置づけた。これは、言語的に把握し価値を客観的に推量できると信じられている既存の枠組み、すなわち科学的・論理的思考や、言語・貨幣による「交換」の次元と対置される。
続いて、著者はABRを「贈与」の次元に位置づける。著者がかつて取り組んだABRの実践では、作品制作への考え方の相違について、異なるバックグラウンドを持つ制作者の間でなされた対話の内容をマッピングし、鑑賞者に提示した。マッピングの過程で対話を振り返ると、対話における誤解が明らかになり、新たな対話や解釈が生み出された。
著者はこの経験に基づき、個人の考え方のように完全な言語化が難しく「わかりえない」もの、つまり言語によって交換不可能な「贈与」の次元に属するものについての探究を、マッピングのような形で「もの」として実体化することで、「わかりえない」性格を維持したまま、他者との交換に開かれた形にできるとした。その上で、著者はこうした実体化が、あらゆる美術制作に通じると論じた。著者によれば、こうした「わかりえない」ものについての探究、すなわち「贈与的省察」を伴うあらゆる美術制作はABRと言える。
著者の幼少期の体験や制作行為にまつわる個人的な経験と、モースやバタイユによる贈与論の議論とが接続されることで、堅実な学術的議論に立脚しつつも、専門内外の読者が追いかけやすい展開となっている。また、美術制作は「贈与的省察」を伴う限りABRである、と定義することで、芸術を専門としない学生にとっての美術教育を贈与的省察の訓練として意義づけ、本書が問う「美術教育の可能性」に一つの解答を提示することに成功している。
著者は「交換」としての社会科学と「贈与」を対置するバタイユのポスト構造主義的な図式に立脚し、贈与的省察に基づく探究を、社会科学的研究の隙間を埋めるものとして位置づけるにとどめている。以下は評者の私見になるが、美術教育によって訓練される「わかりえない」ものをその多義性を維持したまま探究する態度は、こうした図式にとどまらず、たとえばショート・ナラティブの拡散や、それに伴う思考の分極化・先鋭化といった、さまざまな現代的事象に対置することも可能に思える。「わかりえない」ものを探究する枠組みとして、美術制作や美術教育の可能性に光をあてた好書である。(汐)

◆書誌情報
「『贈与』としての美術・ABR」
櫻井あすみ著
『美術教育の可能性』小松佳代子編著
勁草書房刊、2018年
「『贈与』としての美術・ABR」
櫻井あすみ著
『美術教育の可能性』小松佳代子編著
勁草書房刊、2018年
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【国語 第2問】「影に対して」
〝その時、まるで残酷な悪戯のように勝呂の頭にあの母の死顔が浮かんできた〟
親も他人である。人は誰しも、そう気づいた瞬間があるのではないだろうか。つまり、目の前にいるその人が、自分の父親/母親であるだけでなく、誰かの子供であり、友人であり、恋人であったことに改めて気付かされた時、突然親が知らない人のように見えるのだ。
本作は国語第2問に一部が出題された短編小説だ。遠藤周作の死後25年、2020年に未発表原稿として発見された異色の経歴を持つ。未発表だった理由について、遠藤周作の息子・遠藤龍之介は「極めて私小説的」とし、本作の主人公・勝呂は明らかに遠藤周作自身だと指摘した。
勝呂は小説家になる夢を諦め、妻と子供を養うため翻訳家として働く男性だ。両親は勝呂が幼い頃に離婚しており、父は再婚しているが、母は既に亡くなっている。勝呂の母はヴァイオリンに熱中し、練習中は勝呂が声をかけても気にも留めないような人物だった。音楽を崇高な精神で追究する母に対し、「平凡」を求める父が理解を示さずに離婚したことに反発を覚える勝呂は、父を「俗人」と嘲り、恨んでいる。
話は少年時代の勝呂の思い出と現在の勝呂の視点が交錯して進んでいく。空間的・時間的に異なる場面が交互に映し出されるうちに、読者の目には2つの家庭が重なって見えるようになる。過去の勝呂の父は現在の勝呂に、勝呂の母は勝呂の妻にその影を延ばしている。
問題文に取り上げられたのは、勝呂の母が人生を捧げたヴァイオリンをやめて「平凡な主婦」として家事を行うようになった場面だ。勝呂はヴァイオリンから母を独占できたことを喜ぶが、音楽を奪われた母の寂しさをどこかで感じ取っている。母が自分の「母」だけでいてくれないことを、勝呂は理解しつつも承服しかねているのだ。この場面は「他人としての親」を最も象徴している。
ところが、本作の一番の主題はおそらくそこにはない。むしろ、「自分の一部である親」が作中には繰り返し描かれる。勝呂は父を軽蔑しているものの、結局自分の仕草や癖が父から受け継がれたものであると気付いている。小説家の夢に未練を抱きながらも今の日常に妥協する臆病さが、父とそっくりであることを自覚しているのだ。しかし、勝呂は平凡な幸せに安住するわけにはいかない。敬愛する母の言葉が勝呂を囚えているからだ。「アスハルトの道は安全だから誰だって歩きます。(中略)海の砂浜は歩きにくい。歩きにくいけれどもうしろをふりかえれば、自分の足あとが一つ一つ残っている。そんな人生を母さんはえらびました。あなたも決してアスハルトの道など歩くようなつまらぬ人生を送らないでください。」自らの内の父と母に悩まされる勝呂は、結局何者にもなる決心を固められないままだ。
本作は全体を通して遠藤周作の自省の姿勢に貫かれており、過去の生傷を読者の前に提示するような激しさも持っている。彼だけでなく、多くの人の人生には親の影が投げかけられているものだ。望もうが望むまいが、それが喜ばしいものであろうが憎いものであろうが。そうした親子の関係という他者には触れがたい部分、読者の秘所を本作は抉り照らし出す。勝呂と遠藤周作の過去に触れることで、読者は自らの内側を覗き込むという希少な経験を得るのだ。(燈)

◆書誌情報
「影に対して」
『影に対して―母をめぐる物語―』
遠藤周作著
新潮文庫刊、2023年
「影に対して」
『影に対して―母をめぐる物語―』
遠藤周作著
新潮文庫刊、2023年
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【国語 第3問】『イワシ』
〝にんげんにとってもイワシはだいじなたべものです〟
表紙から惹きこまれた。目の水晶体を輝かせ、微細なプランクトンに向けてあらん限りに口を開けるイワシ。半透明の口には餌を濾しとる鋭い鰓耙が見え隠れする。口を開ける筋肉は張り出して、光をギラギラと反射している。本作に登場するマイワシは20センチ前後が一般的だが、表紙で口を開く奴は、風を満載した3メートル級こいのぼりに似ている。
本作は国語第3問に登場した絵本だ。問題文中、編集者・山形昌也氏のインタビューが紹介される。ピカピカの5、6歳が対象であるため、「イワシは群れて生きる」というメッセージ以外は全て削り、極限まで情報を絞り込んだという。
しかし筆者は、くたびれた20歳。研ぎ澄まされた少ない情報から書評を書くのは非常に難しい。そこで「5歳児になる」ことにした。あぐらをかいて、本に顔を埋める。幼児は視力が発達しきっていないので、本に食べられるかのように読むのだ。
一面の青の中、ボボボボとくぐもった音が聞こえてくる。イワシの群れが筆者に襲い掛かってきた。なんたる存在感。少し怖い。次ページ急転、イワシの群れは縮み、コアジサシが飛び込んでくる。咥えられたイワシは生をすっかり諦めて、無気力に海面を眺めている。ブリ、クジラ、人間の巻き網と、どんどん巨大な存在に捕食されていく。残ったのは目算40匹のしょぼくれた群れのみ。しかし彼らは他の群れと合体して、再び大きな群れを形成し、冬から春にかけて卵を産む。産まれたシラスはかわいくて間抜け。かの子らもまた、群れを形成していくのだ。
ふっと息を吐いて絵本から離れた。「群れ」という生存戦略のダイナミックさと残酷さが真っすぐに伝わってくる良書だ。しかし離れて見ると、なんと美味しそうな。メシにしか見えない。子供になりきれない筆者は、今晩の夕食を考えている。束の間の幼児退行は、しかし「退」の字に似合わず美しい体験だった。そうだ、今夜はあれにしよう。イワシ。(雲)
◆書誌情報
『イワシ むれで いきる さかな』
大片忠明作
福音館書店刊、2019年
『イワシ むれで いきる さかな』
大片忠明作
福音館書店刊、2019年
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【公共,倫理 第4問】『堕落論』
〝堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない〟
公共,倫理第4問では、坂口安吾『堕落論』の一部が引用された。タイトルに「落」と付き、引用文中には「堕ちる」が4度も繰り返されるという、受験生の心を乱す問題。作問者の倫理観を疑いたくもなるが、著者の安吾が前々回の丙午生まれで今年生誕120年を迎えることを踏まえれば、なかなか粋な出題に見えてくる。
本評論は戦後間もない1946年4月に発表された。短い論考ながら、当時の世相と人間の本質を鋭く分析し、戦後の人々に生きる指針を示している。
「人間は堕落する」。これが本評論の大前提だ。そのうえで安吾は、堕落を全肯定する。特攻隊員の生き残りが闇屋になろうが、戦争で夫を失った未亡人が新たな恋を始めようが、それが人間の本性なのだから問題はない、と安吾は説く。
なぜ安吾は堕落を肯定するのか。そこには反戦への強い意志がある。人間は堕落するが、堕ち抜けるほど強くはない。だから人間は、堕落を食い止めるためのシステムを作る。戦時下では、武士道や天皇制がそれにあたった。「昨日の敵は今日の友」という楽天性を武士道で縛り、死にたくない気持ちを「天皇のため」という大義名分でかき消して、人々は戦争に向かった。しかしそんなシステムも終戦とともに廃れた。では、次なる道は堕落だ。堕ちるまで堕ちて、自己を見つめなおし、そして新しいシステムを作り出そう。堕落を避け、古いシステムにしがみついたままでは、悲劇を繰り返すことになるぞ――。安吾はこう警鐘を鳴らしているのである。
古いシステムから、堕落を経て、新しいシステムへ移行するというスクラップアンドビルドの繰り返しこそ平和への近道だと、安吾は考えていたようだ。『堕落論』の後に発表された『続堕落論』では、ほんの短い命を生きる人間が永続的な制度を作ろうとすることを「ナンセンス」と切り捨て、「我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということ」と述べている。旧体制への固執も大改革も認めず、着実に前進することのみを是とする安吾の姿勢は、「生きよ堕ちよ」などの熱くセンセーショナルな言葉とは裏腹に、冷たささえ感じるほど理知的だ。
江戸時代、丙午生まれの女性・八百屋お七は、恋焦がれた人に会いたいと願うあまり放火事件を犯したという。同じく丙午生まれの安吾も、『堕落論』の発表によって、混迷を極める戦後日本に火を放った。その火は猛烈な熱さと確かさをもって、真っ暗だった日本の未来を照らし、人々を前進させた。そうして生まれた私たちができることは、「少しずつ良くなれ」の精神を受け継ぎ、体現して、将来に繋いでいくことではないだろうか。『堕落論』は戦後を生きるすべての人々のスタート地点として燦然と輝く評論である。(梅)

◆書誌情報
『堕落論』
坂口安吾著
新潮文庫刊、2008年
『堕落論』
坂口安吾著
新潮文庫刊、2008年
