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「刑事手続の中の死刑」 春秋講義で語る

2009.05.16

4月27日、吉田キャンパス時計台百周年記念館で、堀江慎司・法学研究科教授による春秋講義「刑事手続きの中の死刑―とくに裁判員制度との関係で―」が行われた。

今回の講義は、「死刑を考える」と題された3回の講義の最終回。前2回は、冨谷至・人文科学研究所教授「東アジアの死刑―その歴史と思想―」、髙山佳奈子・法学研究科教授「刑罰の目的と死刑の意義―なぜ人が人を裁けるのか―」であり、今回は刑事訴訟手続の観点から専門的な内容にわたって講義がなされた。

春秋講義は1988年秋より開講された、京大の知的財産の広い共有を図るための市民向け公開講座である。今回の月曜講義は吉田キャンパス時計台百周年記念ホールで行われており、4月27日には堀江教授による講義が開催された。堀江教授は、今回の講義について、運用が既定の路線に乗っている裁判員制度について賛否を論ずる場でなく、聴講者が実際に裁判員に任命された時に備えて知識を共有する場として規定した。

講義では、死刑制度に関するデータを示しつつ、死刑制度を含む従来の刑事手続に対する裁判員制度導入の影響を説明。最近の死刑判決について、凶悪犯罪の増加に伴う厳罰化がしばしば指摘されるが、実際は凶悪犯罪が減少し死刑判決が増加することで相対的な増加を示したものの、厳罰化とは言えないと堀江教授は指摘する。一方で、裁判における有罪判決と無罪判決自体の割合推移を見て行くと、有罪総数は長期にわたって97%以上の高数字を示し、無罪判決は0・1%前後に落ち着いている。ここには、社会の犯罪凶悪化でゆらぐ司法制度のイメージとは裏腹の、日本の刑事手続制度そのものに内在する制度不変性がある。

典型的な刑事手続の流れは、捜査、起訴、公判審理・裁判という手順で進められる。しかし、一連の流れを円滑化させるため、検察官に大きな裁量権が持たされており、事案を担当検察官の裁量で起訴を猶予することができる起訴便宜主義や、「歯科治療」型と呼ばれる長期の間隔を開けた審理に伴い、被告人の生い立ちや性格まで調べ上げる「精密司法」と言われる制度がとられている。そのため、裁判が検察官の捜査資料の「確認」に終始し、司法手続きの形骸化が進んでいるとされる。結論から言えば、このような形骸化を改めることを一つの目的として裁判員制度は導入される。

裁判員制度では、死刑や懲役・禁錮に当たる一定の重大事件について、6名の市民と3名の裁判官が合議して判決を下す。一般的に、有罪無罪の判断は、検察官による有罪の立証が正しいと確証を持てるか判断をする。つまり、事の真相を理解し犯人の無罪を確信する必要はなく、検察側の立証が疑わしいなら無罪にする。

裁判員制度のもう一点のポイントとしては、裁判員は専門的知識が希薄で通常の市民活動に拘束される一般人であるということにある。裁判員に時間的な拘束は許されないため、「集中審理」が要請される。一方で、専門的知識に疎いため、調書に基づく裁判から脱却し、「目で見て耳で聞いてわかる」裁判を実現する必要が生ずるのだ。このためには、裁判で検察が示す事実は刑罰を科すに足る最小限度の情報にとどめられ、犯人の詳細な背景などは省かれることになる。こうした流れは先ほどの「精密司法」から「核心司法」へ、という標語で表現できる。そのため、裁判員制度のもう一方の極として、検察官の起訴裁量権に対する変革として、従来機能してこなかった検察審査会制度の改正を行い、過剰な検察官の動きを監視する仕組みを整備することが図られているのだ。

比較刑事法的には、アメリカでは陪審員制がとられ、事件ごとに陪審員が招集され、有罪か無罪かだけを判断し、フランスやドイツなどヨーロッパ諸国では参審制がとられ、ある程度長期に市民が裁判に参加し、量刑まで判断する制度が運用されている。日本では事件ごとの招集と量刑までの判断という、「おいしいとこどり」がなされているとしばしば指摘されるが、実際はアメリカでも州ごとの制度では死刑の当否のみは陪審員が判断するという仕組みが多く取り入れられており、参審制に近い。日本で裁判員制度が運用されるにあたって、量刑の判断には、専門性への不安が考慮されるが、実際は量刑判断に関する確たる基準はそもそも設けられていない。量刑の判断には事件の特殊な性質を考慮する「個別性」と他の事件と釣り合いをとる「公平性」が求められるが、そもそも裁判員制度が適用される重大事件は「個別性」の要請が強く、量刑の範囲は検察官と弁護人の主張から考えるため、本質的な困難は生じないとされる。さらに、従来の裁判制度においては量刑の幅がある程度固定的であったため、裁判員制度の導入により社会に応じた量刑範囲の変動という利点も見込まれている。

最後に、死刑制度との関わりについては、参審制を導入するヨーロッパ諸国では、量刑に市民が関わる代償に死刑の廃止がなされている。しかし、その一方で、アメリカでは州ごとの制度では死刑の判断が含まれており、裁判の市民参加と死刑の廃止は絶対的な関連を持たないという。死刑を下す困難は職業裁判官が引き受けるべきとする主張には、そのような重い判断だからこそ市民全体で引き受ける必要があるという主張が対置される。死刑判断にあたっては、昭和58年に下された永山事件第1次上告審判決で示された要素が重要とされるが、確たる判断基準足りうるかについては、疑問が付される。昨年の光市母子殺害事件判決においては、計画性が死刑判断要素として従来通り重視されるのか、裁判員制度導入後の帰趨が注目される。

<編集員の視点>へ続く