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原爆の悲劇を訴え続ける名著 井伏鱒二『黒い雨』

2023.10.01

原爆の悲劇を訴え続ける名著 井伏鱒二『黒い雨』

井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫刊)

名前は聞いたことがあったが、読んだことはなかった。本作は雑誌『新潮』に1965年から約1年半連載され、翌年の野間文学賞を受賞した、広島出身の作家・井伏鱒二の代表作の1つだ。

戦争が終結して数年が経ち、広島で被爆した閑間重松は、妻のシゲ子、姪の矢須子と3人で平穏な生活を送っていた。しかし、近所で「矢須子は原爆病患者」との噂がたつために、彼女の縁談はいつも進展しない。このままではいけないと考えた重松は、戦時中に書いていた「被爆日記」を清書し、縁談先に見せることで、彼女は原爆投下時に爆心地遠くにいたと示し、あらぬ噂を消そうとする。だが「黒い雨」に打たれた矢須子は、徐々に被爆病の症状を示すようになる。本作の題名でもある「黒い雨」とは、原子爆弾の投下後に降った強い放射能を帯びた大粒の雨のことを指す。

井伏は本作執筆にあたり、50人以上の被爆者に直接取材し、原爆病患者の書き物を集めた。それにもかかわらず、作者に長年私淑した伴俊彦氏によると「体験者からすると、本作の内容はあの出来事のほんの一部分で、もの足りない」と語ったそう。だが、生活を丁寧に綴る日記を主軸とし、何気ない会話文を多用する本文からは、当時の惨状が鮮明に想起され、かつ、体験者の生の声が聞こえてくるようだ。

「八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ。」

「広島はもう無くなったのだ。」

蛆虫のたかる被爆者の死体や、死体を転がして処理する様子を見た後の、冷静な重松の言葉は特に重い。読者に原爆の悲惨さを訴えかけるとともに、重松ひいては作者の戦争に対する静かな怒りを伝える。

ここで、本作終盤で繰り返し登場する「虹」に注目したい。重松は「悪いこと」が起きる前兆とされる「白い一本の虹」を終戦前日に見た。この虹が意味する「悪いこと」とは何か。戦後、矢須子の縁談は幾度も原爆症患者との疑念から破談となり、働けない重松は近所の人から白い目で見られた。「悪いこと」とは戦後に被爆者が置かれた苦境の暗示ではないか。

「今、もし向うの山に虹が出たら奇跡が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」

多くの被爆者と死別した重松は、症状が悪化した矢須子の回復を祈るも、その見込みの低さを自覚する。そんな彼の淡い期待を「奇跡」と表現する作者の力量には目を見張る。まっさらで何も無い白のイメージに重松の虚ろな思いがリンクする。

国際緊張の高まりで核の使用が懸念されている昨今だからこそ、事実に基づいた緻密な描写と等身大の人間ドラマを絡めて、原爆の悲劇を小説の形に昇華させた本作は、一読に値するのではないか。(郷)

◆書誌情報
『黒い雨』
井伏鱒二/著、新潮文庫
1970年6月発売

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