文化

編集員より合格体験記&メッセージ

2009.02.08

私は世に出回っている合格体験記の類が好きになれない。別に他人の成功体験を読もうが自分にとって役立つ訳がないし気持ちの良いものではない。だから受験生の皆さんには「こんな駄文を読む暇があるなら勉強しよう」これが最も適切なアドバイスかと思う。頑張ってくださいなどとは口が裂けても言えない(だってみんな頑張っているから)。だからこの場を借りてどうでもいいことを綴らせていただく。

京大に入りたいと思ったのは大した理由からではない。従兄弟が東大生である上に友人の多くが東大に行きたいと抜かしていた現実を厭に思ったからだ。自分の学年から5人も京大志望者がいれば絶対に受けようとは思えない。だがそれは逆に東大や京大の志望者が少数の学校に特有の気恥ずかしさを私にもたらした。元々志望理由がいい加減である以上やる気が出ないのは明らかだった。

当時(高二の冬)、私には思いを寄せるクラスメートがいた。私はある日彼女に思いの丈をぶつけた。結果的にはダメだった。だがその時の「自分はこのままでいいのか」という気持ちは私に新たなモチベーションをもたらした。何としても合格して周囲を、彼女を見返してやりたい。人はこれを邪と評するだろうが、それからの一年は様々な意味で充実していたと思っている。

ではなぜ浪人したのかと言うと、センターで思った点数が取れず「こんなんじゃ京大の二次なんて解けない」と教師から言われたからだ。その「アドバイス」に萎縮したのである。結果、私は前期試験の出願後1か月近く後悔の念と無気力感に苛まれることとなる。あの時京大に出願していれば受かったかもしれないのに、とタラレバを並べるのはおこがましいのは分かっている。誰のせいにするつもりもない。今まで貫いてきた自分自身を直前になって信じられなくなったことが恨めしいのである。正直、泣いた。

月日は流れ、新たな勝負の年を迎えた。元日の朝に私は初詣の足で偶然京大に立ち寄った。何があろうと今度こそここを受験する。決意は固かった。寒空の中、ベンチに正座しながら半紙を取り出し「京大合格」と筆を走らせた。この時の清々しさを私は一生忘れない。

人生は出会いに満ちている。だが、それ以上の出会いが数時間後に訪れることになる。

大学より南の地域は歩いたことがなかった。帰りに京阪丸太町駅に立ち寄ったのが私の運命を決定づけた。はじめての発車メロディ。はじめてのダブルデッカー(二階建て車両)。だがそれ以上に衝撃を受けたのはおけいはんのポスターだった。あのB2サイズのポスターのどこに心が躍ったのだろう。気分は、かつての恋心のそれだった。受かればいつでもおけいはんに会える。今ここで受験の目的は決まった。

試験初日、数学の出来が今一つで青ざめた。BBSの採点サイトを目にして今にも泣き出しそうな表情に変わる。そうなると翌日の科目を復習する気力も湧かなかった。翌朝、悶々とした気持ちで試験会場に向かい百万遍の交差点でアメフト部員に励まされ辛うじて平静を取り戻す。だが失敗は繰り返すもので英語の試験では解答欄を大問一つ分間違え、これが致命的なタイムロスとなる。どんなに実力を持ち合わせていようが、どれほど模試で判定が良かろうが、時間が足りなければ意味がない。一年間念入りに対策した英作文は思いつきで「埋めた」。前日は休み時間に知り合いと談笑する心の余裕があったものの、この日は精神的に追い詰められており他学部の試験会場に遠征しもはや悪足掻き同然の復習をした。暫しの休憩を挟み理科が始まる。だが問題文を何度読んでも理解できない。物理の解答欄はほとんど白紙で、ボーナスの正誤問題すら外しトータルでは10点にも満たないだろう。本当に悲しい時は涙すら出ないもので、頭の中は真っ白だった。もう一生乗る機会もないだろうと出町柳駅からK特急に乗った。さよならおけいはん、さよなら京大。

これほどヤキモキしたにも拘らず、歓喜の瞬間は意外とあっさりしていた。ホームページで受験番号を見つけた時、自分の自尊心なんてこの程度で満たされるのか思うと少しがっかりした。自分を信じる気持ちが強い人間に限って結果を手にするとすぐ冷めるのはどうやら本当らしい。

自分の目標があれば努力できる。努力すればするほど成功に近づく。だがそれは単に成功確率が高まったに過ぎず、合格を保証するものではない。合否の結果なんて最後は数%の運次第でどちらにでも転がってしまう。所詮は確率なので結果次第で簡単に自惚れたりコンプレックスを抱いたりする。受け入れるかは皆さん次第ですが、最後は自分の良心を信じてあげてください。(如)