企画

浪人体験記二〇二五

2025.02.16

「いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人 足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。」
―寺田寅彦『科学者とあたま』

目次

何者でもないまま
Step by Step. One by One.
光の方へ
努力は裏切られる

何者でもないまま


二次試験が終わったとき、得意だったはずの科目で納得のいく答案を作れず、不合格を確信した。指定校推薦で進学先を決めた友人が、卒業式で絶対合格していると励ましてくれたとき「絶対ってなんだよ」と心の中で悪態をつきながら、笑顔を作ってやり過ごしていた。予想通り落ちたことがわかってからは、後期の勉強に切り替え、当日はやけに落ち着いて試験に臨めた。

地元の国立大学に進学するか、京大入学の夢を追いかけて浪人するか。周囲には進学を勧める人や、就職に困るから浪人はやめなさいと言う人もいたが、私は「たとえ来年不合格になったとしても、ここで挑戦しないと一生後悔する」と後者を選んだ。

3月末、私は九州に拠点を持つK予備校の門を叩いた。自宅から通学すると1時間半ほどかかるため、寮に入ることにした。朝は7時に起床し、8時半までに登校する。授業後寮に戻り17時半から夜ご飯を食べ、19時半から23時までみんなで自習をする。23時半に消灯し就寝するのが1日の流れだ。頑張る人がいる環境に身を置くことで、勉強に取り組むハードルが下がった。現役時代には勉強するか迷ってスマートフォンを触り、結局何も進まずに自己嫌悪に陥ることもあったが、寮では夜携帯を預けるため、気を散らすことなく勉強に取り組めた。毎日の継続が精神的な安定につながり、自信を持つことができた。

ただ、浪人生という身分に対して、時々強い不安を抱くこともあった。物心ついてから、何らかの組織に身を置きその一員であることをアイデンティティとして生きてきた。しかし、浪人生は何にも縛られない存在だ。既に社会人として働く同級生もいる中で、親にお金を出してもらい勉強に励む。恵まれた環境にあることは間違いないのだが、何者でもないまま毎日を過ごすことに対する不甲斐なさがいつも付きまとっていた。

私のコースでは、授業を自由に選ぶことができたので、可能な限り授業に出た。京大英語では、長文の訳出を問う問題が多い。高得点のためには、難しい長文問題をたくさん解くことが大切だという思い込みはあっという間に崩された。一つひとつの単語や文法の理解が長文読解につながると教わり、基礎から復習をした。複数の意味を持つ単語を攻略するために、日頃から辞書をひくようにと助言され、毎日英和辞典を担いで登校した。

学力は順調に伸びた。各科目の講師に解答を添削してもらい、現役と比べて記述式の演習を積むことができた。京大の二次試験に対応する秋の模試では、これまで取ったことのない判定を出し、成果が結実しつつあることを実感した。

ただ、真の難関はここからだった。1月の共通テストでは、数学の平均点が大きく落ち込んだ前年と比べて、平均点が大幅に上昇した。共通テストから二次試験までは現役生が大きく実力を伸ばす期間だと言われる。なんとか8割を超える点数を死守したものの、目標点よりも低かったために不安な気持ちが強まった。浪人を選んだことが正解だったのか迷う気持ちと今はただ勉強するしかないという焦燥感が混在していた。

2月末、再び京都に戻ってきた。1日目の苦手な数学で手も足も出ず、ホテルに帰り強烈に落ち込んだ。それでも1年間の成果を発揮しようと、2日目には無理やり気持ちを切り替えて悪あがきをした。地元に帰ると今年もだめだったという気持ちが強くなった。1度でも多くチャンスがほしいと後期も京大に出願していたが、あえなく足切りにあったため、2度目の不合格が現実味を帯びてきた。迎えた合格発表の日、何度もリロードして表示された数列を細い目で見た。上からたどっていくと、受験番号「127」があった。1年越しにやっと掴んだ合格だった。

受験では、長い時間をかけて真剣に取り組んできたことの結果が、たった数日の試験を経て判断される。試験が近付くたびに、焦りと不安で心がすり減っていく感覚を今でも思い出す。2度目の受験の方が暗く落ち込んでいた記憶が多いように思う。ただ、その中でも毎日少しずつ前に進むことが自分を支える糧になる。明けない夜はない。体調管理には気を付けて、最後まで諦めずに取り組んでほしい。(史)

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Step by Step. One by One.


先日、自動車教習所に入所した。普段通う大学ではないのに学校らしいシステムで座席につき、初めてみる大人がいかにも教師っぽく物事を教え始める。左右に座る学生は、どこの大学の学生かわからない。予備校に通ったあの1年を僕は思い出した。2023年3月10日、僕は惨敗した。くたびれた白旗をしまって、私立大学に進学することを決意した。もう受験は終わりだ。学歴なんて関係ない。私大に入学金を振り込んだ郵便局からの帰り道、僕は諦念と解放感の混ざった不味い空気を吸いながら、自分の決断を正当化する理屈を頭の中に並べた。しかし、合格最低点より70点も低い成績開示が我が家に届いた頃には、僕は予備校にいた。高3の担任に浪人を勧められたり、クラスメイトの半分以上が浪人を決めていたりといった、いささか不真面目な環境が僕の決意をいとも容易くへし折ってしまった。そして何よりも、一瞬で消え失せた夢をもう1年追えるという誘惑に僕は勝てなかった。

横浜駅から徒歩5分。錯綜する地下街を抜け、異臭を放つ運河を越えた先に青白い校舎はあった。奇しくも父親が浪人した校舎で僕はモノクロームな1年を過ごすことになった。

予備校生活は楽しくはなかった。誰とも話さずただ1日を机で削る。普段通った高校ではないのに学校らしいシステムで座席につき、初めてみる大人がいかにも教師っぽく物事を教え始める。左右に座る生徒は、どこの高校の卒業生かわからない。ザラザラとしていて湿っぽい教室に現れた数学講師は、軽妙な手つきでチョークを走らせた。「謙虚になれ」。関西弁の講師が下した診断結果は耳に疼痛を走らせ、僕は自分を恥じた。落ちた自分を恥じたのではない。解けない問題を「悪問」と呼び、自身のミスを「ケアレスミス」と呼んで自分の学力を過信していた傲慢な自分を恥じたのである。「そんなんだから落ちるんだよ」と言ってきたのは英語科のK先生だった。僕はK先生にすこぶる扱かれた。「1つでも知らなければ恥ずかしいと思え!」と叱りながらK先生が板書する重要事項のほとんどは知らなかった。僕らの書く和訳は「妄想」と呼ばれ、僕らの書く英作文は「ゴミ」と呼ばれた。それでも僕は辞書をひいてペンを走らせた。英語に限った話ではない。日本史の教科書は表紙が外れた。講師が次に話す雑談を当てられるまで授業内容を復習した。洪水のように注ぎ込まれる知識を、整備不良のガラクタポンプが処理するのは我ながら滑稽だった。それでも何度も何度も繰り返し復習したことは、我ながら立派だったと思う。

K先生は毎授業の冒頭で「Three words a day(今日の三字熟語)」を紹介してくれた。その中で最も僕に影響を与えた熟語は「Step by step.」だった。先生はこう訳した。「逆境にあっては勇敢であれ。順境にあっては慎重であれ」。模試の判定や偏差値といった自分の現状にあたふたせず、常に冷静に目の前のことを淡々と解決していく。Step by step, Step by step. 魔法の言葉でもなんでもない。たった2語からなるシンプルな三字熟語をノートの隅に書きながら、来る日も来る日も目の前の課題を淡々とこなしていった。振り返ればこの三字熟語が、合格への命綱になっていたように思える。

さて、浪人すると決めた人の中には、現役で進んだ友人の存在が気がかりな人も多いだろう。ただ個人的な経験を言うと、現役進学した友人の中には、1人は休学し、1人は不登校になり、1人は留年し、1人は中退して予備校に戻ってきた。人は皆、それぞれの場面でつまずくとは思うが、それが大学受験だっただけのことである。教科書本体から外れ落ちたボロボロの表紙は今でも大切な記念品だ。

Step by Step, Step by Step.

一見ノンキな言葉を添えて、少しでも、ローニンを決断した君の夢追いを応援できたらと思う。(燕)

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光の方へ


三振、バント、デッドボール。7回コールド負け。これが僕の引退試合の成績だ。練習してきたことが何もできなかった。最終回、アウトになってベンチの奥で呆然と座っているとあっけなく試合が終わった。受け入れられなかったが、整列するためにのろのろとベンチを出た。

6年間続けてきた野球はこんな風に終わった。勝てると思っていた相手に先制され、浮足立ってこちらが次々にミスをした。なんとなく部活をやっていて、本気になれてなかったんじゃないか。副キャプテンとしてもっとチームをよくできたんじゃないか。心には無念さだけが残った。

最後の文化祭が終わって周りが勉強モードに切り替えても、なぜか本気になれなかった。黙々と勉強している友達と、自習室で集中できていない自分を比べて惨めな気持ちになった。そのまま受験本番を迎え、結果は京大にマイナス83点で不合格。他に2つ受けた私大にも受からず、全落ちだった。友達には「半々かな」とか言っていたが、心の中では落ちたことはわかっていた。浪人が決まった自分をよそに友達は第一志望の有名大学に次々受かっていき、それも惨めだった。

そうして始まった浪人生活。初回の英語の授業でこんなことを言われた。「浪人をすると決めた自分の決断が正解となるように、悔いの残らない1年を」その言葉を胸に、毎日閉館時間まで自習室にこもった。部活も勉強も本気で頑張れなかった自分が何かを成し遂げるにはここで頑張るしかないと、自らに言い聞かせ続けた。質の良い勉強はできていなかったかもしれない。ただ、あくまで机に向かい続けたし、乏しい自分の集中力を最大化する方法を探り続けた。だが、判定はずっと良くなかった。春の模試のE判定からはじまり、結局秋の冠模試のC判定が1番いい判定だった。苦しかった。心がぐらぐら絶えず揺れているような日々だった。予備校が出している過去の合格者のデータを見ても、自分と同じような成績から合格した人はおらず、心が折れかけた。それでも来る日も来る日も合格の瞬間だけを夢見て机に向かった。

長いトンネルを抜けて迎えた共通テスト本番、自己ベストを50点以上更新した。自分でも信じられなかったが、ようやく目に見える結果が出たかとしみじみうれしかった。がむしゃらに二次試験を解いて、迎えた合格発表日。受験番号165番は確かにそこにあった。あんなにイメージした合格の瞬間なのに、喜びよりも、本気になって何かを成し遂げたという達成感でいっぱいだった。部活や勉強に対する悔しい思いが一気に清算されたような気がした。

正直僕の体験記がこれを読んでいる皆さんのためになるかはわからない。こんな低空飛行で受かった浪人生もなかなかいないだろう。ただ、これだけは伝えたい。最善を尽くそうと努力し続けること、どんな成績でも最後まで合格をあきらめないことが君を合格へ導く。努力すれば絶対受かるなどということはないが、がむしゃらに机に向かうことで少しずつ、君の未来は切り開かれる。今日もベストを尽くす受験生に幸あれ。(寛)

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努力は裏切られる


「浪人と失恋を経験した者には総理大臣になる資格がある」。

今も頭の片隅に残る、ある予備校講師の言葉だ。前者は自分の努力が裏切られる経験、後者は自分の努力ではどうすることもできない理不尽な経験という意味で、そうした痛みを知っておくことには価値があるのだという。自分に総理大臣になる資格があるとは全く思わないが、浪人生活とはまさしくそんな経験だった。後者は皆さんの想像にお任せして、ここでは自分の浪人生活について振り返りたい。

現役生の時の自分は、今振り返ってみてもそれなりに勉強していたと思う。高2で部活を引退してからは、進学校で人並みに勉強していて、成績も全く足りていないわけではなかった。現役生は最後までのびるし、「本番は受かりそう」というのが自分と周りの感覚だった。それでも結果は不合格。ショックではあったが、高校で仲の良かった友人と同じ予備校に行くことになり、親も快く受け入れてくれたので、浪人生活はスムーズに始まった。

浪人生になって、勉強量が格段に増えたというわけではなかった。とりわけ夏休みくらいまでは現役生と比べて成績に余裕もあった。それに、浪人生には「合格」という明確な目標がある一方で、その先の余計なことを考える必要がない。だから直前期を除いては、プレッシャーや焦りとは別に心に余裕があったのも事実だ。そういうわけで、講師が雑談で薦めていた本に手を伸ばしたり、昼休みに友達を作ったりした。結局、それなりに勉強はしていたが、友人と1日遊びに行ったり、授業を抜け出して散歩をしたりとそこまで勤勉な学生ではなかった。身についた学力は確かにあったが、試験前の感覚も試験の手ごたえも現役時とさほど変わらなかった。現役時も浪人時も自分は、2回受けたら1回受かる、くらいの実力だったのだろう。

それでも合格と不合格には結果という意味で歴然とした差がある。その結果に後から理由をつけることはいくらでもできる。でも、実際にはその場の「運」という言葉でしか説明できないこともあるのかもしれない。これから先の人生でもそういう出来事に出会うことはあるだろうし、周りの人にも当然そういう出来事は起こっているのだろう。18歳でそういう経験をしておくことができてよかったと思う。それから、受験勉強とは別に、講師の雑談や読書で得た知識や考え方は今でも活きているし、浪人時の友人とはいまでも連絡を取り合っていて、彼らは自分にとって大切な存在になった。

これから浪人をして、まさに死ぬ気で勉強しても結果に結びつかないことは当然ある。そもそも入試という制度がある以上、不合格者は必然的に生まれる。でも、もし浪人が決まったなら、その時点で「自分の努力が裏切られる経験」はもうできたはずだ。だからこそ、次はきっと上手くいく。無責任ながら、強くそう思う。(省)

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