企画

京都大学新聞社 編集員が綴る 大学受験〔体験記〕2025

2025.01.16

この紙面を開いた受験生の諸君。受験が間近に迫り、ラストスパートをかけていることと思う。その胸中は様々だろう。春からの大学生活を夢見て勉強に一層励む者もいれば、共通テストの結果に嘆いて勉強に対するやる気が出ない者もいるかもしれない。

ここでは、受験生に向け、応援の意味を込めて4名の編集員が体験談を綴っている。様々な思いを抱く残り1か月。勉強の合間、紙面に目を落とし、かつての受験生の日常を覗いてみてはどうだろうか。残りの受験生活を前向きに過ごす一助となれば幸いだ。

目次

「受験は平等」?
バカボンパパに背中を押されて
どっぷりと座る
憧れを追い続けて

「受験は平等」?


「受験は平等」という言葉がある。「勉強は努力次第で何とでもなる」という言説もある。受験を経た今、断言できる。これらは真っ赤な嘘であると。

私は中部地方の農村で生まれ育った。家の前は一面の田園、近所の遊び場はイオン一択で、進学校も予備校もなし。進学先は大半が推薦入試で私大に進学する地元の高校で、ここ最近の東大・京大合格者はゼロ。2年の春に文系を選択し、秋には京大を志望校に据えたが、「ライバル」の不在に終始悩まされた。文系の中で私以外に旧帝大志望者はおらず、校内考査で毎回1位を取っても、他の京大志望者との差は分からない。暗中模索の日々だった。

冠模試を受けに、新幹線で片道1時間かけて向かった東京の予備校では「落ちても、もう1年ここでやり直せばいい」という声が聞こえた。私の実家は裕福ではなかったし、そもそも家から通える予備校はなかった。持つ「武器」が違うまま競うことを悟った私は、次第に彼らと戦うのが怖くなった。「進学校にも予備校にも通っていない自分が京大を志望するなど、おこがましいのでは」と思い悩んだ。

そんな私を救ってくれたのは、両親だった。2人は大卒ではなかったが、京大生になるという私の望みを笑うことは1度もなかった。毎日弁当を用意し、夜食の菓子を差し入れ、他愛もない話で笑い合い、時には「必ず受かる」と励ましの言葉を送ってくれた。合格を信じ続けてくれた2人のおかげで、私は京大への憧れを捨てずにいられた。

同級生や教師も、私の願いを応援してくれた。特に感謝している「戦友」がいる。彼女は父親に医師の道を嘱望され、旧帝大の医学部を目指していた。だが生物学の基礎研究に憧れ、父親の反対をはねのけて志望を変えた。夢に向かって突き進む彼女の雄姿を見ると、他の志望者と自分を比べ、悩んでいたのが馬鹿らしくなった。勇気をもらった私は、憧れを闘志に変えて戦友らと勉強に励んだ。

季節は過ぎ、決戦の地・京都には1人で降り立った。だが二次試験の数学が1問も完答できず、不合格を覚悟した。周りの人々への申し訳なさに駆られた。だから2週間後、春の報せが届いた時は驚きで奇妙な声が出た。英語の点が伸びたらしい。両親も、前日に合格通知を受け取った戦友も、泣いて祝福してくれた。

入学して早1年になるが、自分と似た境遇の人にはまだ出会っていない。「合格は自分の努力のおかげ」と豪語する人もいた。だが、進学校や予備校が立地する地域は限られるし、親の経済力が盤石でなければ通えない。本人の努力の下地には、人それぞれの「環境」という要因がある。それを無視して受験を「平等」とか「努力が全て」と言い切るのは浅慮だ。

周囲の支えがあったから、私は京大生になれた。「場」ではなく「人」に恵まれたあの頃は、私の一生の財産だ。家族、同級生、教師、その他大勢の人々が、あなたのためにも惜しみなく時間と労力を費やし、愛情や友情を注いでくれたはずだ。ぜひ彼らに向けて「ありがとう」と伝えてほしい。桜が咲こうが咲くまいが、受験を戦った人間はその思いを忘れずにいるべきだと思う。(晴)

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バカボンパパに背中を押されて


私が受験期に支えてもらった言葉がある。「これでいいのだ」。この言葉はマンガ『天才バカボン』のパパの口癖だ。『天才バカボン』の作者・赤塚不二夫氏は戦後、父がソ連に抑留され、幼い妹を栄養失調で亡くす悲惨な体験をした。しかし彼はその現実をあるがままに受け止め肯定し、なにがなんでも前向きに生きていくと決意した。その経験から生まれたのが「これでいいのだ」という言葉だ。

受験期、私の父が心不全を患った。人工心臓の装着で症状は安定していたものの、いつ何が起こるか分からない状態だった。さらに、私をいつも大事にしてくれた祖母が亡くなった。心の防衛反応なのか、私は自分が何を感じているのかが分からなくなり、なぜ毎晩止めどなく涙が出るのか理解できなかった。自分が頑張っていないという感覚が常に付きまとい「勉強をしなくては」と自分を責め立てた。癖の過集中の連続で神経はすり減り、鬱のような状態になってしまった。冠模試で集中しきった後には「今、目の前を流れていく車の列に飛び込めば幸せになれる」と真剣に思った。

しかし、タモリ氏が師の赤塚不二夫氏に読んだ弔辞で「これでいいのだ」という言葉を知り、その言葉が沁みた。初めて、自分が無理をしていると気づいた。私は父の病気が不安だし、祖母の死が悲しい。受験のための勉強は嫌いだ。この当然の事をようやく受け入れることができたのは、12月6日のことだった。

それからは自分の心身を大事に、勉強に取り組んだ。京大に合格するという以前からの決意と同時に、どこの大学に行こうとそこで前向きに、等身大の自分で生きようと本気で思った。イオンモールにある複数のベンチを転々として倫政の暗記をしたり、洗濯場に障害物コースを作ってそこを歩きながら英単語を覚えたりと、脳が苦しまないよう楽しい刺激を与える工夫をした。疲れる前に散歩に行き、毎日ヤクルトを飲んだ。すると不思議なことに、勉強の能率が格段に上がった。毎日の成長を素直に認識できるようになり、自分で工夫することに知的興奮を覚えた。私は何とか受験を走り切ることができた。

最後に、今まさに机に向かいシャーペンを動かす君へ。私にとって受験は迫りくるナイフのようなもので、近づけば近づくほど心が乱された。本番ともなると、分からない問題に吐き気すら覚えた。しかし、その現状を受け入れ「これでいいのだ」と開き直ると、問題を飛ばすといった今すべきことが明瞭に見えてくる。私は自分の努力を今でも誇りに思っている。君もまた、努力する自身に対して誇りを持ってほしい。今君がしていることは当たり前のことではなく、本当に大変なことなのだ。どうか君の受験が終わった時に、頑張った自分を大肯定できますように。(雲)

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どっぷりと座る


受験を終え、約3年が経つ。しかし、自分のいささか複雑な受験事情についての要を得た説明方法を、未だに見つけられていない。受験に関する質問を受けても、その度に違った返答をしてきた。ただここでは、極力正直になろうと思う。

私はいわゆる仮面浪人だった。現役生の頃に第一志望校に受かり、当然そこに進学した。ただ、詰めが甘すぎたと言わざるを得ない。大学に入ったら取りたい科目は好きなだけ取れると思い込んでいたのだ。しかしそこは単科大学で、受験時に出願した専攻以外の授業をほとんど受けることができなかった。大学生活は楽しかったが、どこか満たされない部分もあった。

本格的に京大を目指して再受験しようと決心したのは、夏休みに京都を訪れた時。現役で京大に進学した友人に誘われ、彼の下宿に3週間ほど泊めてもらった。京都の地に魅せられるには十分すぎる期間だった。

大学で必修単位を取りつつであれば、再受験をしてもいいのではないか。それが私の相談に対する両親の意見だった。目の回るような日々が始まった。

数学をきちんと勉強していなかった私は、前述の友人らにおすすめの参考書を聞いて、それを開くところから始めた。模試代や教材費を稼ぐためにアルバイトもした。もちろん、予備校に行く時間などないからひたすら部屋にこもって勉強した。週に2・3回、往復3時間かけて大学にも通った。共通テストを受けたその日に、レポートを仕上げて提出した。

二次試験の前日には、一緒に京大を目指して浪人していた友人と2人で京都の友人の下宿に泊めてもらった。その部屋は大学から徒歩数分の場所だったから、歩いて試験会場に向かった。

合言葉を確認しあいながら百万遍の信号を待った。「どっぷり座ろう」。椅子に浅く座ると、気が急いてしまってケアレスミスが増えるから、深く椅子に座って受験しよう。大体そんな意味だ。

今でも覚えているのは数学の試験。大問1の確率漸化式がどうしても解けなかった。証明もほんの数行で終わりそうなサービス問題だったのに、手も足も出なかった。落ち着こうと深呼吸した拍子に、1年間通ったあの大学の正門がフラッシュバックした。言い表しようのない感情に襲われた。しかしその時、合言葉を思い出した。椅子に深く座り直し、大問1は捨てた。解法を閃いたのは、実家に戻って歯を磨いている時だった。

なんとか合格できたからよかったものの、とんでもない無知のせいでハードスケジュールに身をやつし、親には無駄な出費を頼むことになった。そして、受験生が家にいるという心労を家族には2年間味わわせた。1年目は仕方ないにしても、藪から棒の2年目だっただろう。

何にせよ、受験なんて、人生の数ある選択の1つに過ぎないのだ。第一志望校に受かったとて、それはその時点での正解に過ぎない。煮え切らないものを感じたら、それを解消するためにまた何かに取り組めばいい。しかし願わくは、とりあえず今の正解を目指し、椅子にどっぷりと座り、出し得る全てを出してほしい。(梯)

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憧れを追い続けて


入試を受けてからもうすぐ2年が経つ。振り返れば、京大を目指し始めたのは中学生のときだった。担任の先生の一言がきっかけだった。「あなたなら京大に行ける」。軽い気持ちで言われたのかもしれないが、それでもあの一言が私の進む道を決定づけたのは間違いない。地元の中学に通っていた私にとって、そんな大学に行くことなどそれまで考えたこともなかった。しかし、先生が話していた京大生の教え子の話が輝かしく聞こえ、強く印象に残った。そのときに、「自分も必ずあそこに行くんだ」と決意したのを鮮明に覚えている。

高校生になってもその憧れは薄れることはなかった。放課後、部活に行く同級生を横目に、私は毎日予備校や図書館に通った。家から近いという理由で選んだ高校は、文武両道を掲げ、有名大学への合格を目指す学校だった。部活を早々に辞めてしまったので、肩身が狭い思いをすることもあったが、それでも周囲の視線を気にせず勉強に励んだ。物事を両立させるだけの要領の良さは私にはなかったし、他の大学を目指すという選択肢も最初から頭になかったからだ。授業中は内職ばかりで、長期休みや放課後の補習に参加したこともほとんどなかった。体調を崩しがちだったこともあり、学校を休んだり保健室に行ったりして日々やり過ごした。そのため、模試やテストの点数に比べて内申点は散々で、あまり感じのいい生徒ではなかった。思い描いていた高校生活とはかけ離れていたとも思う。それでも、合格を目指す思いは揺るがなかった。

勉強自体は苦ではなかった。参考書に向かう時間は、自分だけの世界に没頭できるひとときだった。模試の結果を見て、自分に足りない部分を洗い出し、試行錯誤を繰り返した。その成果が偏差値や志望校の判定に現れるたび、目標に少し近づいたような気がして胸が高鳴った。しかし、単調な毎日の繰り返しに気持ちが沈む日が続き、「何のために勉強しているのだろう」と自問することも多かった。精神的に追い詰められていたのだと思う。それでも、目標を見失わないように、合格した先のことを想像しては自分を奮い立たせて、机に向かった。

こうして、迷いながらも目標に向かい続けた3年間だった。その間に何を思って、どんな気持ちで試験に臨んだのか、もう忘れてしまった部分も多い。けれど一つはっきりと言えるのは、あの時間を過ごしたことに後悔はまったくないということだ。大学合格という目標を達成できたことはもちろんだが、それ以上に、一つのことに必死に向き合えた経験が非常に有意義だったと思うからだ。その経験が、今の自分を支える基盤になっていると感じる。

受験生の皆さんにも、最後まで諦めずに頑張ってほしい。苦しかったとしても、その日々はきっと後にかけがえのない財産になると思う。(青)

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