京大生の読書傾向を覗き見♪ 年間ルネベスト2022
2023.03.16
本企画では、昨年1年間に京大生協ブックセンター「ルネ」で売れた書籍のランキングと、そこにランクインした本から編集員が選んだ3冊の書評を掲載する。並ぶタイトルは、毎年お馴染みのものから、世相を反映したものまで様々だ。厳しい寒さも緩み、日に日に近づく春の足音に胸が膨らむ今、気になる本を手に取って、静かな春の訪れを堪能してはいかがだろうか。(編集部)
第9位 『人新世の「資本論」』マルクスの「眼」で人新世を捉える
第19位 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 未来のため、不断の探究を
10位にランクインしたのは、伴名練『なめらかな世界と、その敵』だった。2019年8月に発売された同名の単行本を文庫化した、22年4月発売の新刊である。
伴名練は京大文学部出身のSF作家。在学中は京大SF研に所属していたという。そのSF周りの知識量と筆力は卓越しており、SF界を代表する早川書房に「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」とまで言わしめるほどの実力者だ。SF界隈以外ではまだ正当に評価されているとは言いがたいが(そもそもSFというジャンルが下火な今日だ……)、最注目のエンタメ作家の一人であることは疑いようがない。
本書は表題作「なめらかな世界と、その敵」を中心とした6編の小説からなる短編集である。その内容を紹介する前に、まずはいかに本書の装丁が優れているか語らせてほしい。表紙のイラストは、マンガ『かぐや様は告らせたい』の赤坂アカの手によるもの。挑戦的な赤一色の背景に、複雑な表情をした制服の少女が描かれる。タイトルは、それに干渉しない形で、それこそ「なめらかな」明朝体で配置されている。書店で平積みされているとよくわかるが、実に目を引く表紙である。
さて、表題作は、並行世界と少女たちの日常を描いた作品だ。お気づきの方もおられるかと思うが、鈴木健(=スマートニュース株式会社CEO)が13年に上梓した『なめらかな社会と、その敵』をオマージュした愉快なタイトルである。伴名練はフィクション、鈴木健は学術批評だが、どちらもSF的想像力が大いに働いている点で共通している。
表題作の魅力は第一文に象徴されている。「うだるような暑さで目を覚まして、カーテンを開くと、窓から雪景色を見た」。実にとんでもない。冒頭からアクセル全開である。
読者はわけがわからないまま読み進める。主人公の架橋葉月、「あたし」はごく普通の女子高校生で、慌ただしい朝を過ごし、学校へ向かう。そういう全体の流れはわかる。だが、一文一文に書かれている内容が支離滅裂だ。例えば交通事故で4年前に亡くなった「お父さん」が、ダイニングテーブルで新聞を読んでいたり、汗をかき桜と紅葉と雪を横目に高校へ通学したり。どういうことか。
読者を一通り面食らわせたあと、ようやく作品世界に導入された一つのSF的ギミック――「乗覚」の概要が明かされる。乗覚が働いているおかげで、作品世界の住人たちは、あらゆる「可能性」、あるいは並行世界に、自分の意思で自由に行き来することができるのだ。
ストーリーは主人公と一人の少女、厳島マコトとの再会で動き出す。マコトは乗覚に障害があり、一つの現実にしか止まることができない。つまりは我々読者と同じ境遇にあるのだが、そのことは並行世界の往還を当然のものとして生きてきた主人公ら作中人物にとっては、ひどく不便で奇妙なものに映るのだった。
並行世界自体は「SF」という枠を超えて広く現代のエンタメに用いられるアイデアだ。森見登美彦『四畳半神話体系』などは京大関係者にとって身近だろうし、アニメに一家言ある読者にとっては『シュタインズ・ゲート』シリーズをおいて並行世界を語ることはできないだろう。時代を遡れば、ディックの『高い城の男』にも同様のアイデアをみることができる。
だが、さすが「世界で最もSFを愛した作家」こと伴名練だ。本作のひねり方は一味ちがう。なんだ、この自由奔放な世界間の移動は。そういう自由奔放さには、作家の力量不足による破綻がつきまとうが、伴名練はそのアイデアを最後まで活かしきっている。
しかもそれは、小説の文章を通してしか表現されえず、映像化が極めて困難であるようにも思える。「この形式でなければいけない」という確信は、最上の娯楽体験に不可欠な要素でもある。
加えて本作は、SFに親しみがあってもなくても、きわめて新鮮に読むことができる作品だ。アイデアが面白いだけでなく、魅力的なキャラクターに女子高校生の青春というモチーフは、現代日本のエンターテインメントの勘所をついている。読みやすい文体で、翻訳作品のような敷居の高さもない。総じてフレンドリーな印象があり、奇抜な世界観のなかでも安心して読み進めることができる。
クライマックスにはカタルシスもある。なるほど、確かにこの舞台設定とキャラクター配置ならこうなるよな、という納得感と喜びにあふれた結末だ。それはあるいは、「乗覚障害」のようにいまここの現実しか生きられない私たち読者に向けられた人生賛歌なのかもしれない。(涼)
『なめらかな世界と、その敵』
伴名練、ハヤカワ文庫JA
2022年4月発売、800円+税
「人新世」は、化学者パウル・クルッツェンらが2000年に提唱した地質年代の区分、Anthropoceneの邦訳である。正式な地質年代として認められたものではないが、人間の活動が地球の気候や生物多様性などに大きな影響を及ぼすようになった現代を指す言葉として広く浸透している。
『人新世の「資本論」』は20年9月の刊行以来高い売り上げを保ち、国内で40万部を超えるベストセラーとなった。著者の斎藤幸平はカール・マルクスをはじめとする経済思想の研究者であり、本書ではマルクスの代表作『資本論』の現代的解釈によって、気候変動や格差といった人新世が直面する諸危機を整理し、その解決策について論じる。
資本主義は「転嫁」という本質的問題を抱えている、というマルクスの指摘を援用し、著者は資本主義システムが経済成長の代償を、途上国や貧困層に「転嫁」し、「不可視化」することで機能してきたと断罪。経済成長と気候変動の抑制が両立不可能だと批判する。例えば、太陽光パネルといった気候変動対策の投資が、経済成長に寄与することを期する「グリーン・ニューディール」については、設備の生産局面に資源やエネルギーの消費を転嫁しているに過ぎず、ほとんど無意味だと主張する。気候問題や不平等の根本的な解決には、経済成長を追求する「成長至上主義」との決別を図らねばならないというのだ。
だが、著者は従来の「脱成長」の考えにも批判の目を向ける。著者によれば、冷戦終結期の脱成長論は、資本主義市場経済の枠組みを維持しつつ、資本の行き過ぎた成長を抑えようとするものである。しかし、市場経済において資本の成長が止まれば、利益の分配をめぐる競争が激化し、格差の拡大が深刻になる。したがって成長との決別は、資本主義の超克を伴わねばならない。
著者によると、かつての村落における入会地のように、住民の共有財産であった「コモン」は資本主義によってことごとく解体された。資本が奪ったコモンの再建が、マルクスの「コミュニズム」の理念であった。著者は草稿を含めた細密な文献研究に基づき、地球全体を「コモン」として資本から取り戻すことをマルクスが構想していたとする。そして、資本主義の克服を目指すこの立場を「脱成長コミュニズム」と名付けた。
著者はパンデミックにおいて、国家権力による行動制限を人々が受け入れたことをあげ、危機が迫った社会は、国家権力が強権を発動する専制状態や全体主義的状態にも、無秩序な闘争状況にも陥りかねないと指摘。人々が相互扶助や自治に基づき、解体された「コモン」を取り戻す脱成長コミュニズムこそ、人類が民主主義的手段によって資本主義を克服し、人新世を生き延びる唯一の道だと訴えた。
本書を通して著者は、マルクスの解釈に立脚した「眼」から、富の偏在と気候変動を人新世の問題として整理し、その解決策として具体的な社会構造を提示した。ただ、著者が主張するように資本主義の克服が早急に必要だとしても、脱成長コミュニズムは代替的な社会構造の一つにすぎず、各社会のあるべき姿には議論の余地があることはいうまでもない。評者は人新世の問題に早急に応答しなければならないとする著者の主張には概ね同意するものの、当事者による議論を待たずして脱成長コミュニズムが「唯一の道」だと断じることは、特定のイズムの強要と捉えることもでき、いささか危険ではないかと感じた。
とはいえ、本書が読者に人新世の危機の当事者意識を喚起し、強い口調で社会の変化に向けた参画を訴えたこと、そして多くの読者を獲得したことには、なお重要な意義がある。人新世の未来に向けた参加と議論の契機として、一読しておきたい一冊だ。(汐)
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平、集英社新書
2020年9月発売、1020円+税
使う言葉が違えばものの考え方も異なる。感覚としては理解できるが理由を問われれば答えに詰まる命題だろう。本書の目的は、そんな素朴かつ深遠な問いについて、関連する研究成果の歴史的展開を辿りながら追究することにある。
本文は2部構成だ。第Ⅰ部「言語は鏡」では、色の名づけが人間の視覚と文化的慣習、どちらによってなされるかを検討する。第Ⅱ部「言語はレンズ」では、母語で考え話す習慣が、言語使用者の思考にどのような影響を及ぼすかに注目する。例えば「橋」という単語について、男性名詞とするスペイン語話者は男性らしさを、女性名詞とするドイツ語話者は女性らしさを連想する、といった具合に。
過去の学者が心血を注いだ研究、その成果が批判と忘却を経て、後世の学者に引き継がれ発展する様は壮観だ。例えば第Ⅰ部、初めて登場するのはグラッドストン。彼が19世紀イギリスの著名な政治家でありながら、古代ギリシャの詩人・ホメロスに関する大著を著していたことは、読者にとって目新しい事実だろう。彼はホメロス作とされる叙事詩、『イリアス』と『オデュッセイア』における奇妙な色彩表現に注目した。ホメロスは海を「葡萄酒色」と、羊を「すみれ色」と表し、白と黒に関わる表現を多用する。グラッドストンはその理由をこう結論付けた。古代ギリシャ人は色覚が未発達で、世界を色合いではなく明暗の差でみていた。絵の具や染料などで色を人為的に操作するようになってはじめて人の色の感受性が進化していったのだ、と。
当時は「獲得形質は遺伝しない」ことが知られていなかった。著者は現代で常識とされるこの事実を持ち出し、グラッドストンの論の欠陥を指摘。19世紀末にさかんに行われた文化人類学的調査に目を向ける。その調査は、「青」や「緑」にあたる語彙がない、色名の少ない民族でも、色合いの違いを見分けることが可能だと明らかにした。一方で1969年にふたりの研究者が見出した、多くの言語で色名が黒、白、赤……の順に増えるという共通性も見逃せない。著者が出した結論は、人間の視覚がゆるやかに切り分けた色を、文化が細かく名づけるというもの。無難な結論ながらこの満足感、それはホメロスの詩というロマン溢れる素材と、それにまつわる謎を丁寧に紐解いていく展開が、推理小説を読むのにも似た緊張と高揚をもたらすからだろう。
現代の成果に照らして過去の研究を語るのは、ともすれば傲慢な姿勢に見えるかもしれない。だが著者は「われらが無知を許したまえ」と題したエピローグでこう語る。現在の研究成果という「大いなる光」、それを目にすることができたのは、「先立つ人々が倦むことなく闇を探しつづけたからにほかならない」と。いま「最先端」とされている研究も、いつかは塗り替えられてしまうだろう。それでも歩み続けれなければ学術の発展はない、そう力強く訴えるのである。
本書は、奇しくもその旅の出発点である『イリアス』に似ている。懸命に生きる人間の姿を称えた叙事詩と同様、限られた技術のなかで探究を続ける学者の営みを追う、人間賛歌の物語だ。比喩と皮肉に富んだ語り口は独特で読み進めるのに苦労するかもしれないが、投げ出すのはもったいない。自分の学びに意味はあるのか、そんな疑念で立ち止まりたくなった学生にとって、この本を読んだ経験が道しるべとなるはずだ。(凡)
『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』
ガイ・ドイッチャー(著)、椋田直子(訳)、早川書房、
2022年2月発売、1180円+税
目次
第10位 『なめらかな世界と、その敵』 青春と/の可能性第9位 『人新世の「資本論」』マルクスの「眼」で人新世を捉える
第19位 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 未来のため、不断の探究を
順位 | 書名 | 著者 |
---|---|---|
1 | 現代思想入門 | 千葉雅也 |
2 | 暇と退屈の倫理学 | 國分功一郎 |
3 | 行動経済学 | 依田高典 |
4 | 理科系の作文技術 | 木下是雄 |
5 | それから | 夏目漱石 |
6 | 四畳半タイムマシンブルース | 森見登美彦 |
6 | 新・明解C言語入門編 | 柴田望洋 |
8 | 土木計画学 | 藤井聡 |
9 | 人新世の「資本論」 | 斎藤幸平 |
10 | なめらかな世界と、その敵 | 伴名練 |
11 | 経営学入門 | 武石彰 |
11 | 四畳半神話大系 | 森見登美彦 |
13 | 夜は短し歩けよ乙女 | 森見登美彦 |
14 | 思考の整理学 | 外山滋比古 |
15 | 同志少女よ、敵を撃て | 逢坂冬馬 |
16 | 基礎からわかる論文の書き方 | 小熊英二 |
17 | 経済学の歴史 | 根井雅弘 |
18 | 民俗学入門 | 菊地暁 |
19 | 言語が違えば、世界も違って見えるわけ | ガイ・ドイッチャー |
20 | 知ってるつもり | スティーブン・スローマン |
20 | 歴史とは何か | エドワード・ハレット・カー |
20 | ハムレット | ウィリアム・シェイクスピア |
23 | 22世紀の民主主義 | 成田悠輔 |
24 | 中国哲学史 | 中島隆博 |
25 | 平田晃久/建築とは〈からまりしろ〉をつくることである | 平田晃久 |
25 | 中学生から知りたいウクライナのこと | 小山哲ほか |
25 | 日本共産党 | 中北浩爾 |
28 | 科学哲学 | サミール・オカーシャ |
29 | 史的システムとしての資本主義 | ウォーラーステイン |
30 | 問いの立て方 | 宮野公樹 |
30 | 経済学 | 諸富徹 |
30 | スマホ脳 | アンデシュ・ハンセン |
30 | 人種主義の歴史 | 平野千果子 |
30 | 世界史の考え方 | 小川幸司ほか |
35 | 職業としての官僚 | 嶋田博子 |
35 | スピノザ | 國分功一郎 |
37 | 現代ロシアの軍事戦略 | 小泉悠 |
37 | 人生は20代で決まる | メグ・ジェイ |
37 | 悪い言語哲学入門 | 和泉悠 |
37 | 人類の起源 | 篠田謙一 |
37 | 精神と自然 | グレゴリー・ベイトソン |
42 | 女のいない男たち | 村上春樹 |
42 | 物語ウクライナの歴史 | 黒川祐次 |
42 | 華氏451度 | レイ・ブラッドベリ |
42 | 会話を哲学する | 三木那由他 |
46 | 沈黙のパレード | 東野圭吾 |
46 | 傲慢と善良 | 辻村深月 |
48 | 京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと | 山極寿一 |
48 | コンビニ人間 | 村田沙耶香 |
48 | 熱帯 | 森見登美彦 |
データ提供:京大生協ブックセンタールネ
※ただし、教科書類は編集部で除外しています。
※ただし、教科書類は編集部で除外しています。
第10位 『なめらかな世界と、その敵』 青春と/の可能性
10位にランクインしたのは、伴名練『なめらかな世界と、その敵』だった。2019年8月に発売された同名の単行本を文庫化した、22年4月発売の新刊である。
伴名練は京大文学部出身のSF作家。在学中は京大SF研に所属していたという。そのSF周りの知識量と筆力は卓越しており、SF界を代表する早川書房に「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」とまで言わしめるほどの実力者だ。SF界隈以外ではまだ正当に評価されているとは言いがたいが(そもそもSFというジャンルが下火な今日だ……)、最注目のエンタメ作家の一人であることは疑いようがない。
本書は表題作「なめらかな世界と、その敵」を中心とした6編の小説からなる短編集である。その内容を紹介する前に、まずはいかに本書の装丁が優れているか語らせてほしい。表紙のイラストは、マンガ『かぐや様は告らせたい』の赤坂アカの手によるもの。挑戦的な赤一色の背景に、複雑な表情をした制服の少女が描かれる。タイトルは、それに干渉しない形で、それこそ「なめらかな」明朝体で配置されている。書店で平積みされているとよくわかるが、実に目を引く表紙である。
さて、表題作は、並行世界と少女たちの日常を描いた作品だ。お気づきの方もおられるかと思うが、鈴木健(=スマートニュース株式会社CEO)が13年に上梓した『なめらかな社会と、その敵』をオマージュした愉快なタイトルである。伴名練はフィクション、鈴木健は学術批評だが、どちらもSF的想像力が大いに働いている点で共通している。
表題作の魅力は第一文に象徴されている。「うだるような暑さで目を覚まして、カーテンを開くと、窓から雪景色を見た」。実にとんでもない。冒頭からアクセル全開である。
読者はわけがわからないまま読み進める。主人公の架橋葉月、「あたし」はごく普通の女子高校生で、慌ただしい朝を過ごし、学校へ向かう。そういう全体の流れはわかる。だが、一文一文に書かれている内容が支離滅裂だ。例えば交通事故で4年前に亡くなった「お父さん」が、ダイニングテーブルで新聞を読んでいたり、汗をかき桜と紅葉と雪を横目に高校へ通学したり。どういうことか。
読者を一通り面食らわせたあと、ようやく作品世界に導入された一つのSF的ギミック――「乗覚」の概要が明かされる。乗覚が働いているおかげで、作品世界の住人たちは、あらゆる「可能性」、あるいは並行世界に、自分の意思で自由に行き来することができるのだ。
ストーリーは主人公と一人の少女、厳島マコトとの再会で動き出す。マコトは乗覚に障害があり、一つの現実にしか止まることができない。つまりは我々読者と同じ境遇にあるのだが、そのことは並行世界の往還を当然のものとして生きてきた主人公ら作中人物にとっては、ひどく不便で奇妙なものに映るのだった。
並行世界自体は「SF」という枠を超えて広く現代のエンタメに用いられるアイデアだ。森見登美彦『四畳半神話体系』などは京大関係者にとって身近だろうし、アニメに一家言ある読者にとっては『シュタインズ・ゲート』シリーズをおいて並行世界を語ることはできないだろう。時代を遡れば、ディックの『高い城の男』にも同様のアイデアをみることができる。
だが、さすが「世界で最もSFを愛した作家」こと伴名練だ。本作のひねり方は一味ちがう。なんだ、この自由奔放な世界間の移動は。そういう自由奔放さには、作家の力量不足による破綻がつきまとうが、伴名練はそのアイデアを最後まで活かしきっている。
しかもそれは、小説の文章を通してしか表現されえず、映像化が極めて困難であるようにも思える。「この形式でなければいけない」という確信は、最上の娯楽体験に不可欠な要素でもある。
加えて本作は、SFに親しみがあってもなくても、きわめて新鮮に読むことができる作品だ。アイデアが面白いだけでなく、魅力的なキャラクターに女子高校生の青春というモチーフは、現代日本のエンターテインメントの勘所をついている。読みやすい文体で、翻訳作品のような敷居の高さもない。総じてフレンドリーな印象があり、奇抜な世界観のなかでも安心して読み進めることができる。
クライマックスにはカタルシスもある。なるほど、確かにこの舞台設定とキャラクター配置ならこうなるよな、という納得感と喜びにあふれた結末だ。それはあるいは、「乗覚障害」のようにいまここの現実しか生きられない私たち読者に向けられた人生賛歌なのかもしれない。(涼)
『なめらかな世界と、その敵』
伴名練、ハヤカワ文庫JA
2022年4月発売、800円+税
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第9位 『人新世の「資本論」』マルクスの「眼」で人新世を捉える
「人新世」は、化学者パウル・クルッツェンらが2000年に提唱した地質年代の区分、Anthropoceneの邦訳である。正式な地質年代として認められたものではないが、人間の活動が地球の気候や生物多様性などに大きな影響を及ぼすようになった現代を指す言葉として広く浸透している。
『人新世の「資本論」』は20年9月の刊行以来高い売り上げを保ち、国内で40万部を超えるベストセラーとなった。著者の斎藤幸平はカール・マルクスをはじめとする経済思想の研究者であり、本書ではマルクスの代表作『資本論』の現代的解釈によって、気候変動や格差といった人新世が直面する諸危機を整理し、その解決策について論じる。
資本主義は「転嫁」という本質的問題を抱えている、というマルクスの指摘を援用し、著者は資本主義システムが経済成長の代償を、途上国や貧困層に「転嫁」し、「不可視化」することで機能してきたと断罪。経済成長と気候変動の抑制が両立不可能だと批判する。例えば、太陽光パネルといった気候変動対策の投資が、経済成長に寄与することを期する「グリーン・ニューディール」については、設備の生産局面に資源やエネルギーの消費を転嫁しているに過ぎず、ほとんど無意味だと主張する。気候問題や不平等の根本的な解決には、経済成長を追求する「成長至上主義」との決別を図らねばならないというのだ。
だが、著者は従来の「脱成長」の考えにも批判の目を向ける。著者によれば、冷戦終結期の脱成長論は、資本主義市場経済の枠組みを維持しつつ、資本の行き過ぎた成長を抑えようとするものである。しかし、市場経済において資本の成長が止まれば、利益の分配をめぐる競争が激化し、格差の拡大が深刻になる。したがって成長との決別は、資本主義の超克を伴わねばならない。
著者によると、かつての村落における入会地のように、住民の共有財産であった「コモン」は資本主義によってことごとく解体された。資本が奪ったコモンの再建が、マルクスの「コミュニズム」の理念であった。著者は草稿を含めた細密な文献研究に基づき、地球全体を「コモン」として資本から取り戻すことをマルクスが構想していたとする。そして、資本主義の克服を目指すこの立場を「脱成長コミュニズム」と名付けた。
著者はパンデミックにおいて、国家権力による行動制限を人々が受け入れたことをあげ、危機が迫った社会は、国家権力が強権を発動する専制状態や全体主義的状態にも、無秩序な闘争状況にも陥りかねないと指摘。人々が相互扶助や自治に基づき、解体された「コモン」を取り戻す脱成長コミュニズムこそ、人類が民主主義的手段によって資本主義を克服し、人新世を生き延びる唯一の道だと訴えた。
本書を通して著者は、マルクスの解釈に立脚した「眼」から、富の偏在と気候変動を人新世の問題として整理し、その解決策として具体的な社会構造を提示した。ただ、著者が主張するように資本主義の克服が早急に必要だとしても、脱成長コミュニズムは代替的な社会構造の一つにすぎず、各社会のあるべき姿には議論の余地があることはいうまでもない。評者は人新世の問題に早急に応答しなければならないとする著者の主張には概ね同意するものの、当事者による議論を待たずして脱成長コミュニズムが「唯一の道」だと断じることは、特定のイズムの強要と捉えることもでき、いささか危険ではないかと感じた。
とはいえ、本書が読者に人新世の危機の当事者意識を喚起し、強い口調で社会の変化に向けた参画を訴えたこと、そして多くの読者を獲得したことには、なお重要な意義がある。人新世の未来に向けた参加と議論の契機として、一読しておきたい一冊だ。(汐)
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平、集英社新書
2020年9月発売、1020円+税
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第19位 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 未来のため、不断の探究を
使う言葉が違えばものの考え方も異なる。感覚としては理解できるが理由を問われれば答えに詰まる命題だろう。本書の目的は、そんな素朴かつ深遠な問いについて、関連する研究成果の歴史的展開を辿りながら追究することにある。
本文は2部構成だ。第Ⅰ部「言語は鏡」では、色の名づけが人間の視覚と文化的慣習、どちらによってなされるかを検討する。第Ⅱ部「言語はレンズ」では、母語で考え話す習慣が、言語使用者の思考にどのような影響を及ぼすかに注目する。例えば「橋」という単語について、男性名詞とするスペイン語話者は男性らしさを、女性名詞とするドイツ語話者は女性らしさを連想する、といった具合に。
過去の学者が心血を注いだ研究、その成果が批判と忘却を経て、後世の学者に引き継がれ発展する様は壮観だ。例えば第Ⅰ部、初めて登場するのはグラッドストン。彼が19世紀イギリスの著名な政治家でありながら、古代ギリシャの詩人・ホメロスに関する大著を著していたことは、読者にとって目新しい事実だろう。彼はホメロス作とされる叙事詩、『イリアス』と『オデュッセイア』における奇妙な色彩表現に注目した。ホメロスは海を「葡萄酒色」と、羊を「すみれ色」と表し、白と黒に関わる表現を多用する。グラッドストンはその理由をこう結論付けた。古代ギリシャ人は色覚が未発達で、世界を色合いではなく明暗の差でみていた。絵の具や染料などで色を人為的に操作するようになってはじめて人の色の感受性が進化していったのだ、と。
当時は「獲得形質は遺伝しない」ことが知られていなかった。著者は現代で常識とされるこの事実を持ち出し、グラッドストンの論の欠陥を指摘。19世紀末にさかんに行われた文化人類学的調査に目を向ける。その調査は、「青」や「緑」にあたる語彙がない、色名の少ない民族でも、色合いの違いを見分けることが可能だと明らかにした。一方で1969年にふたりの研究者が見出した、多くの言語で色名が黒、白、赤……の順に増えるという共通性も見逃せない。著者が出した結論は、人間の視覚がゆるやかに切り分けた色を、文化が細かく名づけるというもの。無難な結論ながらこの満足感、それはホメロスの詩というロマン溢れる素材と、それにまつわる謎を丁寧に紐解いていく展開が、推理小説を読むのにも似た緊張と高揚をもたらすからだろう。
現代の成果に照らして過去の研究を語るのは、ともすれば傲慢な姿勢に見えるかもしれない。だが著者は「われらが無知を許したまえ」と題したエピローグでこう語る。現在の研究成果という「大いなる光」、それを目にすることができたのは、「先立つ人々が倦むことなく闇を探しつづけたからにほかならない」と。いま「最先端」とされている研究も、いつかは塗り替えられてしまうだろう。それでも歩み続けれなければ学術の発展はない、そう力強く訴えるのである。
本書は、奇しくもその旅の出発点である『イリアス』に似ている。懸命に生きる人間の姿を称えた叙事詩と同様、限られた技術のなかで探究を続ける学者の営みを追う、人間賛歌の物語だ。比喩と皮肉に富んだ語り口は独特で読み進めるのに苦労するかもしれないが、投げ出すのはもったいない。自分の学びに意味はあるのか、そんな疑念で立ち止まりたくなった学生にとって、この本を読んだ経験が道しるべとなるはずだ。(凡)
『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』
ガイ・ドイッチャー(著)、椋田直子(訳)、早川書房、
2022年2月発売、1180円+税