〈書評〉「出町」に出会っていない人々へ 『京大生、出町にダイブ! 京都下町見聞録』
2025.11.16
出町とは、京大の最寄り駅である出町柳駅から鴨川を挟んだ、西側の商店街一帯を指す地名である。そこで青木さんが出会ったものは、異色の経歴を持つママが営むカフェ、上空を鯖のオブジェが泳ぐ商店街、物知り顔で黙り込む阿弥陀寺の門。本書は、出町のそんなあれこれを、青木さんの繊細かつユニークな言語感覚で書き留めている。彩り豊かなエピソードの数々に、「理想の学生生活だ」と感じる読者も多いだろう。
冒頭で日記のようだと述べたが、本書はただの日記とは異なる。それは、読者に出町という土地の魅力を「伝えよう」とする意識がはっきりとあることだ。本書を読むと、青木さんがいかに出町を、そこに住む人々を愛し、尊重しているのかがしみじみと伝わってくる。ただし、それでいて押し付けがましくない。喧伝するのではなく、青木さんは自身のまなざしを通して、彼女が「透明な網」と呼ぶ出町の記憶を、そっと読者に伝えている。
実を言うと、本書を最も印象深いものに変えたのは、本書のあとがきにあたる章だった。あとがき「鴨川を渡るとき」では、本文の執筆を終えてから半年間の留学生活を過ごし、京都に舞い戻った後の青木さんが語る。彼女は留学前は帰る場所であったはずの出町で、「自分はまだここにはいない」と感じるという。どうすれば出町に帰ることができるのか。考え込むうちに、青木さんはふと透明な網は「もう見えないのかもしれない」と気づく。この一言が非常に切ない。しかし、同時にとても共感できる一文だ。この春に京都で暮らし始めた私も、いずれは学生生活を終えてこの土地を去るだろう。そして、いつか再びここを訪れたとしても、そこは既に私の帰る場所ではない。日常が非日常に変わってしまえば、それを再び取り戻すのは不可能だと痛感する。そして改めてエピソードの一つ一つを思い返すと、「誰かの日記の覗き見」よりももっと実感の強い、過去への愛惜に似た感情が湧いてくる。それはかつて出町で過ごした日々への青木さんの感情であり、いつか私も味わうものだ。
京都という土地に魅せられて、それを題材とする文学作品は数多い。しかし、その中でも、学生の街・京都でたった数年を過ごす下宿生の瞬間性が、輝かしい日常の裏側に潜んでいるという点で、本書は他と一線を画すと私は思う。本書は、2年という短い期間の中で青木さんが吸収した出町のエッセンスがぎゅっと凝縮されている。
11月14日、大垣書店高野店にて、青木さんと作家・いしいしんじさんのトークイベントが開かれた。京大の先輩・後輩にあたる2人は1時間以上にわたり軽快なトークを繰り広げ、本書について語った。その中で青木さんが口にした、「言葉を見つけるというのは、鴨川の中で、流れてくる砂金をじっと待つような感じ」という一言が印象的だった。いしいさんは本書の言葉選びについて、「理屈ではなく、この言葉でないと伝わらない、にじみ出る青木さんの心根」があると述べた。本書を読んだ人であれば、2人の言葉には必ず納得するだろう。丁寧に拾われた言葉には、その人にしか出せない魅力がある。青木さんにしか描けない出町がある。(燈)
◆書誌情報
『京大生、出町にダイブ! 京都下町見聞録』
青木悠著、河出書房新社
2025年
1800円+税
『京大生、出町にダイブ! 京都下町見聞録』
青木悠著、河出書房新社
2025年
1800円+税
