文化

社会学で時間を旅する 真木悠介『時間の比較社会学』

2023.03.16

本書は様々な時代、地域に生きる人々の時間への意識を取り上げ、それらを互いに「比較」することで、時間という曖昧模糊とした対象を社会学的に照らし出すことを目的としている。

第1章では原始共同体における時間意識が紹介される。民族学者のレヴィ=ストロースは、オーストラリアの原住民の間で見られる「チューリンガ」という石や木で作られた楕円形の物体が、先祖の肉体を表していると記述した。チューリンガは、代々その先祖の生まれ変わりと考えられる生者に厳かに授けられるという。彼らにとって、現代の意味でいう絶対的な個人の死は存在しない。個人は肉体として消滅した後も現世にチューリンガとして潜在しており、再び肉体として顕在する時期を待っているのだ。こういった潜在と顕在を無限に行き来する時間意識を筆者は「振動する時間」と呼び、これを原始共同体に特有の時間意識と結論づける。ここで絶対的な死を見出そうとすれば、それは振動を支える共同体の死であり、永遠に持続してきた(そしてこれからもするであろう)共同体に属していないという疎外感なのである。ただし、共同体の存続が直観的に自明視されているうちは、共同体が個体間を超えた強固なアイデンティティとして機能しているため、個人は生の意味を問う必要に迫られない。

反して、近代における時間意識を縁取るのは現在の意味を未来に先送りする行為である。例えば私たちは賃金を得るために労働に耐えたり、試験に合格するために苦労して勉強したりする。そこでは未来で得られる快楽の代わりに今の不満足に耐えるのであり、現在は空虚化しているといえる。ただ、究極の未来は自己の死である以上、この先送りの徹底は破綻を運命づけられている。これを乗り越えるには現在の生を意味づける無限に持続する主体、つまり神や永遠の生が要請されるが、神への信仰が希薄化し、永遠の生が不可能であることを考えれば、生の空虚化は避けられないように思われる。

第4章、第5章では近代における時間意識についてより踏み込んで考察する。その中で筆者は近代の時間意識が離人症患者が感じる意識と類似していることに着目し、ある女性患者が体験する世界を引用する。「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んでいかない。無数の今が、今、今、今、今と無茶苦茶に出てくるだけで、何の規則もまとまりもない」。離人症患者が感じる時間の非連続性は、多くの場合その生い立ちに起因する。幼少期から彼らは「非依存的な自力主義者」になるべく育てられ、この患者も「他人に頼らず、自分自身の力で生きる」をモットーにしていたという。現在の意味を担うべき他者を疎外し自身でそれを担おうとした結果、必然的に現在の意味の先送りに奔走することとなるが、先送りは徹底するごとにその速度を増し、現在は細分化された瞬間の非連続的な集列になってしまうのだ。

筆者は末部で、生の虚無化や時間の細分化は、生の意味を今を生きる他者に託して充足した現在を手にすることで乗り越えられるとまとめる。近代的時間意識が持つ苦悩やそれに至るまでの各時代の時間意識を描く筆致の多彩さと比べると、予想される論理的帰結としての結論に目新しさは感じなかった。ただ、時間という絶対普遍なものはそれを感受する主体によって大きく様態が変わること、それを知ることは深い他者理解や自分の時間意識の見直し、そしてより自由で豊穣な世界への道筋を照らし出してくれるように思われる。(順)

書誌情報
『時間の比較社会学』
著者:真木悠介
出版社:岩波書店
発行: 2003年8月

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