文化

〈書評〉 『素粒子の世界を拓く』 —“市民社会”の中の科学者—

2008.12.18

ここ数回、素粒子に関する取材記事で、訂正が相次いだ。記事の責任は私にある。本来なら暫く科学系の記事を自粛すべきであることは理解している。しかし、本書を見て、あえて今回の書評を担当させていただいた。それは、今後も科学報道を続けていく上で、自らの科学へのモチベーションを確認し、反省の材料にしていきたかったからだ。読者、関係者の方にはひとえに許していただきたく思う一存である。

本書では日本で1番目,2番目のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹、朝永振一郎の研究の軌跡と、彼らが活躍した背景となる時代、環境を述べあげている。湯川・朝永と言えば、日本の理論物理学の世界では「創業者」として崇められる存在だ。本書も元々「湯川・朝永生誕百年企画展」の一環として発刊されたもので、今回のノーベル物理学賞3人受賞を受けて新編に改めたという経緯を持つ。その意味で、本書は20世紀前半に始まる日本物理学の「来し方行く末」を概観する意図が見受けられる。

ここで参照したいのは、11月9日の日本経済新聞のコラムに以下のようなことが述べられていたことだ。すなわち、今回の物理学賞が日本の世論に与えた影響は湯川・朝永の当時に比べて極めて薄い。むしろ、受賞が行政に過剰に扱われ、ノーベル賞向けの文部科学予算を組ませる偏りをもたらしただけだ。逆にこの冷めた世論を重視して、行政は事大主義を改め、現実的な科学行政をしなければならない。

私は個人的に今回の受賞に相当の興奮を覚えたものだから、どの程度世論の反応が悪いのかはわからぬが、確かに、歴史の教科書に載る湯川・朝永の興奮は一つの時代を象徴するもののように思える。しかし、本書を読んでいく中で、それは当時の物理学というものが原初的であるが故のより普遍的な課題を持ち、創業と未来への期待の興奮に包まれ、社会全体ににじみ出るまでのものであったことを感じていくことになった。今回の受賞も、そういった興奮が物理学の世界で持続していたからこそ、変貌を遂げたこの社会にあって、社会になにがしかの影響を与えてうるのではないかと思う。京大のどの物理学者もが、湯川・朝永をもって「創業者」と称し、尊敬の念をもって眺めるのは、彼らが日本に何の伝統もない中で、徹底的な自学自習によって世界最先端の普遍的課題を導きだし、それでいて当時の社会全体の「普遍」を求める雰囲気をそこに凝縮させたところにあるのかもしれない。

20世紀前半当時の物理学を席巻した話題とは、「量子力学」と呼ばれる物質の根源性を論じた、新しい物理学そのものの登場であった。世界でも新しいこの学問に、発展途上の日本はキャッチアップできるはずはない。それゆえ、徐徐に伝えられていく量子力学の実際は、熱狂をもって研究者たちの中に浸透していく。それは明治日本が「和魂洋才」と称して欧米の学問を受容していった歴史に酷似していたが、一方で、「普遍的な物理学」というユニバーサルな世界精神に裏打ちされていた。

量子力学という新しい学問を受容していく上で、そこにはそれ相応の環境が求められる。つまり、新しい学問を受容するという新鋭的な感受性は、序列的な世界ではありえず、非常に自由な教育システムを要する。湯川・朝永は京都市吉田周辺でエリートコースの進学をしているが、中学高校大学と、どれも自由な学風が尊重され、何を学ぶかは各自に任せる雰囲気が濃厚にあった。当時新しかった量子力学の分野には二人を指導できるような教官はおらず、二人は独学で世界レベルに追いつかなければならない。本書で詳述される当時の教育環境、京大の状況はそんな二人の研究意識を許容してあまりあるものだった。

そして、そういった当時の教育環境は、物理学という普遍的な学問が本質的に持つ、一種の“自由主義”を開花させるものであったように思えてならない。つまり、教科書も参考書もない最先端の物理学で必要なのは、自分で問題を設定し、自分で取り組んでいく姿勢であり、それは「自由な市民社会での個人の生き方」という近代的な理念に直結する。それは翻ってみれば、戦後の湯川・朝永が反核反戦運動で活躍したような自由と平和を自治する姿勢にも通底する。つまり、彼らの研究が難解であったにもかかわらず、その興奮が社会に大きく伝導したというのは、そういう普遍的な研究を行う者が本質的に持つ社会性や市民意識といったものに、社会が共鳴できたからではないだろうか。

湯川・朝永の業績を最終的に言い直すとすれば、当時の自由でのびのびとした教育環境の下で、最大限にその自由を使い切ることができたということにあるのではないか。もちろんそこには彼らの天賦の才能や、京大教授を父に持つ家庭の境遇が貢献したことが言えるが、そういった生得的才能に属する事柄がまずあって、それを開花させる環境があったという社会的事実に私は大きく着目したいのだ。

彼らの学歴の本質的な連続性、教師の個性が生かされる教育システム、自由な研究姿勢というものからは、昨今のゆとり教育論議に対して全く言われない論点を提供できることを一言しておきたい。

私が文系でありながら科学の動向を追っていきたいと感じる背景には、この「自由をどう使うか」という市民社会に共通の課題に答える大変魅力的な世界が広がっていることがある。そのことを確認して、今後は反省して科学記事に慎重に取り組んでいきたい…。それはとりもなおさず、自由な社会で責任をもって生きていくという姿勢に直結するのだから。(麒)

《本紙に写真掲載》

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