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秋季講義 2022 「分断の時代―哲学者からのヒント」

2023.01.16

秋季講義「分断の時代―哲学者からのヒント」が、京大国際科学イノベーション棟シンポジウムホールで開催された。講義は2回に分けて行われた。12月9日に開かれた第一回では、文学研究科から上原麻有子教授が登壇。京都学派の思想に立ち、「他者を知るということ」について論じた。14日には「災害の倫理」のテーマで第二回が開催され、児玉聡・文学研究科教授が講義を行った。

「対話」が社会を動かす


9日の上原麻有子教授による講義は、主に西田幾多郎の哲学に立脚し、研究者の解釈を交えながら進む。

冒頭で上原教授はテーマ設定の背景に、対立や争いの絶えない現代の社会状況を挙げる。近年では悲惨な事件を引き起こした加害者に象徴されるように、真の「対話」を経験することなく、社会から孤立する人々が増えているように感じるとした。そのうえで、自他関係の中の「対話」が社会を構成する基本単位であり、それらが目に見えない形で社会に浸透し動かしていく、という自身の研究課題を示した。

前半では、自他関係論に関する西田の論文を取り上げた。西田によれば、自己を極限まで突き詰め、「私」のなかで「汝」を直観的に知ることが「自覚」である。上原教授は、他者の人格を認めることで自己は「自己となる」という西田の記述を、他者の人格を認めることで、「真の自己が立ち現れてくる」と表現した。西田哲学における「自己」とは、無限に開かれた関係性の中で成り立つ「間主体性自己」である。上原教授は、「もし他の誰かが自分の立場にいれば」と考えることで、その人の真の人格性が現れると説明した。西田においては、自己を「自己」たらしめる相互承認が強調されているという。

西田は、自己と他者とが互いに「自覚」している事実を共有することで、論理や言語、知の次元を越えた部分で意思を通わせる対話を「私と汝とが話し合う」ものと表現した。これは文字通りの言葉による話し合いとは異なる。上原教授は、西田が「真の対話」を、言葉では尽くすことのできない意(こころ)が十全に満たされた対話だと理解したのではないか、と分析した。

西田の思想では、こうした自他関係が成立する条件として、完全に対等な相互関係が前提されている。だが教授は、現実社会で営まれる人間関係は必ずしもそのように平等ではありえず、複雑な様相を呈していることに留意すべきだとする。

この点で西田の自他関係論を批判する思想として、西田と同じ京都学派に属する田辺元の「社会存在の論理」が対置される。田辺は抽象的で合理的な西田の思想があくまで哲学者の観察にとどまり、実社会には当てはまらないと考えていたという。上原教授は、人間の非合理な部分さえ、より高次の合理化によって取り込まねばならないとする田辺の厳格な論理追求が、社会参画に困難を感じる「弱い」個人の存在を無視し、「強い」個人を要請していると指摘。田辺の哲学にひとつの問いを提起して、本論を締めくくった。

講義の最後には、聴講者から寄せられた質問に、教授が答える一幕もあった。たとえば「他人には明かしづらい大きな困難を抱えた相手を『知る』こと」をどう考えるか、という質問に対して、教授は本論で述べたような「呼声」を「聞く」ような関係性と、社会的営みの双方を往来することで、問題は徐々に解決するのではないかと話し、言葉で解決に向かおうとするのではなく、相手を「おもう」ことからはじめてはどうか、と投げかけていた。(汐)

「有事」の倫理とは


14日に行われた児玉聡教授による二回目の講義は、3つのパートに分かれる。第一部「強制力なき法と日本」では、新型コロナのパンデミック発生時における、日本と諸外国の対応を比較する。多くの国が、外出制限に何らかの罰則を設けるハード・ロックダウンを敷き、医療従事者など一部の対象者にワクチン接種を義務化した一方、日本は罰則を設けず、予防接種は努力義務に留めた。児玉教授は、アメリカの法学者ジョン・ヘイリーが、このような日本社会を「強制力なき法を持った社会」と表現したと述べ、日本では、規則の妥当性が公的強制力でなく共同体の合意に依存し、非法的ないし慣習的規範とほとんど区別がつかなくなっていると指摘した。これは、司法権力の濫用を防ぐ一方、強制力による公的な指針を欠くことで、「有事」と「平時」の境界の曖昧さも生んでいるという。

第二部「緊急事態とICUトリアージ」では、パンデミック発生時、イタリアで人工呼吸器が足りなくなり、50歳以下の患者に優先的に使用せざるをえなくなった事例から、非常事態に治療の優先順位を設ける「トリアージ」を実施することおよび、トリアージの実施に関して平時に議論することの倫理的正当性を検討する。トリアージの実施について「平時と同様、有事にも命の選択をすべきでない」という批判があることを挙げ、それはリスク管理と危機管理を混同していると応答した。リスク管理とは「いかに起きないようにするか」、危機管理とは「起きた時にいかにして対応するか」を検討することであり、平時にはリスク管理が重要になるが、一度リスク管理体制が破綻した危機的状況においては、危機管理の必要性を否定して話を進めることはできない。また、トリアージを必要とするような危機的状況の倫理を平時において検討することについて「有事を想定した議論は、平時の倫理を腐敗させる」との指摘があるのに対し、非常事態を設定して人間に優先順位を付けることによる心理的ダメージを認めた上で、有事に備えた教育・議論を行う重要性を強調した。

第三部「パンデミックと災害」では、感染症を災害に含むとする国連に対し、日本の現行法が「パンデミック」を災害と区別して捉えてきたと指摘し、「有事」「災害」といった言葉の概念的な整理も必要になっていると述べた。パンデミックを災害ではないと認識することで、コロナ禍においても、平時と地続きの対応が継続しているという。今後、最悪の事態を想定した危機管理的な議論を進めていく必要があると再び述べて、講義を締めくくった。(桃)

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