文化

〈書評〉巨大化する科学と向き合う『文系と理系はなぜ分かれたのか』隠岐さや香

2018.10.16

人の性格や見た目を指して「文系っぽい」「理系っぽい」と呼ぶことが珍しくないほどに、文系・理系という言葉は日本人にとって身近な言葉である。他方で、学術界や産業界では文系と理系を区別するのは古いだとか無意味だとかという論調が最近は目立ってきた。京大では学内組織「学際融合教育研究推進センター」や「文理融合・異分野融合による知識の養成」をうたう大学院「総合生存学館」が、学問が細分化する時代に文理の壁を乗り越えようとしているようである。本書は著者の専門である科学史の文脈に沿って、文系と理系の学問の成立とその分化の過程、その隔たりの大きさを教えてくれる。そして、ただ「分かれた」理由を解説するに留まらない。これからの学際化の時代に文系と理系をどう捉えるのか。方法論などの学術的差異だけでなく、産業界での扱いや、文理の適性と性差の関連にも触れながら社会の構成要素としての科学との向き合い方について論じる。

本書では、海外で生まれた学問を自然科学、人文科学、社会科学に大別し、それらが日本に輸入され、文系・理系に分類されてゆく過程を解説している。明治初期に大学が設置され、近代化に向けて学術知識の輸入が本格的に始まる。その過程で学問の分化を日本人は認識してゆき、「文」と「理」という捉え方が定着してゆく。ただし、一般的な呼び方としての文系と理系の分化が進められた一番の要因は官僚養成と中等教育ではないか、と筆者は推測している。遅れて始まった近代化という時代に影響された日本の大学の特徴として、専門官僚の養成を重視していた点が挙げられる。文系の法学部(社会科学)の卒業生は司法官僚になり、理系の卒業生は技術官僚に登用された。それぞれの学部に入学するために中等教育では文系と理系にクラスが分けられた。国家が求めた官僚の二つのタイプが文系と理系の分化を促したと言えるかもしれない。ただし、大正末期・昭和に入ると法学部は国家の意向に背く思想を生みかねないとして政府に警戒され始める。一方で理工系重視の政策は戦中から現在まで続いており、人文・社会科学系の学生と研究者の割合は外国に比べて少なくなっている。この現状に対し、日本において「目先の目標のため批判勢力が封じ込められてきた」歴史とつながっているのではないかと筆者は問いかける。現在も続く国家の政治的・経済的干渉が文系と理系の壁になり続けていくのかもしれない。

しかし、文系と理系という枠組みは永遠には続かないだろうと筆者は言う。ただし、その壁がなくなるのではなく、呼び方が変わったり更に細かな分類がなされたりするだろうと予想している。1959年に発表されたスノウ『二つの文化と科学革命』では「科学的文化」と「人文的文化」の隔絶が強調された。厳密な分類ではないが役立つ理系と役立たない文系という対立構図の印象が欧米でも強まりつつあった。しかし現在では自然科学と人文科学、社会科学の一部分野には多元論的解釈などの共通点もあると著者は紹介する。小説家の円城塔氏が弊紙企画の講演「アンドロイドは二つの文化の夢を見るか」において、スノウが科学と非科学に分けたのはそれが当時に一番目立つものであって、それが現在では情報に対する感受性に当たるのではないか、と指摘している。科学革命の次に情報革命が起こっているのではないかとのことであった。

著者も情報技術の発展が科学に与える影響には注目しているが未知数だという。現在すでに起こり始めている変化としては、一般市民を含めた多分野の協働の増加を挙げている。初めに挙げた京大の例も含まれるだろう。多様な知見を取り入れることで課題解決を図ったり、多様なデータ収集を可能にして新たな知見を獲得したりするのだ。そして、情報技術の発展により協働するコミュニティが巨大化し、個々人がその一部となる時、私たちに何ができるのか。文系の人も理系の人も考えてゆかねばならない。「違いが活かせてこそ、補うことができる」と著者は言う。本書はその第一歩になるだろう。(海)

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