文化

<講演録>いま、 ジャーナリズムが おもしろい 浅野健一氏が講演

2017.05.16

京都大学新聞社は4月19日、浅野健一氏を講師に迎えて吉田南構内で講演会を開催した。浅野氏は、自身の経験からマスメディアの抱える問題やジャーナリズムのあるべき姿を語った。紙面では、講演会の一部をお伝えする。(編集部)

浅野健一氏プロフィール

アカデミック・ジャーナリスト。1972年、慶応義塾大学経済学部卒業後、共同通信社に入社。編集局社会部、千葉支局などを経て、89年から92年までジャカルタ支局長。帰国後、外信部デスク。94年4月から同志社大学大学院メディア学専攻教授(大阪高裁で地位係争中:本文参照)。2002~03年まで、英ウエストミンスター大学客員研究員。著書に『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『安倍政権・言論弾圧の犯罪』(社会評論社)、『記者クラブ解体新書』(現代人文社)など多数。

アカデミック・ジャーリストとは

私はメディアで22年、大学で20年勤務し、最近はフリーで3年、ずっとジャーナリズムに関わってきました。私の肩書きは「アカデミック・ジャーナリスト」です。耳慣れない言葉だと思いますが、この職種がないのは日本だけです。ソウル、ジャカルタ、キャンベラ、オタワ、コペンハーゲン、どこでもアカデミック・ジャーナリストがいます。これはジャーナリスト活動をしながら、大学で教えている人を指す言葉です。たとえば、英国のBBCで番組を作っていて、かつロンドン大学のジャーナリズム学部で教えている人がこれにあたります。たいていの国には、ジャーナリズム学校や大学のジャーナリズム学科があります。でも、京大にジャーナリズム論を教えている先生はいません。日本には、博士課程まであるジャーナリズムコースを持っている大学は、日大、上智、同志社だけです。立命館や関大にもありますが、みんな社会学の課程の一部にあります。アメリカの大学には、Department of Journalism and Communication Studiesという名前で250の大学にあります。平壌の金日成総合大学にも新聞放送学科があります。

メディア学やジャーナリズム学を学問と認めるかどうかに認識の違いはある。でも、新聞やテレビ、雑誌、インターネット、携帯も含め、現代社会において、メディアが最も人々の意識を規定しているのではないでしょうか。今の社会というのは、情報を握っている人たちが政治でも経済でも文化でも力を握っている気がします。だからジャーナリズムのあり方をみんなが真剣に考え、学問の対象とするのは、私は当然だと思います。メディアを対象にするのがくだらないというなら、ではどうして大学で建築学や機械工学を扱っているのか、そんなの別に大学でやらなくても企業の研究所で良いんじゃないかという話になるでしょう。

私は日本で稀有なアカデミック・ジャーナリストとして同志社で教えてきました。ゼミの学生たちと一緒に現場を歩き、いま何が一番重要かを考えていました。その結果、3年前に解雇されて今、地位確認の裁判をしています。同志社では65歳が定年ですが、大学院教授だけは定年が70歳まで自動的に延長される制度があり、ほとんどの大学院教授は特に審議されることもなく、70歳まで教壇に立つことができました。しかし、私は65歳で定年を迎えた時に、専攻の後輩の同僚4人が教授として不適格と判断し、教授会も追認して、たった2週間で解雇されました。3年生のゼミは全て強制解散になり、インドネシアから留学してきた国立ガジャマダ大学助教の博士後期の学生も、東電福島原発事件とジャーナリズムを研究していた院生、修士課程の5人も、みんな指導教員を失うことになったのです。ロシアから国費留学生を受け入れることも決まっていたのですが、みんな路頭に迷ってしまいました。特にインドネシア人留学生は、せっかく日本に留学したのに、指導教授がいなくなって博士号を取れなくなったということで、最近、母国での教員資格を剥奪された。それでも同志社大学は知らん顔です。とんでもない大学です。

ジャーナリズムのあるべき姿

ジャーナリストにいちばん求められるのは権力に懐疑的な姿勢です。私が尊敬する学者の中の一人・東大の高橋哲哉教授が、ジャーナリズムの語源に「diur(jour)」(「日々の記録」と「光」という意味)という言葉があると言っていました。ジャーナリズムは光を当てるのだということです。高給をもらって自分だけよければいい、そういう人はジャーナリストに向いていません。社会的弱者、少数者、虐げられる側の人たちの声に耳を傾けて代弁者になること、歴史を理解した上で現実にぶつかり、自分として今起きていることを正確に伝え、かつ今後どうしていくべきかを人民に示していくことが重要です。研究者も同じだと思います。違うのは、研究者はじっくり仕事ができる、ジャーナリストは目の前に起きていることを瞬時に伝えていかなければならないという点です。アカデミズムとジャーナリズムの両方がしっかりすることが大事なのです。

犯罪報道のここがおかしい

日本のマスメディアには多くの問題がありますが、とりわけ問題なのが刑事事件での報道です。捜査段階で犯人探しをしてしまっています。メディアは司法の民主化に向けて市民を啓蒙すべきなのに、捜査当局と一体となって、権力に囚われた市民をいじめているのです。

日本のマスメディアは、ある人が警察や検察の捜査当局に逮捕されて被疑者(マスメディア用語では容疑者)になると、その人の姓名、住所、年齢、職業、学歴、顔写真といった個人情報を報道します。市民が当局に身柄を拘束された場合や強制捜索を受けた場合も実名を報道します。例外は被疑者が20歳未満の少年である場合と、精神障害患者の場合に限られていて、事件の被害者も原則として実名報道です。瓦版からの伝統で、お上にしょっぴかれた人間は悪人だという封建的な考え方が、戦後の憲法の下でもそのまま存続しているのです。

犯罪報道の被害者、小野悦男さんについて話します。彼は12人の女性を殺したとして逮捕されたのですが、起訴されたのは1件だけで、結局13年後に無罪が確定しました。私がこの人と「出会った」のは記者になって3年目、1974年の夏です。小野さんは、74年の6月から8月にかけて起きた連続女性殺害放火事件の「犯人」に、メディアによってでっち上げられました。メディアは、小野さんの家族にまで執拗かつ悪質な取材を繰り返しました。しかし、結局91年に東京高裁で出た判決は無罪でした。私は共同通信千葉支局の記者としてこの事件を報道する立場でした。この事件が人生を変えました。この事件の取材と報道からメディアのおかしさを強く感じ、刑事事件と報道の関係を問題にするようになりました。警察に捕まった人がすべて悪者ではないでしょう。被疑者というのは英語で「suspect」です。警察権力から疑われているだけで、公開の裁判で有罪確定するまでは犯人として扱うべきではないという単純なことを、会社の中で言い始めました。というのも、この事件は小野さんが犯人ではなかったからです。自分は最初、警察の発表やリークを鵜呑みにして「彼は12人を殺した」と書いたんですよ。実際は警察が間違えていたわけです。「警察が間違えたのならしょうがない」というのが日本の報道機関です。

朝鮮に関する報道の問題点

話題を変えて、サッカーの話をします。2005年、日本対朝鮮民主主義人民共和国の試合がバンコクでありました。この試合は「第三国・無観客試合」でした。競技場へ入れるのは選手の家族、記者、大使館の関係者だけでした。本来なら平壌の金日成総合運動場で行われるはずだったのですが、その前のイラン戦で朝鮮のサポーターが騒動を起こしたためペナルティが課されていました。

ここでまず注目してほしいのは、朝鮮の呼び方です。国際サッカー連盟(FIFA)では、「DPR KOREA」と呼んでいる。世界中で、朝鮮のことを「北朝鮮」や「北」と呼んでいるのは日本の政府とマスメディアだけです。北朝鮮という国は存在しません。朝鮮民主主義人民共和国をどんなに短くしても、北朝鮮にならないでしょ。国連でも朝鮮代表の席には「DPR KOREA」と書いてあります。02年まではNHKも朝日新聞も「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」と表記していました。正式の国名が消えたのは朝鮮が日本人の拉致を公式に認めてからです。国の名前を勝手に変えてはいけない。そのとき朝鮮が日本に対して「島国日本」や「倭の国」と呼んだ。それに対しては、日本は抗議しているのに(笑)。

それに、この試合は無観客試合ということで、スタンドに誰もいないと思いきや、数えたら約1000人がいました。このとき、日本のサポーターは競技場内に入れず、競技場の外で数十人が応援していたという嘘の報道がありました。実際にはどうだったかを書いたのは、私とサンデー毎日だけです。テレ朝とNHKが中継したのですが、観客の歓声を全部消して放送したのです。この試合で日本が本大会出場を決めたので、試合終了の瞬間、3万5000人収容の競技場内にいた日本人約800人の大多数が大歓声をあげて祝福したのに、マスメディアはその事実をほとんど伝えませんでした。歓声を消して最後まで中継して、競技場の外やホテルで応援している映像を流していたのです。

福島原発事件で、3・11の夕方にメルトダウンが始まり、3日後には完全にメルトダウンしていことをマスメディアは知っていました。東京電力が公開している、東電本社と福島現地とのやりとりを映した動画を見てください。「「メルトダウン」はまだ政府が発表してないから我々も使えない」と東電幹部が叫んでいます。福島やサッカーだけではなくて、みなさんが日々接しているマスメディアが、ひょっとしたらこのように嘘をついているかもしれないと肝に銘じてください。

マスメディアを変える必要性

最近私は森友・アッキード疑獄を追っています。安倍晋三記念小学校事件とも呼ばれているこの事件を幕引きさせないで追及する必要があります。どうして国有地が8億円値引きされたのか。しかもこの学校は、教育勅語を教え、伊勢神宮で参拝するなど、日本会議がモデルとする戦前の日本のような学校を目指していました。校舎はほとんど完成していましたが、開校がなくなったのは、朝日新聞が8億円の値引きをスクープしたからです。その前に豊中市議の木村真さんが去年の5月くらいに安倍記念小学校を作ることを突き止めていました。首相の妻の安倍昭恵さんが名誉校長を引き受けて作ろうとしていた学校でしたから、なかなか報道されませんでした。朝日放送もずっと取材していたのに、今年2月中旬まで夕方の番組では放送できませんでした。朝日新聞に続いてメディアが報じ、民進党など野党が国会で取り上げて今日に至っています。

どうしてもっと世論が追及しないのか。この日本の社会を私は変えたいと思うので、マスメディアを変えることは非常に重要だと思っています。そしてもう一つは、自分が発信していくことです。岩上安身さんが主宰するインディペンデント・ウェブ・ジャーナル(IWJ)のようにいろんな人たちが発信していくことと、既存のマスメディアを変えていくことの2つが必要です。みなさんには、テレビ、新聞から情報を仕入れた上で、ネットからも情報を取るなどして、最終的には自分で判断する力をつけてほしいと思います。

質疑応答

――ジャーナリストは基本的に科学に対しての知見があまりないように思います。法律や経済については勉強しても科学に関しては詳しくない。それがプレスリリースを鵜呑みにしていい加減な報道を出すことにつながっているように思います。

言われることはわかりますが、企業メディアの記者は、実は法学、経済学もちゃんと学んでいません。医学や科学のニュースは専門ではないからと言いますけど、ジャーナリストはなんでも扱わないといけないので、取り扱うニュースが自分の専門分野であることはほとんどない。そこはアカデミックな専門家とは違います。ただ、英国の新聞なんかを見ると、わからないところはわからないと平気で書いています。日本ではわかったつもりで書いている。科学、医学のことは専門外だからよくわからないという甘えがあるのは間違いないですね。記者は日々勉強してできるだけ正確な報道を心掛けることです。

――ジャーナリストは新聞やテレビから発信するわけですが、最近はツイッターなどのSNSを通して情報を仕入れるという現象が起きています。これからなおさら匿名の人が情報を提供したりとか、責任の所在がわからない状態で情報が発信されることが増えると思いますが、その場合、ジャーナリスト、ジャーナリズムはどういう役割を果たしていくべきですか。

SNSなどで怪しい情報が流れる時代だからこそ、職業としてのジャーナリストが大事です。今は確かに、街を歩いている人が写真を撮って発信できる。しかし、それは単に写っているものを流しているだけですから、その意味とかまで考察できない。だからこそ、浅野健一が安倍晋三記念小学校の建設現場の前に立って考えて書いたことを読みたいといったように、ジャーナリストの書いた記事を、お金を払ってでも求める人がいます。今、米国のNYタイムズは、6割の収入をネットから得ています。つまり、NYタイムズがどうトランプ政権について書いている記事を、お金をかけても読みたい人たちが世界中にいる。あるいは、自民党の議員や反動文化人が「沖縄の新聞をつぶせ」という暴言を吐いた後、琉球新報を購読している本土の人が500人くらい増えました。ツイッターなどはあくまで道具であって、ジャーナリズムではない。排外主義がはびこり、戦争の危機が迫る時代だからこそ、ジャーナリストがしっかりしなければいけないと思います。〈了〉

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