文化

書評 竹内敏晴『ことばが劈(ひら)かれるとき』

2014.12.01

からだとことばの関係を探る

聴覚と言語に障害がある演出家、竹内敏晴をご存知だろうか。本書は、前半が氏の半生について、後半は氏が編み出した個性的な演劇教室について著されている。

竹内敏晴は、十代の前半、ほとんど耳が聞こえず、ことばも話せなかった。一六歳からしだいに聞こえ始め、努力してことばを話すことを身につける。旧制高校から東大文学部を経て、他者との「真のふれあい」を求めて芝居の世界に入る。そして、四〇代半ばに竹内演劇教室を始める。

竹内演劇教室は、一般的な教室のように俳優の養成ではなく、演技レッスンを通じて「人間の可能性を劈く」ことを目的としている。だからレッスンには、大学生やサラリーマンなど俳優を志さない人も参加する。

人はそれぞれに歪みがあり、それがコミュニケーションに摩擦をもたらす。「その歪みの志向するものを了解し、それをつきつめ、表現にまで昂め、ある場合はそれをとりのぞき、ぬけ出す手助けをする」。人にいい顔をしてしまう女子学生、カン高い声の女性、どもる青年、レッスンの場に現れるそれぞれの歪みを、からだとことばを通して解きほぐし、他者と円滑に関われるようにする様が、竹内敏晴と生徒の対話を含めて具体的に描かれる。

竹内敏晴は二〇〇九年に八四歳で亡くなったが、氏の演劇レッスンは教室の元生徒を通じて受け継がれている。その一人である、南山大学の土谷薫先生(言語聴覚士)にレッスンを受ける機会があった。十一月に吃音当事者団体である言友会の全国大会に参加したときである。

そのうち、竹内レッスンの基本であり、本書にも登場する「話しかけ」のレッスンが印象に残った。五、六人がある方向を向いて不規則に座り、三、四メートル後ろからもう一人が、そのうちのだれかを選んで「お茶飲みに行こう」などと話しかける。話しかける側は自分に話しかけられたと思ったら手をあげる。違う人だと思ったらそちらを指さす。

私は話しかける側をしたのだが、驚いたのが、話しかけられる側の敏感さだった。バラバラに目をつむって座った五人のうち、一番手前に座っているまだ話したことのないAさんに話しかけたが、横、後ろに座っていた面識のあるBさんCさんに向けて声が流れてしまった。すると、AさんBさんCさんとも、声が流れたことをぴったり言い当てた。

「音は、科学的にいえば空気の振動」であり、「声は音としてはすべて聞こえてはいる」。「にもかかわらず、声が届かない」。「声をかける、という行為は単なる音の伝播でなく、こちらのからだがまるごと相手にぶつかってゆくような全くジカなナマな重さと熱さをもったふれ合いであることがわか」る。

普段何気なく他者に語りかけているが、実は本当に声を届かせるというのは難しいのだ。本書を読んで、語りかける、語りかけられる声について考えると、コミュニケーションについてのヒントが得られるだろう。(智)

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