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同志社大学公開講演会 大学の急増は何をもたらしたのか 竹内洋・京都大学名誉教授

2013.04.16

4月6日、同志社大学今出川キャンパス内の神学館礼拝堂にて第81回公開講演会が開かれ、竹内洋・京都大学名誉教授と田中智子・同志社大学人文科学研究所助教が講演を行った。同志社大学公開講演会は同大学の人文科学研究所が主催しており、研究成果を市民や学生へひろく公表することを目的に1977年より定期的に開催されている。

今回の講演会のテーマは「大学はこうしてつくられる―高等教育の社会史―」。講演者のうち竹内氏は「歴史にみる大学バブル」というタイトルで、第一次世界大戦以降に生じた高等教育機関の急増政策とその影響について語った。

竹内氏によれば、第一次世界大戦前後から現在まで高等教育機関の「バブル」が4回あったという。1回目の「バブル」は第一次世界対戦から第二次世界大戦までの戦間期。大戦前には卒業後に就職先が見つからない「学士就職難」問題や経済的に豊かな卒業生が労働に従事せず遊んで暮らす「高等遊民」問題が社会問題として取り上げられるなど、大学は供給過多気味であった。しかし、第一次世界大戦の特需による雇用の増加や市民の生活水準の向上に伴い大学進学者が急増し、一気に大学の大衆化がすすんでいく。この頃に大学に対する需要は西洋学問の輸入・研究という社会的需要から大衆の進学需要へと変質したという。

2回目の「バブル」は新制大学が発足する1950年前後。48校だった大学が201校に急増し、新しく設置された大学は「駅弁大学」、大学新設に伴い増加した師範学校あがりの大学教授は「三等教授」と揶揄された。さらに当時、大量に採用された「三等教授」の低い授業水準に対する不満は60年代末の大学紛争の原因の1つになったという。

3回目の「バブル」は1960年代。高度経済成長期による所得上昇と進学需要の高まりにくわえ、文部省(当時)が私立大学の新設や定員について規制緩和をすすめたこともあり、空前の大学バブルとなった。65年に32万人だった大学入学者は70年には59万人に増加し、一部の私立大学では収入を増やすため学生を定員以上入学させ、大講義室に学生を詰め込み講義する「マンモス授業」が横行していたという。

4回目の「バブル」は大学院が重点化される1990年以降。90年に10万人だった院生は2009年には26万人に増加したが、大学院卒業後に就職先が見つからない博士浪人や司法試験の合格率が極端に低いロースクールなど、多くの問題を抱えることとなった。この背景には、大学院の定員を満たさなければ予算が下りないという文科省の政策が招いた悪循環があったという。

竹内氏は最後に、現在の大学生が「生徒」化していると述べ、高等教育の現状を改善するために英仏に習って学部を3年制にし語学教育などを重視し、大学院修士課程で専門教育を行うべきだと話した。また、最近の高等教育過剰論に対しても、日本の大学進学率はEU平均と同等で決して高くはなく、設置認可に対する規制を厳しくした上で大学の数を増やしていくべきだと述べ、講演を締めくくった。

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