インタビュー

小出裕章 京大原子炉実験所助教「科学者の「願望」だけで事実は決まらない」

2012.01.24

骨組みだけになった原子炉建屋を臨時ネット配信していたNHKニュースで観た瞬間「とんでもない事が起こってしまった…」と絶句したことが未だに記憶に焼き付いている。東日本大震災と並ぶ昨年の重大事だった福島第一原子力発電所の事故から早くも11ヶ月が経過した。わたし自身正直に告白すると事故の発生まで原発の問題には無関心で、小出氏の存在を知ったのも事故後である。付け焼き刃の知識ではあるが、原発をめぐる諸問題について先駆者の考えを聞くべく熊取の研究室を訪ねてみた(インタビューは昨年12月27日に実施)。聞き手:(魚)

こいで・ひろあき
東京都出身。1974年、東北大学大学院工学研究科修士課程(原子核工学)修了。現在、京都大学原子炉実験所(大阪府泉南郡熊取町)助教。
早くから原子力利用の危険性を訴え続けており、今中哲二・同実験所助教らとともに、「熊取六人衆」と称される。過去、伊方原発(愛媛県)訴訟住民側参考人、チェルノブイリ原発事故の汚染調査などの活動に携わり、2011年に発生した福島第一原発事故についても多数のメディア上で発言・警告を行なっている。著書に『放射能汚染の現実を超えて』(河出書房新社)、『原発のウソ』(扶桑社新書)、『原発はいらない』(幻冬舎ルネッサンス新書)など。

事故発生から10ヶ月、福島の現状は

-福島第一原子力発電所の事故から10ヶ月近くが経過し、政府が「冷温停止状態になり事故は収束に向かっている」と発表(12月16日)しました。また、一般報道でも原発がどうなっているのかということはあまり話題にされなくなり、世間でも収束に向かっているのではないかというイメージがあると思われます。しかし、実際の現状はどうなのでしょうか。



収束などという状態では全然ない、と私は思います。いつ収束するのかを答えようにも、どうやれば収束するのか分かりません。

原子力などというものに手を染めてしまって、もう70年近くになります。最初の原子炉は1942年にアメリカ合州国のシカゴ大学で動き出しました。それ以降、たくさんの原子炉が動くようになり、今現在430基くらいが世界中で動いています。過去にはたくさんの事故がありましたし、悲惨な被害もありましたが、福島で起こったこんな事故は初めてです。福島第一原発で4基の原子炉が一斉に壊れ現在どうなっているのか、はっきりわからない状況にあります。

例えば事故を起こしているのがどこかの町工場、あるいは火力発電所というのであれば、簡単なことです。現場に行けばいいのです。どこがどんなふうに壊れているのかを目で見て、手で触って、調べて直せばいい。ですが原子力発電所の事故の場合には現場に行くことさえできません。原子力を推進してきた人たちは、こんな事故が起こることを想像もしていなかったわけで、「想定外」などと言って、今逃げようとしているわけです。想定をしていなかったから、どういう事態に進行しているのかを知るための計測器すらなく、、曲がりなりにも設置していた計測器は事故でみんな壊れてしまいました。これでは正確な情報は把握できません。どうやら原子炉は溶けてしまったようだ、とようやく東京電力・国が認めましたが、溶けてしまった原子炉がどこにあるのかすら分からないのです。

東京電力や国は、溶けた炉心が格納容器の床を何センチ壊し、何センチ残っているかをまことしやかに発表し、マスコミはあたかもそれが真実であるかのように報道していますが、本当のことは分からない状態です。東京電力は「計算した」と言っていますが、計算するためにはまず計算する条件を決めなければなりません。でも条件が分からない。分からない条件のもとで計算をいくらやっても、正しい答えはでません。元々計算というのは、それをやってみて現実に合っているかを確かめることによって正当性が出るわけですが、答えが確実にできないのだから本当かどうか分からない、ということになっています。

それなのに、マスコミは東京電力の計算をそのまま報道してしまっているわけですし、日本の政府は「事故は収束だ」などと言うのです。この国は根本から腐っている、と私は思います。この状況で、どうしてみんなが納得するのだろう。少なくとも、東京電力のもとで計算している人や、政治家は責任ある仕事に就いているわけじゃないですか。ものを考える力のある人たちのはずだと思いますが、実際はは全くそうとは思えない。本当に不思議な国だと思います。

安全が作り上げた「安全」の虚像

-事故直後から暫くの間、いわゆる「御用学者」と呼ばれる人たちが「安全です」などと発言し、かなり批判を浴びたということがありました。彼らも学者である以上、「本当は危険であるけれども、安全だと言わなければならない」という圧力、葛藤のようなものはあったと思います。そしてその一方で、彼ら自身の内面においても、安全であると「信じたい」、「今まで通りにしておきたい」といったような気持ちがあったかと思われるのですが…



そうだと思います。元々原子力を進めてきた人たちは、「絶対に安全だ」と言い続けてきました。それでも、色々な事故がやはり起こる。そのたびに、「ああ、しまった」と思ってきたわけです。それでも原子力を進めようとするならば、「絶対に安全だ」と言い続けるしかないのです。「安全」を口にし、決して事故など起きない、起きたとしても周辺8キロメートル以内の人たちが避難すれば済むなどと言って、彼らは原子力を推進してきたのです。

でも、1999年9月30日には茨城県東海村の核燃料加工工場JCOというところで事故が起きました。二人の労働者が本当に悲惨な死に方をしました。その経験を受けて日本の原子力安全委員会は、2000年度の安全白書の中で、「多くの原子力関係者は、原子力が絶対に安全であるなどとは思っていない」と書いたのです。私はそれを見て「いい加減にしてくれ」と思いました。原子力だけは絶対に安全だと言い続けてきたのはあなたたちの方じゃないか。でも、安全白書にはそのように書かれました。

どうしてそのような「誤った安全神話」ができてしまったのか。その理由として、いくつも挙げられています。設計に過剰な信頼を置いていたとか、過去の事故経験が風化してしまったとか、公衆に対する宣伝、いわゆるパブリック・アクセプタンスのやりやすさだとか。極めつけは、絶対的安全への「願望」だったというのです。要するに、事故が起きてほしくないという「願望」です。願望したがために、安全神話ができてしまったと彼らが書いたのです。私はそれを見たときに、それならやめるべきだ、願望などで安全を確保できる道理がない、と思いました。私だってもちろん事故は起きてほしくない。みんな「願望」してきただろうけれど、だからといって事故が起こらないとは言えない。安全委員会自身がそう書いたわけですから、それなら、もう原子力からは撤退するほかに道はない、と私は思いました。しかし、彼らはそうしなかった。いや、それでも安全だと言い続けて、ここに来てしまったのです。事故が起きた後も、原子力推進派の人たちは、なんとかひどくなってほしくない、ほどほどのところで事故が収束してほしいと「願望」していたと思います。ですからマスコミに出てきて、大したことはない、事故は収束に向かっていると発言した御用学者はたくさんいますし、この原子炉実験所内でも、事故がどんどんひどくなっているときに「事故は収束に向かっている」というようなメッセージを実験所として出そうという動きがありました。それらは全て「自分たちがやってきたことが、なんとかあまりひどくなってほしくない、という願望」に基づいているのです。何度も言いますが、もちろん、私もそう願っています。でもしかし、「願望」で事実は決まらない。少なくとも科学の場にいる人間としては事実が一番大切なわけですから、願望などに依拠する限りは科学とはいえません。残念ながら事実は冷徹に進行してしまいました。それだからこそ、原子力を推進してきた人たちに、「せめて今のこの事態を直視して、考えてみてほしい」と私は求めたい。

-日本の原子力に関連する学会などを見ると、小出先生や、同じ原子炉実験所の今中哲二先生のようないわゆる反原発論者の方はほとんどおらず、原発を推進する側に立っている学者が多数を占めているような気がします。このような構造はなぜ生まれたのでしょうか。



学者や原子力の専門家というと、誰もが人格高潔で、ちゃんと世界のことを考えることのできる頭のいい人たちであると思われるのかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。皆さんは京都大学の学生です。嫌な言い方をすると「エリート」です。でも、皆さんの周りを見て、そう感じますか。京都大学の場合はまた違うのかもしれないけれども、皆少しでもいい大学、いい企業に行って、少しでも高い給料をもらって、いいポストに就いて、「末は博士か大臣か」というような中で大学の選択をしてきた。もちろん例外はあると思いますが、多くの京大生は上昇志向の強い人たちであると思います。

例えば日本の場合、国家が原子力を推進する旗をあげ、電力会社がそれに従い、さらに日立・東芝・三菱のような日本産業の屋台骨を背負う企業がそこから利益を得ようとしてきた。その周りにも土建屋さん、中小企業などが山ほど群がって、原子力をやると決めた。膨大な資金を彼らは動かせるわけで、政治の場、マスコミの場にも金をばら撒く、というように、全部を抱き込んでここまで来ている。そうなってしまえば、いわゆる学者なんて抵抗できる道理がない。

官僚組織というのは元々国にしたがうものなのですが、大学という組織だって、結局はそういう流れに組み込まれているのです。そして、ほとんどの人がそっちへ行こうとする。それは当たり前のことだと私は思いますし、ほとんどの国でもそうだと思います。

でも、そうでない人間もいるわけです。原子力を牽引してきたのは元々ヨーロッパ・米国ですが、米国などは70年代の初め―スリーマイル原発事故以前―から、たくさんの学者が「原子力は危ない」と声をあげました。そのために職を失った人だっています。福島の原発はGE(ジェネラル・エレクトリック)という米国巨大電機メーカーが作ったものですが、そこの技術者三人が「GEの原発は危険だ」「こんなものを進めることは自分たちにはできない」という声明を出してGEを退社する、ということさえありました。日本は何十年も遅れていて、今でも私や今中さんのようなのが少数いるだけです。米国ではこのような闘いがとうの昔に済んでいるのです。

-日本の会社が、海外でまた新たに原発を作るとの報道(12月22日)がありますが…



ウェスチングのことですね。たしかに今は、あそこは東芝の子会社となっています。でも、東芝が作るわけではありません。東芝というのは元々、GEの下請けをしていました。今事故を起こしている福島第一原子力発電所の2号機も、東芝がGEから手取り足取りを教えてもらって作った原子炉です。要するに東芝というのは、沸騰水型という形の原子力発電所を教えてもらい、それで金儲けをしてきた会社です。でも、世界的な流れでは、沸騰水型は少数派になってしまっていて、もう戦えない。そこで、東芝はもの凄い奇策に出た。つまり、加圧水型という形の原子力発電所を作ってきた米国のウェスチングハウスを、金で丸呑みしたのです。だから今作っているAP1000も、元々はウェスチングが作ったもので、東芝はそもそも加圧水型原子炉のことなんて何も知らないのです。ただ金で丸呑みしただけで「東芝の子会社が作った」と言っていますが、実際にはウェスチングの技術です。

それも、実現できるかどうか分からないと私は思っています。認可が下りることはあるのかもしれませんが、下りたにしても途中でやめてしまう可能性も十分あります。

「平和利用」への異議

-日本は半世紀以上に渡り、国策として原子力発電を推進してきました。国には国の意図があるとしても、国民・社会の側からそれに反発するような動きは、今回の福島での事故以前にはほとんど見られず、スリーマイル・チェルノブイリでの事故があった80年代に入るまではそもそも運動としても、原発立地をめぐる住民運動以外は皆無だったように思われます。一方で核の軍事利用をめぐる反核運動については、50年代の時点でかなり活発に行われてきました。このように社会の側が、軍事利用/平和利用を別物としてとらえ、平和利用を受け入れようとしてきたメンタリティは、なぜ生じたのでしょうか。



私自身、「核の軍事利用は悪いものだが、原子力の平和利用は是非ともやるべきだ」と思って、この場に足を突っ込んでしまった人間です。それは私自身の愚かさでもありました。日本の歴史という巨大な流れを作っていく巨大な「国家」は、核の軍事利用と原子力の平和利用は違うものだという宣伝を、一貫して流し続けてきました。私は自らの愚かさゆえに、その嘘を見抜けないままこうなってしまったわけですし、ほとんどの日本人は未だにその嘘に騙され続けているのだと思います。

広島・長崎の被爆者の人たちも、核兵器反対運動は先頭に立って担うけれども、むしろ原子力の平和利用はやるべきだ、という発言をしてきました。最近になって、ようやく「そうではない」という人たちも出てきてはいますが、「核と原子力は違う」という考えが日本には強烈に根付いているのだと思います。

-政府のみならず、かつては「反体制」に括られるようなマルクス主義においても「科学の進歩」という観点から、平和利用を肯定していたそうですが…



その通りです。マルクス主義というのは生産力の発展によって共産主義が達成できるという考えに基づくものですから、やはり生産力をどんどん巨大化させていくべきだというのが根底にあったのだろうと思います。そうなると、核でも何でもいい、と。自分たちが認めるものであれば何でもいい、そういう立場に立っていたのでしょう。日本共産党という党は、今でこそ原子力に反対すると言ってくれているのだと思いますが、元々は原子力発電推進の側でした。「今の原子力発電は、支配者のための発電になっているから反対」と言うだけで、原子力そのものについては推進派だったのです。私自身は、気がついた時から「原子力は核と一体」、「原子力の平和利用というものはありえない」という考えから原子力に反対してきました。そういう意味でいえば、私の考えは元から日本共産党のものと違うし、広島・長崎で核兵器反対運動をやっている人たちに対しても、ずっと異議を持ち続けて行動してきました。

福島に残る人々といかにして向き合うか

-今回、このような事故のために避難生活などを余儀なくされたり、あるいは自らの意志で土地を離れることを決断した人が大勢います。他方で、「福島の農産物は食べてはいけない」「そんなものを作る農家はどうかしている」というような「批判」をする方がいます。農作物の中に危険なものがあるというのは事実として正しいのかもしれませんが、それが現地の人に対するバッシングに転化していることは否めず、疑問を覚えてしまいます。私たちは、福島現地の人々にどのように向き合っていくべきなのでしょうか。



日本という国は「法治国家」だと言われます。法律を破った者は処罰する。だから日本の一般の人々は、国家の法律に守られて安全だ、と言うわけです。

放射線関連の法律も、日本にはたくさん存在します。私は元々法律なんて嫌いだから、あまり読むことはありませんが、こういうところにいる以上放射線関連の法律には私自身も縛られているので、法律を読むことは時々あります。例えば「日本に住む人は、一年間に1ミリシーベルト以上の被曝をしてはいけないし、させてはいけない」という法律があります。でも私は京都大学原子炉実験所で働いて給料をもらっていますから、少しくらい被曝は我慢しろと言われる立場です。「放射線業務従事者」というレッテルのもと、一年間で皆さんの20倍となる20ミリシーベルトまでは仕方がない、と法律で定められているのです。私はそれを自分でも受け入れ、仕事をしてきました。でも、私が1ミリシーベルトを超えて被曝することは仕方ないけれども、普通の人が1ミリシーベルトを超えて被曝するようなことはあってはならない、させてはならないと思いながらやってきました。放射線管理区域というところは、普通の人は入ることができません。私のような「放射線業務従事者」だけが放射線管理区域の中に入れるわけですが、入ってしまったら水は飲めない、ものを食べてはいけない、煙草を吸ってはいけない、寝てはいけない、子どもなどを連れ込んではいけない、仕事が終わったらさっさと逃げて来い、という場所です。

そこから出る時も、放射能の汚染検査を受けなければ出てはいけない。管理区域の中で仕事をしたので、手や実験着、持ち込んだ実験器具が汚れているかもしれない。そういうものを外に持ちだすと、普通の人に被曝をさせてしまう可能性があるので、必ず出口で検査をしろと言っているわけです。もし実験着、実験道具が汚染されていれば捨てて来い。手が汚れていれば、洗ってとにかく落とせ。水で洗って落ちないならお湯で洗え、お湯で洗って落ちなければ石鹸をつけて洗え、石鹸で落ちないなら、多少皮膚がボロボロになることくらい諦めて薬品で落としてこい、と。そうでなければ管理区域の外側に出てはいけない、という法律があるのです。その法律の基準値は1平方メートルあたり4万ベクレルです。それを超えているようなものは、どんなものでも管理区域の外側に持ちだしてはいけない、というのが日本の法律でした。私はそれを守ってきたつもりです。もしそれを守らず、放射線管理区域から持ちだして、みなさんを被曝させるということになれば、私は日本の法律によって処罰されたはずです。それが法治国家というものですよね。

でも今回の事故で、日本の国家は法律を全て反故にしてしまいました。福島県を中心に、関東地方・東北地方のかなり広範な部分が、1平方メートルあたり4万ベクレルを超える放射能により大地が汚れています。そんなところに、普通の人は本来入ってはいけないのです。そんなところで子どもなど産んではいけないし、育ててもいけない。日本の法律を適用すればそれが当たり前なのに、日本の国家でもうそんなことができない、逃げたい人は勝手に逃げなさい、国は知らない、何の保障もしないと言い出しました。1年間に20ミリシーベルトを超えるようなところは、さすがに私だって行けません。人を住まわせることなんてできませんので、避難させています。でもそれ以外のところでは、たとえ19.9ミリシーベルト被曝するようなところであっても、逃げたい人は逃げ、住む人はそこに住めと言い出した。本当にひどい国だと思います。日本は法治国家だなんてありえない、ということをみなさんがちゃんと知るべきです。

そして、国家が助けてくれないのですから、人々は逃げられません。よほど力のある人は、仕事でも何でも捨てて逃げられるでしょう。でも、ほとんどの人は逃げられないのです。そこで生活するしかない。本当は、そんなことはあってはならない。普通の人は1ミリシーベルト以上被曝してはならないと国が決めたのだから、その法律を国が守って全ての人を避難させるべきだと思います。何百万人にものぼるでしょう。それによって、大変悲惨なことが起きるかもしれません。しかし、被曝というものは必ず危険であると分かっている以上は、避難させるべきです。

でも、できない。その上取り残されて、そこで農業をやっている人だっているし、酪農業をやっている人だっているのです。そうすれば必ず汚染された食べ物が出てきます。それはどうにも避けられないのです。もし一般の人たちが、「放射能が怖い」というそのことだけに考えを奪われ、「福島県産のものは嫌だ」と言うならば、福島県の一次産業、そして、それに従事している人たちの生活が崩壊します。

私が今やりたいことは二つです。まず、子どもを被曝から守ること、そして一次産業を守ることです。子どもを被曝から守るというのは当たり前のことです。私はもう60歳を過ぎましたが、私なんかに比べたら子どもは何百倍、下手をすれば千倍も放射線の感受性が高いわけです。ですから子どもに被曝をさせてはいけないし、ましてや子どもというのは、原子力を許してきたことに責任がない。学生のみなさんだって、こんな日本を作ってきたことにそれほど大きな責任があるとは思いませんが、私たちのような世代は今の日本を作ってきたわけだから、今回の原子力事故に対しても、放射能に汚染された食べ物が出てくるということに対しても、責任があると思います。多くの日本人は、旗を振ってきた国家に自分たちが騙されたと言うかもしれないけれども、騙された側には騙されたことに責任があると私は思います。ですから、大人は全て責任がある。そして汚染食料が出てくるというのが避けられない以上、残っている選択は、どうやって分配するかということしかありません。そうなれば、責任のない人たちには汚染食品を押し付けないで、責任のある者が引き受けるという選択しか取りようがないと思います。だから、汚染されたものを汚染の強いものから順に仕分けしていく。映画に「18禁」というものがありますよね。18歳未満の人は見てはいけないというものです。それを食品に適用して、「60禁の食べ物」「50禁の食べ物」というふうに仕分けをしていくべきだと考えています。そして、放射線の影響を受けやすい子どもたちは汚染の少ないものを食べ、年寄りが汚染度の高いものを引き受けるしかない、というのが私の主張です。

みんな放射能に汚染されたものは食べたくないし、私だって食べたくも、食べさせたくもありません。とうぜん、私がとんでもないことを言っていると言うひとたちがいます。、放射能に汚染されたものを食べたくない、とそのことだけを考える人たちから私は散々怒られてきました。その人たちはは、「放射能で汚れたものは全部東京電力に買い取らせろ」と言っています。そういう考えは出てくるかもしれません。でも、東京電力に買い取らせても、、それらは捨てられるんです。捨てられることが分かっている農産物・酪農製品を、農民や酪農業者は作れない。そんなことをすれば、やはり一次産業は崩壊してしまいます。
日本の国が、人々を避難させずそこに住まわせている地域があり、そこで人々は生きるために農業や酪農をしているのです。私は避難させるべきだ主張していますが、そこに住んでいる人々がいる限り、作ってくれるものをどうやって私たちが分配するのか考えるほかはないと思うのです。

今、年の順に汚染食品を引き受るべき、と言いましたが、それは「責任」という尺度に基づいています。これについていえば、東京電力、日本の国家には膨大な責任があると思っています。ですから、東京電力の社員食堂、国会の議員食堂では、猛烈な汚染食品を使うべきです。

子どもを被曝から守り、一次産業を守るためには、その選択しかない、と私は思います。

-今回の福島の事故後、その反応として、急速に反・原発運動が盛り上がりを見せている一方で、経済界の中に原発の再稼働を求める動きもあったり、また政府も海外に原発を輸出する協定を結ぶなどして、全く相反する事象が起こっているように思われます。この状況は今後どうなると思われますか。果たして、日本から原発をなくすことは可能なのでしょうか。



私も大変不安に思っています。例えばチェルノブイリ事故の後に、チェルノブイリから日本へ放射能が飛んできたり、ソ連・ヨーロッパの食品が猛烈な汚染を受けたときに、日本国内の原発運動は結構盛り上がったことがありました。それも、何年かするとみんななくなってしまった。なぜかというと、多くの人たちにとっては、自分たちのところに毒が飛んでくるということにしか興味がないからです。だから、毒が飛んでくるのではないかと思ったときには「嫌だ」という声をあげるけれども、毒はもう飛んでこないと言われるといつの間にか忘れてしまう。そして、日本という国はそういう「教訓」をちゃんと学んでいる。ですから、「事故はもう収束した」「汚染の基準値以上のものは出荷させないから安全だ」といった宣伝を大々的に開始しているわけですね。きっとこれで、多くの日本人はまた騙されるのではないか、と私は危惧しています。もちろん、そんなことにはなってほしくはありません。政府の基準値よりは濃度が下がっても、汚染は必ず残ります。例えば、今、政府は1キログラムあたり100ベクレルという数値を一般食品の基準値にしようとしています。お米の場合、今回の事故以前ですと、1キログラムあたり0.1ベクレル程度しか汚れていませんでした。つまり、基準値は事故前の1000倍ということになります。そ基準値以下だからといって、安全でもなんでもありません。しかし、日本の国は「安全だ」と言い続け、マスコミがそれを流し続けるということになれば、これまでの日本人が騙されてきたのと同じように、また騙されるのだろうと思います。それに伴って、脱原発運動も下火になっていくのではないか、と大変不安を感じています。

-今回の事故で初めて恐怖が現実のものになったわけですが、原発がこれまで抱え込んできた「過疎地への押し付け」、「廃棄物」、「被曝労働」といった従来的な問題についてはどうお考えですか。



私たちは今、福島第一原子力発電所の「事故」だけに目を奪われていますが、事故がなかったとしても原子力などというものは到底許すべきものではありません。元々、電気を使うのは都会の人たちなのに、原子力発電所は都会では引き受けられない、それで過疎地に建てるということをやってきました。そんなことならやめろ、と思います。事故を起こさないにしても、ウランを核分裂させれば、核分裂生成物という放射性物質ができます。それをなんとか無毒化したいと、70年間も研究を続けてきましたが、できないのです。昔から原子力は「トイレのないマンションだ」と言われてきたくらいで、自分で始末もできないゴミを生み出しておきながら続けてきたわけです。もはや尋常な神経ではない、と私は思いますし、それだけを考えてもやめるべきです。

そして、被曝労働の問題ですね。原子力発電所は電力会社のものです。では、電力会社の社員が被曝をしているのかといえば違います。社員が被曝している量なんて4%程度でしかありません。96%は下請け労働者が被曝しています。今だって、福島第一原子力発電所で事故収束にあたっているのは、恐らくほとんどが下請け労働者です。作業を始める時に名前を言って仕事するのでしょうが、被曝の限界に達し、原発から離れてしまえば、もうどこの誰なのか分からない状態です。追跡すらできない。そうやって、被曝労働が闇に葬り去られる構造はずっと昔からありましたし、今もあるし、きっと今後も続くのだろう、と私は思います。そんなものなら、事故があろうとなかろうと、やはりやめるべきです。

各自が引き受けるべき現状への「責任」

原子力の今後 市民として 学生として

-9月25日にあった上関町長選などのように、原発誘致・立地自治体の首長選挙でいわゆる推進派の人が当選すると、反原発派から批判の声があがるのが散見されます。それにとどまらず、立地先の住民までもが責められる、というのに違和感を覚えてしまいます。



そうですね。原子力発電所を受け入れさせられてしまう、という社会の構造があるわけです。東京のようなあれほど異常なほど巨大な街を作り、そこに何千万という人を集める。一方では過疎地がある。そのような国土政策そのものが間違っています。過疎地となったところには若い人がおらず、産業は衰退し、生活ができなくなってしまう。どうしようかといった時に、原子力にすがりつくしかなくなってしまう、という状況があったわけです。むしろそれを利用しながら原子力を国が進めてきたのですね。どこの自治体にしたって、本当は原子力などに頼らず生活できることを望んできたと思いますが、原子力を受け入れなければ地方そのものが成り立たない、というところで手をつけさせられてしまったのです。一度手をつけてしまえばもはや麻薬ですから、自分で逃れることはほとんどできない。上関町の町長選挙にしても、確かにこれまで原発を推進してきた人がまた町長になったけれども、彼だって原子力をやりたいわけではない。でもここまで来て、原子力まで潰れてしまったら自分たちの町はどうなってしまうのか、という思いがやはりあるわけです。ああいう地域のことを考えると、痛ましいことだと私は思います。

-首都圏、あるいは大阪・京都のような都会に住む人が原発について考えたり、反原発運動などにコミットする場合、自分たちがそのような構造における受益者の立場で生きているのを自覚していかねばならないのですね。



先程も言いましたように、責任のある者がきちんと責任を負うべきなのです。食べ物だって責任のあるものが汚染されたものを引き受けるべきですし、電気の受益をしているのであれば、本来はリスクを受ける責任があります。でも、それだけは嫌だと都会の人たちは言ってきたわけです。それで汚染食品が来るということになると、「冗談じゃない、自分たちは食べたくない」となってしまう。そうやって、自分の周りだけにしか視野が広がらないということになってしまうと、歴史の流れとしては悪い方向へ引っ張られていくことになるでしょう。

-事故が起こって以来、毎週のように他の都府県へ出向くなど、本当に多忙な日々を過ごされてきたかと思います。事故直後はどのような感じでしたか。また、生活はどのように変化したのでしょうか。



事故が起きた直後は寝る時間がありませんでした。元々私はこの原子炉実験所にいるわけで、実験所の仕事をしなければなりません。この実験所で、私にしかできない仕事があるのですね。それは昔からずっとありましたが、事故が起こるとそれは増えます。おまけにみんながこの実験所までやって来たり、あるいは話しに来いと呼んでくれたりする。マスコミなどはこちらの都合など考えず、彼らが必要だと思えば、夜でもかまわず電話をかけてきます。事故から一月の間に、5キロくらい痩せました。でも初期の戦争状態は一応のところ回避されて、寝る時間もとれるようになり、体重も元に戻りました。今はなんということはありません。

事故が起きる前から、私を各地の講演会に呼んでくれる人たちもいました。そういう人たちの求めに応えていると、一月のうち、週末の三回程度は潰れていました。でも事故以降は、10件のうち1件しか引き受けなくても、週末全部がなくなってしまいました。それほど忙しくなりました。

でも、私にとって、これは戦争なのです。寝る時間があれば十分だというくらいですね。

3月11日に事故が始まって、12日の時点ですでに爆発が起きています。私はあの時に、事故はもはや破局的に進行することは避けられないと思ったので、ネット上に発信を始めました。しかし私が流した情報が、原子炉実験所としてはいたく気に入らなかったようで、私はここの所長から呼び出されました。でも、私は「自分の言っていることは正しい」と、所長と話をしました。その時、所長のテーブルの上にメモが置いてあったのですが、それには「事故は今、収束に向かっている」と書いてあった。一体これはなんなのだ、と所長に尋ねると、所長の周辺でそういう話があったと。私が「事故は悲惨な方向に向かっている」と発信し始めた時に、原子炉実験所は「事故は収束に向かっている」というようなメモを作ろうとしていた。そういうところに遭遇したことがあります。そのメモが実験所から発信されたのかどうか私は知りませんが、当時、実験所の上層部―もちろん原子力の旗を振っている人の間では、事故は収束しているという「願望」を抱き続けたかったのだろうな、と今になって思います。

-原発をなくすとしても、技術的な研究が必要である以上、このような施設や研究といったものはなくてはなりません。しかし今日、原子力研究を志願する学生もかなり減少しています。学生の側も、原子力の「可能性のなさ」を潜在的に感じ取っているのでしょうか。



そうですよ。私が大学に入ったのは1968年です。当時は七つの旧帝国大学の全てに原子核工学科、原子力工学科のいずれかがありました。

これは自慢のように聞こえるかもしれませんが、その当時、工学部の中で原子核工学科、原子力工学科というのは花形学科でした。成績の良い学生が進んで入るような、そういう時代でした。でも時代が移って、工学部の中で最低レベルの学生さえ来ない、ということになってしまいました。

今では、七つの旧帝国大学全てにそれらの学科はありません。京都大学では大学院に「原子核工学専攻」というのが残っていますが、学部にはもうありません。それほど原子力というものに夢がないということが分かってしまった。

一人ひとりの学生が、一回しか生きられない自分の人生を賭けようとするわけですから、夢のない学問なんか選ばないのだと私は思います。

それでも、ここまで原子力をやってきてしまって、始末のできない放射性物質が目の前にある。なんとかしなければいけない。福島の原発にしても、これから何百年かかるのか分からないけれど、廃炉・閉じ込めの作業をしなければならない。そのための専門家は必ず要るのですが、そんな仕事のために人生を賭けてくれる若い人がいるのかと思うと、難しいだろうな、という気になります。

でも、事故が起きてから、京大の若い学生たちが「原子力のことを勉強したいので、話しに来てほしい」と私にも声を掛けてくれたりしています。そういう人たちが、困難な仕事ではあるけれども来てくれればいいな、という期待はしています。

-ありがとうございました。

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