文化

講演会録「語り継ぐ地球ヒバク」今中哲二

2011.05.19

先月24日、京都市左京区YWCA会館にて「チェルノブイリ25年の集い」と題する集会が開催された。同集会では、今中哲二・京都大学原子炉実験所助教を招き、講演会を行ったほか、原発反対の声明文を採択するなどした。

今回、京都大学新聞社では、その講演会の内容を講演会録として記録し、これからの原発社会のあり方について再考してもらえれば幸いである。(穣)

講師:今中哲二(いまなか・てつじ)。京都大学原子炉実験所助教。著書に『「チェルノブイリ」を見つめなおす : 20年後のメッセージ』(原子力資料情報室との編著、2006)などがある。

《本紙に写真掲載》

今中哲二 講演会

◆ はじめに ◆



皆さん、どうも沢山お集まりいただきありがとうございます。今中と申します。もう何人かの方はご存知かもしれませんが、私は京都大学の原子炉実験所というところで原子力の勉強をしている者です。さて、とにかく大変なことが起きました。3月11日の大震災と津波、そしてそれに伴う福島の原発事故ということで私自身非常にショックを受けている。かなり精神的にもまいってしまっている。そしてこれはどういうことなんだろうか。ということで、私自身の生きてきた60年間を振り返りながら、もう一度自分のやってきたことを洗い出して、その意味を問い直すというようなことをやっていかなければいけないんだろうな、という中で参りました。それで一時間半ほど時間を借りて、私の考えていることなどをお話しさせていただこうと思います。実は、この会に声をかけていただいたのは、2月の初めごろで、ですからそのころはまだのんびりしたものでして、当然20人くらいが集まりだろうから、チェルノブイリがどんなもので、チェルノブイリみたいな事故が起きたら大変なことになって町や村がなくなってしまう。そういうことをわたしはずっと調べてきた。といったことを話すはずだったんですが、それが本当に私たちに降りかかってきたというところで初めて私自身、何となくチェルノブイリの人々の気持ちもわかってきました。

それで本論のなかに入っていきますけれども、今は「チェルノブイリ25年」です。1986年4月に事故が起きたので、4月26日でちょうど25年です。そして福島の事故。これからたぶん「福島元年」になると思います。私は何回か向こうにいって、チェルノブイリの被災者なり学者さんの話を聞くのですけれど、彼らがどういう言い方をするのかというと「チェルノブイリ前・チェルノブイリ後」と。これで時代が変わった、という言い方をよくします。たぶん、私たちにとっても「福島前・福島後」の時代というのが、これから来るのだろうという風に私は思っています。でも、本当によく似ていますよね。だんだんあそこの4つの原発がチェルノブイリに似てくるんですよね。原発の壁が崩れていって。一体これはどういうことなんだろう、と思いながら見ていました。

◆ 日本国のエネルギー事情 ◆



今回の事件は、やっぱりさかのぼって考えていくべきなんだろうと思います。

日本のエネルギー需要の変遷を考えてみます。私は1950年の生まれで、この間ずっと、日本のエネルギー発電量は何倍にも増えてきた。それで今回私が何を確認しておきたいのかというと、一つ目は、私がやってきたのは、原発は危ないぞ、ダメだぞ、単にそこだけの話。実は、私は全くエネルギー政策に無関心なんです。今回の事故があった後、たとえば昨日も、どこかのテレビ屋さんからメールがありました。これからの原発の行く末を考えると、日本のエネルギー政策が問題になるから「今中先生テレビに出て議論してもらえませんか」と言われているんです。けれども、エネルギーの専門家がいますし、彼らに意見を仰いでください、と言っています。

私は広島生まれなので、1950年代の広島市内を見てきました。たぶん今日は年配の方々が沢山いらっしゃるから分かると思うんですけれど、街中にコンクリート建造物なんかなかったんですよね。路地があって、木造の平屋か2階があって、子供たちの遊び場は道路という中で育ってきまして、今に比べるとみんな貧しかった。当時はテレビも冷蔵庫もガスもなかった。それでもね、ノスタルジアかもしれないけれど、私は子供時代、すごく充実していた。今の子供たちよりいい子供時代を送ったという自信があります。結局この時代から言えることですけれど、必ずしも人間の幸せなんてエネルギーとは比例しないよ、ということをまず確認しておきたいです。



◆ 日本国と原子力 ◆



今回の大震災・福島事故・地震・津波・原発、これをいったいどう考えたらいいのか、私は本当に困っています。

私自身にも、歴史認識がありまして、価値観を持っています。私自身の歴史認識で述べましょう。日本国は、明治時代以来の、江戸時代の鎖国から開国して、明治以来の「富国強兵」の流れにあります。富国強兵政策、大東亜政策は失敗しましたが、高度経済成長あたりから復活してきている。僕自身が子どもの頃の話になりますけれど、東京オリンピックの辺が中学高校時代。私は1969年に大学に入学しました。この時期は一番大学がにぎやかな頃で、この3、4年間に大学にいるということはなかなか大変だった。そういう事もあり、私を含めた当時の学生は、個人的にいろいろ考えて自分自身の価値観が形成されました。私の価値観から言えば、もう1970年くらいには「物質的なものは、もう十分じゃないの」という感じがしました。だけども、基本的にはやっぱり、大量生産・大量消費の流れ―高度経済成長の流れをずっと続けていこうというのが、原子力発電を続けていく思想だと私は確信を持っています。 

原子力が「悪」かどうか、ということですが、わたしは原子力そのものが「悪」だとは思っていません。日本の原子力政策のやり方は、あまりにもひどいやり方をしてきた。原子力発電所を作るなら、東京電力なら東京湾に作りなさいよと、関西電力だったら大阪湾に作りなさいよということです。皆さんのコンセンサスを得て作るんだったら、私も原子力研究者の端くれとして反対しないと思います。だけど、今回の事件を見て、やっぱり駄目なんじゃないかと感じました。日本の支配のシステム、秩序を維持するシステム、役人から官僚から、驚いたことにメーカー、大企業、ほとんどが、特にトップがもうダメになっている。ダメになっているんじゃないかというのが見えてきて、情けないというか、悲しい思いがずっとしています。これについては、また後で詳しく述べます。
 私自身、原子力と付き合って40年間経ちました。1969年に大阪大学の原子力工学に入りまして、このころからちょうど日本の原子力発電が始まります。1970年に大阪万博がありました。あの時に日本の本格的な原発、敦賀1号から電気が通ってくる鉄塔が立って「あそこから電気が通ってきているんだな」と何となく誇らしい思いもあったのですが、どうも大学院在学中に「何か変だな」という気がしました。それはなぜというと、原発が田舎にしか作られない。私は学生だったということもあり、原発に何か思いがあるわけではなかったんですけれども、反対する人がいるのに原発が伊方や敦賀に、金なり力なりで押し付けられていく、というやり方が見えてきたんで、これはおかしいと考え始めました。その後、私は大阪大学の学部から東京工業大学の大学院に行きました。そしてそこや、就職した京都大学で、仲間達と原発について本格的に勉強を始めました。

◆ 日本国の原発事故の歴史 ◆



1979年、スリーマイルの事故が起きました。今回の事件で新聞を読んだ人なら分かると思うのですが、福島の事故で「原発安全神話」が吹き飛んだと言われますけれど、我々にとって「原子力安全神話」が完全に吹き飛んだのはこのスリーマイルの時です。1979年には、理論的に言われているような大事故が起きるぞ、という確信を持ちました。ただね、やはりそう簡単なことでは起こらないとも思っていました。しかし、1986年に本当にチェルノブイリで事故が起きました。

これはあとでも繰り返しますけれども、原発の中には運転に伴って必ず大量の放射能が蓄積される。電力会社は何重もの壁をどうのこうのと言いますが、そういうものが全く役に立たずに放射能がそのまま外にでていく最悪の状態がチェルノブイリで起きてしまった。これが過去最悪の事故。ただそれは日本から8000キロ離れたところの話ですから、我々にはあまりリアリティがなかったのですが。私どもは幸いいろいろ研究費などをいただいて、現地でどんな事故だったかを調査しました。いったん事故が起きてしまえば、単なる放射能汚染、放射線被曝の問題ではなくて、結局今回、福島の周りで起きたように、村や町がまるごと無くなってしまうという大変なことが起きます。私がそう思ったのは、チェルノブイリ事故から10年ほど経って1996年位ですかね、当時の原子力学会誌に「チェルノブイリ事故というのは史上最悪の事故だったけれども、実はその影響はたいしたことなかった」というような記事がありまして、私は原子力学会員だったのでそれを見て、「なにを、そんなバカな」と思いまして、逆に執念を燃やしてチェルノブイリに取り組んできたということがありました。それでもう1つ、日本で大きな事故が起きました。それは1999年のJCO、東海村の臨海事故。これは本当にびっくりしました。事故の規模は大きくはなかったんですけれども、起こるはずのないことが起こる、という事故が起こってしまったのです。これは青天の霹靂だったと思います。それでたぶん、きちっと物事を考えた人はこの段階で日本国の原子力開発はもう完全に間違っているというとらえ方をされたと思うんです。けれどもやっぱり、今回の福島の事故まで、私にはよく分からなかった。

◆ 日本国の原発政策 ◆



話を戻しまして、日本の原子力開発がどのように進められているのか。あれは1954年だったかな、ビキニ環礁の汚染があった年だったんです。その年に、中曽根康弘さんの音頭で、突然2億3500万円の予算がついて、原子力開発を始めろと日本政府は言ったんですが、それからいろんな法律や規則ができるんですよね。その規則の一つ「原子炉立地審査指針」の中では、二つの事故を想定しています。敷地の周辺に技術的見地から見て、最悪の場合に起こると考えられる事故、いわゆる重大事故の発生(を仮定しても周辺の公衆に放射線障害を与えない)これが一つ。まあここまではよいでしょう。で、もっとすごいのは、技術的見地からは考えられないような事故(以下、仮想事故)の発生を仮定しても周辺公衆に著しい放射線障害を与えない、これがもう一つなんです。

今現在日本国で50幾つの原発が動いていますけれども、それらは全て、この「原子炉立地審査指針」を満足しているんです。ですからどんなことが起きても大丈夫ですよ、と言っているに等しいわけです。その一方、じゃあ本当に原発で事故が起きたら、重大事故を越えるような事故が起きたらどうなるかという計算を、原発を始めるにあたって行いました。日本最初の本格的商業用原発は敦賀1号だと先ほど言いましたが、その前に東海1号というガス炉がありました。これは16万4000キロワットですが、これができたときに、電力会社の事故が起きた時の電力会社の損害賠償をどうするか、保険をどうするかという問題がありました。じゃあ、事故が起きたらどれ位の被害が出るのか計算してみましょう。結局、16万キロワットの原発でも、最悪の事態で、中にある放射能がどっと出ていくことになりますと、結局損害額1兆円、当時日本の予算が1・7兆円。当時人がひとり死んで補償金が80万円ぐらいだったと思いますけれども、そのくらいの大変な被害が出るよ、と書いています。ですから、表向きは事故が起きても原発は安全だと言いながら、裏の方ではこんなことを計算していた。「原子力損害賠償法」、これは今でも生きているんです。ですから、原発で大きな事故が起きたら電力会社や保険会社は一定額で免責になる、それで、これができた当時は50億円ですけれども、今現在は1200億円になっています。ですから、今回の東京電力としては、たぶん何兆円かの被害が出ますけれども、それは、東京電力としては原子力損害賠償法に基づけば1200億円まで、東京電力がプールした金で免責を確保して、後は国が何とかしますよという約束のもとで、日本の原発はやられてきたというわけです。

◆ 原発にひそむ影 ◆



そして、なぜそこまでして原発をやっていくのかなのです。これは、2007年、新潟日報にある記事が出たと、私の知り合いが教えてくれたんですけれど、新潟と言えば、田中角栄なんですよね。田中角栄が柏崎原発の立地に裏で絡んでいた、という噂は3、40年位前から聞いています。それで実は、村長さんが、4億円を包んで田中角栄へ1971年か1972年に持って行った、という記事が出ていました。原発を作るのに何千億の金が、裏で動いている。今現在、原子力を開発するため原子力産業に流れていく金は、いわゆる特別会計ですよ。民主党が仕分け、仕分けと言っていますけれども、だったら原発も仕分けするのかと思ったら、原発はせずに、日本の原子力予算、大体4000億から5000億円程度を大体20年位ずっと入れています。これは国家の予算、要するに税金です、あと、電力会社も毎年かなりの投資をしています。電気料金というのは、利潤が出るような仕組みで取れるようになっていますから、こういう金と電気料金とで、原子力産業がどんどん進んでいく。 

ですから、結局のところ事故を起こしたらとんでもなく危ないものを、どんなことが起きても安全です、原発ができたら地元が繁栄します、といって金と力で無理やり田舎に押し付けてきたのが日本の原子力開発だ、という風に私は思っています。  

今回の福島というのは、やっぱりこの矛盾が顕著にあらわれたものだといえます。これまで色々なことがありました、もんじゅの事故、JCOの事故もありましたし、柏崎の事故もありました。結局そういうことを反省しないまま、やってきた日本の原子力共同体に大きなツケが回ってきたんだろうというのが、私の現在の判断です。

技術的な話に少し入りますと、原発の事故というのは、2つのタイプに分けられると考えています。たとえば東京電力さんは、沸騰水型炉という原子炉の真ん中で沸騰するものを使っていて、関西電力さんは、沸騰せずに蒸気発生器というものを使って蒸気を取り出す発電方式を使っています。どんな原発だろうと、基本的に原子炉が運転すれば、その原発の炉心には放射能がたまっていく。このことは避けられません。それをどうやって閉じ込めておくのかというのが、原子力技術の課題なわけです。それで一つ目というのは、原子力の冷却に失敗する、すなわち水で冷やしているわけですけれども、その冷やすための水がなくなって原子炉の炉心が高温になってそのうち原子炉が壊れてしまうというものです。もう一つは、この原子炉の真ん中で核分裂というのが進んでいますから、これのコントロールに失敗するというものです。チェルノブイリというのは、核分裂の制御に失敗し、瞬間のうちに核暴走といって、一種の爆発・炎上をして放射能が直接出ていきました。アメリカのスリーマイル事故でも、原子炉の冷却に失敗して、中が高温になって、パイプやら、いろんな構造物が破壊されて、放射能が外へ出て行く恐れもあった。スリーマイルは、PWRタイプ(注1)の原子炉なんですけれども、炉心の中の水が半分ほどなくなりまして、この圧力容器と格納容器が何とか持ちこたえて、最悪の事態は免れたということです。

(注1)PWR原子炉…核融合によって発生したエネルギーにより加圧した水をセ氏300度にし、それによって普通の水を沸騰させて圧力をかけ、タービンを回し、発電する形の原子炉。

◆チェルノブイリで何が起きたか◆



1979年のスリーマイルの事故の時には半分空焚きになりまして、原子炉の圧力が上がって、逃し弁から水がずっと漏れていたんですけれども、それを2時間くらいオペレーターが気づかなかった。それで、半分くらいまで減ってしまった。でも大体半日くらい経って、無理やりポンプを回すことによって一応炉心の冷却の確保に成功しました。 

一方、今現在ウクライナの首都のキエフの大体100キロほど北にある原発が、チェルノブイリ原発です。この原発は1986年4月26日未明に、爆発・炎上しました。細かいことを言うときりがないのですけれど、この原発は弱点がいくつかあります。一番の弱点は、原子炉の中で沸騰して気泡が増えると、出力が増加する傾向があることです。もちろん、いろんな条件下でのことなのですけれども、こういう特性を持っています。

4月25日に、チェルノブイリ4号炉というのは運転以来初めて、定期点検で電源を止めようとして、その時に、実は出力の低いところで、電源のテストをした。この電源テストがどういうことかというと、原子炉そのものが止まってもタービンは勢いで慣性回転をしていますから、その慣性のエネルギーを使って便宜的に電源を作ってポンプを動かそうという実験をしていたんですよ。その時に、制御棒をほとんど全部引き抜くという非常に不安定な状況に置いて実験をしたものですから、出力がバーンと上がってしまった。今でもそこのプロセスは良く分からないんですけれども。原子炉を止めようとしたが、もう遅かったという話もあるし、制御棒のシステムに若干の欠陥があって、むしろその停止ボタンを押すことによって、爆発を誘導する効果になってボカーンといってしまったという説もあります。いずれにせよ、原子炉があっという間に出力暴走を起こして、炉心が耐えられずに爆発して、夜空に花火のようなものが吹き上がりました。その時点でもう、放射性物質が外へ出て行ってしまうという事故であったわけです。

◆ チェルノブイリの被害状況 ◆



チェルノブイリの事故とは、100万キロワットの原発が爆発して大量の放射能がまき散らされ、そして広大な土地が放射能によって汚染されたということですね。結局福島でも似たようなことが起きるわけですけれども。チェルノブイリ原発でどれくらいの放射能が出たかというと、ここは黒鉛というものを使っていますから、黒鉛に火がついて1週間くらい放射能も一緒に流れて出たんです。26日に放出された放射能はたぶん西の方に行って、ウクライナ、ベラルーシ、そしてバルト海、そしてスウェーデンとか、ノルウェーとか。で、27日朝くらいにスウェーデンの原子力研究所や発電所で、放射線のアラームが鳴り始めた。で、職員は何事かと自分のところを調べるわけですが、自分のところには何の問題もない。それで、28日の夜にソビエトの通信社が事故が起こったと言って、我々にも初めて分かった。私自身はたぶん、4月29日のニュースで知った。で、1986年、アメリカとソ連の冷戦の最後のところです。ですから、ソビエトの中で一体どのようなことが起きているのか、我々にはよく分からなかったのです。

チェルノブイリ原子炉の隣にプリピャチ市という人口5万人ほどの街がありまして、実はここは原発労働者の町です。チェルノブイリという街は古い街でして、あと周りに農村がたくさんある。プリピャチ市の人々は、事故の次の日に避難しています。27日の大体12時にラジオ放送があって、3日分の食糧と身の回りのものとパスポートを持って避難するから準備しなさい、と。向こうの報告書によると、2時間か3時間で4万5000人の人々が避難した。ソビエトという国はそういう意味で中央集権的で、4月26日午前1時に事故が起きたんですが、モスクワ中央には午前3時には連絡がありまして、午前中には、モスクワからもう専門家が飛行機で現地に向かっています。夕方には事故委員会がプリピャチ市で開かれています。それで、その日その場所でプリピャチ市民の避難が決定された。しかし、30キロ圏の住民については、しばらくほったらかしにされていて、5月2日にソビエトのもっとお偉いさん、当時の首相とか共産党のお偉いさんが現地にやってきて、30キロ圏の避難をさせろと命令して、大体7万人が避難した。ですから、合わせて30キロ圏から合わせて12万人が避難することになった。奇しくもなんというか、福島の場合は誰が判断したのか分からないんですけれども、最初の10キロ圏、20キロ圏まで結構早く避難が進められた。これで大体7万人ですね。それから、20キロ圏から30キロ圏までが自主避難ということで、12、13万人くらい。まさにチェルノブイリのようです。 

ソ連でまず動員されたのは、陸軍の化学部隊。当時は、さっきも言いましたようにアメリカと冷戦時代でしたから、核戦争に備えた部隊が動員されました。事故が起きた次の日には現地に入っています。この壊れた原発をどうするかということで、コンクリートで囲んでしまう工事が大体6月くらいから始まった。それも何となく福島に似ている。当時はソビエトでしたから、いわゆる英雄的な労働者がいっぱい集まってきて、自己犠牲を顧みずいっぱいこういう労働に就きました。1986年9月、石棺作り始めて最後の段階で、隣の3号炉の方に、がれきがいっぱいあるんで、これを除去しようというので人間が大体3000人くらい動員された。そういう事故処理も、我々が知るようになったのは後の話です。本当に事故で何が起きたのか私たちにはよく分かりませんでした。26日に事故が起きて、ソビエト政府がIAEAというところに報告書を1986年の8月に出しているんですけれども、それ以降、他の汚染データというのは全く出ませんでした。放射能自体は世界中を回っていますから、世界中で汚染状況を調べたんですけれども、ソビエトの中だけはなかなか出てこなかった。やっと出てきたのは3年経った1989年。ベルリンの壁崩壊があったのですが、あれが壊れたのが1989年の11月なんです。ですから、皆さんご存知のようにゴルバチョフさんの時代です。1986年の4月にもうゴルバチョフさんが書記長をしていました。

◆ 原発事故の後遺症 ◆



原発事故の場合、いろんな放射能が出るんですけれども、長期的に見て問題になるのは、今回もそうですけれども、セシウム137。で、後セシウム134というのもあって、セシウム137の半減期は30年。ですから30年たって半分。60年たったら半分の半分で4分の1ということです。ですから今でも、チェルノブイリの原発の周りでは、セシウム137の汚染がある。それで、向こうの法令によりますと、このセシウム137の汚染が、1平方キロメートルあたり40キュリー以上は、全員強制的に移住することになっている、それで、15~40キュリーも移住が義務になっている。それで今回、飯舘村等で汚染が問題になっていますが、ざっと眺めますと、結局、今のロシアやベラルーシなどで汚染の被害を受けたのは15万平方キロメートルです。向こうの法律に基づくと、1平方キロメートルあたり1キュリー以上が汚染地帯という定義になります。これを今の我々の単位でいいますと、1平方メートル当たり37キロベクレルになります。それを考えると、チェルノブイリの場合、本州の6割の面積が汚染されて、移住しなければならないのは約1平方キロメートル。福井、京都、大阪を足したくらいの大変な汚染。ということで、福島もほんとひどくて、まさに涙が出るような話になります。で、チェルノブイリ事故の被害者の分類と言いますと、まずは、事故現場に居合わせた1000人から2000人がかなりの被曝被害を受けている。それから、たぶん日本でも、これから現地に駆り出されると思いますけれども、事故処理作業者がチェルノブイリでは60万人から70万人。で事故直後の避難住民が約12万人。その後、3年経ってから汚染地帯が出てきたということで、移住しなければならない人が25万人、で、いわゆる汚染地帯、1平方キロメートル当たり1キュリーというところに大体600万人が暮らしていました。 

先ほどの汚染の話は、セシウム137という長期的に問題になるものでした。福島もそうだったんですが、短期的な被曝で問題なのは、放射性のヨウ素なんですね。みなさんご存じのように、放射性ヨウ素というものを取り込んでしまうと、特に子供は甲状腺に集中的に被曝を受けて、何年か経ってから小児甲状腺がんになる。ここでチェルノブイリの被害を受けた国を挙げますけれども、ベラルーシは大体人口1000万の国です。小児甲状腺がんは珍しい病気でした。1年間で大体1人だったのが、事故から4年位でワーッと増えました。それで、幸いというか、96、97年を境に減っていっていますね。これはどういうことかというと、被曝の影響が減っていったわけではなくて、手術時年齢に基づいてとった統計だからなのです。すなわち、1986年に0歳だった子どもは2001年以降には15歳以上になっているから、この時の子どもたちは被曝していない子どもたちだと。それで、事故の時に被曝した子どもたちは全部上の年齢に行ったと。ウクライナをみたら分かるんですけれども、ウクライナのこのデータは、被曝時年齢。ウクライナの人口は大体5000万人位で、ベラルーシの5倍くらいです。ですからこれを見たら、ウクライナの人が子どもの時に被曝した被害がまだ残っている、ということになります。それで2005年にチェルノブイリフォーラムという、IAEAなどが開いた会では大体4000件から5000件、将来的には1万件から2万件の子どもたちに甲状腺がんが出るだろう、という話をしているんです。で、事故から10年経った時にWHOが調査をしまして、この時に日本が大金をカンパして調査したんですけれども、ベラルーシの中の、汚染地域と非汚染地域の子どものうち、病気を持っている子どもと持っていない子どもを比べたんですね。この手のデータは沢山あるんですけれども、これはWHOの主催でかなりプロトコル、手続きのしっかりした調査です。やっぱり、汚染地域の子どもに難性の病気が沢山出ている。これをどう解釈するかというのは、かなり難しい問題です。ただ残念ながら、この調査は96年で終わっちゃってて、それから15年が経つんですけれどもデータが出てこない。 

それで、今回の福島の調査がどういう風に行われるか分かりませんけれども、例えば広河隆一さん(注2)はチェルノブイリへ入って、汚染地帯にいた子どもが白血病で亡くなった、被曝の影響に違いない、という風に書かれています。しかし、科学なりサイエンスの立場からそれが被曝の影響であるかどうかを示そうと思ったら、これはかなり難しい問題です。というのは、白血病そのものは放射線被曝しなくても起こる病気ですから。まず、きちんとした集団を作って、それぞれを比較していくという作業を続けていかなければ、影響というのはサイエンスでは分からない。逆にそれがなければ、あったか無かったか分からない。そのうち闇に消えてしまう、というのが実際に起こりつつあるのではないかと思います。

(注2)広河隆一…ジャーナリスト。主にパレスチナ問題を取材。チェルノブイリや731部隊に関しても明るい。

例えば、こういう例があります。ソビエトが1991年末につぶれまして、エリツィンさんが出てきました。エリツィンさんというのはかなり大ざっぱな人ですから、重要な情報も出て行ったりしました。その中で、ソ連、共産党中央委員会の秘密議事録というのが暴露されまして、1986年5月4日、病院に収容された者1682人、それから検査にかかった者3万7千人、様々なレベルの放射能障害が現れた者240人、うち幼児64人、云々というような記録があるんです。一方、サイエンスの世界ではIAEAとかいったところのオーソリティーが認めている放射線障害者の数は134名だけです。そしてそのうち亡くなった者は28名であると。一体じゃあ事実はどこにあるのか、私たちはよくわかっていません。

ざっとおさらいしますと、3月11日に地震・津波が起きました。で、たぶんまだわかんないんですけれども、原子炉は止まったんだと思います。それも怪しいよ、と言っておきますけれども、原子炉が止まりますと、すぐに格納容器隔離と言って、放射能が漏れないように全部隔離します。そして、余熱除去系というポンプが回ったと思います。そのあといくつかの冷却系統が動いたんだと思います。ところが、津波でその後働くはずのディーゼルエンジンで動く非常用電源が、結局このエンジンが地下に置いてあったために全部やられた。同時に、地上にあった燃料タンクも津波で全部持って行かれた。後もう一つ、私はいまだに確認してないんですけれども、外部電源というものがあるんですよね。でもこれもたぶん鉄塔がやられて、電線が切られちゃって完全に電源停止になった。そして1号炉の格納容器の圧が上がって、12日にベントをした。ベントというのは、放射能を閉じ込めておく最後の壁と言ってもいい格納容器が破裂しないようにガス抜きをする、ということです。その日原子炉がドカンといっちゃって、これは水素ガス爆発なのか水蒸気爆発なのか、どっちなんだろうと思って、ずっと見ていたんです。水素爆発だったら、建物の天井に溜まっていた水素が爆発したということです。もし水蒸気爆発だったらきっと原子炉の中の原料がドロドロに溶けて、それが水と接触して爆発したということです。こちらだったら、もっと大惨事になるという風に思っていたんです。でもフラッシュが出ていて、どうも水素爆発らしい。格納容器は何とか残っているらしい、と。この時心配した事は、使用済み燃料プールというのは一番上、吹っ飛んだ階と同じところにあるんですけれども、それがどうなっているのかがどうも分からない。それで何日か経つと、使用済み燃料プールもなんだか危ないらしい、という風になった。なんだかよく分からなかったんですが、同じ日に私の方に毎日新聞から電話があって、福島原発が爆発して、福島から120キロ離れている女川原発の放射線メーターが21マイクロシーベルトまで上がった、と。これはね、かなりの量です。女川原発はちゃんと止まって、そこも安定して冷却している。ちょっと大きすぎるよと言って調べてみたけど、どうも21マイクロシーベルトが真実らしい。で、毎日新聞さんが、コメントくれって。「何分続いたの?」と聞いたら「5分くらい」。1時間当たり21マイクロシーベルトなら、3マイクロシーベルト位。神経質になるものではありませんよ、というコメントを出していたんですけれども。その後同じ日の夜だったか、13日の朝だったか、実は原発周辺で被曝者が出たんだ、とテレビでやっていたんですね。その時にびっくりしたのは「被曝者は服が汚染されている」と。服が汚染されているんだったら、これはヨウ素だ、と。で最初私は、ベントにはヨウ素フィルターがついていると思っていたんですが、最初にドカンといった時にヨウ素も出ていた。ということで、12日の段階で、避難区域を20キロくらいに広げているんですけれども、これを誰が判断したのかは、いまだによく分かりません。

そうしているうちに、今度は3号炉がボカンといきました。あれもすごかったですね。私が一番涙が出たのは、15日に2号炉格納容器が破裂され、おまけに、4号炉は燃料を全部出してしまっていて、運転していないんですけれども、そこの使用済み燃料プールで水素爆発が起こり、建物が壊れてしまったと聞いた時です。これは最悪の事態です。土曜日に1号炉の建屋が吹っ飛んだ時に、スリーマイルを越えたと思いました。それで、15日に2号炉の格納容器が部分破壊して、4号炉で水素爆発があった、チェルノブイリになってしまったと判断しました。というのは、格納容器が壊れたら、中の放射能がツーツーで外に行っちゃう。で、使用済み燃料プールも例を逃れないのですが、周りが壊れちゃったら中の放射能が出て行ってしまう。でもスリーマイル程度だとテレビやマスコミは言っていました。「何を能天気なことを言っているんだ!」と彼らの対応を見ていると、本当に信じがたい位にレベルが低かった。というか何が起きているか、彼ら自身が理解していないような気がして、ものすごく怖い思いが今でもしています。日本には安全委員会のもとに、SPEEDIシステムというものがあります。各発電所の気象条件や地形データなどがインプットされまして、事故が起きたらすぐに、どこにどれくらい放射能が飛んでいるかを予測するシステムです。これが30年前から開発されてきたのを、私はよく知っているんですよ。でもそれが全く出てこない。もう情けないというかなんというか。で、SPEEDIが動いているなと思ったのは、さっき女川の原発のメーターで21マイクロシーベルトが出たと言ったところです。で、私はこれがどこから飛んできたのかな、と不思議に思いました。保安院が「福島からだ」と断言したんSPEEDIが計算してフォローしているんだなと気付いた。最近になってやっとSPEEDIの話が出てきたんですけれども。

あと、周辺モニタリングデータの「怪」。ほんとにマスコミはパーになっていて、事故が起きて出てくる放射線の数字は東京電力の敷地境界値だけです。一方、20キロ圏から人が避難しますと言っているのに、そこのデータが全然出てこない。驚きました。それで、自分で測りに行こうかと言って飯舘村にも行ったんですけれども。もうひとつ驚いたのは、今回の事態があんなにひどくなったのは、電源が全てなくなったからなんですよね。で、一番頼りになるのは外部電源なんですよ。私はてっきり、その日から外部電源の復旧工事やっているのかと思ったら、なんか5日か6日か経って、だいぶ状況がひどくなってから「外部電源工事が始まりました、放射線量が多くて大変です」と。そりゃ当然の話ですよ。東京電力は必要があるなら、事故が起きたその日から自衛隊でもなんでも集め、総力を挙げて外部電力を復旧すべきなんですよ。それをやっていないような気がする。たぶん事故調査をやったら分かるんですが、すごく恐ろしい話。

それと、東京電力の社長さん、いなくなりましたよね。それで、ひょこっと出てきて何を言ったのかというと、1号炉のベント開放の判断と海水を入れる判断、それは私がしましたと。そりゃないでしょ。緊急事態で判断するのは現場です。これは戦争の時に、いちいち大本営に連絡して「次は何の弾打ちましょうか?」と聞いているようなもので、本当に信じられないです。それが本当だったら、東京電力に管理能力はない。片手間で原発やっていたんです。で、この辺を全然突っ込めないマスコミ。むしろ面白いのは、週刊現代などの独立系のところで、特攻隊みたいな人ばっかりが頑張っている。大マスコミが何でインタビューとかで突っ込めないんだろうかと不思議です。何かマインドコントロールされているんじゃないかという位の悲しさです。

私最初20キロ圏に入ろうと思っていたんですよ。20キロ圏内に広河隆一さんが入られて、彼らの放射線メーターが振り切れたっていうもんだから、私たちのメーターでも測ってみようと。で、私は行くんだったら、京都大学の公務出張で行こうと思った。それで所長さんと「今中君、ちょっとあそこに行くのはやめてといてくれ」、「いやこっちにも事情があって」というやりとりもありました。結局、とりあえず福島市まではレンタカー、そこからはバス、という形で飯舘村の方に行くということになりました。実は、とある友人が福島県の災害対策委員会の発表データで、飯舘村のあたりで大変な汚染データが出ている。自分の名前は使わずにこのデータを発表してくれと言って、私にメールをくれたんです。その中で、3、40マイクロシーベルトの値が飯舘村で出ているから、それはすごいと。僕は最初、飯舘村はホットスポットだと思ったんです。チェルノブイリのように100キロ、200キロ離れていたところに雲なんかで運ばれていって、雨で落ちたのではないかと思って、友人数名とチーム組んで調査行こうということになりました。そこで飯舘村の村おこしの支援を20年間やってきた、日本大学のグループと接触できて、そのグループとは是非一緒にやろうと。そのグループが村長さんとも知り合いということで、そういう人たちと一緒に行ったんですが、実はドライブで福島に着けるかまだ分からなかったんですね。飯舘村からバスを手配してもらいまして、福島市では2マイクロ、3マイクロシーベルトで、「すごい」と思いました。その前に実は東京もすごいんですけれども。東京では秋葉原のホテルに泊まったんですが、部屋の中で、測定器調整して、外に出てみたら2倍か3倍かになって。東京もべったり汚染されています。その飯舘村ですが、日本国の安全委員会の「原子力施設の防災対策について」という指針によると、予測外部被曝が10から50ミリシーベルトの場合は屋内へ退避すること、50ミリシーベルト以上の場合は退避するか避難すること、という目安があります。結局、これが適用されて、というか順応して、飯舘村は特定計画的避難区域に指定されました。果たしてこれがいいことか悪いことかということはよく分かりません。原子力特別災害措置法というのがありまして、それに基づいてこういった対応が定められているんですが、3月12日に出された20キロ圏の避難支持もこの措置法に基づいて、町や村は結局政府の管轄下に置かれてしまいました。で、たまたま飯舘村は30キロも40キロも原発から離れていましたから、いわゆるそういう措置法の想定枠外で、防災業務計画というものも持っていない。ある意味で大変だったけれども、自由だった。それが、計画避難というものに組み込まれて、政府の管轄に置かれてしまう事態になり、村長さんというのは非常に苦しい立場に置かれています。

◆ おわりに ◆



知っている先生方がテレビにたくさん出ています。ですが、悲しいことに、彼らは「直ちに健康に影響の出る量ではありません」と言います。そんなことは、専門家はみんなわかっています。「タバコをひと箱吸ってもただちに健康に影響はありませんよ」というようなことを平然と言って、被曝の影響をはぐらかしているわけです。また、レントゲンだったり、CTだったりと同じ程度の被曝ですよ、とも。本人がどこまで意識しているか分からないような発言がテレビに出ている。不思議だな、と思います。 

放射線被曝で問題なのは、一時に大量の放射能を浴びた時に現れる、急性放射線障害と、あと被曝後何年も経ってから現れる、がん・白血病などの晩発的障害。これを区別して考えるというのは、放射線被曝を考えるという時の、いろはの「い」なんですよ。今、消防士さんの限界量は100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに上がっていますけれど、結局あれは急性障害です。250というのは急性障害が出るぎりぎりのレベルだと思っています。晩発的な障害はもっと覚悟がいります。で、晩発的障害をどう考えるのか。これは普通、量が少なくてもそれなりに影響があると今まで言われてきたし、世界のオーソリティーがそういう風に議論してきたんです。それを全く抜きにして心配ない、心配ない、と。確かに「病は気から」というのもありますが、サイエンスの問題としては、この直線仮説をどう考えるか、という議論もあります。広島・長崎のデータでは、がん死の確率は被曝量に比例して増えうる直線仮説が支持されますが、少ない被曝量では「何ミリシーベルトの影響がどうこう」と直接に観察されているわけではありません。でそこをどう考えるかという、まさに神学論争のようなものが20年間も30年間も続いてきたということは確かです。まあ、体にいいよ、という人もいますけど。だけども、これはかなり古いデータですけれども、妊婦さんがレントゲンとって、子どもの白血病が増えたというシビアなデータもあります。最近では、原発産業労働者を対象に、日常的な被曝で20ミリシーベルトの放射能を浴びている人の集団でがんが増えているというデータもあります。私の知り合いのスウェーデンの研究者が、スウェーデンのチェルノブイリ汚染地域で100万人規模のきれいな調査をやってみると、セシウム汚染が増えると、がんが増えていた、という研究結果を出しました。これは本人でも驚いていて、因果関係があるかどうか議論が続いています。

チェルノブイリの立ち入り禁止区域と、今の福島の立ち入り禁止区域の範囲の広がり方がよく似ている。原発周辺ではほぼ同じ規模の汚染が広がっているというのは間違いないと言ってよいでしょう。私が3月18日に私の研究所の公開セミナーで言ったのは「我々は放射能汚染と向き合わなければならない時代に入ったんじゃないだろうか」ということです。いろいろご意見あると思いますが。それで、向き合うとなった時に一番経験的なデータになるのが、チェルノブイリです。例えばセシウム。それによってウクライナの牛乳が1987年からどれくらい汚染されてきたかが分かります。当時は1リッターあたり1000ベクレルと汚染がかなり進んでいますが、エサなどを工夫すれば汚染値は下がるということが分かっています。これから私たちが福島の汚染をどうとらえていくか、という時に、このチェルノブイリの資料が役に立つのではないかというのが私の意見です。やっぱり我々が福島の汚染をどう耐えていくのかという時に、チェルノブイリの経験をきちっと学ばせてもらう必要があるのではないでしょうか。

飯舘村は非常にいいところでした。私はまたそこに放射能を浴びに行こうと思っています。飯舘村では、いい和牛がとれます。結局、これからどうするのかを、政府任せにするのではなくて、村の人、また牛肉を食べていく我々がそれぞれ判断していくべきだと私は考えています。食っていくのに、どれくらいの被曝でどれくらいの影響がありますよ、と言うのはたぶん我々学者の仕事だと思います。それで、食べるかどうかは、結局、最終的には皆さんの判断だろうと思っています。

最後になりましたが、とにかく原発はやめにしましょう。京都のこの辺だって、原発なしでもうまくやれば生きていける。私はそういうことを言いたいのです。(了)

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