企画

ルネベスト2010―京大生の読書傾向

2011.03.16

京大生協ブックセンタールネ調べ 2010年1月1日〜12月31日

《本紙に売れ行き上位100冊を掲載》

備考
・教科書類と思われる書籍は除外。
・TOEIC・TOEFL対策本など、各種試験・資格の参考書等は除外。
・辞典、辞書の類および六法全書などは除外
※以上、京大生の「普段の読書傾向」を分析するため、ブックセンタールネ提供の総売上データを編集部にて 適宜編集していることをおことわりします。

総評・考察

2010年・京大生協ルネの書籍売上ランキングの特徴を分かりやすくするために、以下3つの観点から京大生の読書傾向を考察する。なお、全国区の書籍売上げについては、「丸善インフォメーション」年間ベストセラーランキング(集計期間:2009/12/1~2010/11/15,「文芸」「文庫」「人文・教育」など13分野ごとに売上100位までを掲載)を参照した。
→http://www.maruzen.co.jp/shopinfo/feature/best2010/rank.shtml

1.京大・全国共通の傾向

NHKの人気番組「ハーバード白熱教室」で好評を博したハーバード大学・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』が堂々の1位を獲得。全国区でも人文・教育部門で2位となっている。「正義」を巡って展開される対話型の授業の内容が一冊に収められた本書。昨年夏には本人が来日し東京大学で講義を行うなど日本は「サンデルブーム」に湧いた1年であった。また、6位の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』、24位の『マネジメント』といわゆる「ドラッカー本」が顔をだしているのが全国の傾向と似た今年の特徴と言える。ルネでの「サンデル」「ドラッカー」関連書籍コーナーの充実が、売上を後押しした部分もあっただろう。

その他、4・39・51位と3作品ともランクインした村上春樹『1Q84』の人気や、28位『もう一度読む山川世界史』および43位のその日本史版の健闘も共通。また、今春で神戸女学院大学を退職する内田樹氏の20位『日本辺境論』、72位『街場のメディア論』が人気を集めているのも全国との共通点。

文庫小説では、昨年映画化した35位『インシテミル』および75位『ボトルネック』の米澤穂信氏は昨年まではランキングに見られなかった作家、その他16位『阪急電車』も今春の映画化がきいたのか、関西だけでなく全国区でも売り上げがのびている。9位『告白』も、映画化の勢いもあって(ちなみに映画「告白」は今年、日本アカデミー賞で作品賞など4冠を獲得した)、ベスト10に食い込んだ。伊坂幸太郎氏の小説も両ランキングで好調だ。

2.全国のランキングになく京大のランキングにある傾向

まずはなんといっても農学研究科卒・森見登美彦氏の人気ぶり。全国区のランキングでは文庫部門で『夜は短し歩けよ乙女』の1作が見られるのみだが、京大では6作品がランクイン、ベスト10のうち3つを森見作品が占めるなど、毎年のことながら圧倒的な強さをみせている。特に2010年は、アニメ化した『四畳半神話大系』の売上げが好調で、400部の大台を小説では唯一こえての3位となった。京大卒ならではの小説内容が京大生の心をつかみ続けているようだ。その他小説ではこちらも京大法学部卒の万城目学氏も、37位『鴨川ホルモー』、43位『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』と、全国区では見られないが京大では根強い人気を保っている。

小説以外ではいわゆる「京都本」が売れるのも毎年の特徴。13位『京都カフェ散歩』、34位『京都の夜カフェ』、58位『京都手帖2011』と、ガイドブック系の書籍に人気が集まっている。また大学ならではの売れ筋として91位『大学時代しなければならない50のこと』、79位『頭のいい大学4年間の生き方』などがあり、大学生活を賢く生き抜いていこうという現代の大学生像が垣間みられるようである。

また、「ビラがパズルになってまーす」でおなじみ、パズル同好会の東田大志さんが著した、15位『京大生・東田くんのパズル』、84位『パズル公爵の挑戦状』の人気ぶりは京大ならではといえるだろう。その他、人文科学研究所・岡田暁生准教授の87位『音楽の聴き方』、人間・環境学研究科・佐伯啓思教授の63位『人間は進歩してきたのか』など、京大の現役教員の書籍も目立つ。

昨年逝去した梅棹忠夫氏の38位『知的生産の技術』、森毅氏の85位『考えすぎないほうがうまくいく』と、往年の京大名物教授両名の著作がランクインしているのも頷ける特徴と言える。また、67位『金閣寺』、48位『善の研究』の2作は毎年のようにランクインしており、今回ランクインこそ逃したものの09年まで常に顔をだしていた『人間失格』とともに京大生好みの「古典」であると言えるだろう。

3.全国のランキングにあって京大のランキングにない傾向

まず今回の両ランキングで対照的なのは東野圭吾作品の強さだ。京大でも87位『秘密』、59位『白銀ジャック』の2作がランクインしてはいるが、全国のランキングでは、文芸分野で100位以中3作、文庫分野で100位中14作を同氏の作品が占めているのと比べると、見劣りするのは否めない。07・08年はおそらくドラマ「ガリレオ」の撮影が京大で行われるなどしたために東野作品の人気が急上昇したが、ここにきて京大での売上げはやや失速気味となっているようだ。

また、全国区では新書部門で「今年の顔」とまで評された池上彰氏の『伝える力』『知らないと恥をかく世界の大問題』などの著作が京大ではまったくみられない。全国区の人文・教育部門で3位を獲得した『超訳 ニーチェの言葉』が京大ではみられないのと合わせて、「分かりやすく」されることに対する抵抗感・警戒感が京大生の一部にまだ少なからず残っていることを伺わせる。

小説では前述の『告白』と並んで、映画版が日本アカデミー賞で5冠を獲得した『悪人』が、全国では文庫部門で上巻が7位、下巻が9位となったが、京大では100位以内にも入っていないのが気になるところ。『悪人』よりも『告白』の方が京大生の琴線に触れる所が大きかったようだ。

限られた字数なので触れられない作品・傾向もあるが、概ね以上のような点を特徴として挙げることができるだろう。(義)

99位『教育の職業的意義』

本田由紀『教育の職業的意義』筑摩書房、2009年

本書は現代日本の学校教育で希薄化した「職業的意義」を回復することを主張しており、これまで若年労働や教育と労働の接続について優れた論考を発表し続けてきた著者の考えが分かりやすくまとめられた一冊となっている。

本書で強調される「教育の職業的意義」ということばには、とくに大学の関係者であれば違和感を感じる者も多いのではないだろうか。曰く「教育は教養を高めるもので職業的意義は不要」「現状の社会体制に適合的な人間を再生産するだけで危険」という主張は往々にして聞かれる。

しかし著者はこうした意見は「学校教育制度以外に職業教育を施す環境が保障されていることを前提としているのではないか」とし、企業が人材投資への費用を削減し続けている現状では有効性を失っていること、何より職業訓練全般を企業に丸投げすることは、若者にとってその企業へ都合の良い人間となること、<適応>だけが施され、企業へ<抵抗>すること、例えば労働条件に対する異議申し立てなどを知る機会が無いままとなり問題だという。

つまり若者にとって職業への<適応>だけではなく<抵抗>の手段を学ぶ場として、学校教育の場がとても有用なのではないかというのだ。

他方近年大学教育の場でも盛んになっている「キャリア教育」を著者は「具体的な手段方法を欠いたまま「何か良い人生設計」を持たねばならないと言う要請のみを突きつけ、若者に不安を増大させるだけ」と批判する。こうした「生きる力」「地頭」「コミュニケーション能力」など抽象的な概念を用いた俗流の若者論議を退ける著者の作業は、これまでの『ハイパーメリトクラシー化する社会(2005年)』『ニートってよぶな(共著/2006年)』といった作品でも一貫したもので、非常に貴重なものだ。

本書の結論は特に後期中等教育(高校)において専門学校のような職業教育の比重を増やすことの必要性、というとくに奇抜なものではない。しかしそこにたどり着くまでに著者は統計データを豊富に活用しながら若者のおかれている環境の変化、若者が教育に何を望んでいるのかなどを極めて“客観的”に、筆致も“禁欲的に”説明をし,説得力を高めている。しかし全体を貫いているのは帯にある「若者に希望を!」の言葉通り、若年層がおかれた過酷な環境を何とかして改善せねばという強い情念である。読み終えて「社会科学ってこういうものなのかなあ」と感じた。(魚)

54位『日本の近現代史をどう見るか』

岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』岩波書店、2010年

ほとんどの文系学生は受験勉強で歴史を学んだことがあるだろう。特に京大に合格する者ともなれば単に「学んだことがある」程度ではないはずだ。この書評を読んでくれている新入生の中には「受験歴史」の達人が相当数含まれているに違いない。

そんな優秀な新1回生が初めて大学で史学関連の講義を受けた際にまず直面するのが、扱われている範囲の狭さと内容の深さであると思われる。少なくとも現在の京大の全学共通科目には予備校で行われる類の、古代ギリシャから戦後史まで全ての歴史の範囲を取り扱った授業などというものは存在しない。一つの国や地域の、四十年~五十年くらいのごく短い時期の考察を半年かけて行うということも珍しくはない。

予備校の薄っぺらな授業と違って大学の講義は高尚なのだ、受験勉強などとはレベルが違うのだ、などというつもりはない。全体を通してこそ見えてくる歴史の流れもあるし、なにより私自身「浅く広く」色々な国の歴史を学べた受験生時代を懐かしく思うことも多い。

ただ、大学で史学を専門に学びたい、そこまでではなくとも史学関連の授業を取るつもりだという新入生は好むと好まざるとに関わらず、とりあえず大学での歴史の学習形態に慣れなければいけない。そこで新入生におすすめしたいのが本書『日本の近代史をどう見るか』である。

本書が取り上げるのは開国から戦後の高度経済成長期までの日本近代史である。幕末、明治初期、大正デモクラシーなど時代ごとで章が分けられ、章ごとに執筆者も異なる。それぞれの章で扱われるのは「なぜ明治政府は天皇を必要としたか」、「なぜ日本は高度経済成長を達成できたか」などの分析、考察だ。限定された一つのテーマを中心的に掘り下げるそのやり方は、まさしく大学型の「狭く深く」の学習形態といっていい。本書の構成に触れることは大学での講義へ向けた準備運動の役割を果たすことと思う。

だが、本書を読んだ新入生は、時代のほんの一部分にしか関心を向けていないようにみえる書き手の姿勢はもとより、むしろ高校教科書と比べてあまりに偏った歴史解釈の方に強く戸惑いを覚えるかもしれない。

例えば本書第3章の記述では日露戦争の意義は、日本が西欧との分け前として植民地をもらうための戦争と位置付けられており、また「日露戦争は、西欧帝国主義に対するアジアの勝利などというものではありませんでした」という記述もされるなど日露戦争に対して全否定に近い見解まで示されている。受験世界史をマスターした者であればこう思うはずだ。すなわち「青年トルコ党革命やイラン立憲革命、孫文の中国同盟会結成など、日露戦争が引き起こしたアジアナショナリズムに言及していない。それで日露戦争の意義を全否定するなんて偏っているじゃないか」、と。そう、偏っているのだ。しかし、主張や思想に偏りが見られる書物を完全に拒絶してしまうという習慣は、学問の府に身を置く人間として必ずしも適切なものでないということには留意せねばならないだろう。

「自分で学ぶ」姿勢が重視される大学という場においては、書物も講義も自分の考えを深めるためのツールに過ぎず、受験における教科書のような絶対性はない。大学生には、これさえ信じていればいいのだと寄りかかることのできる存在など無いのである。書物や講義を通じて様々な考えに触れ、その中でアクセプタブルな要素とアンアクセプタブルな要素を丁寧に選り分けることを通して自分だけの解釈を磨き上げる。それが大学での「学び」の態度である。

だからこそ、私はこれから京大の門をくぐる新入生に本書をおすすめしたい。4月から始まる講義の内容を、そのまま鵜呑みにしないための練習として本書を使うのだ。本書を必要に応じて批判的に検証しながら読み進めることができるなら、「大学での学び」を始めるための準備は整ったといっていい。京大で一番頭が良いといわれる新1回生の読者にとって、さほど難しい作業ではないはずだ。

新入生の皆さん、「大学での学び」へようこそ……また4月に。(47)

41位『一九八四年〔新訳版〕』

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年〔新訳版〕』早川書房、2009年

SF小説はプロットがモノを言うジャンルだと、甚だ勝手なイメージを抱いてきた。展開さえ面白ければ商業的には成功、多少のラブロマンス要素を加えれば上出来、という具合だ。文学的なギミック、思想的背景など必要としない。こうした先入観を完膚なきまでに打ち砕くのが本書『一九八四年』である。発表から早60年、本書が我が国において再び脚光を浴びているのは、言わずもがな「あの現代的売れっ子作家」の爆発的ベストセラーによる影響であろう。これまで幾名の優れた翻訳家の手になる訳が刊行されてきたが、高橋氏による新訳版はその名に違わず、淀みない訳文を実現させている(トマス・ピンチョンの解説まで訳してしまう仕事ぶりに、スノッブ趣味をかきたてる心憎さを感じる)。

訳者の高橋氏が述べているように、オーウェルが本書を書くに至った時代的・思想的背景は、ピンチョンが誠に的確に解説している。敢えてその解説を敷衍するのに紙面を費やすのも詮ないことなので(というより、ピンチョンに対して失礼きわまりないので)、個人的な視点からこの作品について話をさせていただく。

核戦争から数十年後の1984年、世界は対立する三つの超大国―オセアニア、イースタシア、ユーラシア―により支配されていた。本書の舞台となるのは、かつてイギリス、アメリカ合衆国と呼ばれていた国々を中心とする「オセアニア」。〈ビッグ・ブラザー〉なる人物を頂点とする一党独裁がこの国を動かしている。とは言うものの、その実態は極度の管理社会。人々の行動は全てテレスクリーンにより監視され、党の方針に従わぬ者は、存在していたという事実そのものが抹消されるのである。

ロンドンに住むウィンストン・スミスは「真理省記録局」に勤務する役人で、歴史の改ざん―党曰く「修正」―を専門としていた。改ざん以前の記録、記憶は、党により徹底的に排除される。つい先程まで甲と戦争をしていたのが、党の都合でただちに乙との長年に渡る戦争という事実に書き換えられるのである。このあたりの描写は見事というほかない。結果、全ての歴史は党の意のままに管理される。かくして人々は、現実と記憶の間の解消できない齟齬を自覚しつつ、改ざんされた現実を受け入れざるを得なくなる。〈二重思考〉に陥るのだ。人々は一切懐疑をもったり、熟考したりしてはならない。いや、そのようなことをしないという習性を身につけてしまうのである。「鵜呑みにされたものはかれらに害を及ばさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。」(p.241)

もう一つの脅威は、「ニュースピーク」なる言語政策。端的に言えば、かつての言葉「オールドスピーク」に存在した語彙という語彙を削ぎ落とす政策である。「良い」という語さえあれば、「悪い」という語は必要ない。ただ「良くない」と言えばいいのだから。名詞と動詞を区別することもない(この政策名自体、本来動詞である「スピーク」を名詞として使用している)。この政策に携わるウィンストンの友人がこのように言っている。「最後には良し悪しの全概念は六つの語――実のところ、一つの語――で表現されることになる。どうだい、美しいと思わないか、ウィンストン?」(p.81)

オーウェルについて驚嘆すべきは、人間とはすなわち思考であり、思考とはすなわち言語であるという本質を逆手に取るその手法である。言葉を十分に持たなければ、思考は成り立たない。思考しなければ、人間はまさに「動く物」にすぎないのである。

主人公・ウィンストンは、そういう党の方針に対して次第に疑問を持ち始める。そんな時、同様の思想を持つ女性・ジュリアと恋仲になる。その後の展開は是非とも実際に読んでいただきたいが、このあたりはSFの王道という印象、とだけ申し上げておきたい。

私たちに、オーウェルの描いた未来像をあり得なかったものと断言する資格はあるのだろうか。洪水のような情報を、吟味せずにレシーブし続ける。言葉を欠いたコミュニケーションが正当化される。彼のアレゴリーがどこまで予期されていたものかを知る手立てはないが、今の世の中を見ていると、ふとそういう疑問が頭によぎった。(藪)

20位『日本辺境論』

内田樹『日本辺境論』新潮社、2009年

著者は、「日本」を中華思想の「辺境」に置き、「日本人」を他国との比較を繰り返すばかりの「辺境人」とみなす。著者によれば「日本人=辺境人」は歴史を通じて、国家・個人レベルで、思考停止したかのように個性の恣意的埋没を行う気質を育ててきたのである。筆者は、そのうえで、「日本」が他国を「見習って」標準的・絶対的な基準(個性)を作ることを否定し、「とことん辺境で行こう」と読者を鼓舞し、以降「辺境人」の特徴や、「辺境人」としての「日本人」の独自性を述べていく。

私は、著者の口語的な、比喩を交えたわかりやすい語り口とフランクな物言いに、心に何かグサリと来るものがあったように感じた。「他者」との比較を通してしか見いだせない、「国」のあるべき姿。また「辺境人」のあるべき姿。著者は、無思考のうちに他に追随することを「辺境人」の独自性として、そこに有意性を見出すのだが、私はそこに恐怖を感じる。無思考であることは、「日本」国内において、「日本人」として普段生活するうえでは一向に不便なところはない(周りの「日本人」もまたそうであるから )のだが、ひとたび「日本」の個性という問題意識の渦中に放り込まれれば、途端に難問と化す。これは著者も文中で述べていることである。

「日本人」は如何にして「日本人」たりえているのか、「日本」とはいったい何なのか。これは、他国と比較することなくとも、「日本人」が「日本」という国家の枠組みにとらわれている限り、問われ続けることであり、私個人としても大変興味がある話題である。「辺境人」に「『日本人』とは何か」という難しい話題を提起したとしても、答えられる人はおそらくいないだろう。「日本」という国に対して何らかの強いアイデンティティを持つことに、言いようのない忌避感を覚えるという風潮がある(私だけが感じているのかもしれないが)ことも、少しは影響を与えているのかもしれない。

しかし、昔から問題になっている在日朝鮮人差別や部落差別などに加え、昨今のグローバリゼーションの流れにより、ますます多くの多国籍の人々が「日本」という地域に居住するようになっているなかで、また戦時中より声高に叫ばれてきた単一民族神話が解体されつつあるなかで、「日本」とは何なのか、「日本人」とはどのような枠組みとして成り立つものなのかを再考することは、必要不可欠なことではないだろうか。さらに言えば、もし私たちがこのような問題にきちんと目を向けたならば、私たちが「日本」国内において自分とは異質な人に出会った時に感じる、漠然とした不安感を拭い去ることができるのではないだろうか。確かに、無思考であることは、一面的には楽である。「辺境人」の風土に従えば、私たちは風当たりもなく生きてゆける。そこに落ち着くか、はたまた、茨の道を行くのか。この著書を読んで、ぜひ再考してみてほしい。(穣)

16位『阪急電車』

有川浩『阪急電車』幻冬舎、2010年

どちらかというと硬派の本を他編集員が取り上げる中、「ほっこり胸キュン」との宣伝文句の本書を息抜きに選ぶ。著者の有川浩氏は、『フリーター、家を買う』が昨年ドラマ化され、本書も今春映画化の予定と、昨今耳目を集めている。

自分に馴染みのある身近な風景・場所がちりばめられた小説に惹かれる、あるいはとりあえずは読んでみるというスタンスは時間をもてあます大学生にとって購入の動機として大きいだろう。ランキングに名を連ねる森見登見彦氏の小説など、京都・大学を舞台とした作品は一種の「あるある」感をもって楽しめる。

本書、『阪急電車』もそのような消費のされ方を表したものかと思っていた。言わずもがなだが、河原町駅から大阪方面へ阪急電車を利用したことのある京大生は多いだろうし、電車通学に使う自宅生も多いだろう。本をひらくまではてっきり馴染みのある京都線での物語を予想していた。しかし京都・大阪・神戸をつなぐ阪急電車の走る地域は広い。本書は、兵庫県の宝塚―西宮北口間を結ぶ「今津線」が舞台であった。

片道15分、8駅の同路線、通学途中の大学生、結婚式帰りのOL、孫を連れた老婦人…、一駅ごとに人物の視点を変えながら、時にそれぞれが交差するかたちで物語は紡がれる。往路では主に出会いが、復路ではやや時間の経った後日談的に登場人物の心情が語られる。元恋人を同期に「寝取られた」恨みつらみを結婚式でぶつけた登場人物の姿が胸につき、老婦人の孫娘とのやりとりに人生の機微を感じたり。ただ、大学生としては美帆と圭一という大学1年生の出会いと車内のやりとりが微笑ましい。社会人を恋人にもつ高校生の登場人物が大人の恋を展開するのと対照的な描かれ方をしているのもあるだろうが、その大学生カップルのあまりにも初々しいやりとりは、大学4年間を終えて卒業を前にした自分にはまぶしい、まぶしすぎる。実際の内容は本書を読んでいただくとして、おそらく、例えば森見氏の小説とはシンパシーをうける層がかなり違うのではと思った。

ただ、個々のエピソード以上に、この小説は今津線への著者の親愛が随所に滲み出ている印象が残った。沿線に住む者ならではの、駅や街の細やかな描写。先に今津線が「舞台」と書いたが、冒頭で著者が書いているように、舞台というよりも「全国的に知名度の低いであろう」今津線そのものを「主人公」として書かれた作品なのだろう。読んだ後に自分も実際に乗車に行ってみたが、そうしたくなる人が多く現れるのも分かる、すっきりした読後感。阪急電鉄にとってもありがたい宣伝になったものだなあ。(義)

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