〈書評〉詩を超えた詩論 『詩の構造についての覚え書――ぼくの《詩作品入門》』
2025.06.16
主たる主張は、詩は表現ではない(つまり、詩はその作者の抱く感情の伝達手段ではない)ということ、詩の作者は作品内の発話者ではないということ、そして、作品内の言葉はそれ自体として完結し得ず、常に作者や読者との関係においてあるということなどである。他にも詩における時間など、興味深い議論と主張を読むことができる。
なかでも入沢が拘泥して論じているのが、作者と発話者はいかなる作品においても同一でないということについてである。この事実こそが、日常的な発話と詩作品とを隔てる要素なのではないかと彼は述べる。そして、にもかかわらず、この点が詩の作者や読者に見落とされているのではないかと指摘する。
ここでは、1か月前に発表された宇多田ヒカルの『Mine or Yours』の歌詞と、そこに寄せられた数々の反響が思い起こされる。「令和何年になったらこの国で夫婦別姓OKされるんだろう」。夫婦別姓に賛成する人々はSNS上で宇多田を称賛し、これに反対する人々は宇多田に失望したり貶したりと様々であった。しかし、この歌詞をもって宇多田自身を評価しようとするのは、それが賛成だろうと反対だろうと間違っているのではないかと感じられたのだ。
いま、この作者と発話者の関係性についての考察をもとにすれば、これらの反応は、芸術鑑賞における基本的なリテラシーの欠如によって引き起こされたものと見ることができよう。宇多田個人の意見は、もちろん歌詞に反映されているだろうが、ここで夫婦別姓について述べているのは宇多田ではなく、その歌の中の発話者、ないしは主人公でしかあり得ない。この歌詞をもってこの歌を拒絶するのは、想定されるべき1つの意見とそれを持つ個人を拒絶するのと同じことであり、この歌を称揚するのも全く同程度に暴力的だと言わざるを得ない。これが、本書における議論が詩という領域を超えていると先に書いた所以である。
もうひとつ、とても印象的な記述が本書にあった。構造という言葉は「つくりもの」という印象を与え、「うさんくさいもの」として受け取られてしまうという。「知的な操作のあるものへの心の奥深いところでの不信の片鱗」が生まれるというのだ。入沢はしかし、詩作品は常に既に「つくりもの」であるため、その「つくりもの性」に居直り、それに徹するべきだと述べる。これは、詩の構造について考察するための前提であると同時に、およそ作品と呼ばれうるものを鑑賞する態度についての重要な指摘ではないだろうか。
本書で展開される議論において、実例や作例が提示されることはほとんどない。そういった意味でも、本書はやはり、一般的な入門書とは異なっている。そのため、既にある程度、詩に親しんでいる読者が想定されているのだろう。しかし、これまで詩に触れてこなかった読者も、入沢の疑問点を共有し、そして彼の主張について考えることで、少し違った形の「詩作品入門」を果たすことができるだろう。初版から約50年、増補版の改訂新版刊行から約20年、今年初めて文庫化された。それでも内容は一切古びておらず、詩に関する考察はもちろん、他分野においても新たな知見をもたらしてくれる。(梯)
◆書誌情報
『詩の構造についての覚え書――ぼくの《詩作品入門》』
入沢康夫著、筑摩書房
2025年
1100円+税
『詩の構造についての覚え書――ぼくの《詩作品入門》』
入沢康夫著、筑摩書房
2025年
1100円+税
