企画

【特別編】京大新聞の百年 4名の卒業生による女性編集員座談会 孤独感じながらも、楽しさ見出し活動に打ち込む

2025.04.01

京大新聞には女性が少ない。現役編集部にも、新聞社の卒業生名簿にも当てはまることだ。もちろん性別は二分できるものではなく、性別は一つの属性に過ぎない。しかし、その属性のために日常生活の中で窮屈さを感じたり、息苦しさを覚えたりする場面があることは否定できない。

1980年代から現在に至るまで40年間、女性編集員はどのように日常生活を過ごし、どんな思いで新聞の活動に向き合っていたのか。4名の卒業生が経験と実感を語り合い、今後の活路を探った。(史)

〈参加者〉
雑賀恵子さん(80年代在学、文学部卒・農学研究科農林経済学専攻博士課程満期修了)
永野香さん(91~99年度在学、文学部卒・文学研究科修士課程修了)
中川聡子さん(01~05年度在学、法学部卒)
(易)さん(13~19年度在学、法学部卒・法科大学院修了)
司会:(史)(23年度~在学、文学部3回生)

目次

女性編集員座談会
 トイレは男女共用
 「普通の人間が男性」
 問題を提起しづらい
 言葉が与えられる感覚
 活動が楽しかった
 身近な話を問題化できず
 取材後記 座談会を終えて
見返し特別編 京大新聞でたどる女性を取り巻く環境の変化
 見返し① 女子学生が誕生 就職での苦労も
 見返し② 教員・学生の性加害 大学のセクハラ処分
 見返し③ 大学の施策 積極的な姿勢も
コラム① 編集員の属性 男性/文系多い
コラム② 聞き手の態度に疑問
コラム③ 「矢野事件」のあらまし
コラム④ 学外への影響 近年は淡々と処分
コラム⑤ 育児・保育の支援 学生生活の一端も

トイレは男女共用


―最初に大学の設備について聞きたい。

雑賀 新聞の活動を行うボックスは、掘立小屋のような木造の建物にあった。壁には「京大新聞は斗うぞ」というラディカルな言葉が書いてある。物が煩雑に積み上げられていて、寝泊まりしている人もいた。初めて入った時、かっこいいなと感じた。

トイレは、廊下の突き当たりにあった。和式の個室トイレが2つと小便器があり、男女共用だった。怖いし、汚くて気持ちが悪いから、昼でも行くのが嫌。先輩の女性編集員と、事務の佐藤さんに教えてもらい、昼間は生協の入っている隣の建物のトイレに遠征していた。編集会議や紙面に記事を割り付ける作業があって夜中にトイレに行かなければいけない時は、誰かに見張り役を頼んで行った。

中川 ボックス周辺の環境は、08年の建て替えまでほとんど一緒だったと思う。ボックスのトイレを使った記憶がない。

永野 数えるほどしか使っていない。自分たちで掃除することもなかった。

 私は建て替え後に入学した。トイレの設備は新しくなったが、人が行き交うところから少し離れていることもあり、夜間はあまり使わないようにしていた

永野 吉田キャンパスの校舎には女子トイレの数が少なく、建物の端にあった。おそらく、後から増築したのだと思う。

 在学時、キャンパスのトイレに小型カメラによる盗撮や刃物を持った不審者への警戒を呼び掛ける貼り紙が増えた。男性編集員にその話をしたところ、主に女子トイレに貼られていたようで、女子トイレを利用しない人にはその事実が知られていないという状況だった。

雑賀 現在は、決まった時間以降は研究棟が施錠される。昔はいつでも開放されていて、夜中にポスターを貼る学生もいた。00年代ぐらいに部外者の立ち入りが厳しくなった。

永野 90年代から、北部キャンパスなどで入構ゲートの設置が始まり、部外者の立ち入りが制限され始めた。とは言え、その頃は多くのキャンパスで車の入構が可能で、夜中に音楽サークルの人が演奏したり、ESSの人が英語劇の練習をしたりして、かなり自由だった。

中川 02年には、西部構内のサークル棟の建て替え案が浮上し、大学施設を誰が管理するか、学生自治をどこまで認めるかの議論が活発化していた。

不審者への警戒を呼びかけるポスターは今でも掲示されたままだ(=共西1階女子トイレ前)



サークル棟の建て替えが持ち上がった(02年12月1日号)



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「普通の人間が男性」


―女性を取り巻く環境は。

雑賀 当時は圧倒的に女性が少なかった。同じ学年のドイツ文学専攻は2人だった。とにかく女性が少ないから、見えない息苦しさがあった。性別を二分するべきかという議論は置いておいて、全体的に「普通の人間が男性である」という雰囲気だった。その中で女性は少数精鋭として進学しており、エリート意識を持つ人もいたように思う。

永野 私の文学部のクラスは4割程度が女性。ただ、経済学部の友達はクラスには女性が1人だけと言っていた。大学院に行くと、留学生は女性が多かった。

4回生の時、周囲の女性が本当に就職で苦しんでいた。優秀だった同級生は最後の最後まで決まらないと嘆いていた。世の中の男女差別を目の当たりにした。一方で男性は、企業から資料がたくさん送られてくる。問い合わせや応募などをすると、京大卒社員との面談などが設定され、早々に内々定を得る人も多かったように思う。

雑賀 男女雇用機会均等法が85年に制定された。それでも女性で就職率が良いのは、短大卒で、四大卒は厳しい。全般的に女性ではなく「女の子」として扱われていて、資格を持たない女性は、いわゆる「一流大学」卒ほど使いにくいイメージが社会の中にあった。

中川 私の周囲に限っていえば、00年代初頭には就職で男女格差を感じる場面は少なかった印象がある。私は06年に大手新聞社に就職した。在学中は常にマイノリティだったのに、同期入社は4割が女性で驚いた。2歳下の経済学部卒の妹は、金融機関からのリクルートがあって苦労なく就職を決めた。

ただ、入社後の取り扱いには大きな格差があった。女性は出産した後は一線から退く、あるいは辞めるという雰囲気が、入社当時はあった。第二次安倍政権が13年に女性活躍を打ち出して、出産後も働く女性が増えていくが、10年代はまだ「入社したら男性と互角に戦え」みたいな雰囲気が残っていた。基本的に働き方が男性基準で、女性が社会に出た後に苦労する時代が続いたが、20年代に入ってそうした空気が大分変わったという実感がある。

 私が在籍していた10年代は、女性活躍推進法が施行されるような世相で、「高学歴」である京大の女子はロールモデルとして大企業に採用されやすいような雰囲気すらあった。ただ、ジェンダーを意識せずに就活できるかというと全然違う。かえって複雑な状況になっていた。

法律事務所のインターンでは「女性弁護士は今後社外役員としてすごく需要があるよ」と言われ、内心では「本質的じゃない」と思った。一方で、男性の若手弁護士には「ハードワークすぎるし、みんな辞めるから、正直女性にこの仕事はおすすめしない」と言われることもあった。

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問題を提起しづらい


―近年、ジェンダーに関する大学の施策は急激に進んでいる。23年には大学が学童保育所を設置し、昨年末に文学研がトイレに生理用品を設置した。26年度入試から理工系の学部で女性限定の募集枠を設ける。それぞれの印象的な出来事を聞きたい。

永野 矢野事件が起きた時に在籍していて、連載チームにいた。(=事件の詳細は16面に掲載)ただ、当時は確固とした編集方針を立てた上で取材したわけではない。第一報の読売新聞を見て、とにかくえらいことが起きているらしいと、慌てて取材を始めた。当時法学研究科に進んでいた先輩が復帰して、取材チームに入るなど、かなり大人数で分担した。

まずは、京都弁護士会人権擁護委員会に申し立てをした被害者の代理人に取材した。初報のあった93年末頃から、継続的に記事を書いた。矢野研究室の元秘書や東南アジア研究センターの職員を取材したこともある。

―01年には文学研の教授によるセクハラ、06年には学生による性加害事件を報じた。

中川 どちらも他の編集員が担当していたので直接的には関わっていない。ただ、編集員が熱心に取材をしていたのは矢野事件からの系譜だったと思う。矢野事件のことは常々聞かされていて、自分もこういう記事を書きたいと思っていた。

 在籍時は、むしろ大学が施策を実施していなかったことが印象的。例えば、教職員のセクハラや学生の性犯罪が明らかになれば、規則に従って制裁を受けることがすでに「常識」になっていた。公になった事案では粛々と処分されていた印象。かと言って、女子学生の少なさや男性中心的な価値観、環境などジェンダーに関する学内の問題が積極的に認識されているわけでもなかった。男性と同じように過ごせるでしょうという雰囲気。

特に同世代は、バックラッシュ(※)的な教育の影響を受けて育った世代だったこともあり、学生間での問題提起自体しづらかった。京大生の生活環境に性暴力が置きやすい構造があることが認知されていないと感じて、キャンパス内の性暴力を扱う企画をやろうとしたが実行に移せなかった。自分がしないと誰もやらないけど、やっていいのかなと。

※編集部注 
00年代以降、保守派がジェンダー政策に対して反発する動きを取ったこと。

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言葉が与えられる感覚


―85年の記事には、女性の教授が4人だけとある。女性は、教員の世界でも少ない。

雑賀 女性の教官と言っても、大体が助手。そもそも学部の女性比率が低いうえに、大学院の進学率も低く、研究者になる人はごく僅かだった。

私が在籍した時の京大新聞は、政治問題や、国際問題の記事を多く掲載していた。ただ「個人的なことは政治的なこと」という意識が薄く、日常の問題を掘り起こしていなかった。

私自身、一般論として女性差別があることは分かっていたが、日常の場における問題意識がすごく希薄だったように思う。多数の男性の中に少数の女性がいるという意味で、自分は特権的な存在であり、楽しいという意識すら抱いていたかもしれない。

―今でいうセクハラに当たるような行動はどんな扱いだった。

雑賀 セクハラに該当するようなことは、自分自身の経験ではなかった。

私の場合は、大学院には女性の先輩や同輩がいた。研究でも議論でも男女関係なく行っており、特に何も感じなかった。逆に言うと、数のバランスも含めて「変だな」という意識もなかった。「私たちは女性差別とは関係ないわ」という面が強すぎて、問題意識に至っていなかったのかもしれない。女性学が出てきた時代で、フェミニズムの意識は持っている。しかし、生活の中での実感と繋がっていなかった。心の中からの苛立ちだとか、女性に課せられることに対する怒りを、体感的に感じてはいなかった。

永野 退官インタビューで取材をした女性教官は、差別的な扱いを受けた経験はないが「孤独だった」と言っていた。教授会でも、たった1人の女性で、共感できる仲間がいなかったという言葉が印象的。

私自身は鈍感というか、「女だから〇〇するな」といった類の言葉を親から掛けられることもなく伸び伸び育ったためか、女性差別について深く考えることなく大学生になっていた。ただ、フェミニズムを研究していた友人が、強く憤っていたことを覚えている。女は痴漢される危険性があるから夜道を気を付けて歩かないといけない、ということ自体が腹立たしいと言っていた。

他にも取材で、ある女性教官が「容姿をからかわれたとき、言われた女性自身が笑って流してしまうのが良くない」と言われた。当時、他の編集員に容姿を揶揄した発言をされた時、真剣に注意していなかったから強い衝撃を受けた。セクハラに該当する発言に対して、それを笑いごとにしてしまうことによってセクハラが再生産される構造を示唆された瞬間だった。

中川 私は小さい時から、日本社会は女性にとってあまりに厳しい世界ではないかと常々思っていた。それは家庭環境が影響している。稼ぎ手である父親と専業主婦の母親には力関係の差があり、実際暴力を振るう場面もあった。母親からは「主婦は弱い立場。あなたは勉強して、いい大学に入り、ちゃんとした職につきなさい」と言い聞かされていた。

京大新聞の先輩との交流や学内の事件を通して、フェミニズムやセクハラという言葉を知り、この世界に対しておかしいと思っていたことに言葉が与えられる感覚があった。

一方、大学内でも京大新聞でも、女性を容姿のことでからかう場面や、不快なことが起きても、女性が少ないために言いにくい状況があった。例えば教授が変に飲みに誘ってくるとか、身近なところでセクハラはあった。

 母親が均等法施行後第1号くらいの世代で専業主婦。娘の私は仕事を持つように育てられて、ずっとジェンダーに関心があった。

「女子は大学に行くな」とか「東京に出るな」と言われることもあるが、相対的には教育のジェンダー平等化の恩恵を受けた世代。男女はすでに平等だという意識が強く、特に京大に来ている男性は平気で「俺たち平等だ」と言うが、実態はそうじゃない。日常生活でも権力勾配や性差別はあって、「超むかつくな」と思いながら大学生活を送っていた。

私が入った時の京大新聞の先輩たちは、事実上男性しかいなかった。日常生活だけではなく、紙面の視線が男性的であることが気になっていた。ニュースの取り上げ方やコラムの内容に対して、作業しながら「おかしいと思います」と言ったこともあった。

中川 「視線が男性的」とは、具体的にどういうことか。

 私は文化面を中心に書いていたので、文芸関係の印象が強い。10年代は東浩紀などに代表されるいわゆる「ゼロ年代」評論が流行った後。編集部では、そういった人文書を読んで、議論していた。けれども、東らの批評自体、とてもヘテロ男性中心的な視点の言論だし、同性の友人と話していても、京大新聞の人が熱心に語る本を読んでいる雰囲気はなかった。

中川 サークルの中での話を、あたかも常識のように書いてしまう。

 京大の男子学生である彼らが盛り上がっている言説には偏った見方が含まれている可能性があり、関心がある人も限られるのになと思っていた。

中川 言われてみると、「君は知らないでしょう」という上から目線の態度を感じたことがあったかもしれない。知っていることをアピールしたいという思いなのかな。

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活動が楽しかった


―女性が少ない状況で居づらい面がある中、続けた理由は。

 京大新聞の活動は楽しかった。知らないことをたくさん教えてもらった。文章を書くのも好きだし、ボックスで「京大新聞はここが良くない」という話をして、面白がったり、時には真面目に受け止めて聞いてくれた思い出もある。

男性が多い中で、女性の自分がそこにいること自体が楽しいという感覚があったことは否定できない。同時に、環境への怒りもあった。「ここで自分が抜けたらあかんやろ」とは思っていた。

中川 私も単純に活動が楽しかった。取材して記事を書くこと自体にはまって、結局は今の仕事を選んだ。ただの学生じゃなくて、編集員として活動することで色々な出会いがあった。京大新聞の経験があり、新聞社に就職した。今に至る原点になっているので感謝している。

男性が多くて言いにくい雰囲気は記憶にある。ただ、私は議論する空気が大好きで続けた。みんなが喧々諤々と議論する雰囲気を、ゼミではあまり感じたことがない。様々な興味関心がある編集員と触れ合うのが楽しかった。新たな知識や考え方に触れられる場所が京大新聞で、これこそが大学だと思った。

また、京大新聞を丸々4年間続けた女性編集員は、永野さん以降途切れていた。女性がやめることに対する反発心があって、絶対私はずっと残ってやると。京大新聞は女性が居づらい環境だったのも確かで、なんとか変えたいという妙な使命感を勝手に感じていた。女性がいないと、次が入ってこないと思った。

永野 私の時は、女性が3人入って、2人残った。時折顔を出してくれる雑賀さんや少し学年の離れた女性の先輩が、憧れの存在だった。

取材して記事を書くこと、そして編集することが好きになった。京大新聞が受験生向けにつくっていた「サクセスブック」の編集をしたことが、編集者の仕事に繋がっている。

編集会議の紙面批評では何を言われるかと緊張して、針のむしろに座っているような気分だった。京大新聞での議論はすごく刺激的で、自分も賢くなったかのように錯覚した。周りの先輩は切れ者が多くて、尊敬していた。中には高圧的な物言いの人もいた。それが男性性から成せるものなのか、男女問わず京大生にそういう人が多いかはわからない。女性の方が柔らかい物言いをする印象があった。

雑賀 私は映画評や書評を中心に書いていた。みんなで議論して夜中まで発行作業をすること自体が楽しかった。視野が広い人がたくさんいて、非常に刺激を受けた。当時は研究会や社会問題を扱うサークルにも所属している編集員が多く、国際問題や社会課題に対する目が開かれた。

永野 京大新聞は合宿や打ち上げの飲み会では基本的に手酌でお酒を飲むのが良かった。研究室の飲み会ではお酌するのが当然という雰囲気があった。会社に入って、上司の中年男性に女性スタッフがお酌する場面があり、世間ではそれが普通なのかと驚いた。

 確かにロースクールに入って、飲み会で「教授の隣にしといたから」と言われた時は、学内でもこれほど感覚が違うのかと驚いた記憶がある。

ボックスには今までの編集会議の議事録が残っている



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身近な話を問題化できず


―編集部の中で印象的なことは。

雑賀 京大新聞は、マスコミに先駆けてLGBTQの運動を取り上げる動きがあった。ある時、編集員が個人的に自分の性指向を打ち明けてきた。LGBTQ当事者の友人や知人がいて、偏見など全く持っていないつもりの私は、驚きもせず変わりなく接していた。

その人はボックスの中で私以外にカムアウトすることはなかった。そして、編集員の多数が偏見を持ち、当事者がこの場にいるとすら思ってもいないことに傷ついていた。自らに疑いを持たないマジョリティが持つ、無意識だからこその抑圧がボックスの中にもあった。私がはっきりと意識化できなかったのは、女性という自分の当事者性に鈍感であったことと繋がっていると思う。

永野 ある先輩が、女性の服装でしばらくボックスに来ていたことがある。曰く、男性的な強さを求められることに違和感があり、女性の格好の方が居心地がいいと。フェミニズムに関心が強く、当事者意識があった人だったと思う。当時は、女性学とともに男性学の研究も盛んになってきた頃で、男らしさとは何かと熱心に語られていた。京大新聞で深く議論することはなかったが、性自認に違和感がある人の実在を感じたことは自分の人生にとってすごく良かった。

数年前、子どもの同級生の親から、「LGBTQの人は本当にいるの?聞いたことないけど」と言われた。京大新聞では常識と思っていたことが、世の中ではまだ常識ではないと、今頃突きつけられた。その乖離をきちんと考えて、自分の言葉を持たないといけないなと感じる。

未だに、マスメディアでは政治問題、経済問題が一番重要で、それ以外は小事という感覚がある。京大新聞の中にもおそらく、あった。

矢野氏の問題をめぐって、当初はある法学研の教授が、政治的背景をうかがわせる事件であり、それがセクシュアルハラスメントという問題にのみ矮小化されることを憂慮するという旨の文章を発表し、矢野氏を擁護していた。それに対し人文研の教授だった小野和子さんは「セクハラが小事」とされたことに強く憤っていた。セクハラは人権侵害であり、「大事」であるのにと。京大新聞では早くから矢野事件を大きく扱っていたものの、編集員一人ひとりの個人レベルにおいて、そうした「セクハラは『大事』である」という意識がどれほど浸透していたかというと心許ないところ。

 京大新聞の、学内の問題や政治課題を含めて、基本的に反体制の立場で取材する姿勢を好ましく思っている。ただ、それが自分たちの活動のあり方を振り返るというところまで必ずしも繋がらなかったと思う。

例えば、セクハラは良くないという立場で取材をする。記事で問題にしていることを、ボックスの中で意識的に顧みることがあったかは疑問だった。後輩が過ごしやすくなる環境を作るなど、もっとできることがあったと後悔している。

―現在、編集部で記事を書いている女性編集員は私だけ。入った当時は同期や先輩がいたが、本格的に活動を始めた頃と入れ替わりで来なくなった。初めてレイアウトを担当した時に生理と重なって、深夜にずっと座って作業をした。どう対処しているかを聞く先輩もいなくて、しんどいと言いだせなかった。

 私は、自分が我慢すれば良いと思っていた。話せる同期や先輩がいれば関係性ができて活動を続けやすくなるけど、人間関係の空白期間が空いちゃうと新入生はまた0からになる。

在籍時、編集員のセクハラ発言などを個別に指摘したことはあっても、女性やマイノリティの編集員が過ごしやすい環境を積極的に作ることはできなかった。属人的な関係に期待するより、仕組みで解決する方がいい。組織としてより良い形にできたのではないかと今になって思う。

永野 男性が多いと、男性の多くにとって心地良い環境が「当たり前」になりがち。私はたまたま続いたけれど、居心地が悪いと離れてしまう。

今私が勤める会社では女性が大多数で、生理でしんどいということをオープンに言いやすい環境がある。しんどい、辛いと言えるか、それに共感を寄せる人がいるかどうか環境があるかは定着に大きく関係する。

中川 世界が大きく変わり、日本は人口減少という大きな問題を抱える中、どんな企業でも、多様な属性の人間が所属することは重要だということは常識となりつつある。いわゆる「一流大学」に女性が少ないことも社会課題として捉えられている。

こうした社会情勢を鑑みて、京大新聞も性別や学部など多様な属性を持つ編集員が活躍できる組織になってほしい。それが京大新聞の発展に繋がると思う。

属性ゆえにつらいなと思う編集員がいなくなるように、みんなが楽しい環境だと思えるサークルであり続けてほしいと祈っている。

雑賀 個人的な日常の違和感やもどかしさがあれば、自分の中でやり過ごすのではなく、それを見据えて言語化し、部内でぶつけられるような風通しの良い組織であってほしい。また、周囲が違和感を抱え込んでいる人の存在に気付くことも大切だ。多様な属性を尊重してこそ、属性にかかわらない個人として接することができる。風通しがよく伸びやかなボックスであることが、京大新聞の編集活動に強さと楽しさを保証するように思う。〈了〉

パレードの様子(94年9月1日号)



雑賀さんが卒業後に登場した記事(97年4月1日号)



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取材後記 座談会を終えて


筆者は大学受験期以後、女性の置かれた状況の違和感に触れる機会が極端に増えた。京大を志望する生徒向けに開かれた課外授業に参加した10名ほどの受講者のうち、女子生徒が私だけだったこと。総合的な探究の時間で、女性管理職について調査した後、入学後一貫して京大志望だった私に、学年主任が「地方女子は受かりやすいから」と東大の推薦入試を勧めてきたこと。京大に行きたいから浪人すると伝えると、就職に障ると反対する人がいたこと。

京大新聞に入ってからも、いろいろと思うところはあった。取材に行くと「女性だったんですね」と驚かれたり、年配の男性からやけに気に入られたりする度におかしいと思った。編集部の中では、男性ばかりの中で過ごすことに少しだけ息苦しさがあった。特に1回生の時は先輩たちに囲まれて過ごし、妙に落ち着かないこともあった。

この座談会は、卒業生への取材の中で聞いた「京大新聞の歴史は97%が男性史だから、女性編集員の座談会をしたら面白いのでは」との声を受けて企画した。編集会議で記事化を検討する際、編集部の報道姿勢に加えて、編集部の雰囲気や活動に対する各個人の思いを質問する予定だと伝えると、ある先輩から「個人の感情は一般化が難しいから、報道姿勢をメインにする方が良い」と言われた。その時、企画の主旨が伝わっておらず、私が感じている属性ゆえの息苦しさは共有されていないのだなと感じ、少し切なくなったのを今でも思い出す。

「自分が我慢すれば良い」「自分が辞めてはだめだという妙な使命感があった」。座談会を通して、現在の私と卒業生との共通点の多さに驚いた。施設整備などハード面での変化はあるが、京大や編集部内の環境はそこまで大きく変化していないというのが、私の率直な感想だ。

耳の痛い指摘もあった。「日常生活での違和感をやり過ごしてはいけない」。女性であるからこそかけられる言葉に対して笑ってごまかすことが、私にもある。正面から向き合って真剣に怒るのは、場の空気を白けさせてしまうし、何よりもエネルギーを使うのが面倒である。女性だからこそ受ける発言に対して、女性として怒る必要が生まれるのは癪だ。ただ、「千里の道も一歩から」というように日頃の発言一つから変えていかないといけないのだろう。面倒だからと避けてはいけない、と諭された気分になった。

また、京大新聞にお酌を求めないなど性別にこだわらない文化があることは評価できる。しかし「対等な個人として接すること」がマイノリティがふとした時に感じるしんどさや息苦しさを消すことには直結しない。他の人からの声掛けでそれらが無くなることはなく、みんなが過ごしやすい環境を作るのは難しい。その中で、各編集員は想像力を持って人と接することが求められる。

進学に際しては性別だけではなく、出身地での格差も存在する。偶然にも、参加した4名は全員大阪府出身であった。筆者の感覚として、京大新聞の女性編集員は近畿地方や関東地方、そして福岡県の出身者が多い。一般に都市部の方が受験向けの教育サービスが充実していることや遠方への進学を認められやすいという傾向を反映しているのかもしれない。

どうしてここまで変化していないのだろう。集団においてマイノリティがしわ寄せを受けることは、理不尽なことだと思う。そのうえ「理不尽だ」と言えるのは当事者しかおらず、声をあげるのに勇気が必要なことにもうんざりする。ただ、声をあげないと気づいてもらえないことも事実なのだ。やり場のない怒りを抱えたまま、京大の、そして編集部を変えてやるんだと意気込んで、これからも粛々と記事を書き続ける。

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見返し特別編 京大新聞でたどる女性を取り巻く環境の変化


17名の女性が「正規学生」として京大に入学したのは、1946年のこと。京大新聞では、女性やそれを取り巻く環境をどのように扱ってきたのだろうか。過去の紙面から関連記事を抜粋し、変遷をたどる。(史)

見返し① 女子学生が誕生 就職での苦労も


過渡期に座談会


女性に門戸を開いた1946年から10年間において、女子学生を招いた座談会の様子を4回、アンケートを1回掲載している。

女子学生の座談会を初めて掲載したのは46年だ。参加者の一人は、女子に対する高等普通教育を行う機関がなく、ハンディキャップは大きいと述べている。

女子学生らの座談会をトップ記事とした47年の紙面では、司会者が関心のある研究内容ではなく、結婚と学問の関係や男女の交際に関する質問を投げかける。社説では、彼女らが社会的、歴史的地位を自覚しておらず、「自分は真面目だと思っているが、客観的には特権階級意識のしみこんだお嬢さまが趣味として学問をやつているとしか思えない」と表現した。

48年の社説では女子教育の発展を「阻害」するものとして「女性一般の依存性」をあげた。女子教育の問題を、女性が持つ性質に矮小化している状況が伺える。

女性教官の歩み


29年、京大は初の女性教員として、フロラ・アリス・リリエンフェルトを採用した。54年には初の女性助教授として法学部に木村静子、70年には初の女性教授として柳島静江が教養部に就任した。

85年には「女性教員の実状」と題して、女性教員懇話会がまとめた全女性教官の実態を掲載した。女性の教授がわずか4人であること、女性の多くは補助的な業務に配置されていること、全部局のうち、法・経済・理・工学部に講師以上の女性が一人もいないこと、男性と比較して昇進までの時間が長いことを指摘している。

加えて、大学の意思決定にほとんど女性が関与しておらず、「女性差別を生み出す構造」があるという。女性教員懇話会の小野和子教授(当時)は、「本学学生に女性が少ないこと自体、女性に対する差別的教育の結果だ」と語っている。

女性教官の特集記事(85年2月1日号)より、当時の教官数と学位取得率



女性教官の現状を特集する記事(85年2月1日号)



女子学生の就職事情


60年代初頭、「女子学生の数が増えると国が滅びる」とする女子学生亡国論が唱えられ、議論が起こった。大学の限られた定員を「将来経済的に自立する意思のない女子学生が占有すべきではない」との主張があったという。対して、66年の理学部助教授は、寄稿の中で女性が「独立へ『潜在能力』を保有しておくことは重要な意義をもっている」として、亡国論を批判する立場を示した。

女子学生の就職が紙面で本格的に取り上げられるのは、80年代になってからだ。80年に掲載したインタビューにて、東京学生就職センターの清水室長(当時)は、企業側が女性に事務仕事を求めるのに対して、四大卒の女性はマスコミ・編集を希望する傾向があり、就職が困難になると分析した。また、企業側が「結婚適齢期」を意識して企業が勤務年数を限定する状況もあるという。編集部は、企業の固定概念を覆すのは四大卒の女性活躍以外にないとして、女性の「真剣な取り組み」が必要だと提言した。

88年には、就職活動を行う女子学生2名にインタビューを実施。女子学生は、男子よりもOBからの電話が少なく、資料を請求しても無視されることがあり「露骨に不利なのが見える」とこぼした。

95年には、男女雇用機会均等法の10年を振り返る特集記事を掲載した。ここでは、住友金属における女性差別の問題(※)に触れ、差別の実態や均等法の問題点を弁護士らに取材している。

※編集部注
住友金属は女性が昇格・昇給できない仕組みを作り運用していた。05年、大阪地裁は「不合理な差別で違法」だと判断し、原告が全面勝訴した。

京大女子学生の就職意識(88年7月16日号)



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見返し② 教員・学生の性加害 大学のセクハラ処分


セクハラ被害が明らかに


73年には、文学部西洋史学科の女子学生が、教官から「女性差別に基づく不当な『指導』と圧力」を受けて大学院へ進むことができなかったことがわかった。担当教官は、5か国語を習得するように指示するのみで、教育的な指導を行わなかった。不合格の理由を問うと、担当教官は「論文の字が汚かった」「君の性格じゃ無理だ」と発言し、両親に「女性差別に満ちた手紙」を送ったという。学生は「支援の会」を立ち上げ、団交を行うなど抗議する姿勢を示した。

93年には、東南アジア研究センター所長・矢野暢氏が、複数の女性職員に対して性暴力を行っていたことが明るみに出た。京大新聞は、他紙報道を追う形で記事を掲載。のちに行われた裁判の判決が出るまで、「研究室の虚像」と題した記事を10号以上に掲載し、報道を続けた。

96年には、女性教官懇話会が大学での性差別の調査を実施した。女性教員89名のうち、▽38%が「学生時代に性差別があった」▽46%が「就職後、男性と同等に扱われていない」▽不快な性的言動について、49%が「周囲で見聞きした」、24%が「経験ある」と答えた。集計結果では就職に関する差別が目立ち、「大学院は男子に譲るよう言われた」「研究職として就職したが、研究費や部屋が与えられない」などの回答があった。また、女性卒業生589名への調査によると、47%が「直接つながりのある教職員から不快な性的言動を受けた」という。「当然のことのようにお茶くみや掃除、お酌をさせられた」「性的な話をされた」などの声があり、中には「交際や性行為を求められた」「強姦未遂/強姦された」という回答もあった。田辺玲子・総合人間学部助教授(当時)は京都新聞のコラムで、卒業生の約半数は性差別や性被害の経験がなく、見聞きしたこともなく、「問題があることがまったく信じられない」という記述が多く見られたことに触れた。その上で差別の構造が隠ぺいされたまま存続する場合が多いため、苦しんでいる人がいる事実を広める必要性を指摘した。

98年には「キャンパス・セクハラ 大学のジェンダーバイアスを考える」と題した座談会企画を実施し、菊地夏野氏や佐藤公美氏ら4名が参加した。学問自体に差別性があり「労働者=男性」「家庭=女性」などの性を規定する前提が存在するとの発言がある。01年の1月号には、甲南女子大学助教授(当時)の牟田和恵氏へのインタビュー記事「大学はセクハラだらけ」を掲載した。

矢野氏敗訴(97年9月1日号)



「キャンパス・セクハラ 大学のジェンダーバイアスを考える」(98年1月1日号)



無くならない性被害


01年には文学研の教授が学部生にセクハラをしたとして、学内で処分が検討された。学生は99年から半年間被害を受けており、大学院の合格を辞退し被害を申し出た。「指導」と称して研究室や喫茶店に呼び出したり、「自分の指導がなければ、研究者としての将来はなくなる」などと発言したという。5月には、評議会が停職3か月とすることを正式に決定し、文学部は卒業や院試に関わる論文指導を10年間禁止する措置を講じた。京大では刑事事件以外で教員が懲戒処分を受けたのは初めてだったという。

学生も加害者に


06年2月には、京大生3名が女子学生2名に対する集団準強姦罪で起訴された。3名は、鍋パーティーに参加した2名に「焼酎ルーレット」と称する遊びで大量の酒を飲ませ、泥酔状態になってから犯行に及んだという。大学は調査や処分を協議する特別委員会、課外活動全般のあり方を考えるワーキンググループを設置するなど対応に追われた。以前3名が所属していたアメフト部も、事件を受けて練習を自粛した。3月、京大は3学生に放学処分を下した。特別委員会は、集団準強姦罪で起訴されたことや、女性の人権を踏みにじる「大学における人の共同生活の基本を弁えない犯罪」だと判断したという。学生の放学処分は、1953年「荒神橋事件」以来。9月、京都地裁は3名に有罪判決を下し、中には懲役5年半の実刑処分もあった。

15年には、「学生の本分を守らない者」であるとして、わいせつ行為を行った工学研の修士1回生を放学処分とした。学生は路上で女性に道を尋ねた際にキスしたなどとして逮捕され、懲役1年6カ月、執行猶予3年の判決を受けたという。

京大生3名が準集団強姦罪で起訴(06年3月1日号)



懲戒処分で粛々と対応


03年、教育学研の教授が過去のセクハラ行為が発覚した後に辞職した。98年、当時他大学の学生だった女性に対して、路上でキスを強要し、宿舎で部屋に呼び出そうとしたという。教授が京大に転勤したため、女性は京大大学院への進学を諦めた。女性からの申し出があり、個別に調査を行った結果、京大は98年の行為をセクハラと認定した。教授会は、厳重注意を行い、教育活動の自粛を求めた後、教授は自主退職した。

06年には、指導下にある女子大学院生の体を触ったとして、情報学研の男性教授に停職2か月を下した。研究室内や学外の路上で複数回触ったという。院生が弁護士を通して尾池総長宛てに申告書を送ったことで、被害が発覚した。

翌年、人間・環境学研の男性教授が女性研究者に身体を触るなどのセクハラ行為をしたとして、停職6か月の処分が下った。ただ、教授が年度末に退職する都合上、処分は実質4日間の停職であった。

21年、出張先で他大学の女子学生の胸元をスマートフォンで盗撮したとして、薬学研究科助教に停職2か月の処分を下した。関係者からの聴取と警察が起訴猶予処分を下したことを受け、京大は盗撮行為を事実認定した。助教は一貫して「覚えていない」と主張し、反省の弁は述べていない。

23年、同僚の職員に抱きつくなどの行為をしたとして、医学研の准教授を停職6か月にした。24年には、指導下にある学生に好意を示す発言や、手を握ったり肩を抱いたりしたとして、理学研助教を諭旨解雇とした。同年、事務職員が同僚に卑猥な発言をしたとして、減給処分とした。いずれも、京大は被害者を不快にさせるセクハラに該当すると認定した。

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見返し③ 大学の施策 積極的な姿勢も


00年代以後の施策


95年に部局ごとの性差別相談窓口を設置することが明らかになった。総人学部・人間環境研は相談窓口教職員を設置するものの、他学部は学部長や評議員、事務長が対応にあたる方針。解説欄では、東南ア研の問題は当事者が部局長であったことから部局単体での解決が困難であったと指摘し、実質的に「男性社会」を擁護する機能を果たすとの懸念を示していた。実際、先述した「キャンパス・セクハラ大学のジェンダーバイアスを考える」(98年掲載)において、菊地氏は実態調査の結果、窓口へ全く相談がないとわかったという。学部長など「権力のある男性」が主な構成員であり、相談までに心理的負担が生じるため、全学的な支援体制が必要だと述べている。97年には、文学部でセクハラ防止のパンフレットを発行することが決まった。セクハラが労働災害であり、性暴力であることを伝える狙いがある。京大の部局としては、初の取り組みであった。

05年には、男女共同参画の全学委員会が発足した。全学的な知見から、男女共同参画の基本的な方向や具体的方策を調査・検討する体制を作ることが狙い。理事2名と教職員の15名で組織された。体制検討プロジェクトは、今後の課題として、▽人事・雇用対策のあり方▽育児・介護環境の充実方策▽研究事業やシンポジウムなど、学内への啓発活動の実施をあげた。同時に、05年5月時点の京大教職員の男女数のデータも掲載している。教職員(教授、助教授、講師、助手)の人数は男性2720名、女性1916名。事務・技術職員は男性1139名、女性1121名とほぼ同数だが、医学部附属病院の職員数を引くと、男女比は約2対1となり、「大きな不均衡がみられる」と表現している。

翌06年には、国の科学技術振興調整費に京大の「女性研究者の包括的支援『京都大学モデル』」が採択された。優れた女性研究者が最大限の能力を発揮する体制を作ることが目的。3年間にわたり、総額15億円を支給する。同年時点では、研究者における女性比率は6・6%で、全国の大学で2番目に低い数値であったという。07年、女性研究者支援センターが医学部構内に開所した。松本理事は、「アファーマティブ・アクションではなく、女性研究者のキャリアの障害を除く形でやりたい」と抱負を述べていた。

同時期から「シリーズ・男女共同参画のゆくえ」を連載した。大学の調査では、女性教員と女性大学院生から出産、介護、育児への支援が足りないという声が多かったという。また、重要なポストに就く女性が少ないことも重大な問題であると指摘している。対して京大はあくまでも昇進は業績に基づくものであるため、性別による取り扱いに差を付けないと表明している。このシリーズでは、京都市男女共同参画センター「ウィングス京都」や同志社大学教授に取材を行った。

13年には、男女共同参画を担当する副学長を設置した。

性差別相談の窓口設置が決まる(95年7月1日号)



女性研究者支援センター開所(07年5月1日号)



男女共同参画のゆくえ(最終回)(06年11月1日号)



積極的な取り組み目立つ


20年度以降、女子学生に対する積極的な施策が目立つ。

21年には、女性卒業生による同窓会「ここのえ会」を設立し、女子学生や女性研究者等へ緩やかな支援を行っているという。23年にはキャリアイベントの様子を記事化した。

23年から「女子学生チャレンジプロジェクト」として、女子学生がリーダーを務める研究活動を支援している。応募の中から5件程度を採択し、最大100万円を支給する。

24年には、理学部と工学部の特色入試において「女性募集枠」を26年度入試から設けることが明らかになった。極端に女性比率の低い両学部において「多様性が増すことで、大学教育が活性化し、研究の質の向上にもつながる」と考えたことから、設置に至ったという。今年3月末からは生理用品の試行設置が開始した。

女性募集枠の設置(24年4月16日号)



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コラム① 編集員の属性 男性/文系多い


50年代から現在に至るまでの京大新聞編集員の属性を見てみよう。参照するのは、京大新聞の同窓会組織「インテル会」の名簿だ。

◆女性比率の推移


①は、京大新聞における女性編集員の推移を表している。90年代までは、各世代0~3名となっている。00年代以降、全体人数の増加に比例するように女性の人数が増加し、現在まで、女性割合は増加傾向にある。

名簿の記載や筆者の実感を鑑みるに、複数人でまとまって入部し、まとまって卒業するように思う。そのため、女性が少ない時期が定期的に発生しているのではないだろうか。

①京大新聞の卒業生(50年代~)および在籍生の世代別の女性編集員の割合(世代は入学年で計算した)



◆編集員の所属学部


②は、編集員の学部の累計を表したグラフだ。③の1学年における入学者数と比較すると、文・法・経済と文系学部が強いことが際立つ。その後、農・理・工の理系学部と教育がほとんど同じ人数で並び、新設された総人が続く。医・薬は希少な存在であると言える。

②京大新聞の卒業生(50年代~)および在籍生における学部の累計人数(縦軸は人数)



③2024年度学部入学者数(縦軸は人数)(①②は京大新聞の卒業生名簿、③は京大の資料を基に編集部が作成)



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コラム② 聞き手の態度に疑問


◆女子学生とアルバイト


47年には「女子学生も荒仕事を」との見出しで夏休みのアルバイト事情を掲載した。ある女子学生は「知的な仕事をのぞむ人が多いが、荒仕事か水商売でないかぎり、報酬が少ない」と述べる。

51年には観光バス会社が「案内ガール」の求人申し込みを行った。女子学生の応募はなく、複数の男子学生が「男ではだめか」と問い合わせに来たという。

◆編集員の発言・態度


先述した47年の座談会の記事の詳細を見てみよう。「学問をしたい気持ちが強い」と述べた参加者に対し、編集員は将来のことを考えないのは男性にもたれかかっているからだとして、「将来の日本女性の先頭に立つ人としては頼りない」と発言している。

編集員は、「卒業してすぐ結婚しても今の社会的通念によると晩婚になる」と述べ、結婚を前提として学問にどう向き合っているのかと問うている。さらに「雑談の中で女子大出だと聞くと辟易した」との発言に対しては、参加者が「学問を修めた女性は生意気だということに、男は女を使うものだという前提がある」と指摘している。結婚後は潔く学問を捨てると述べる人がいる一方、「学問した女性はオールド・ミスで、いわゆる普通の家庭生活はできないように一人決めしている」と考えを示す人もいた。

◆見返し①の総括


京大に女子学生が誕生した当時、女子大学生という存在が希少であり、女性が大学で学問をすることへの理解が得られていない状況があったと推察される。編集員とのやりとりや社説を見てもわかるように、男子学生や教員側も、女性は結婚して家庭に入るものだという固定概念を持っていたことがわかる。

もし、当時男子学生に対して座談会企画を実施していたら、学問と結婚・男女の交際に関する質問を投げかけていただろうか。

また、聞き手が取材対象の女子学生に対して、「先達としての意識が足りない」という指摘をしていることに対して、筆者は失礼で余計なお世話だと思わざるを得ない。

就職状況を見ると、四大卒の女性が希望職種に就職することが難しかった。座談会でも触れられたように、女性であるがゆえに就職活動で不利だと感じる状況があったようだ。

95年頃から、女性に対する視線の変化を読み取ることができる。男女雇用機会均等法について、問題点を指摘して専門家に取材をする記事からは、法律や社会構造の問題に注目する企画者の意図が見える。

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コラム③ 「矢野事件」のあらまし


本稿では、『京大・矢野事件:キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの』(小野和子著・インパクト出版会)と本紙の記事を参照し、事件の詳細を振り返る。

93年1月にセンターの所長だった矢野暢氏は、ある日センターの非常勤職員の妹の写真を見て秘書に採用しようと考え、ホテルで面接を行った。面接で「君は能力がないから夜のつきあいをしなさい」と発言し、言うことを聞かないと姉を解雇させると脅したという。後日矢野氏は謝罪し、念書をしたためた。

センターでセクハラ事件が半ば公然になりつつある中、他学部の教授も含むセンターの意思決定機関・協議委員会は、矢野氏を所長に再選した。背景には、4年間で総額5億円の科学研究費が配分された巨大プロジェクトの発足があったという。

再選後の4月、矢野氏は2名の秘書に対しホテルでわいせつな行為に及ぼうとした。6月には新しい秘書にエレベーターで抱きつき、被害者はセンターの事務長に事情を訴え出たことで、センター全体に知られることになった。

センターの女性職員の半数が加わった女性職員有志が、部門長会議へ質問状を出すも大学は調査を実施しない。矢野氏は突然所長を辞任した。有志は辞任によって問題をうやむやにしようとする状況に危機感を持ち、文科省にも質問状を送付することで、京大は調査を開始することになる。有志の一人であった女性助手が調査を担当し、被害者に聞き取りや陳述書執筆の依頼を行った。

矢野氏から強姦されたと訴える女性・甲野乙子さん(仮名)が弁護士を代理に立てて人権救済を申し出たことを12月17日に読売新聞が報じた。これを受け、矢野氏は京大教授を辞職した。調査の要望を受けるも、大学は「事件は矢野氏の特殊な人格によってもたらされた特殊な事件」だとして、被害者への経過説明は行うが謝罪はしないという立場を示した。

翌年1月、人文研の教授である小野和子氏が矢野氏の問題についての原稿を京都新聞に寄せた。小野氏は、矢野氏を擁護する論調を批判するため、「3件の比較的軽微なセクハラ」「一人の女性の、レイプに始まるすさまじいまでのセクハラの証言」との表現を用いた。

対して矢野氏は、小野氏の記事で名誉を毀損されたとして、1千万円の損害賠償を求める訴えを興した。他にも、「辞職承認処分は無効」として、文部大臣に行政訴訟を起こし、甲野乙子さんとその代理弁護士に対しても名誉棄損を訴え損害賠償を求める訴えを起こした。小野氏への訴訟では、セクハラとレイプが事実か争われた。京都地裁は、レイプと1件のセクハラは真実、2件のセクハラは真実と認めるに十分な証拠があるとして、矢野氏の訴えを退けた。他の訴訟でも、矢野氏は敗訴した。

小野氏は事件と裁判を契機として「大学という男性優位の社会のなかで、セクハラが構造的に存在し、教育環境あるいは研究環境を悪化させていることが、あらためて認識されるようになった」と述べ、センターが「わずか10行ほどの、形ばかりのコメントを『京大新聞』という学内紙に発表したのみ」であり、被害者への謝罪も不十分だと批判した。

実際の紙面を見ると、井村総長(当時)は94年9月に「いわゆる『セクシュアル・ハラスメント』疑惑が起こったことは、誠に遺憾」という見解を示した。判決が出そろった97年4月、センターは被害者・関係者に向けた文書を発表した。文書は15行程度の長さであり、▽センターでの調査においてセクハラの事実確認に至らなかったことを反省している▽被害者・関係者に「多大なご迷惑」をかけたことにお詫びすると述べている。

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コラム④ 学外への影響 近年は淡々と処分


◆セクハラ事件への反応


94年には「矢野問題 勉強会開かれる」というTOPICの記事が掲載された。大阪の女性たちで作る自主学習会が主催したもので、一連の問題に関する事実確認や強姦法についての議論があったという。

95年5月には、東京大にて「キャンパスの性差別を考える」と題したシンポジウムが開催された。シンポジウムの後半には、「小野裁判連絡会」のメンバーや京大職組などが呼びかけを行ったという。また、京大に相談窓口が設置される予定だとの報告に対しては、実効性がある解決策が必要だという意見や、「下手なものができるくらいなら、作らない方がまし」という声があった。97年には、上野千鶴子氏らを招き、矢野事件やセクハラを考えるシンポジウムが京大で開催されている。

矢野事件の勉強会(94年9月16日号)



◆院生からの投稿


13年には「民俗学Ⅰ」の講義で、教員が「これからグラビアアイドルの写真を見せるのでいやな人は帰りなさい」と発言し、実際に写真を資料として見せたことに対して、院生から匿名で寄稿があった。

教員は民俗学の考え方や概念を説明する目的で、グラビアアイドルの画像を投稿する掲示板コミュニティを取り上げたという。院生は▽性的な内容を講義で扱う際の最低限の配慮がなく、自ら単なる性的コンテンツの一消費者として振る舞ったこと▽見たくない人は帰るように指示したことで、履修機会を不当に奪うことになることを指摘したうえで、明らかなセクハラであると批判した。

◆見返し②の総括


「矢野事件」は、学内におけるセクハラ・レイプの存在を明るみに出す大きな契機となった。学外でもシンポジウムや勉強会が開催され、活発に議論されていることからも見て取れる。ただ、矢野事件以前に行った女性教官、女子学生へのアンケートでもハラスメント行為があったことがわかる。大学が把握し、処分を行った事案、そして京大新聞が記事化したことは氷山の一角に過ぎず、声をあげられなかった存在があるのではないかと感じる。座談会でも関連した話があったが、過去の記事においても自身の経験がないからこそ実感を持って被害を想像できない女性の存在を指摘している。

また、00年代の中ば以降は大学が規則に従い淡々と処分を下すという特徴を指摘することができる。

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コラム⑤ 育児・保育の支援 学生生活の一端も


◆保育を取り巻く環境


95年には「大学生が親になる時」という企画の連載を始めた。「子どもを産んだらどうなりますか」。相談室を訪れた学生は妊娠3か月で、大学からの支援内容を知りたいと訪れた。相談員は大学からの支援は無いと述べたうえで、学生が親の手助けなしに、未婚で子育てをするのは大変だと答えている。記事の末尾には「この話は事実です。反響をお待ちしております」と添えられている。

07年からは54年から始まった京大の保育運動を振り返る「京大で子どもを育てる」という企画を掲載している。京大は65年、乳児を持つ母親が授乳時間を確保するために西部構内に京大保育所を開設し、69年には0~3歳児対象の認可保育所「朱い実保育園」となった。

23年には、教員・学生が研究と子育てを両立するのを支援するために、京大は学童保育所を開設した。対象は小学生の児童で、土日祝日および小学校の長期休業中に開所する。

学内保育所の変遷(07年10月1日号)



◆ある京大生の同棲日記


京大新聞には、学生生活の様子も反映されている。95年には「下宿生の生活形態異色編」にて同棲する2人の生活を取り上げている。気付いたら一緒に暮らすようになり、授業にも出なくなった……。地元の友人に同棲しているというと、「流されている」「男にうまく利用されている」と評判が良くない。ただ、自分は間違ったことをしているわけではなく、「同棲って楽しいよ」と胸を張っていうことさえできると締めくくった。

◆見返し③の総括


95年頃以降、京大は女性研究者への支援組織の設立や理事を置くなど、拡充の動きが伺える。20年代になると、女性卒業生の同窓会組織の開設、女子学生の研究支援、女性募集枠の設置など、女性研究者や女子学生を支援しようとする積極的な動きがあることが指摘できる。

研究者と学生の取り扱いについて、一概にまとめられるわけではない。ただ、京大は女性研究者支援センターを開設する際にアファーマティブアクションに消極的な姿勢を示したが、近年は一部学部・学科の入学試験においてアファーマティブアクションとしての「女性募集枠」を開設を発表した。

背景には、京大の学部における女子学生比率は00年代初頭に20%に達するも、その後の約20年は長い「伸び止まり」となっている状況があると推測する。とりわけ学部の女子学生を増やしたいという思いが、より積極的な施策につながっていることが伺える。大学において、女性に対するアファーマティブアクションが必要とされなくなる状況はいつ生まれるのだろうか。

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