〈百載無窮〉京大新聞ができるまで
2025.04.01
※「百載無窮」のほかの記事はこちら。
薄暗く無機質な部屋で、議題書が壁に投影されている。編集員の語る言葉が書記担当によって、議事録にパチパチと入力されていく。編集会議だ。紙面検討や新議題の採否などを決める、京大新聞の意思決定機関である。京大新聞には編集長がいない。多数決の論理もない。毎号持ち回りの発行責任者や議事進行役、議題提出者らを中心に、ときに淡々と、ときに戦々恐々と、ときに穏やかに議論は進む。各編集員は、SNSや大学HPなどから集められた「記事ネタ」の中から執筆したいネタを、ときに意欲的に、ときに受動的に選ぶ。
京大新聞の記事は大きくニュース記事と文化記事に分けられる。ニュース記事では主に大学運営や学生寮の動き、教職員の懲戒処分などが扱われる。文化記事では書評や映画評、体育会やサークルの活動などを報じる。京大新聞では、ニュース記事と文化記事の執筆担当者が隔てられていない。「ニュース部」や「文化部」といったタコツボ化を誘発する部署なるものは存在せず、ニュース記事も文化記事も、好きな記事を執筆できる。しかしながら、自然とタコがツボの中に入って行ってしまうことは多々ある。
ニュース記事の執筆者は大抵、はじめに取材メールを送信する。送信先は京大広報課や寮自治会、学祭事務局といった、関係する団体・部局である。文化記事の執筆者は担当記事に関係する博物館やサークルなどに取材依頼をし、取材を行う。取材が終わると記事執筆者はそれぞれ筆を走らせる。書評や映画評の場合は、小説・映画を鑑賞後に論評を書き上げる。締切日までに記事の初稿をオンライン上に提出しなければならないが、締切日の形骸化は目下、京大新聞の課題である。
提出された記事は他の編集員によって「朱入れ」が行われる。些細な表記や表現の誤りだけでなく、段落構成、執筆意図について抜本的な朱が入ることも多い。学年に関わらず忌憚なき意見が朱入れを通して述べられるという点はありがたいが、自分の記事に大量の朱が入ってしまうと、鴨川のせせらぎや比叡山に昇る朝日でさえ癒せない心の傷になる。とはいえ朱入れは貴重なため、尊重しつつ取捨選択しながら記事に反映し、より良い原稿を作り上げる(取捨選択しないと、もはや自分の記事ではない「テセウスの船」になってしまうこともある)。
こうして作られた記事は発行日の前夜に、DTPソフトであるインデザインを用いてレイアウトを施される。各記事は字数制限を設けずに執筆されているため、紙面に整列させるのは至難の業だ。「腹切り」や「しりもち」と呼ばれる禁則事項も避けなければならない(=12面百載無窮参照)。レイアウト担当者は夜を徹して記事を一面に整列させる。作業が翌朝までかかる事もしばしばだ。レイアウトが完成するとゲラを部室のコピー機で印刷し、誤字脱字・人名の正誤などのチェックをする。最終校正と呼ばれる作業だ。(晴)や(鷲)のように些細な誤りも見落とさない編集員もいれば、筆者のように、1つも誤りを見つけられずソファに埋没する編集員もいる。より多くの編集員の目に触れることが重要である。こうして最終チェックを経た原稿は印刷会社に送られ、その日の夕方には完成した紙面が配達される。この瞬間、京大新聞が完成するのだ。
出来立ての新聞は少し湿っている。ページを開くとインクの匂いがする。レイアウターが身を削って造った轍を、視線が辿る。「いい写真だ」「いいレイアウトだ」と自画自賛。徹夜明けの編集員の顔にも笑みがこぼれる。やはり新聞は紙でないといけない。新聞は斜陽産業だとよくいうが、それでも夕日は美しい。早く星空が見たくなるし、早く朝日が見たくなる。街全体を染めてやる、という気概もある。
コーヒーを豆から淹れたり、音楽をレコードで聴いたりするように、紙の新聞を作る。流行らなくたっていいじゃないか、好きなのだから。(燕)