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〈書評〉一体化する日米のまなざし 『アメリカ・イン・ジャパン ハーバード講義録』

2025.04.01

〈書評〉一体化する日米のまなざし 『アメリカ・イン・ジャパン ハーバード講義録』
ペリーの「来航」はアメリカから見ればペリーの「遠征」であり、アメリカ軍による「空爆」は日本から見れば「空襲」である。言われてみれば当たり前だが、「日本史」や「世界史」を学習しているとつい忘れてしまう。そんな事実を提示するところから始まる本書は、社会学者の吉見俊哉氏が2018年にハーバード大学で行った講義を記録したものである。本書では「日本の中のアメリカ」として、ペリーやミッションスクール、空爆から戦後のマッカーサー、原子力政策、ディズニーランドまでを取り上げる。講義は単なる日米関係史にとどまらず、両者の「まなざし」の相違やそれが一体化していく様を鮮やかに描き出す。

第6講「空爆する者 空爆される者」で示される日本とアメリカのまなざしの相違は興味深い。日米戦争における日本とアメリカの非対称性は軍事的・経済的なものだけではなかったと著者は指摘する。大衆レベルでのまなざしにさえその非対称性はあったのだという。アメリカから日本に向けられたまなざしは極めて冷徹なものであった。歴史学者であるジョン・ダワー曰くそれは「猿としての日本人」であり、保守的であろうと自由主義的であろうとそれはあらゆる出版物に表れていた。「猿」であるならば無差別爆撃は「狩り」となり、多くの「成果」をあげることが求められる。

一方で、日本にとってのアメリカは「鬼」であった。ただし、表象されたのはルーズベルトのような政治指導者だけであり、「アメリカ」全体をまなざす枠組みが欠けていたのだという。その差異の根底には進化論的な人種主義の有無があったと著者はいう。日本に人種主義的な視点や差別感情がなかったわけではない。著者が指摘するように、日本が国内博覧会でアイヌ民族や台湾の先住民を「人間動物園」に展示していたのがその証左である。重要なのは、その人種主義をアメリカに適用しなかった、適用できなかったことにあるという。「鬼」という日本の伝統的な「異人」のイメージを政治指導者に当てはめるのが精一杯であり、「アメリカ」全体を捉え、戦争の大義名分に使うべき「悪」を定義づけることはできなかった。もしもアメリカの「悪」を追及しようとするならば人種差別に照準を合わせるべきだったが、日本のアジア支配自体が人種差別を内包していたためにそのレトリックには限界があったという著者の指摘は鋭い。

敗戦を経て日本からのまなざしはアメリカへの一体化、すなわち「抱擁」に向かう。その典型がディズニーランドであった。「豊かさ」への羨望としてのアメリカへのまなざしは、明治時代から一貫して日本人が抱き続けたものである。ディズニーランドが特異なのは、そのまなざしが包み込まれた環境の中で作用し、「アメリカ」を消費することにある。訪れたことのある人ならば気が付くかもしれないが、ディズニーランドでは、巧みな障害物の配置により内部から外部の景色を見ることができない。来園者は1つの入り口から入り、明確に区分けされたそれぞれのエリアの世界観に入り込む。その世界というのがまさしく19世紀以来の「アメリカ」であるという。ウェスタンランドは西漸時代、アドベンチャーランドはその海の向こう、ファンタジーランドは宇宙への進出というように。しかし、これらの本質は「侵入と征服の物語」にあり、東京ディズニーランドには「ペリー提督の大遠征」というアトラクションが加えられるべきだと皮肉を交えて著者はいう。来園者はこうして、閉じられた空間の中でアメリカ人のまなざしに自らのまなざしを重ね合わせる。著者によれば、ディズニーランドの成功は日本人の意識がアメリカに包み込まれたことの証明であったのだ。

著者は前述した第6講の中で、空襲にあった人々を指して「人間は極限的な状況に追い込まれると『まなざし』を失う」と述べている。不確かな時代の中で「まなざし」を失わないために、そしてその「まなざし」はどこからどこに向けたものであるのかに自覚的であるために、本書はその視座を与えてくれる1冊である。(省)

◆書誌情報
『アメリカ・イン・ジャパンハーバード講義録』
吉見俊哉著、岩波新書
2025年
1060円+税

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