〈書評〉高村光太郎著『智恵子抄』(2016.8.1)

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現代の私たちを問う純愛


『智恵子抄』には、彫刻家であり高村光雲の息子でもある高村光太郎が、妻の智恵子について書いた詩が集められている。智恵子は青鞜の表紙の絵を描いたことで有名な洋画家だ。この詩集は物語性があるので、普段詩を読まない人にも最適だ。

智恵子と出会う以前、高村光太郎は創作がうまくいかず、金もない退廃的な生活を送っていたと自分で語っている。そんな中、グロキシニアの鉢植えを持ってアトリエを訪れた智恵子と出会う26歳の時である。やがて智恵子から熱烈なラブレターが届くようになる。初めは恋愛関係への躊躇を表す「おそれ」といった詩も作られる。

「いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない」「その一個の石の起す波動は あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない 百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない あなたは女だ これに堪へられるだけの力を作らなければならない それが出来ようか」。

しかし、二人は恋愛関係になり、同棲生活を始める。周囲の人々からはそんな二人に対して無責任な憶測や噂話、ゴシップが流れる。それに対するのが「或る宵」という詩である。

「彼等の欲する真面目とは礼服の事だ 人工を天然に加へる事だ」「我等はただ愛する心を味へばいい あらゆる紛糾を破つて 自然と自由に生きねばならない」「自然は賢明である 自然は細心である」。

大正元年の詩だというのに、恋愛に悩む現代人にとって、これほど勇気づけられる言葉があろうか。他に智恵子への純愛を表現した詩に、「人類の泉」という詩がある。

「私にはあなたがある あなたがある そしてあなたの内には大きな愛の世界があります 私は人から離れて孤独になりながら あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します」。

さらに、「僕等」という詩がある。「僕等にとっては凡てが絶対だ そこには世にいふ男女の戦がない 信仰と敬虔と恋愛と自由とがある」。どんな少女漫画よりも純愛すぎてついていけなくなるほどである。

二人は貧しいながらも創作に打ち込み、互いの創作を深く理解し愛しあう生活を続けるが、智恵子が統合失調症に倒れる。光太郎が回想するに、「彼女は宿命的に持っていた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観とのあざなわれた波濤の間に没し去った」。正気を失っていく妻をなおも光太郎は愛し続ける。「風にのる智恵子」という詩がある。「もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ」。さらに「値ひがたき智恵子」では「わたしをよぶ声をしきりにきくが、 智恵子はもう人間界の切符を持たない」。これらの詩は涙を誘う。その後、智恵子は粟粒性肺結核で入院し亡くなった。レモンを食べた瞬間だけ一瞬正気に戻り亡くなっていったという「レモン哀歌」という詩がある。残された光太郎は詩を書き続ける。その極みが「元素智恵子」である。「智恵子はすでに元素にかへつた」「智恵子はただ嬉々としてとびはね わたくしの全存在をかけめぐる」。光太郎は智恵子を死ぬまで愛し続ける。

大学生ともなると、個人差はあるが恋愛の機会は増える。その時、セックスを正当化するためだけに付き合っていないだろうか。アクセサリー感覚で付き合っていないだろうか。詩「或る宵」でいう「自然と自由」はそんな意味ではないはずだ。恋人とは、お互いを深く理解しあうパートナーであり、命を分けた存在である。たとえ別れても「元素智恵子」のように恋人は肉の至る所に偏在して、存在の一部になっている。それは理想論だろうか? 私たちの身近な人間関係にそのチャンスはあり、私たちは自らの心の自然と自由を放棄しているだけではないだろうか? 道徳は他人から課せられるものではなく、自らと他者を尊重してくる気持ちから起こってくるものだ。純愛は偶像ではなく、自ら生み出していくものだ。『智恵子抄』は恋愛に限らず、生きる意味について考えさせてくれる詩集である。自由に、自然に、愛する人たちと生きようではないか。普段本なんて読まない方にも、ぜひ一読をおすすめしたい。(竹)

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