〈新歓企画〉上杉隆講演会 「マスメディアとプライバシー ~炎上しない大学生活~」(質疑応答編)(2012.05.16)

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―今後、言論を多様にしていくためにどうしていくべきか、ご意見を聞かせてください。


私がNYタイムズに入った1999年にも「記者クラブ問題」というのがありました。つまり記者クラブと称しているテレビ局・通信社で作られた任意のカルテ、談合組織によって、日本の情報というものが一元化されてしまう。海外メディアも、フリーも、雑誌も入らない。日本はまた「大本営」のようなことをやるんじゃないかな、と思いました。だから、なんとかこれを開放しなければならないと思ったのが99年です。実際、彼らはそのようなことをやってきました。

今ならば皆さんも「記者クラブ」についてある程度知っていると思いますが、以前京大で講演を行った2008年時点ではそれを説明するのにかなりの時間を要しました。人々にこれを認知させることが私の目的でした。実際、それについてはかなり達成できたと思います。私の言っていることが正しいと思うことはないんです。でも、私が「記者クラブ」「記者クラブ」と言っている中で、「「記者クラブ」って何だろうか」と疑問に思ってくれる人が10人に1人でもいればしめたものです。そういう考えのもとで2001年から色々な講演をやり、その後も記事、何冊かの本を書いて、記者クラブの問題を説いてきました。こんなことをすれば「大本営」と同じ道を行くことになるよ、という警告を行なっていたわけです。実際のアプローチとして、政府に働きかけるということもやっていました。「「記者クラブ」というのは何ですか。税金で作り、電気や水道なども含めて税金で運営している組織なんです。なんでプライベート・カンパニーにそんなことをするのだ。法的根拠を言いなさい」というようなことを言うと、誰も答えられません。なぜなら法的根拠なんて無いからです。唯一あるのは昭和33年の大蔵省管財局通達。それが「報道機関に便宜を供与する」と言っているだけなんです。だからこれは不法占拠だと思っています。

そのようなロジックで政治家にアプローチしてゆき、最終的には小沢一郎さん、岡田克也さん、鳩山由紀夫さんら民主党代表に、「政権交代したら、かならずこれを開いてほしい。これは日本の民主主義にとっての危機だ」と。そういうことを言っていたんです。その当時から、当時野党だった民主党の議員と会うたびに記者クラブ、話をすれば記者クラブ、口を開けば記者クラブ、酒を飲んでも記者クラブ、ゴルフをしても記者クラブ、ということをやってきました。そういう中で政権交代をし、岡田さんや原口さん、枝野さんらも約束を守ってくれて、少しだけ開くことになった。

こういうことは最終的に、政治権力にお願いするということをしているんです。本当ならばジャーナリスト、記者がやるべきことなんですね。でも記者自身がやる、というほどまでには正直言って変わらないだろうと思います。私も中国、北朝鮮、キューバなどで取材した経験がありまして、例えば中国の会見に出ようとした時、フリージャーナリストということで会場に入ることができないということがありました。すると中国人の記者たちが「彼は日本でちゃんと活動しているジャーナリストなのだから、入れてやってくれ」と交渉してくれて入ることができました。その後はもちろん競争ですが、中国の方がマシなんです。サミットにしても、カナダ、イタリア、ドイツなどいくつも行っていますが、唯一フリーの立場で取材できなかったのが一つありまして、それが北海道洞爺湖サミットでした。日本の記者クラブが主催してしまうために、私は入ることができなかったわけですね。これが世界で最も狭量だと思われている日本の記者クラブなんです。

これを変えれば、結局自然に多様化するわけです。色んな人が入れば、色んな意見が出て、色んな新聞、テレビに出る。このポイントを開けば大きな変化があるだろうな、ということですね。非常に優秀な日本の記者たちが、自分で考えて発信する。そういうことができるので、そこだけをまず求めていく。そういう意味では、先程言ったように「人と違った意見が当たり前なのだ」と思うことですね。この世の中の人間はみんな生まれも違うし、育ちも違うし、親も違うし、兄弟も違う。だから、記事も違っていていいんです。それができない日本の言論空間を変えていくために、違った意見をどんどん皆さんに発信してもらいたい。それが一人ひとりにできれば変わっていくんじゃないか、と思います。


―上杉さん自身、講演の中で他の人がどう言ってくるか、ということをある程度気にされていました。それが過剰になると萎縮につながってしまいます。そのような時に、「気にしない」ということの他にこれを切り抜ける巧いやり方はあるのでしょうか。

また、記者クラブというのがある種談合のシステムであるということでしたが、それがなくなった時、かえって情報が多すぎるということになるとも思われます。その中で個人が情報を取捨選択するというのは大変労力のかかることだと思います。個々人がコストをかけて情報を選ぶことは可能でしょうか。


攻撃を気にするな、という点に関して言いますと、気にしないでいるのって、なかなか難しいですよね。でもその「からくり」が分かると、「なんだ、その程度か」ということも分かります。例えばツイッターだと、他のところでは「ウソスギ」「デマスギ」と呼ばれているかもしれないけれども、タイムライン(注:ツイッター上における呟きの表示システム)を変更すればいいだけの話です。多くの人は、自分が思っている以上には自分に対して興味がありません。ごく一部の人は興味があるけれども、それは本当に数人程度のものです。

200……何年だったかな。適当に言うとまた指摘されるので、2003年か04年か05年か06年か07年くらいだったと思います(笑)。まだひろゆき(注:ネット掲示板「2ちゃんねる」の開設者)がいた頃のことで、日本のテレビで「2ちゃんねる」と言ってはならず「巨大掲示板」などと言っていた時代でした。ツイッターも最近は名前で表記されますが以前は「ミニブログ」「ミニブログのようなもの」、Youtubeも「動画配信サイト」でした。それが日本メディアの正体です。話を戻しますと、2ちゃんねるに結構スレッドが立ったことがあり、私を攻撃しているあるスレッドのログから書込者をある人に調べてもらったことがあります。すると、1000のコメントがあったのですが、「嘘つきは死ね」「インチキ」などといった攻撃的なコメントが700くらいで、それらを解析すると、そのうちの480くらいが一人による書き込みでした。残りも3人くらいによるものです。ですから、こっちからすると「敵は700人。炎上してる!」と思うのですが、実際は4人くらい。しかもそのうちの一人は新聞記者です。調べると◯◯新聞ということまで分かってしまった。その中の誰かは分かりませんが、その社内から書き込んでいることが分かったわけです。だから、「炎上って、この程度か」と思いました。当時炎上が社会問題になっていて、それで自殺をしてしまったという人がいました。でも、炎上なんてそんなものなのだから、気にしなくていい。それよりも、黙っている人の中に自分を応援してくれる人がいるのだから、ということをアイドルの女の子や女子アナなんかにも教えてあげました。

ですから、炎上というのはシステムを調べると意外に炎上していない。炎上自体が幻想だったりするのですね。そうは言っても厳しい場合にはどうするのかというと、別に批判をされて命をとられるわけでもないし、それでいいんじゃないか、と。批判はあっても、地球はまわっているし、星は輝いているし、ドイツのビールは美味しいだろうし……そういうふうに考えていればあまり気になることはありません。あと、個人的な理由としては、私はジャーナリストになりたいとずっと思ってはいましたが、ジャーナリストでなければ飯を食っていくことができないとは思っていません。実際いろいろな職業をやっていますし。だから、日本でのキャリアが全てダメならば海外にでも行こうと。海外でもジャーナリストがダメならば、国会議員の秘書をまたやってもいいだろうし、カラオケ屋の店長に戻ってもいいし、ホテルマンでもいいし、何をやってもいいやと思っていれば、そういう部分での「炎上」は気にならない。

色んな人間がいて、色んな社会があって、多様な職業選択もあるし、多様な考え方があるわけです。そういう意味だと、自分のことを炎上させるような人だっています。そういう考えに至れば意外と気にならないものです。

「情報が多すぎることになるのではないか」ということについてお答えします。確かに情報は多すぎるのですけれども、当たり前のことですが情報というのは少ないよりも多いほうがいい。「集合知」という考え方が良いか悪いかは別にして、極端な意見も人間社会の中では意外と平均化されるので、中庸に近づくことになります。怖いのは、原発問題にしてもそうですが、「正しい」という意見をメディアが発信し続けるとやはり偏ってしまって、間違えていた時に取り返しがつかないことになる。「大本営」もそうですが。ですから、多様性を担保することによって、結果として正しいことを求める。それがいいのかなと思います。それは時間がかかることのようにも思えますが、今はネットというものの中で、デマがずっと存在し続けることに耐えられない社会になっています。例えば関東大震災の時に飛んだ、朝鮮の人が井戸に毒を入れているなどという流言飛語は、人を介して広がり、それがいつまでたってもぐずついたわけです。今ですと、3・11の大震災の時に千葉の市原でガスタンクが爆発し、有毒ガスがまわっているという情報がツイッターで流れました。これは後でデマだと分かったのですが、その情報は一瞬で広がりました。ところが、「そんなことはない」という科学者をはじめ色々な意見も出てきて、一瞬でデマが消えるのですね。これにしても、2、3日後には消えていました。多くの人の目に触れれば、デマは存在しにくくなります。ですから、検証可能となるという意味で、できるだけ多様な状況、多様な言論空間を作ることが、結果として正しいことを見せやすい状況を作ることになるのです。

その中で個人がどうすればよいのか。これについていうと、どの情報が正しいかということより、必ずしも情報は正しくないという根底から物事を考えるのが近道だと思います。先程、「神」の問題でも言いましたが、キリスト教社会などでは、絶対的に正しい神というものを上に措いているので、他の存在―大統領であろうが総理大臣であろうが、天才であろうが何であろうが―は、自分と同じように間違えることもある、と考えるんです。Schpiegelというドイツの雑誌があり、私は大変いい新聞だと思っていたのですが、ある人に聞くとあれはダメだよ、と答えたり、あそこは正しいという人がいたりする。メディアでも間違えることがあるなどといった多様なメディアの見方、まさにリテラシーがある。メディアに対する疑いがあり、訓練があるわけです。何が正しいかの判断を他人に任せてしまう日本の在り方が一番危険です。それは自分で判断すべきだ、と言いたいですね。


―個人的には、既存のメディアというものはあってもいいと思っています。情報量が多いというのは自由な言論の場を作る上でメリットはあると思いますが、情報が増えるほど嘘も多くなります。私としては、個人の判断に任せてしまうと危険なところもあり、何らかの基準は必要だと思います。ネットを使った言論においては、国民に何が求められることになるのでしょうか。これからのネットというメディアはどうあるべきなのでしょうか。


まず、私は既存メディアがなくなるべきだとは一度も言ったことはないんです。記者クラブがなくなったほうがいい、ということは3・11以降に言い出しました。それ以前は「あってもいい」という考えでした。記者クラブそのものには批判していますが、個人に対しての批判もありません。システムが問題であり、クラブにいる記者の解放を求めてきました。そうやって記者たちが自由な言論空間に出てくれば、非常にいい仕事ができるようになります。なので、早くこんな下らないシステムはやめましょうよ、と言ってきました。ですから、既存のメディアはなくなるべきだとは言っていないので、誤解なきようにお願いします。

情報が増えたほうがいいということについてですが、世界中の民主主義国家においては多様性こそが民主主義の根底だということになるわけですね。多様性を認めない国家というのは、共産国家や独裁国家になってしまう。だから私は、既存メディアこそが多様性を担保すべきだと言ってきました。その中でネットについての役割についていえば、ネットも所詮はツールですし、NHKも所詮ツールなんです。ですから一緒にやればいいわけです。ただ現状では、放送、新聞(放送権、再販制度)の両者がクロスオーナーシップという利権に守られ、国家と一体化し、結果として利権集団となっている。その部分を解放しなさい、と言ってきたのです。

別にネットを選ばないといけない、ということではありません。記者クラブという日本の相対的な「強者」が「弱者」に対して手を差し伸べられるか。もしくはこれを潰してもいいし、吸収してもいい。そうすれば一番得をするのは国民であるわけですね。少なくともアメリカにおいては2008年にCNN Youtube.comという形で融合したものが、大統領選のメインストリームの構造に活きているわけです。民主主義国家の中で、ネットとテレビが融合していないというのは日本くらいです。そのような不健全な状況の中で、テレビ・新聞が得をしていることが問題なので、早く皆さんと大手のメディアの人が歩み寄って、ネットを存分に利用していった方がいいのではないですか、ということを言い続けてきました。そしてその第一歩が13年遅れで始まりました。それが昨年のニコニコ動画、Youtube、NHK、フジテレビなどの連携です。

自由報道協会についていえば、昨年設立して、一年間で67回記者会見を行ってきました。そのうち、ただの一度だって、既存メディアの記者を排除したことはありません。全部入ってもらっています。しかし私がジャーナリストを始めて13年間、大手のメディアはネットやフリーの記者を会見にいれたことはありません。逆ですよね。大きいほうが手を差し伸べればいいわけです。一人が入ったくらいで大した差はないのですから。それができない大手のメディアはやはり理がないと思いますね。


―上杉さんが個人的に怖いと思った経験は何ですか。また、上杉さん自身、積極的に情報発信していくことができるきっかけなどはありましたか。


怖いなと思ったことは何度かあります。もう10年以上前ですが、田中真紀子さんについて放送中に、FAXがそれこそ何百と来て、「あいつを出すな」とありました。終いにはカミソリを送ってくるとか、家に帰ると暗い部屋に電話が点灯していて、早速メッセージボタンを押すと「死ね死ね死ね死ね……」、最後に大きく「死ね!!!」と。夜なので怖いですよ(笑)。そんなことがあって、家につくとまず電気をつけるようにしました。それでもある時にそれを忘れてしまって、電話を流すと「キャーー!!!!」という凄い声で、「うわぁ!!!!」と驚いてしまいました(笑)。それ以来怖くなって、家に固定電話は置かなくなりました。ずっと相手が分かる携帯電話にして、非通知は一切とらないようにしています。イラク戦争の時には炭疽菌が送られてくるということで、小包という小包を全て警察に持って行くことになりました。それでも小包の数が多いので、一番若くて男だというので、僕は開ける担当というのを任され、手袋をして、ハサミで小包を切らされたこともあります。

海外取材でも怖いことが結構あります。列車事故に巻き込まれて1年間入院した時は「怖いな」というより「死んだな」と思いました。

2009年には東京地検特捜部の問題で、特捜部批判をしていたら当時の大臣のボスだった人から「お前、やられるぞ」と警告がきたんですね。当時特捜部長だった人から「あいつだけは絶対に許さない」と飲み会で言っていたとのことでした。どうすればいいですか、と聞くと、その大臣は「君は死刑だな」(笑)。「死刑ですか!?」と聞くと「とにかく死刑だ!」と。「死刑になんてなりませんよ」と私が言うと、「お前、俺はもう13人も死刑にしているんだぞ」と。そう言うと誰だか分かってしまいますが(笑)。死刑はないにしても、痴漢(冤罪)などは危ない、と。「3人いたら危ない」と言われました。女の人が1人いて、「キャア!」といいます。すると男の人が手をつかんで、さらにもう一人が「あいつです」と言う。はい、終了ということになります。そういうことを聞いて、その日から都内で電車は一切乗っていません。全て車で移動し、お酒も危ないので東京都内、関東一円で飲むことは一切していません。

怖いことがいくつかあったので、防御癖がつきました。海外ではいいんですが、日本でこういうことをすると自分を買いかぶりすぎているのではと思われますが、やられてから「あー、やっておけばよかった」と思うよりは未然に防いでいたほうがいい。

情報発信についてですが、これはやればやるほどきついですよ。日本というのは実際に行動している人に対しての批判が多いので特に。でも誰かがやらなくてはならない。福島の原発にしてもそうですが、東京の人で、若くて社会的評価もない、そういう人間がどんどんやったほうがいい。ですからそういう意味での「情報発信の憎まれ役」というのは好んでやるようにしています。最近それを実感したことがあります。岩手県大槌町自治会長の芳賀さんという方が自由報道協会で会見した際、私は「社会構造上、言いにくいことややりにくいこともありますが、どうすればよいでしょうか」と聞きました。それに対して芳賀さんは「そういう社会構造を変えるには、「よそ者」「若者」「ばか者」が入ってくればいい」と答えました。「よそ者」は外から勝手に入ってきて事情も分からずぎゃあぎゃあ言うんです。間違っているかどうかは中の人が判断すればいい。「若者」は慣習にとらわれない。「ばか者」は文字通り、考えずに思ったことを言う。これがないと社会は変わらないんだ、ということに私はなるほどなと思いました。ヨーロッパに行けば「よそ者」「若者」「ばか者」が多いなあと思います。逆に日本ではその3者はほとんどいませんので、硬直した社会になっているのだな、と思う次第ですね。


―報道に現実感がもてず、自分のこととして受け止めるのが難しいという現実がある中で、報道がどのようにそれを乗り越えていくのかについて考えはありますか。


日本では報道に対する権威付けみたいなのがありますが、所詮、ジャーナリストを含めて報道をやっているような人間というのは、もちろん職業に貴賎はないのですが、ブンヤと呼ばれる、人のあら捜しをするようなのが始まりでした。そういうことから言って、あまりジャーナリストを高い地位にあげることはないと思います。所詮、報道が空疎であるというのは当たり前なんです。現場にいない記者が原発のことを報道しても空疎なのは当たり前ですよね。だからそういうところに行っている記者から話を聞くか、自分で行けばいい。とにかく若いうちにそういうことをしてほしいと思います。世界中に現場はあります。そういうところに入って、報道の空疎さというものが気にならないほどリアルな世界に気づいてほしいな、と思います。

あと一つ、日本では「客観報道」が公正中立でよいとされているけれども、そんなことを言っているジャーナリストは世界でもいません。そんなバカげたことは全くありません。それこそ神でもない限り、客観というのは無理なのです。日本のNHKがやっている「客観・公正・中立」というのは役所から見た報道のことです。みんな色々な見方がある。だから、テレビ、新聞が言っているような客観・中立というのはそれこそ虚像でありフィクションです。色々な情報の中から、自分が合理的だと思う情報が正しいんです。全員同じである必要はありません。そういうことに接して、自分を信じるというのが最もよいと思います。

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