水野尚之 大学院人間・環境学研究科教授「私、結構本気でした―京都大学総合格闘技サークルKUWF興亡史」(2012.04.16)

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50代後半の私は、おそらく力道山の試合をビデオでなくリアルタイムで見た最後の世代だろうと思います。(私が小学三年生の時に、力道山は暴漢に刺されてあっけなく死んだのですから。39歳の若さでした。)白黒テレビに映された力道山対デストロイヤー戦の、空手チョップと足四の字固めの攻防には、ただただ熱狂しました。力道山の足は大丈夫か、折れちゃうんじゃないか。とはいえ、しばらくして力道山とデストロイヤーが料亭で一緒に酒を呑んでいる写真を見せられた時は、子供心に「ひょっとして……」でした。しかし心の中でそれ以上の追求はしませんでした。力道山は本当に強い、少なくともキレたら強い、木村政彦戦を見ろ、でした。大将の力道山よりはやや劣るものの、弟子のジャイアント馬場やアントニオ猪木ももちろん強いに決まっていました。第一、体が大きいのですから。白黒テレビがカラーに変わっても、やっぱりプロレスでした。ビデオなどもちろんありませんから、その時間は、何があってもテレビの前、でした。日本中を恐怖のどん底に落とした「吸血鬼」ブラッシー(流血シーンをみたおばあちゃんがショック死したという)、歯をヤスリで研いで備え、隙あらば相手レスラーに噛みついていたブラッシーが、日本女性と結婚した心優しい紳士である、と報道されても、やっぱりプロレスラーは畏敬すべき存在でした。

京都大学文学部の助手をしていた頃です。「金髪の狼」上田馬之助が京大で講演しました。タイガー・ジェット・シンと反則し放題に暴れまわって、悪役として絶頂期にあった馬之助です。講演会はそこそこ満員でした。(誰が馬之助を呼んだのか、後から捜しましたが結局わからずじまいです。)とにかくデカくて怖そうです。そんな馬之助に対して、さすがは京大生(たぶん)、「シューティングについてどう思いますか?」などという質問をぶつける者がいたのです。(初代タイガーマスクの佐山聡がマスクを脱ぎ、『ケーフェイ』という本によってプロレスのインチキ――ロープに振られて戻ってくるなんておかしい、等――を暴露した頃でした。)馬之助の嫌そうな顔が印象的でした。「じゃあ、リングの上で殺し合いをするのか?」などという、悪役らしからぬ逆切れ発言はおもしろかったです。さらに「トレーニングはどうやってされていますか?」と質問する者もいました。「ホテルでいろいろ工夫して、腕立て伏せとか……」という馬之助の答えは、本音だったのかはぐらかしだったのか。私はまたもやプロレスラーの不思議に触れた思いでした。

時は流れ、私は京都大学教養部の教官になっていました。なんとなくプロレス飢餓状態でした。(妻がプロレスを理解してくれる人でよかったですが。)京大でもういちど馬之助のような巨人に会えないだろうか。そんな時、妙なビラを目にしたのです。いろいろな格闘技の名前が書かれてありますが、小さく「プロレス」とも書いてありました。「えい」っとばかりにH君に電話をしたのがすべてのはじまりでした。H君、さっそく研究室に現れました。京大生らしからぬ、体重100キロ近いサンボの使い手です。「文武両道のサークルにしたい」、「練習は体育館の地下でちゃんとするが、理論面の集まりに先生の研究室を使わせてほしい」……。H君の熱意に打たれました。しかしこの人、プロレス心も持ち合わせ、冗談やいたずらが大好き、と私が分かった時はもう手遅れでした。(あの折田先生像[当時は本物]は、まもなくアントニオ猪木像になりました。)現職の教官が、自分の研究室を怪しげなジャンルのサークル活動のために使わせるのですから、はじめからトラブルの連続でした。また、教員と学生とのおかしな二人三脚としてマスコミに興味本位で扱われることも、私の困惑に拍車をかけました。

自分がやりたかったのはこういうことだったんだろうか。……はじめに抱いた違和感は依然として残り、しかしとにかく面白かったことも事実でした。部員も次第に増えてきました。ディープなプロレスマニアもいれば、格闘技志向の者たちもいるという奇妙な寄り合い所帯として、講演会やイベントをこなしていきました。顧問として私は、栗栖正伸、スペル・デルフィン、高野拳磁、藤波辰巳、ジャンボ鶴田、朝日昇、マッチョ・パンプ(カカオ社長)といったプロレスラーと話ができたばかりか、一水会の鈴木邦男氏、ターザン山本(山本隆司)氏、井上章一氏といった文化人、さらには武道家の甲野善紀氏やタレントの北野誠氏ともかなり長い時間話す機会を得ました。また活動をしていく中で、武道、格闘技、レスリング、そしてプロレスという一見別物のようにみえるジャンルが意外なところで繋がっている、という発見があったことも思い出します。イベントそのものは、トラブル続きでいつも疲れましたが、その都度不思議な余韻、戦う人間たちが醸し出すオーラに包まれもしました。そして幅広い活動をする異色のサークルとして、京都大学のサブカルチャーに少しは貢献できたという自負もあります。機関紙『パンクラチオン倶楽部』も不定期に発行していました。濃いプロレス者が次々に編集長となり、得意の筆を振るうのを見るのは楽しみでした。二代目編集長のH2君は、今や気鋭の教育学者です。弁護士になった人、刑務所に務めることになった(外側です)人もいます。絵の得意なM君は、卒業後本当に漫画の道へ入っていきました。今も活躍中です。

KUWFのメンバーは、当時流行りはじめていた総合格闘技の草分け的な存在でもありました。体育館地下で真面目に練習したり、あちこちの道場や練習場に通う者もいて、総合格闘家としてもかなり強かったのです。現在新日本プロレスのトップレスラーの一人である棚橋弘至(当時立命館大の学生)に、総合のルールで勝った者もいました。また、KUWFの活動を広く京大生に見てもらうために、十一月祭ではグランドの中央に特設リングを組んで、毎年「試合」をしました。京都産業大学や佛教大学から友情出演してくれたサークルは、面白おかしい学生プロレスを披露してくれましたが、KUWFの連中は、一応のシナリオはあるものの、かなり本気でバチバチと格闘してしまうのでした。怪我したらやばいな、と私はハラハラしていましたが。

KUWFの隆盛はおよそ十年でした。メンバーの中には長く留年する者もいましたが、やがて皆卒業して京大を離れていきました。本業が忙しくなった私が、研究室を彼らに使わせなくなったことも、KUWF衰退の原因の一つです。またこれとシンクロするように、前田日明、高田延彦、船木誠勝、といった有能なレスラーが、従来のプロレスに飽き足らずに格闘志向の新団体を次々に興し、やがてグレイシー柔術などの格闘家にバタバタと敗れていきました。世の中でも、プロレス熱は冷めていったのです。

プロレス心を失くしきれない私は、がらんとしたKUWFに残されたような形になりました。一度は彼らから去ったとはいえ、京都大学総合格闘技クラブKUWFの描いた軌跡はあまりに強烈で、私はまだその延長線にいるように思っています。彼らの強烈な個性が入り乱れて織りなした磁場の中に、いまだにいるという感覚が消えないのです。本物のUWFにならって、KUWFもまた形を変えてきっと生き返るはずです。名前はKUWFイインターでも、KUWFプロファイルでも何でもいいです。実は、本当の次世代、つまり我々KUWFメンバーの子供たちも、そろそろプロレスや格闘技に目覚めはじめています。その時、初代メンバーはきっと復活し、子供たちの前にふたたび高い壁として立ちはだかってくれるでしょう。

(注 私の研究室に「その種の」目的で来られても、もうKUWFの痕跡はほとんど残っていません。念のため。)

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