講演会録「学費ラッダイト」白石嘉治×仲田敬人×栗原康(2010.11.16)

Filed under: 企画類
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講師:白石嘉治・仲田敬人・栗原康
場所:クスノキ前の櫓


ラッダイト運動ー産業革命期のイギリスで、機械によって仕事を奪われる事に反対した職人達が起こした「機会打ち壊し」運動である。時と空間を隔てた21世紀初頭の日本では、学生達が学費/奨学金という名の負債によって希望を奪われようとしている。そうした状況に抗い、ラッダイトに出るときが到来しつつあるのではないか。クスノキ前で気鋭の論者が語った。(編集部)

白石嘉治 「大学はからっぽであるべき」


今日は若いお二人の前座で喋らせて頂くのですけれど、あの酷い建物は何というのでしょうね、本部棟ですか。ヘッドセンターを名乗って中身は空っぽですね(笑)。

まず僕の立場として学費―これには授業料と学生をやる上での生活費が含まれます―はあってはならないと思います。これが大前提。

最近読んだ中で感動した本が二冊ほどありまして、一つが佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』。「取りて読め、筆を執れ、そして革命は起こった」などという大仰なキャッチコピーで河出書房新社から5000部を刷ったら、たちまち重版が決定したそうです。今日はまずこの本にもとづいて話します。

もうひとつはイヴ・シドンという人の『人文学の未来』という本で今年の夏休み頃にフランスで出たのですけれど、もう今日は時間も押してるのでやめておきましょう。

さきほどのヘッドセンター前の出来事でいろいろなことを思ったのですが、なにより佐々木さんの本に関係のあることでいえば、彼らはテクストを怖がっている。佐々木さんは同著で「人は本を読めるのだろうか、否読めないのではないだろうか」と言う。このテクストを読み、そして書くという謎について、3つの話を出して説明するのですが、まずルターの話、次にムハンマドの話、そして中世の解釈者革命の話、これは要するに法律の話です。

ルターというのは全集が127巻あります。書いて書いて書きまくった。16世紀前半のドイツで出版された本の三分の一がルターだったくらいです。書きすぎですよね(笑)。しかも、ルターの時代誰も文字など読めませんでした。文盲率など9割以上。そうした中で書くわけです。

ムハンマドはもっと無茶苦茶。彼自身文字が読めない。で天使ガブリエルから「読め」と言われて天使の本を読んだ、というのだからすごいです。

3つ目の中世解釈者革命はちょうど逆の話で、ヨーロッパの中世で言葉というものが情報と知識に切り詰められるのではないか、ということが考えられた。それで民法とか法律が固まっていった。法律というのは奇妙なもので、「あなたは死刑です」と言葉に書いてあったら、死刑になってしまう。法学部の人がいれば分かるだろうけど、法律はとても変わった言葉の読み方をする。言葉を情報と知識に切り詰めてしまっているのです。その意味では、今の情報化時代というのは、中世以来の古い考え方です。むしろ新しいのはムハンマドのように、「俺は字が読めないけれど天使の本を読んだよ」みたいな何を言っているのかよく分からないもの。彼は情報や知識を伝えなかったでしょう。あるいはルターのように周りの人がほとんど字が読めない状況で書いて、異端審問を受けるとか。

でもそれで革命が起きるわけです。だから、革命の本体というのはある種の世界の読み方、書き方ということにあるのです。そして、それは今でも続いているし、誰でもやっていることなのではないか。たとえば文学の黄金期の19世紀ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイなどが出現しました。でもその時代ロシア人の9割は文盲です。当時の人口4000万人中、文字がわかる人で400万人しかいない。そういう下でドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を執筆する。かりに今日本にいる人の9割が文盲だったら一体誰が書きますか? けれども人間は書いてきた。テクストを怖がる人たちがいるのは当然ですね。

佐々木さんによれば、一つの種の寿命というのは大体400万年だそうです。そうすると人類にはあと370万年残っている。人類がダンスをいつから始めたのかは分からない。絵画は3万年ほど前。文字は5千年前です。そう見ると文字というのは非常に若いメディアです。しかも、ここから大学に入りますが、大事なことは識字率がほぼ100%になってきたのは20世紀に入ってからのことです。さらに大事なのが、文字というある種の技術が普及してくる前、19世紀の大学は就学率が1%いってない。大学がエリートをつくってきたなんて嘘ですよ。足りません、大学だけでは。20世紀になっても足踏み。進学率が5割を超えてきたのはこの5年ほど、21世紀初頭になってからです。これは全く未曾有の事態なわけです。さっきヘッドセンターから出てきた責任者の人たちは、1970年代の進学率がまだ2割で、8割の人達は大学に行かなかった時代の人。そういう人たちが管理者になって今日のようなことをしている。2割くらいがマトモな連中で、あとの8割は捨て駒だ、という考えで大学を管理しようとしている。

けれど大事なことは、ロシア、アメリカ、どこでも19世紀に1割2割だった識字率が今ほぼ100%になった。さらに人類の欲望はとどまらず、「もっとやりたい」何をやりたいのかは漠然としているけれど、「もっと読ませろ」「もっと書かせろ」あるいは「もっと考えさせろ」という一方の気持ちが、今の大学進学率が5割を超えた状況をもたらした。ことこれは人類始まって以来で、かなりヤバイんです。フランス革命も、フランス語を理解する人間が5割を超えたときに勃発しました。話しあうことができるから。お互いに話し合うレベルである種の民主制が構成される。そしてお互いが読めることで別の団体の民主制が構成されるのではないか。大学進学率が5割を超える段階で、そういうものとして大学を捉えなければならない。

最後にちょっと曖昧な問題提起ですけれど、いったい読んで書くということ、一般化するとある種の知覚とそれに対するリアクションがあるのはどういうことか。それが人類の名においてなされるというのはどういうことか。それを大学はどう担っているのかという提起ですけど、僕の好きな哲学者にドゥルーズという人がいます。20世紀後半最大の哲学者と言ってもよいかも知れない。彼はもう亡くなりましたが、講義録というものが出ています。遺言で出版してはならないとされてウェブ上でのみ観覧できます。ドゥルーズはそこで、知覚があってリアクションがあるのはどういうことなのか まず牛は知覚とリアクションが連続していて、今日のヘッドセンターの人たちのように自動的に反応すると。ああなったらこうなる、というのに隙間がない。たとえば牛は緑の草を見たらすぐ食べるというように、過去の経験が蓄積されて知覚とリアクションがなだらかです。

これに対して人間は知覚とリアクションのあいだ脳が入ってきます。これがヤバイとドゥルーズは断言します。なぜなら、脳は、空っぽだから。繰り返します。脳は空っぽです。そしてこの空っぽの脳を媒介してしまうから、その後のリアクションは予測不能で、一人ひとり空っぽの脳を持っているから、人間は未来がある、という。牛は百年経っても草を見れば食べます。けれども人間は何をするか分からない。この、何をするか分からないというのが未来の定義です。そしてこの空っぽさを社会のなかで体現しているのが大学です。専門学校とは違う。専門学校も学費はタダにしろ、と書いたことはあります。職業訓練にカネを払うのは19世紀の状態だから。そういうことを踏まえていうと、実用的な学問はインプットとアウトプットが直結しています。社会がこうだからこうなる、と。そこの間には過去のスキルとか知識が牛のように詰まっているんです。それに対して大学というのは空っぽであるべきなんです。人間の欲望、人間のあり方に沿った形である種の教育が組織されるのが大学という発明であって、大学は社会のなかの脳であるならば空っぽであるべきなんです。アウトプットがどうなるか分からないようであるべきです。なぜなら大学は脳だから。人間の脳は空っぽだし、大学も空っぽです。定義上、そういうものが存在したほうが良いというのが人類の発明だった。たまたまヨーロッパで発明され、1000人に一人も行かず、大学に入れば不良になると言われ、そういう状態がずっと続いていたのが21世紀にはいって爆発している。そこには、予測不能なことが起きる未来が圧縮されています。専門学校は何万年たっても同じことしか起こりません。それはどうかなと。人類はあと370万年続くらしいし、革命だって500回くらいは起きるでしょう。そういう人類の未来の担保として、新しいテクストの到来のために空っぽな脳を確保する。

もともと大学にカネを払うには違和感があるわけです。右翼はカネ払ったほうが良いといいます。ドイツの右翼も10万程は払うべきじゃないかとか、フランスは社会主義好きが多いから3万円とかでもブーブー言って大学を止めてしまうけども。そういう流れはあるけど、やはり根底には違和感があるわけです。アメリカは例外的だけれど、70年代まではバークレーなど公立大学はタダだった。レーガン以降、学費の高騰が起きていますけど。ハーバードも保守的な大学だけれども、学長に工学部が就くなんて有り得ない。空っぽの脳としての大学の象徴であるような、哲学、歴史学、文学から選ぶというのが常識です。それでも数年前にロースクールの人が学長になってしまうと、半年でスキャンダラスまみれになって引き摺り下ろされる。そういったのと比べると、日本の大学の変わったところというのはあるけれども、原則は社会における脳としての大学は空っぽでなければならないし、そこにカネを払う必要はないです。しかも大切なのは現状で5割以上が大学に行く、これからもっと増えるでしょう。人が空っぽなもの、未来が欲しいというわけです。言葉に命が宿るとよく言いますけど逆に命に言葉が宿るのが人間の不思議さなので、そういう人間として未来を考えたいという時に、カネを取るとか取らないとかセコイ話は止めよう。もちろん現実の大学では成績をつけなくてはならないとか色々あるけれども、それでも大学の原型は忘れてはならない。

数年前に京都精華大で喋ったときに右翼と左翼の定義をしました。「右翼というのは面倒臭い人。何か自分の欲望があったときに何か保証があって、それから折り返す形で活動する人」であると。たとえば結婚したいなと思ったときに、まず就職しようとか。家を買おうとかね。左翼というのは自分の欲望から順番に考える人。「家に来ない?」とかすぐに言ってしまう。でも家がないとか。その別バージョンですけれど、まず右翼は牛みたいな人で、ある条件とリアクションが自動的です。自動的にロックアウトしてしまうとかね。そういう人をあえて右翼と言って良いのではないか。左翼というのは空っぽな人です。ある刺激に対してリアクションに予測できない。そこ未来があるし、予測不能なテクストがやどる。その意味で大学は根本的に左翼的なものだと思います。

仲田敬人 「学費・奨学金の暴力」


先ほど白石さんからも、学費はあってはならないというお話がありましたけれども、わたしも2008年の冬から2年ほど、「学費をタダにしろ」とか「学生に賃金を」といった要求を掲げてきました。こういう要求を掲げると、ほとんどいつもきびしい反応が返ってきます。最近、「ブラックリストの会in東京」のブログのコメント欄を久しぶりに見たら、「馬鹿なの?ねえ君たち馬鹿なの?」というコメントがあって(白石:デカルトのように空っぽだよ!)しかもそれが朝7時58分の書き込みで、これを書いた人はどんな生活をしながら、どういう気持ちで書き込んだのか、いたたまれない気持ちになりました。まあともかく、わたしたちは「現実を見ろ」ということを言われ続けてきたわけです。しかし冷静に考えてみたいんですけど、本当にわたしたちは非現実的な要求をしているのでしょうか?批判をしてくる人たちはかならず、「財源はどうするのだ」とか「日本の財政状況を見ろ」とか言いますけど(白石:お前の財産はどうなってるんだって聞きたいよね)実際のところ、財政的には全く問題がありません。日本にある国公私立すべての大学の学費は、総額で2兆7千億円くらいと言われています。日本の国家予算は、一般会計と特別会計を合わせてだいたい220兆円くらいです。麻生政権がリーマンショック後に組んだ補正予算ですら14兆円ありました。こうした金額を前にすれば、学費をタダにするために必要なカネなど微々たるものです。財政は全く問題ではない。

では、わたしたちが「現実を見ろ」と言われるときに、本当に問題とされているのは何なのでしょうか?わたしが好きな人類学者に、デヴィット・グレーバーという人がいます。アナーキストで元々はイェール大学の教員だったのですが、運動に関与しすぎて首切りにあい、現在はロンドン大学のゴールドスミス校というところで教えています。この人が最近書いた文章に「反転する革命」という論文があるのですが、今日はこの論文に沿いながら、「現実」とは何なのかということについて考えてみたいと思います。

グレーバーは右翼にとっての現実と、左翼にとっての現実は違う、と言います。右翼と左翼は根底的なリアリティーがそもそも異なっている。簡単にいうと、暴力にこだわるのが右翼で、想像力にこだわるのが左翼です。右翼にとって、現実的に考えるということは、なにかを壊す力について考えるということで、「現実的である」ためには、国家や軍隊、野蛮な他民族の侵略、荒れ狂う群衆などについて考えなければならない。他方で左翼にとって現実的に考えるということは、物事を存在させている力について考えるということで、なにかを生産する力や創造性について考えることが、「現実的である」ためにもっとも重要なことになります。

「現実」は英語だとrealityですが、これにはいくつかの語源があると言われています。ひとつはラテン語のresに由来するもので、英語で言いなおすとthing(物事)という意味ですね。もうひとつはスペイン語のrealに由来するもので、royal(忠誠)とかbelonging to the king(王のもの)という意味です。不動産は英語でreal propertyとかreal estateと言いますが、なぜ不動産がrealかというと、土地が王のものだからです。すこし抽象化していえば、主権権力が領土を治めていて、奪ったり与えたりできるから、土地はrealなわけです。今日の国家も、人びとから暴力を独占することで主権を行使しています。わたしたちは、実際には国家を見たことがありませんし、触ったこともありません。それでも国家なるものが、現実に存在するように感じられて、国家や国益の視点からなにかを語ると現実的であるように聞こえてしまうのは、国家が組織化された暴力を用いて、奪ったり与えたりすることができるからです。政治家や評論家が国益について語るとき、それが現実的に聞こえるのは、国益の名のもとに主権権力がわたしたちを殺すことができるからなんですね。

つまり、わたしたちが「学費をタダにしろ」と主張する時に、「馬鹿じゃないのか」とか「現実を見ろ」と言ってくる人たちが問題にしているのは、じつは財源とか財政のことではなくて、システム化された暴力を認識しろということなのだと思います。「調子にのるな!しっかりビビれ!」ということですね。

くりかえしますが、左翼にとって現実的であるというのは、ものごとを存在させる力について考えることです。マルクスは、人間と動物の違いは生産にあると言いました。人間は生産するけど動物は生産しない。マルクスにとって、生産とは、想像してからモノをつくるというプロセスを意味していました。蜂は巣をつくるけど、あれはただつくっているのであって、生産をしているわけではない。人間はイスならイスを、まず想像してから実現させようとする。白石さんの雌牛の話と同じですね。人間には必ず想像というワンクッションがあって、それこそが人間と動物を分けるものだとマルクスは考えた。

ここでこの「想像」について考えてみたいのですが、imagination(想像)という言葉が、「想像上の動物」とか、実際には存在しないもののことを意味するようになったのは、デカルト以降のことであると言われています。古代や中世では、それとは違った意味で「想像力」という言葉が使われていた。アガンベンという思想家が『スタンツェ』という本で書いていることですが、古代や中世では想像力は現実と理性の間の通路であると考えられていました。まず物質的な世界からの知覚があって、それが想像力という通路を通ることによって、感情を吹きこまれたり、幻想(表象像)と混ざったりして、理性的な精神が知覚の意味を掴むことができると考えられていた。左翼が現実について語るときに想像力にこだわるのは、こうした古代や中世の意味での想像力であると言えます。つまり物質的な現実が構成されるプロセスの、欠く事のできない構成要素としての想像力ですね。

もちろん、左翼も暴力について考えないわけではありません。ただ、左翼にとって暴力を考えることが重要なのは、構造化された暴力が、人びとの想像力を歪ませてしまうからです。人類学者がしばしば言うように、暴力はコミュニケーションの一種ではありますが、他方で暴力は、コミュニケーションをとらずに他者と関係を持つことのできる唯一の方法でもあります。行使できる暴力が非対称であればあるほど、一方は他方の内面を考慮する必要がなくなります。雇い主は雇い人の力が弱ければ弱いほど、雇い人の気持ちなどお構いなしに、一方的に首を斬ることができるのです。アダム・スミスが『道徳感情論』で書いているように、人間には他者と共感する本能があります。他人がかなしい気持ちでいると、自分もかなしくなったりすることは、誰にとっても経験のあることではないでしょうか。アダム・スミスは、だから金持ちは貧乏人を視界から消そうとすると言っています。貧乏人といちいち共感していたらつらくなってしまいますからね。同じことは貧乏人にも言えます。貧乏人もいちいち貧乏人に共感していたらつらいから、金持ちばかり見るようになるわけです。貧乏だったり、借金を抱えていたり、学生だったりするくせに、財源がどうとか、国益がどうとか、上から目線でものごとを語ってしまうことがあるのは、こうした構造化された暴力のせいだと左翼は考えるわけです。

ミシェル・フーコーは、ジャック・ランシエールとの対談のなかで、下層民がいるのではなく、下層民的なものがあるのだと言いました。現実には下層民は存在しない。ただ、権力関係から逃れ去ろうとする、下層民的なものだけが存在する、と。フーコーにとっても、やはり根底的なリアリティとは「想像力」であったのでしょう。

話を最初に戻しましょう。なぜ、学費をタダにしてはいけないのでしょうか?なぜ、奨学金はローンでなくてはならないのでしょうか?国家(目線の人びと)は、あるいは資本(目線の人びと)は、一体何を恐れているのでしょうか?「現実的に」想像してみると、理由は明確だと思います。学生に借金を負わせる必要があるからです。学費という暴力を、学生にふるう必要があるからだと言いかえてもいい。やはりグレーバーが別の論文で言っていることですが、負債とは、まだ生まれていない労働者の搾取のための手続きに他なりません。負債こそは、暴力と、暴力に基礎づけられた不平等な関係を作り上げて、それを誰にとっても正統で道徳的であるように見せかける、最も有効な方法なのです。

わたしは東京に住む大学院博士課程の学生で、日本学生支援機構の借金が840万円くらいあります。今年の年収は少なかったので、10万円くらいですね。どう転んでも借金は返しようがないわけです。こういう人間が全くお金にもならないし、業績にもならないのに京都に来てしゃべっているということは、結構大変なことではないかと思います。正直に言って、最初は気が進まなかったのですけれど、何となく来てしまった。わたしの意志というよりは、歴史がわたしにここに来ることを強いているという感じすらあります。実際、学費と学生ローンをめぐる問題は、いまや世界的な運動の課題となっています。学費を高額化して、奨学金を減らして、学生にローンを組ませて借金漬けにするという傾向は、日本だけではなく、アメリカ、韓国、イギリスをはじめとするヨーロッパなど、ここ数年でグローバルに広がりつつあります。Edufactoryという、高等教育の問題を国を超えて議論し、運動を組織化することを目的としたウェブジャーナルがあります。Edufactoryは、大学の問題について運動を組織化しようとするグローバルなプラットフォームとしては、おそらくもっとも大きな結節点の一つだと思いますが、そこでこれから取り組まれようとしている企画も、学生の債務奴隷化に反対するグローバル・アクションに他なりません。ですから今回のみなさんの「学費ラッダイト」の企画も、そうした世界同時的な取組みの一つであり、実験であるということを、最後に確認したいと思います。

栗原康 「商品化された世界を打ち壊す」


僕は今非常勤講師をしておりまして、奨学金の借金は635万円。仲田くんには負けてしまうのですが。本当は「学生に賃金を」という本を出版してその宣伝がてらに京都に来ようと思ったのですが、半年ほど話が進んでおりません。編集者の人と話をしていると「社長をどう説得して出すか」という話になるのですね。社長とか年配の方たちは学費や奨学金と言っても、「学生は勉強しないじゃないか」「遊んでばかりいるのになぜタダにしなけれなならないのか」と絶対言う。50、60代の人達はみんなそうだから彼らも納得するように書いてくれと言われるのです。どうしようかと思案したのですがそう考えても怒りしか出てこず、ずっと話が頓挫しているという状況です。

今日は企画のタイトルにもある、ラッダイトについてお話したいと思います。ラッダイトについて思い浮かべたのが、私の東京の友人に矢部史郎さんというアナーキストの思想家で「学生に賃金を!」という論文を2003年頃に書いた方がいます。その人のある論文によると、彼は小さい頃スーパーカーに憧れていて、スーパーカーが目の前を通ると追っかけていたそうです。ただある日、スーパーカーの座席にビニールが貼ってあるのを見て、その途端ドン引きして冷めてしまったのだそうです。スーパーカーは人間より偉いのか、と思ったそうです。そして彼は大人になってから、スーパーカーや高級車を見つけたら、所構わず蹴飛ばしてやると思うようになったそうです。人間か車かどちらが主人なのか車に分からせねばならない、主従関係をはっきりさせようと。私がラッダイトのことを考えたときその論文が頭に浮かんだのですね。もう少し抽象化してみると、高価な商品を買うと、その買い手の身分が上がるかのような指標がある。無論みんながすぐに買えるものではないが、もう少し頑張って働こうとなる。そういう商品世界があるとおもうのですが、それでも大勢の人から見ればスーパーカーは買えない。貧困層はなおさらです。そういう人達の反応が矢部さんが書いた蹴飛ばす、とかぶっ壊すといった行動だと思うのです。消費や商品が人間の指標であるということは、人間よりも商品が偉いということです。その商品を打ち壊すというのは人間が商品よりも偉いのだと言う、人間の人間的優位性を示すものなのだろうと思いました。

おそらくこういったものの規模をもう少し大きくすると、暴動や蜂起、ラッダイトという意味を持つのでしょう。ですからラッダイトは、商品が物事の指標となった世界を壊すイメージがあるのでは、と思います。

ラッダイトをこの複雑な世の中に引きつけてどう捉えることができるか考えると、今の時代貧乏になったから物がなくなり悔しいというシステムが崩れつつある、その代替として借金、ローン化とそれを軸とした金融化がある。貧乏人も借金をすればモノを与える。その一番典型的な例だったのがサブプライムローンなど住宅ローンだったと思います。サブプライムローンは貧乏人でもマイホームが持てます、夢を持って良いのですと言う。そのためには勿論ローンを組ませてあげますよと。貧乏人はお金を返せないリスクがあるので利子を高くする。更にそこから利回りが高い高リスクの金融商品が作られると。そこから回転して貧乏人がマイホームを持つという回路が作られた。サブプライムローンは08年に結局破綻し、アメリカ中の貧乏人が家から追い出されたのですが、ここで彼らが何を奪われたのかを考えるべきであって、彼らは単に家だけでなくそもそも金融化の時点で未来に向けた想像力や夢、希望が失われてしまっていたのではと思うのです。貧乏な人達の間には元々住宅に対して共有されていた想像力があったと思うのです。例えばより快適な場所で暮らしてみたいとか。でもそれを実現する手段はいくらでもあり得たはずですよね。快適な場所で暮らすことを社会的な権利として、公共住宅の増設を要求することも出来た。それが出来なかったらヨーロッパやラテンアメリカのスクウォッターのように勝手に空き家に住んでしまうとか。けれども金融化の流れが入ると、この如何ようにでもあり得たイメージが奴隷化するような形で、マイホームを購入するという商品化された世界観の中に想像力が直結させられてしまう。他の選択肢が思考回路から消えてしまうのです。であるからサブプライムローンの問題は人間の思考を一つの商品化された世界でしか働かないようにくくりつけるという点があったと思います。

このローンと金融の問題は住宅だけではなくて、僕らの奨学金など教育ローンの問題でも同じことが言えるのではないかと思うのです。おそらく住宅に次ぐ巨大なローン市場が教育です。ある人の指標では学費を300万円程に上げれば、日本でも9兆円のローン市場をつくれるといいます。勿論まだ日本学生支援機構は少しだけ公的な性格があるので、ローンの債権化の概念はありません。しかし他の民間金融機関と同等に債権の取立てを厳密にするだとか、あるいは利子付きの奨学金ばかり拡大するとか、支援機構自体を民間の金融機関に近づけていくだとか、実は奨学金も金融化の流れに乗りつつあるのではないかと思うのですね。

もし奨学金が完全に民間の教育ローンになれば、それを借りて大学にお金を払い進学するのが一般化する。「誰でも大学に行けますよ」とは言うと思います。しかも学生たちは借金をして大学に行く以上、返さなくてはと必死になる。就活はもっと厳しくなるでしょう。より年収の高い就職先に入り借金を返す。そういう意味では受託と同じでより強固に商品化された世界に組み込まれていく流れが奨学金の金融化によって起こるでしょう。

いま、商品化された世界を打ち壊すのがラッダイトというのであれば、金融化を前提にした商品世界の破壊をどう考えればよいのか。こういうことを学生賃金になぞらえても良いのではないかと思います。借金を抱えた貧乏人はそれだけで賃金をもらえる権利がある。なぜなら借金自体がそれを保有している投資家たちによって勝手に運用されて巨額の富を生み出しているから。債務者に賃金を、それが出来ないのならあらゆる賃金は即チャラだ。学生賃金というのが内側から大学を変えていくのだとすれば、債務者に賃金をという言葉は、内側から商品化された社会を壊していくひとつの言葉、ラッダイトの軸にして行けるのではないでしょうか。

そういうところから奨学金のあり方も含めた、こちら側からの攻撃法を考えて行ければ良いなと思います。

栗原さん、仲田さん講演後…


白石:ラッダイトについて言うとそんなに英雄的でもありませんでした。「機械を壊したら死刑」という法律が出来て、派手にやるわけにいかない。でもしょっちゅう工場の機械が止まっていた割には、実際に死刑になったのは10人くらいだった。どうしてかというと、ポケットの中に忍び込ませた砂を、一瞬のすきを狙って機械の中にサラサラと入れるんです。そうすると機械が止まってしまう。その程度の一瞬のものだった。ラッダイトというとアナーキストの派手なイメージがあるけれど実はほとんど人に毒を盛るような地味なことだった。

一般的に、人に対する暴力とモノに対する暴力は完全に分けるべきでしょうね。それをつきつめると、債務者に賃金をというのが出てくるだろうし、あとローンで思うのが経済学はインチキだと思うの。エコノミストは現代の神父だと思うの。あーしろ、こーしろ、お祈りしろみたいな。現代の神官ですね。

また左翼右翼の話に戻ってしまうけれども、左翼は唐突に新しいことを言うので、かならず上手くいかないけれど、結局は勝つ。逆にああすればこうなるとか、簡単に話す人はちょっと疑ったほうがいいね。だから最後に言います。待てとか、準備が多いとかいう場合は撤収したほうがいい。

(了)

《本紙に写真掲載》



白石嘉治(しらいし・よしはる)
大学非常勤講師。フランス文学研究。
主な著作 『不純なる教養』(青土社・2010年)

仲田敬人(なかた・のりひと)
大学院博士課程在籍。日本政治思想史、社会運動史研究。

栗原康(くりはら・やすし)
大学非常勤講師。アナーキズム、労働運動史研究。
主な著作『G8サミット体制とは何か』(以文社・2008年)

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