【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.9 京都市歴史資料館館長 井上満郎さん 資料から読み解いた歴史 市民へ還元
2024.08.01
今号では、日本古代史が専門で平安京や渡来文化についての研究がある、京都市歴史資料館の館長・井上満郎さんにお話を伺った。(史)
目次
京都の歴史がそばに京都の民衆に着目
研究成果 市民に還元
エンタメは「正統」ではない
祭礼の観光化 歴史から見る
経験積み真実を見抜いて
京都の歴史がそばに
――幼少期について伺いたい。
1940年生まれです。戦災には近くなかったので、戦争の記憶は全くありません。
出身は京都で、二条城のすぐそばで育ちました。二条城は現在と異なり、警備が厳重ではなかったです。子どものころは、 まだ進駐軍が二条城を使っており、テニスコートなどもありました。進駐軍が引き上げてからは、一時期運動場として使われていて、同郷の妻は中学校の運動会をしたと言っています。市民と近い、憩いの場所でした。
歴史への関心は早い時期からありました。とりわけ意識していたわけではありませんが、歴史のある平安京の真上で生まれ育ち、京都の歴史が身近なものであったことも影響していると思います。高校生の時、長岡京の発掘調査で大きな功績をあげた地理の先生がいました。その先生との出会いの影響も大きいです。折に触れて、発掘調査の話をしてくれたことが頭の中に残っていました。
――京大を目指したきっかけは。
両親が小学校の教師で、子どもの頃からぼんやりと教師になると思っていました。高校卒業後、教員養成を主目的とする京都学芸大学(現在の京都教育大学)に入学しましたが、自分の関心とは少し違うなと感じて、いわゆる仮面浪人をすることに。京都大学に入り直しました。
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京都の民衆に着目
――どんな大学生活だった。
1945年の終戦まで、天皇を中心とする歴史観が国民に浸透していました。私が大学生だった1960年頃には、終戦からの15年間で積み重ねられた戦後の歴史研究が国民に還元され始め、歴史への興味と関心が国民の中に急激に湧き上がってきた。 歴史ブームが起こり、1965年から刊行のはじまった中央公論社『日本の歴史』シリーズが大ヒットしました。新書も多く出版され、歴史関係の本を多く手に取りました。
当時、フランス文学は全盛期を迎えており、私は第一外国語としてフランス語を選択していました。フランス文学の作品もかなり読み、フランス文学に進むことを考えたこともありましたが、根元には歴史に対する興味と関心があり結局は歴史の道を選びました。
――印象的な出来事は。
高校の地理の先生の影響や考古学研究会に所属していた親しい友達の繋がりで、おそらく2回生になる春休みに発掘調査に参加しました。朝から晩まで肉体労働の調査はきつかったですが、楽しかったです。最終的に文献史学に行きましたが、当時は文献史学の人で発掘調査の経験がある人はほとんどいなかったので、文献を中心に歴史を考えていく中で役に立ちました。
――大学で取り組んだ研究は。
当初は武士の発生に興味を持って着手しましたが、ピンと来なかったので平安時代を中心とする政治の歴史に移行しました。平安時代の政治の歴史と言うと、多くの人は極めて上層階級的な社会を想像するでしょう。しかし、京都に限っても、上層階層の人は全人口の数パーセントに過ぎません。私は、京都のごく一般的な民衆、つまり市民の歴史に着目しました。例えば『源氏物語』の世界は、当時の人々のすべてを覆っていたものではありません。その背後にある、ごく普通の人々の暮らしに光を当てたいという気持ちが強かったです。
ただ、資料の残存度は極めて低いので、論文を書くのはかなり大変でした。民衆が自分の生活を語ることは基本ないので、彼らの記した直接の資料はほとんど残っていません。皇族や貴族が残した資料から民衆の生活を知ることは極めて難しいですが、数少ない資料としては、文学作品があります。『今昔物語集』には、注意深く探してみると民衆の生活が垣間見える場面が結構あります。
――進路選択にはどんな思いがあった。
当時は、文学部生のおよそ半分が大学院に進んでいました。生まれ育った京都の民衆生活について、皆さんに研究内容を伝えることができるまで深めたいと思った。そのためには大学院に行く選択肢しかありませんでした。大学院に進むと、研究者という「職業」は極めて身近な存在になり、進路として自然と意識するようになりました。
大学院でも、京都の民衆について研究しました。ただ、資料の制約もあり、論文で庶民階層の実像をはっきりと示すまでは到達していないので、大きなことは言えないとも思っています。
現在の博士課程後期修了に相当する時点で、奈良大学に就職しました。新設大学だったので初年度は1回生しか在籍しておらず、授業の数は極めて少ない。全回生が揃う4年目まで、自由に研究や様々な活動をしました。
その後、転じた京都産業大学に70歳の退職まで勤めました。当時は京都産業大学に文学部が無く、経済学に対して少し違和感を持っている学生を受け入れる経済学部のゼミを持っていました。通常は20人ほど、多い時は30人ぐらいでした。奈良大学でも京都産業大学でも、学生と個人的な話をすることが多く、恋愛相談に乗ったことも何度もありました。
教育とは、相手があって初めて成り立ちます。研究者志望の学生が少ない大学だったので、学問について厳しく指導するよりも、学生を「社会的に良い人間」として送り出すことを目指していました。「象牙の塔」的にこまごまとした研究に取り組むこともたしかに必要ですが、私の立場としてふさわしくないと考えた。大学の教員の仕事は教育と研究の2本柱になりがちですが、ここに加えて広く社会に対し私自身や学界全体の研究成果を還元することに力を入れてきました。
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研究成果 市民に還元
――京都市歴史資料館とは。
前身は、京都市史を作ることを目的に設置された京都市史編さん所で、1982年に京都市歴史資料館となりました。 市史編さんの段階で、市民から様々な古文書を収集していました。高度経済成長時代を迎えて開発が進む中、古い家々に伝えられてきた資料の行き先がなくなる事態がしばしば発生しました。捨てられたものもたくさんありますが、市民の寄贈を受け、京都の歴史を証明する大切な資料を収集しました。
館の業務としては、資料の収集、保管・管理と展示が最も重要な作業です。現在、古文書・絵画資料・民俗資料など、約20万点の資料を保管しています。
また講演会や講座を実施して、市民に京都の歴史を伝えることも重視しています。特徴的なのは、市民からの歴史相談を30年以上受け付けていることです。自宅に伝えられた古文書を読んでほしいとか、市民や学生からの質問もあり、事前予約なしでの来館にも対応しています。夏休みには、自由研究で歴史を扱う子どもも来ます。お高くとまるのではなく、小学生にも伝わるように歴史を説明する能力が必要です。市民からの歴史相談に対して、館員を務める数名の研究者が多角的・多面的に説明する環境を整えています。
――館長としての活動は。
外部の博物館、資料館との交流が中心で、やや大げさにいえば、外交・広報が最大の仕事です。 講演会に登壇すると、京都市歴史資料館の存在を知ってもらえます。講演では藤原道長や紫式部など上層階級の話も扱いますが、今は民衆生活について話すことが多いです。最近、神奈川県での講演を頼まれました。距離が遠いから躊躇しましたが、実際に行くとその土地の歴史に触れられて楽しいものです。
歴史は研究者だけのものではなく、国民や市民のものです。研究の成果を還元しないと意味がありません。市民に歴史はこういうものだと語る。この年で色々な所に行き90分講演するには体力が必要だと感じますが、これが私の最後まで生きていく道だと思い、積極的に講演に出向いています。
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エンタメは「正統」ではない
――今、歴史が果たす役割は。
ただ一つの結論しかないという理科系的な性質は、歴史にはありません。当時の歴史を生きた人の思いや行動を、丁寧に読み解く姿勢が大切です。豊かな社会は、きっちりと整っておらず、ゆとりがあります。歴史的な発想や考え方をしっかり持っておかないと、今現在日々に築かれている歴史とその未来は、 硬直したものになってしまうと考えています。
――歴史と社会の繋がりをどう見る。
現在、社会には歴史をモチーフにしたドラマや小説、マンガが数多く存在します。ドラマやマンガの世界を楽しむのはもちろん自由です。しかし、史実とは異なる描写を含むことも多い。創作物で描かれる歴史は、あくまで流行、現代風にいえばトレンドに合わせて作り手が作るものです。歴史への興味を喚起する点で大きな功績がありますが、学問的な観点から見て事実かどうかもきっちりと知ってほしい。歴史研究に取り組んできた立場からすると、歴史をエンタメとして消化されがちな風潮を正統としてはいけないと思います。市民に対して、研究を通して得られた正しい情報を伝えることを大切にしています。
エンタメとして消耗されないためには、客観的なデータに基づいていることが重要だと考えます。歴史で言えば資料に基づいて語ること。自分の頭の中だけで作り上げるのではなく、根拠を踏まえ、他者に説明できる程度まで理解を深めることが大切です。
――その意味においても、京都市歴史資料館の存在に意味がある。
京都が歩んできた道のりを示す資料を数多く保有しているという意味で、京都市民に対して重要な役割を果たしています。国立の博物館と比較すると規模はかなり小さいですが、京都に関する、市民に近い資料を随分と収蔵しています。
しかし、一般の市民が社会生活を送る上で、歴史資料が必要になることはほとんどありません。資料は京都の歴史を語るために大事ですが、市民は新しく作られた道路や公園など目に見えることをどうしても意識してしまう。
今後は市民への知名度をあげて、より多くの市民に来館してもらいたいです。また、満杯に近い保管状況を改善するために、市長をはじめ行政の方にも価値を認識してもらう必要があります。
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祭礼の観光化 歴史から見る
――神社仏閣や伝統的な祭礼は京都を象徴するものだが、近年は観光資源としての側面が目立つ。
今年の祇園祭で八坂神社の宮司さんが、食事や酒の提供がある高額な鑑賞席の設置は神事としての側面にそぐわないとして反対しました。ただ一方で、京都に観光客が来ない状況になると、税収が減少して京都市民の暮らしに大きな影響があることも確かです。どう折り合いを付けるか、色々な人が知恵を発揮していかなくてはいけません。
京都市内では都市化が進み、町単位で見ると夜間人口が0になった場所もあります。そこでは、住民が支えてきた祇園祭の山鉾の維持は難しくなります。全国には、既に消滅した祭も数多くあります。超高齢者だけの村では、おみこしの担ぎ手なんていませんから。資金があるだけでは行事として成り立たないので、市が支援策を考えるなど新たな対策が必要です。
かつては女性が鉾をひくことはタブーとされていました。時代に合わせて変えなければいけないことは間違いなくあります。一方で、守らなければいけないこともある。祭礼が神事として始まり、長い間多くの人が支えてきたことを忘れてはいけません。
今は政教分離の時代で、「教」にあたる神事と一般の市民との繋がりは非常に薄く、神事という言葉だけで理解を求めることは難しい側面がある。資料に基づいて歴史の立場から説明する責任を感じています。
我々歴史家に残された課題は多いですが、街は変わり続けています。社会の変化に対応して、資料に基づき京都の祭りの歴史を市民に語り継ぐことも、私の大きな仕事です。
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経験積み真実を見抜いて
――大学生や中高生に向けてのメッセージを。
若い方には、真実を見分ける力を鍛えてほしいです。そのためには、1つのことだけをするのではなく、様々な文学作品を読み、色々なアルバイトをして、多くの経験を積み重ねる必要があります。今社会で起きている様々な出来事を、絶えず身近において考える姿勢を崩さないでください。
――ありがとうございました。
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井上満郎(いのうえ・みつお)
1940年生まれ。京都府出身、西京高校卒。京都大学文学部卒、文学研究科博士課程単位取得満期退学。69年に奈良大学専任講師に就任後、同助教授を経て、78年から京都産業大学助教授、82年から2011年まで同教授。04年から京都市歴史資料館館長、14年から京都市埋蔵文化財研究所所長を兼務する。
1940年生まれ。京都府出身、西京高校卒。京都大学文学部卒、文学研究科博士課程単位取得満期退学。69年に奈良大学専任講師に就任後、同助教授を経て、78年から京都産業大学助教授、82年から2011年まで同教授。04年から京都市歴史資料館館長、14年から京都市埋蔵文化財研究所所長を兼務する。
「京に生きる町衆 下村忠兵衛と祇園祭」 京都市歴史資料館 9月1日まで
京都市歴史資料館では、6月26日から9月1日まで特別展「京に生きる町衆下村忠兵衛と祇園祭」を開催している。
展示では、京都の呉服商「奈良屋」下村忠兵衛が保管していた古文書を中心に、祇園祭を支えてきた京都の町衆の文化と歴史をたどる。
井上さんは展示を通して「今世界の人たちが訪れる京都が、ただ漫然と歴史を刻んできたのでなく、京都という〝地べた〟に張り付いた多くの人々のおかげで現在にいたっていることを読み取ってほしい」と述べた。
京都市歴史資料館の開館は9時から17時まで。京都市の歴史や収蔵資料に関する相談については、来館もしくは電話・ファックスで受け付けている。休館日は月・祝休日・年始年末で、入館料は無料。