研究の現在地 VOL.8 経済学の諸体系を通して現実の環境政策を見る 京都大学公共政策大学院・経済学研究科 岡敏弘 教授
2024.07.16
岡教授(研究室にて)
岡敏弘(おか・としひろ)京都大学公共政策大学院・経済学研究科 教授
専門は環境経済学、厚生経済学。京都大学博士(経済学)。1988年滋賀県琵琶湖研究所研究員、93年福井県立大経済学部助教授、2000年同教授を経て、19年から現職。
専門は環境経済学、厚生経済学。京都大学博士(経済学)。1988年滋賀県琵琶湖研究所研究員、93年福井県立大経済学部助教授、2000年同教授を経て、19年から現職。
目次
古典読んだ学部時代が原点現実の環境問題に直面
経済学は学派と体系が重要
先進国による排出の押付け
価格付け政策の有効性
経済学だけでは答えが出ない環境問題
古典読んだ学部時代が原点
――環境経済学・厚生経済学を専門にしたきっかけを教えてください。
大学に入る前は公害に関心がありました。中3〜高1の頃、有吉佐和子の『複合汚染』が新聞に連載され、経済成長しても汚染が進む一方ではどうしようもないと思うようになりました。経済学への関心は高校時代の世界史がきっかけです。当時の高校世界史はなんとなく「人類の歴史には法則がある」という唯物史観でした。唯物史観で知られるマルクス(※)がその基礎に経済を置いたことから、経済学だなと思ったわけです。経済学にはマルクス経済学(以下、マル経)と近代経済学(以下、近経)があるということもそのころ本で読みました。
※マルクス
ドイツの哲学者・経済学者。主著『資本論』。資本主義体制を史的発展の一段階と捉え、体制の変革を必然と考えた。労働価値説を採り、資本家による労働者の搾取を利潤の源泉においた。
ドイツの哲学者・経済学者。主著『資本論』。資本主義体制を史的発展の一段階と捉え、体制の変革を必然と考えた。労働価値説を採り、資本家による労働者の搾取を利潤の源泉においた。
京大入学後は、経済学部の自主ゼミで院生チューターのもと、国富論、資本論などの古典を読んでいきました。学部の授業には経済原論という科目が2つあり、一つがマル経、一つが近経でした。マル経は平田清明が資本論を講義し、近経は菱山泉が主流派でないリカード(※)とスラッファ(※)を扱っていました。主流派の新古典派経済学も応用経済学の授業では教えられていましたが、やりたい人は独学でという雰囲気がありました。そうした事情でマルクスが基本にあり、主流派の体系とは真っ向対立しているわけです。そこからマル経と近経はどこが根本的に違うのか、という点に関心を持ち、今に至っています。
※リカード
イギリスの古典派経済学者。主著『経済学および課税の原理』。生産物の価値は投下された労働力によって決まるとする投下労働価値説や、地代は生産力の最も低い土地との差額で決まるとする差額地代論、生産物の交換がより大きな利益を生むとする比較生産費説を展開した。
※スラッファ
イタリア出身、英ケンブリッジ大で活動した経済学者。主著『商品による商品の生産』でリカードの経済学から出発した生産理論を展開した。
イギリスの古典派経済学者。主著『経済学および課税の原理』。生産物の価値は投下された労働力によって決まるとする投下労働価値説や、地代は生産力の最も低い土地との差額で決まるとする差額地代論、生産物の交換がより大きな利益を生むとする比較生産費説を展開した。
※スラッファ
イタリア出身、英ケンブリッジ大で活動した経済学者。主著『商品による商品の生産』でリカードの経済学から出発した生産理論を展開した。
ただ、環境問題を分析するにはマル経も近経も物足りなく思いました。近経は外部負経済論(※)をとりますが、深刻な公害には最適汚染水準を定める外部負経済論は適さないと感じ、ほとんど関心を持てませんでした。一方、進歩史観を持つマル経は、技術が進歩して上手く自然を制御できるようになれば公害を克服できる、としていましたが、私は豊かになるほど汚染が深刻になっているのではと思っていました。
※外部負経済
市場で代価が支払われることなく、他者に損失が負わされる現象。例えば工場排出による汚染被害は、工場で物を生産する費用に反映されない。外部不経済とも。
市場で代価が支払われることなく、他者に損失が負わされる現象。例えば工場排出による汚染被害は、工場で物を生産する費用に反映されない。外部不経済とも。
現実の交換比率の中で搾取は存在するかというマルクス経済学の根本問題は、置塩信雄の「マルクスの基本定理」によって解決されています。スラッファ的な価格体系でマルクスを置き換えれば、古典派やマルクスの体系は現代にも通用する、というもので、これを4回生の時に知ってスラッファを読み始めました。
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現実の環境問題に直面
――新厚生経済学に取り組みはじめたのはいつ頃でしょうか。
1988年に博士課程を単位取得退学し、琵琶湖研究所に就職しました。すると現実の環境問題に投げ込まれます。琵琶湖の環境政策評価に、費用便益分析(※)が必要になり、はじめて厚生経済学に取り組むことになりました。その中で出会ったのがミシャン(※)です。新厚生経済学を徹底し、その先で限界に突き当たるというミシャンの理論が面白いと思い、博士論文のテーマにしました。それで厚生経済学が自分で身に付いたと思ったので、環境政策評価を始めました。その中で化学物質リスク問題と出会い、これこそまさに新厚生経済学が適用できる分野だと考えました。
※費用便益分析
ある政策の費用と便益を同一の尺度(補償変分)によって表示し比較する政策評価手法。費用の合計が便益の合計を下回っていれば効率的な政策とされる。
※ミシャン
イギリスの経済学者。著書『費用・便益分析』で、新厚生経済学の論理を徹底した分析の運用を説き、分析自体の適用可否を判断するには倫理的合意によるほかないという立場をとった。
ある政策の費用と便益を同一の尺度(補償変分)によって表示し比較する政策評価手法。費用の合計が便益の合計を下回っていれば効率的な政策とされる。
※ミシャン
イギリスの経済学者。著書『費用・便益分析』で、新厚生経済学の論理を徹底した分析の運用を説き、分析自体の適用可否を判断するには倫理的合意によるほかないという立場をとった。
――これまでの研究について教えてください。
1990年から2000年頃は、化学物質リスク評価を行いつつ、リスクと便益の兼ね合いをどう計算して政策に結びつけるかという研究をしていました。環境経済学の中心にあったピグー税(※)が実際にうまく機能しているかを調べ、価格付けにはあまり意味がないと主張しました。07〜08年頃はヨーロッパの排出権取引について調べ、日本でも適用すべきだという議論に対し、真似しても仕方がないという主張をしていました。2011年には、東日本大震災で発生した福島第一原発の事故から、放射能汚染の問題が生じました。この問題は後述する理由で新古典派的な均衡分析が最も適していると考えて、食品の基準値は農家に必要以上の損失を生んでいるとして、一律の決め方を批判しました。
※ピグー税
ピグーは外部負経済の原因を私的費用と社会的費用の乖離に求め、課税を通じて私的費用と社会的費用を一致させることで、社会的に最適な生産水準が実現すると考えた。このことから、環境問題の被害を私的費用に上乗せし、課税による環境問題の解決を図る税をピグー税と呼ぶ。
ピグーは外部負経済の原因を私的費用と社会的費用の乖離に求め、課税を通じて私的費用と社会的費用を一致させることで、社会的に最適な生産水準が実現すると考えた。このことから、環境問題の被害を私的費用に上乗せし、課税による環境問題の解決を図る税をピグー税と呼ぶ。
厚生(welfare)経済学と新厚生経済学
個人や社会の厚生または福祉(welfare)がどのように定義され、計測されるか、またある経済上の変化が望ましいか否かがどのように判定されるかといった問題に取り組む経済学の分野を「厚生経済学」と言う。A.C.ピグーの『厚生経済学』(1920年初版)によって体系化された。ピグーは、個人の効用が計測でき、社会全体で集計できることを前提に、経済的厚生を効用の総和として捉えた。それに対して、効用が測定も集計もできないことを前提に、金銭や物の個人間のやりとりだけに基づいて経済的変化の効率性を論じることができるようにした枠組みが1939年以降に確立し、これを「新厚生経済学」と呼ぶ。環境経済学の道具立ての多くが新厚生経済学に基づいている。目次へ戻る
経済学は学派と体系が重要
――主流派経済学以外の理論を用いて分析を行う一方で、新古典派の均衡分析も適用できる場面では使用するという姿勢は、どこから来ているのでしょうか。
私の師匠は伊東光晴です。伊東先生は主流派の経済学者ではありませんでしたが、主流派にも精通していました。伊東先生の中では、経済学の王道はケンブリッジ学派です。ケンブリッジ学派のマーシャルは、限界革命(※)で知られるジェヴォンズの経済学を嫌い、リカードの徒と言ったそうです。そのマーシャルから、マーシャルの弟子であるケインズや、マーシャルの需要供給均衡分析を批判したスラッファへと繋がっていきます。伊東先生はケンブリッジ経済学を学生にたたき込みつつ、経済学は学派が重要だと繰り返し言われた。経済学は学派によって方法論が違い、異なる体系を作っています。学派どうしのぶつかり合いは、体系と体系とのぶつかり合いだと教えられました。
※限界革命
1870年代経済学におけるマクロ的成長理論からミクロ的資源配分理論(いわゆる近経)へのパラダイムシフトを指す。ケンブリッジ学派のジェヴォンズ、オーストリア学派のワルラス、ローザンヌ学派のメンガーが、著書で限界効用理論に言及したことが発端とされる。「限界」は微分を意味する経済学の概念で、限界効用理論は経済主体の合理的行動の条件を微分で表現したことから、限界革命と呼ばれる。
1870年代経済学におけるマクロ的成長理論からミクロ的資源配分理論(いわゆる近経)へのパラダイムシフトを指す。ケンブリッジ学派のジェヴォンズ、オーストリア学派のワルラス、ローザンヌ学派のメンガーが、著書で限界効用理論に言及したことが発端とされる。「限界」は微分を意味する経済学の概念で、限界効用理論は経済主体の合理的行動の条件を微分で表現したことから、限界革命と呼ばれる。
伊東先生の先生は杉本栄一という方です。杉本は著書『近代経済学の解明』で、限界革命の3学派を扱い、最後にマルクス経済学を取り上げます。杉本はマル経を近経の一学派と捉えました。
その頃、サムエルソン(※)の社会的厚生関数が出てきていましたが、杉本はこれを無内容で形式的な関数だと言いました。杉本はその空箱を埋めるものをマルクスの労働価値説に求めました。杉本が重視したのは社会的価値判断です。ケンブリッジの伝統の中には、ある種の社会的価値判断があると杉本は考えていました。杉本は経験的にして、社会的価値判断を取り入れられるような理論体系を求めて、マルクスの労働価値説にたどり着いたわけです。
※サムエルソン
アメリカの経済学者。同じくアメリカの経済学者・バーグマンとともに、個々人の厚生分配に一定の規則に従って社会的厚生水準を対応させる、社会的厚生関数を提唱した。なお、のちにアローが一般可能性定理を示し、社会的厚生関数は民主的に構成できないと批判した。
アメリカの経済学者。同じくアメリカの経済学者・バーグマンとともに、個々人の厚生分配に一定の規則に従って社会的厚生水準を対応させる、社会的厚生関数を提唱した。なお、のちにアローが一般可能性定理を示し、社会的厚生関数は民主的に構成できないと批判した。
私はマルクスではなく、ミシャンに行ってもいいと思いました。ミシャンは新厚生経済学を徹底するから、そこに価値判断は入りませんが、最後に倫理に基づかせるという姿勢をとります。そこに社会的価値判断の働く場所がある。これが杉本の課題に対する一つの答えになると考えました。私は厚生経済学の環境政策への応用で、ミシャンに依拠しています。
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先進国による排出の押付け
――直近の研究について教えてください。
直近では炭素生産性についての研究を行いました。炭素生産性は温室効果ガス排出量当たりのGDPを測った指標で、値が大きいほど良いとされています。本当に政策に使える指標なのか、その内実を追求しました。
炭素生産性を上げる要因の1つとして、国内の産業構造転換があると言われています。しかし、生活水準を維持する限り、化石燃料を燃焼して作られた物品を消費することになりますから、外国産品を輸入して生活を維持しながら、国内のCO2排出量を減らせることになります。さらに、生産物を外国に高く売りつけて、外国から安く買うことで炭素生産性が上がります。すると、できるだけ少ない国内労働で、できるだけ多くの外国労働が買えるという経済構造になれば上がることになります。つまり、炭素生産性は、外国に排出と労働を押し付けることで上がるのではと考えました。
実際に産業連関分析を行い計測したところ、スウェーデンやスイスといった炭素生産性の高い国は外国の労働やCO2排出を沢山買っていることがわかりました。一方、日本は炭素生産性を低下させています。この理由は第1に、日本が外国労働対国内労働の比率を20年以上一貫して下げてきたこと、第2に外国炭素対国内炭素の比率を下げたことに求められます。つまり、日本が自国で労働や生産を引き受けるという構造に変化したことが、日本の炭素生産性の低下を7割くらい説明しています。
――炭素生産性の分析の基礎にある理論体系は何でしょうか。
消費労働が支出した労働を上回ることを搾取と呼んだことからもわかるように、マルクスの体系が基礎にあります。労働者が働いて得た賃金で買い戻せる消費財に加えられた労働が、自分が働いた分よりも小さいことを、マルクスは搾取と呼びました。マルクスの搾取は先述したマルクスの基本定理によって、労働価値説に拠らずとも利潤の存在条件になることがわかっています。これが国際関係になると、賃金の高い国の労働者は賃金の低い国の労働者を搾取できます。その国で消費された労働とその国から支出された労働の比(下図『労働搾取度』)が1を超えていれば、その国は搾取をしていることになり、1を下回っていたら搾取されていることになります。日本は搾取していますが、その度合いは低下してきたのです。
CO2搾取指標(下図『炭素排出搾取度』)も同じように考えられます。1を上回る国が1を下回る国にCO2の排出を押し付けているといえます。先進国はみな、この指標が1を上回っています。中国は2000年代に搾取される度合いを高めていますが、この背景には、中国がWTOに加盟して「世界の工場」になったことがあります。この頃、中国の製品を輸入した米国は搾取を強めていることもわかります。日本は、CO2搾取の度合いも低下しています。
図:炭素生産性($/t)=GDP/国内CO₂の分母と分子両方に最終需要、国内労働、消費労働、消費CO₂をかけて整理したもの
※国内CO₂=国内で排出したCO₂の量、消費CO₂=国内で消費したCO₂の量
――この研究を行ったきっかけを教えてください。
温暖化問題は豊かな国と貧しい国の対立が顕著に現れます。豊かな国が自国より貧しい外国に排出を押し付けているという問題意識があり、分析をしたいと考えていたところ、産業連関分析の得意な留学生と一緒にやろうということになりました。
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価格付け政策の有効性
――経済学的な環境政策のうち環境への価格付けを行うものについて、どのように考えることができますか。
価格付け政策については、私はほぼ信用していません。ここでも古典派やマルクスの体系と新古典派体系との対立が根本にあります。古典派やマルクスの体系だったら、価格は生産費で決まります。支払い意志額は何の関係もない。労働生産物以外に価値はないというのがマルクスの体系です。これを踏まえれば、労働生産物でない環境への価格付けによって需要供給を最適化する発想が出てきません。価格の役割は生産費の情報を伝えることです。つまり、古典派では価格は技術選択にかかわり、需要供給調整に関与しません。需要供給は価格には関係ないという見方に私は共感しているので、環境に価格付けを行うことはほとんどの場合意味がないと考えています。
――排出権取引や環境税といった、具体的な制度についてはどうでしょうか。
ヨーロッパの排出権取引制度は、排出量を減らしていると盛んに言いますが、減らしている部門は再エネなどの排出削減技術が確立している電力が主です。削減に成功しているかどうかには、技術の有無だけが効いていて、価格は効いていないと言えます。実際のところ機能していないから、日本で真似をする必要もないと思っています。
排出権取引が排出量を減らしたという研究がいくつかありますが、直接規制に比べて安い費用で減らすことができるのが排出権取引の利点なので、他の方法に比べて安い費用で減らしているという実証研究も必要ではないでしょうか。
環境税の利点は本来限界費用均等化(※)にありますが、多くの税や課徴金では、税率が低く設定されたり、ある規準を守ったら税率が軽減されたりして、限界費用を均等化していません。どこまで排出を減らすのがいいかは税に任せられるような状況ではないため、直接規制が効力を持つようになっています。
※限界費用均等化
市場に参入する全ての主体の限界費用(数量や汚染水準などを1単位変化させるのにかかる費用)を等しくすること。
市場に参入する全ての主体の限界費用(数量や汚染水準などを1単位変化させるのにかかる費用)を等しくすること。
税に任せられるのは、限界環境被害費用が一定で、排出削減の限界費用がどこにあろうと、結果が最適と言える場合です。放射能汚染はそれに当てはまる数少ない例の一つです。放射線リスクは線形閾値なしとみなして防護政策がとられています。均衡分析は限界だけが問題で被ばく量がいくらになっても構わないと安心できる時に使うことができます。
――日本の環境税制についてはどのように考えますか。
2028年度以降「脱炭素成長型経済構造への円滑な移行の推進に関する法律」に基づいて、化石燃料賦課金と特定事業者負担金が導入されます。20兆円のGX移行債の償還をこの2つで賄います。化石燃料賦課金は化石燃料に由来するCO2の量にかけるものですが、これは今までの石油石炭税の負担を超えないような設計になっています。新たな負担にはならないので、削減のインセンティブにはならないでしょうね。
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経済学だけでは答えが出ない環境問題
――経済学はその論理に限界がある中で、環境問題にどのような役割を果たすことができるのでしょうか。
倫理で補える部分は、公害や分配といった問題です。公害問題に費用便益分析を適用すべきでないというのは直感的に考えられます。公害で被害が住民に出ている時に費用と便益を測ることは、それ自体非倫理的に思えます。リスクに適用する場合も、極めて大きいリスクを特定の集団が負っている、という状況では効率性概念(※)は意味がありません。温暖化にしても、もし効率性だけを規準にすれば、貧しい国の方が費用が小さく見積もられるから、貧しい国で対策を取り、豊かな国で対策をサボる方が効率的ということになります。実際に貧しい国だけに対策をさせることなどできるはずがない。費用と便益の比較や効率性の判断には経済学の論理を使いますが、公平(衡平)の問題になると常識しか通用しないので、経済学は出る幕がありません。
※効率性
経済学において、配分に無駄がないこと。例えば新古典派経済学では、他の者の効用を損なうことなく全体の効用を最大化する「パレート最適化」がなされた状態を効率的と呼ぶ。
経済学において、配分に無駄がないこと。例えば新古典派経済学では、他の者の効用を損なうことなく全体の効用を最大化する「パレート最適化」がなされた状態を効率的と呼ぶ。
ただ、先述した炭素生産性の分析のような政策論議の整理なら、経済学の論理だけで十分可能です。この分析では、何らかの政策を提示するわけではありませんが、政策論議の整理はできます。経済学は最後に政策を決めるところには多分使えないが、その前の雑多な議論を整理して、無駄な議論をせずに済むといった役割があると思っています。
新古典派の枠組みが適用できない場面では、議論が雑多になりがちです。例えば外来生物の政策評価では、守るものの価値を(貨幣量で換算した)便益として出せないので、費用便益分析はできませんが、費用を算出し、それが与える社会影響や経済影響は計算できる。経済学の大した論理は使わないとしても、世の中にとっては意味があります。もし環境問題に取り組むのであれば、経済学にこだわっていてはいけません。損失余命の計算や、生物の絶滅確率、失われる多様性の評価といった指標の開発は、経済学とは関係ありませんが、意味があるし、やらないといけない。経済学の手法にこだわると、無理があることがあります。
――環境経済学や厚生経済学分野の展望について聞かせてください。
それぞれの人が自分の問題意識でやればいいだけのことですが、先人のやったことは勉強した方がいいと考えます。先人のやったことは読めば読むほどいいですね。経済学は古典が意味を持ちます。古典は必ず分かるように書いてあります。マルクスもリカードも分かりやすい。ヒックスも数理経済学者ですが、本文は全部言葉で、数式は付録にしかありません。ケインズの表現力も凄いなと思います。数式があっても全部言葉で説明されている。古典が重要で、方法も重要で、体系が違えば方法が違うということを学ぶしかないと思います。
――経済学徒で古典をやっている人は、昔に比べると減ってきているのではと思いますが、古典があまり重視されなくなったことの弊害は感じますか。
弊害があると思います。昔の経済学者が議論して捨て去られたものが、新しいかのように復活していると感じます。古典派、マルクスと新古典派との根本の違いも、我々が学生の時はみな気にしていた気がします。そうしたことが忘れられて、新古典派しかないかのように経済学が作られている。
たとえば、マクロ経済学は新古典派ミクロ的基礎によって置き換えられました。その一つの帰結が黒田日銀のような政策ではないでしょうか。流動性選好(※)は利子率に反映し、利子率だけを操作すればよいというのがケインズの考えでしたが、黒田日銀は「期待」によって物価は上がるとした上で、ベースマネーを増やしたわけです。これは、常識に反しているからこそ、物価は上がらなかった。今の物価上昇は輸入コストの上昇に押されたものです。貨幣量を動かしたら物価が上がる、というのは単に昔の議論を忘れ去っているのではという気がしてなりません。新古典派は自分の方が一般理論で、ケインズ体系は特殊ケースだとしていますが、ケインズは新古典派の方が特殊ケースだと言っている。両方比べる必要があると思います。ある理論体系や方法が適用できる分野と、そうでない分野を分けることが大切ですね。そのためには古典派も、新古典派も等しく見て、どれが使えるかということを判断していくことが重要になってくると思います。
※流動性選好
流動性の高い現金で資産を保有しようとすること。ケインズ体系において、利子率は一定期間現金を手放すことへの報酬であるから、利子率の高さが流動性選好の強さを測る尺度と考えられた。
流動性の高い現金で資産を保有しようとすること。ケインズ体系において、利子率は一定期間現金を手放すことへの報酬であるから、利子率の高さが流動性選好の強さを測る尺度と考えられた。
――ありがとうございました。〈了〉
