研究の現在地 VOL.15 フィクション論で「秘密」を知りたい 同志社女子大学表象文化学部 (京大非常勤講師) 高橋幸平 教授
2025.10.16
高橋幸平(たかはし・こうへい) 同志社女子大学表象文化学部 教授
2005年、京都大学文学部人文学科卒業。10年、京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。日本学術振興会特別研究員(DC)、京都光華女子大学人文学部専任講師、滋賀大学教育学部専任講師/准教授、同志社女子大学表象文化学部准教授を経て現職。主な著書に『小説のフィクショナリティ』(共編著、ひつじ書房、2022)など。
2005年、京都大学文学部人文学科卒業。10年、京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。日本学術振興会特別研究員(DC)、京都光華女子大学人文学部専任講師、滋賀大学教育学部専任講師/准教授、同志社女子大学表象文化学部准教授を経て現職。主な著書に『小説のフィクショナリティ』(共編著、ひつじ書房、2022)など。
目次
句読点なくし 自意識を表す文豪⁉フィクション論に没入
谷崎『秘密』を再解釈
他研究者へ理論を橋渡し
フィクションの「秘密」を求めて
句読点なくし 自意識を表す文豪⁉
――いつから日本近現代文学の研究を。
大学の卒業論文で、大正・昭和の作家である横光利一の『時間』を取り上げたのが最初です。あるとき、高校で配られた国語便覧を眺めていたんです。すると、横光が「理知的な文体で自意識を表現する作家」と紹介されていました。これに興味を持ったんです。どういう意味だろうと。そこで代表作の『機械』を読んでみたら、かなり衝撃を受けました。句読点がほとんどないんです。横光はこの文体で、理路整然とはしていない人間の流れるような思考の表現を狙ったんですね。これをきっかけに大学院進学後も彼の研究を続け、結局博士の学位を取得するまで14年ほど取り組みましたね。
――先生は京大文学部・国語学国文学専修の出身。人間・環境学研究科には、近現代文学を専門に研究する先生がいる。大学院への進路はどう決めたのか。
学部生だった頃、授業のあとに人環の須田千里教授に相談したのを覚えています。国文の院に進むか、須田先生のもとで研究者を目指すか。当時、国文に近現代文学の先生はいませんでした。これは今もそうだと思います。教授からは、研究職を得るのは簡単ではないが、それでもというならやはり国文の方がよいのではないか、というご助言をいただいたのを覚えています。思い返してみても的確なアドバイスでした。国文には、国語学国文学のさまざまな分野の先輩がいらっしゃいました。今となればそこで学んだことも多かったと思います。
――大学院ではどのような研究を。
横光の文学理論である「感覚活動」の研究からスタートしました。「感覚活動」は発表当時から、晦渋、衒学、こけおどし、とにかく評判の悪い文章でした(笑)。まず私は、同時代に流通していた、カントの認識論についての言説や、そこから派生した海外の芸術理論を調査し、横光が理論構築のために依拠した文献を推定しました。
こうした文献を参照しながら文脈を補うと、彼の理論は表現主義やキュビズムといった20世紀の前衛芸術(※)の思想を、日本語の小説で実現するためのものだったとはっきりしたのでした。
(※)前衛芸術
主観を重視する新しい芸術観や方法に基づいた20世紀初頭の芸術運動の総称。未来派・表現主義・キュビズムなど。
主観を重視する新しい芸術観や方法に基づいた20世紀初頭の芸術運動の総称。未来派・表現主義・キュビズムなど。
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フィクション論に没入
――大学院を出た後はどのような研究を。
運良く研究ポストを得て、横光はもちろん、谷崎潤一郎、小川未明、筒井康隆など、近現代の作家の作品を研究してきました。ですが次第にそれだけではなく、文学の哲学やフィクション論(※)など、文学をめぐる一般理論にも関心が移って来ました。
(※)フィクション論
フィクションをめぐる人間の営みを、認知科学・分析美学・歴史社会学など、さまざまなアプローチで理論的に解明しようとする学問分野。
フィクションをめぐる人間の営みを、認知科学・分析美学・歴史社会学など、さまざまなアプローチで理論的に解明しようとする学問分野。
――なぜ関心が移ったのか。
きっかけの1つは、研究職に就いてからすぐにアイデンティティ・クライシスに陥ったことです(笑)。京大にいた頃は、自分の研究の社会的意義など考えたこともありませんでした。いま価値あることだけが研究に値するという空間では、新しいタイプの価値は決して生まれません。その意味で京大での研究生活は本当に恵まれていました。ところが、研究者はそんな幸せな場所にばかり所属するわけではありません。かつての私の就職先も、経営のために人気のない学部を縮小せざるを得ませんでした。その渦中にいて、自分の研究は本当に求められているのかと悩んだんですね。正面から「文学は人間に必要な営みか」と問われたら、答えられないと思いました。
ただ、文学の生産と消費がこれだけの歴史を持つ以上、人間と文学、あるいは人間とフィクションとの関係には、何か重大な「秘密」が隠れているはずだという直感はありました。答えを先行研究に探すなかで、認知科学や分析美学の一分野がこの問題を扱っていることを知りました。フィクション論と呼ばれる分野です。とはいえ、自分にとってこれだと思える説明にも出会えませんでした。
その頃、京大人文研でフィクション論を研究されていた大浦康介先生を知る機会を得ました。数年続けた勉強会には毎回大浦先生にもご参加いただき、フィクション論と近現代文学研究との接続について、多くの文学研究者とともに考えてきました。
――フィクション論について、具体的にはどのような研究を。
横光に『ナポレオンと田虫』という小説があります。ロシア征服を目論むナポレオンが腹の痒みに悩まされる様子を描いた歴史小説です。まず横光が創作のプロセスで参照できたはずの歴史的な言説を80本ほど集め、そのうち彼が実際に参照したものとして2本の文献を推定しました。横光は固有名詞の誤植を不注意にもそのまま小説に引き継いでしまったので、私にバレてしまったのです(笑)。彼が見た文献の内容が小説でどう創作し直されているかを根拠に作品を解釈しました。
これはフィクション論に関心を持つ前の大学院時代の研究ですが、今思えば、この頃からフィクションの生成プロセスに関心をもっていたのだと思います。
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谷崎『秘密』を再解釈
――最近はどのような研究を。
研究は主に2つに分かれます。1つは、文学の哲学やフィクション論と呼ばれる分野の研究、もう1つは、そうした理論を参照した、日本の近現代小説の再解釈です。
フィクション論は、現実世界のフィクションのあり方を上手に説明するだけでなく、フィクション自体の中で起こっていることをうまく説明することもできます。
最近では、谷崎潤一郎の『秘密』を論じました。主人公の男は、女装をしつつ浅草で暮らしています。女性よりも美しいと自負していた彼は、かつて関係を持った女と遭遇し、この女に完全に敗北したと思います。今度は彼女を男性として征服したいと考えた男は、女の家に通い始めます。
『秘密』は前半と後半の与える印象がちぐはぐで、それゆえ評価が分かれます。私はこの作品をケンダル・ウォルトンの「ごっこ説」を参照しながら再解釈しました。主人公は、自分が好むフィクションの内容に似た振る舞いを繰り返します。彼は自分を〈女〉や〈探偵〉などと思い込みますが、これは自分の好きなフィクションの世界を借りた、戯作「ごっこ」や探偵小説「ごっこ」です。彼はそういう作品の中の人物になりきって現実を捉え直し、その作品の世界に没入する。そして、何らかの外的要因でその世界に没入できなくなった瞬間に、また別のフィクションとして世界を捉え直す。こういう具合に、彼はごっこ遊びを4回も繰り返すのです。さて、この文脈で作品の結末部分を読み直すと、面白いことが見えてくるのです。論文の結論は、ぜひ『小説のフィクショナリティ』で確認してみてください。こうしたアプローチで本作を論じたものは、他にないと思います。
これはフィクションの世界で起こっていることをフィクション論で説明した一例です。小説は、現実世界と、その小説がつくる虚構の世界という2つの世界と関わっています。分析美学では現実世界でのフィクションのあり方を説明しようとします。例えば、ある対象がフィクションとして扱われるのはどんな時か、とかね。しかし、その洞察は虚構世界で起こっていることの分析にも適用できます。というのも、異論もありますが、やはり虚構世界は多くの部分で現実世界に依拠しているからです。私が『秘密』の解釈で行ったのはそういう方向だと思っています。

◆書誌情報
『小説のフィクショナリティ:理論で読み直す日本の文学』
高橋幸平、久保昭博、日高佳紀:編
ひつじ書房
2022年、4000円+税
高橋教授が谷崎潤一郎の『秘密』を再解釈した論文を掲載
『小説のフィクショナリティ:理論で読み直す日本の文学』
高橋幸平、久保昭博、日高佳紀:編
ひつじ書房
2022年、4000円+税
高橋教授が谷崎潤一郎の『秘密』を再解釈した論文を掲載
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他研究者へ理論を橋渡し
――文学研究の面白さや大変な点とは。
文学作品の解釈の「価値最大化理論」と呼ばれるものがあります。テクスト内部の整合性を保ち、作品の歴史的文脈への目配りを怠らず、さらにその作品が持つ芸術的価値を総体として高めるものこそ、追求されるべき解釈だというわけです。
この理論では、文学作品の解釈には、制限付きの創造性が認められています。実証的で地道な議論という制限のもとに、創造的なパフォーマンスが発揮されたとき、作品は初読時とは違う魅力を放ちはじめます。文学研究は、事実の追求という営みであるとともに、その営み自体が文学作品に価値を与える。文学研究が文学の価値にとって不可欠な要素だとすれば、私のアイデンティティも回復できます(笑)。
大変というわけではありませんが、日本近現代文学の研究分野では、やはり作品論や文化研究の実践が中心で、方法論に関する議論は多くありません。また文学理論や批評理論といっても、かつて主にフランス現代思想が日本語で紹介されたこともあって、英語圏の分析美学の成果に言及されることは少ないのが現状です。
やはり、理論が普及するにあたって日本語でアクセスできるということは大事です。
今、グレゴリー・カリーという美学者の『フィクションの本質(The Nature of Fiction)』という重要な著作の翻訳に取り組んでいます。なるべく早く出版にこぎ着けて、他の文学研究者にもフィクション論を知ってもらいたいですね。
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フィクションの「秘密」を求めて
――文学作品を読むことの意義とは。
例えば、『こころ』を読むと、明治期の人々の生活をある程度知ることができるかもしれません。知識の源泉としての文学作品というわけです。しかしこれはいかにも袋叩きに遭いそうな主張です。
まず思いつくのは「歴史的な知識の獲得が目的なら歴史書を読む方がいい」という反論です。もっともですね(笑)。ただし、科学としての歴史学は史料に基づきます。史料に基づいて知ることができるのは政治や経済などの「外部」の事実が中心で、当時の人々の「内面」を知るのは容易ではないと思います。文学は、自分以外の人物の経験や思考を追体験できる数少ないメディアです。文学作品の登場人物を通じて、当時の人々の「内面」を知ることができるかもしれません。
しかし今度は「フィクションから事実を知ることなどできるのか」といった反論が想定されます。これももっともですね。トルストイは『戦争と平和』でナポレオン戦争を詳細に描いています。そのようなことができる作家には、少なくとも関連する歴史事項についての知識があるだろうし、そういうリアルな設定の小説では登場人物もリアルに描かれているはずだと考えるのは自然です。人間の「内面」を知るとは結局のところ、ある条件の下での人間心理の傾向を知ることですから、重要なのは個別の事実よりもそのような一般論だとも言えます。人間心理の洞察に優れた作家のフィクションは、一個の歴史的事実よりもより真に迫った人間の内面を描くこともあるわけです。
知識ではなく認知能力の向上という点から、文学作品を読むことを評価できるかもしれません。かつて、全米図書賞のような賞を与えられた文学作品を読むと、相手の心を推測する能力が高まるということを実証した論文が発表されました。この説には異論も多く定説には至っていないのですが、文学作品の効用を示すこのような科学的研究を常にフォローしつつ、自分では哲学的な分析を行いながら、人間とフィクションの間にある「秘密」をもっと上手に理解したいと思っています。
――ありがとうございました。

