文化

映画評論 第11回 ヴェネチア映画祭受賞の妥当性 『悪は存在しない』

2024.05.16

映画評論 第11回 ヴェネチア映画祭受賞の妥当性 『悪は存在しない』

© 2023 NEOPA / Fictive

1951年に黒澤明の『羅生門』(1950)がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。これが国外での「日本映画史」の始まりとされ、「世界の黒澤」はここから『まあだだよ』(1993)まで巨匠として映画を作り続けた。2023年、濱口竜介は同映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞し、ヨーロッパの三大映画祭—カンヌ映画祭、ベルリン映画祭、ヴェネチア映画祭—で、グランドスラムを果たすことになった。偉業だ。

しかし、『偶然と想像』(2021、ベルリン国際映画祭銀熊賞[審査員グランプリ])、『ドライブ・マイ・カー』(2021、カンヌ国際映画祭脚本賞)、『悪は存在しない』の結果を知るにつけ、この偉業がこんなに簡単に成し遂げられた事実に対して今一つ腑に落ちないのは私だけだろうか。何故濱口作品がこれほどまでに映画祭で評価されるのだろうか? 今回の映画評では、この腑に落ちない気分を手がかりに、彼の作品に内在する魅力について考えたい。

物語


『悪は存在しない』は、長野県にあるとされる架空の町・水挽町(みずびきちょう)が舞台となっている。特定の架空空間が舞台となる一方、扱われる物語内の要因の数々―父子の繋がり、自然と人とのサステナビリティ、都市VS.田舎の価値観の格差、生き甲斐追求―は、普遍的な要素を含んでいる。

水挽町は自然が豊かな高原で、都会からの移住者が僅かずつではあるが増加傾向にある。そこで暮らす巧(大美賀均)と娘・花(西川玲)が、薪を割ったり、湧き水を汲んだり、父が娘に樹木の名前や鹿の生態を教えたりしながら、質素だが平和な生活を営んでいる。母は不在であるが、映画は過去に撮られた3人の写真を控えめに映し出すだけで、彼女についての言及はしない。そんな平凡な田舎暮らしに波風が立つ。コロナ禍の功罪ともいえる、政府がばら撒く中小企業救済のための補助金目当てに、東京の芸能プロダクションがこの町にグランピング場を建設する計画を持ち込む。

グランピング(glamping)とは、グラマラス(glamorous)なキャンピング(camping)を意味し、英語圏でも使われる造語だ。自分達でテントやキャンプ道具などを用意しなくても気軽にキャンプ体験を楽しむことができ、ところによってはホテル並みの快適なサービスも受けられる新しいキャンプスタイル。

しかし、自然が豊かな水挽町にとって、無計画なグランピング場建設は、汚水問題、山火事問題、鹿との共存問題等、幾つもの課題が未解決のままだ。芸能プロダクションから送り込まれた社員・高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)は、説明会で町民たちから反対を食らい、試行錯誤の末、巧をグランピング場のアドバイザーにと所望する。そんな大人のやり取りが行われる一方、学童からの帰宅途中、花が手負いの鹿に遭遇し攻撃される。

音楽 VS. 映像


本作品は、濱口の映像とミュージシャン・石橋英子の音楽のコラボが売りとされている。『ドライブ・マイ・カー』(2021)で共同制作をした2人が、再び新しい試みを行った。今回は、石橋が濱口に、彼女のライブ用にサイレント映像を制作するように要望したことからコラボが再開し、その結果として『GIFT』(2024)という名のライブパフォーマンスが生まれた(それは京都でも本年2月ロームシアター京都で公演された)。

「見る」ことと「聴く」ことを逆転、正確には等価にする試みは、映画というメディアにとって刺激的だと思う。私たちは一般的に「映画を見に行く」とは言うけれど、「映画を聴きに行く」とは言わない。明らかに映画という媒体が、歴史的に視覚重視のメディアであることが解る。本作品が音楽から大きなインスピレーションを受けている作品なのだとすれば、それはどのような効果を生んでいるのだろうか。

本作は、木々の葉や枝越しに上空を撮影する車を使った移動シーンで始まり、それが4分間続く。このシーンはとても長く感じられ、そこで奏でられる弦楽器の根気強い継続性に、石橋の代表曲「The Dreams My Bones Dream」(2018)が想起される。映画にとって冒頭場面は重要であり、普通であれば物語の背景となる時空間や登場人物を紹介することが多いのだが、本作は観客にそういった説明を与えない。むしろこの冒頭シーンは、観客たちを日常から映画の物語空間へ誘うための「長いトンネル」のような役割を果たしており、音楽と映像とのコラボレーションの好例だと思う。

スター不在とぶっきらぼうな演出


『悪は存在しない』では、所謂「スター・パワー」が不在である。『ドライブ・マイ・カー』では、西島秀俊や岡田将生といった国内では十分人気のあるスターを起用していたが、本作品では殆ど無名の役者である大美賀均と映画初出演の子役・西川玲を登用している。当然のごとくスター・パワーによる観客動員は難しい、だが、ハリウッド以外の海外作品を見るとき、スター・パワーは思いのほか意味がないことが多い。固有文化を熟知しない限り、文化資本(cultural capital)はその地域以外の観客にとっては、多くの場合不可視化されてしまうものだ。つまり、本作品にとって勝負はそこではなかった。むしろ魅力は、それぞれの役がどのように作り上げられているか、もう一歩踏み込む解釈が許されるならば、それぞれの役者の持つ天性がどれだけ上手く引き出されているかを本作は重視している。

大美賀は決してハンサムではないし、演技が秀でている役者だとも思えない。しかし、彼が演じる水挽町を知り尽くした男・巧は、映画が進むに連れ、目が離せない不思議な魅力を発揮する。巧は、朴訥な語りしかできない代わりに本当のことしか言わない。巧が何かの発見に心を躍らせる瞬間、人の意見を聞きそこからモノを考える瞬間、こういった「彼の時間」に対して、作品は充分以上の時間を与える。結果として、映画の物語空間に存在する人々が巧を信頼する思いが、映画を見るわれわれ観客の心にも沸き起こる。

本作品の脚本は濱口自身が書いている。最小限に削減された台詞が利いているだけでなく、大美賀のぶっきらぼうな言葉の数々が、人々をうなずかせる。濱口の考えが、巧というペルソナを通じて映画の中で体現される。良い脚本と素朴な演技とが、ある意味、今の日本という社会空間における倫理観を表象する。

『悪は存在しない』の受賞により果たされた欧州三大映画祭のグランドスラム偉業が、なぜか「腑に落ちない」と書いた。しかし、こうやって映画の構成要素について考えていくと、新たな驚きと共に腑に落ちた気がする。この作品は、歴史ある賞を受賞したという事実以上に、賞を決めるために招かれた審査員たちによって選ばれたという事実を強調したい。ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したと言うより、むしろ賞を決めるために招待された今最強の審査員たちによって受賞したことになる。昨年度の審査員の面子は驚くほど華麗で、彼らの多くは魅力ある作品を輩出し続けている。また、彼らの地域的な立ち位置は異なり、作品傾向もバラエティに富んでいる。『セッション』(2014)や『ラ・ラ・ランド』(2016)で一躍有名になったデイミアン・チャゼル(米国)を審査委員長に据えた計8人の審査員の中には、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(2021)のジェーン・カンピオン(ニュージーランド/豪州)、『未来よ こんにちは』(2016)や『それでも私は生きていく』(2022)のミア・ハンセン=ラブ(仏)、『スリー・ビルボード』(2017)や『イニシェリン島の精霊』(2022)のマーティン・マクドナー(英国)、ドキュメンタリー映画の先鋭ローラ・ポイトラス(米国)、そして台湾の女神スー・チーらが名を連ねる。常に新しい映画表現を探し求めるこれら審査員から本作に光が当てられたことは、天恵以外のなにものでもない。改めて濱口監督に「おめでとうございます」と本評論を通して伝えたい。

◆映画情報
『悪は存在しない』
原題: Evil Does Not Exist
公開:2023年
上映時間:106分
監督:濱口竜介
京都では2024年5月3日(金曜日)より京都シネマ及び出町座にて上映。

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