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【連載第八回】京大新聞の百年 「新聞への情熱と学生への愛情」で駆け抜けた半世紀

2024.04.16

【連載第八回】京大新聞の百年 「新聞への情熱と学生への愛情」で駆け抜けた半世紀

1935年ごろの入山夫妻。入山の姪によると、妻イクは、震災の際に園児を冷静に避難させるなど、「静かばかりではない」人物だった

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第八回。時系列で振り返る「通史」は、前回で1970年代に到達した。今回は、創刊から70年代にかけて京大新聞を支えた入山雄一・終身名誉顧問の生涯を、番外編として辿る。内容は90年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』を転載して再構成する。また、実際の紙面の記事を書き留める「拾い読み」は、70年から75年の休刊直前までを掲載する。連載を通して社会背景や編集部の理念を顧み、今後の紙面づくりや各方面の歴史考察への寄与を図る。(編集部)

目次

通史番外編 入山雄一の生涯 本紙の終身名誉顧問
コラム⑨ 「昔話」の連載や書評も 入山雄一氏が書いた記事
拾い読み⑦ 1面に少ない「京大」の文字 全国の闘争や時事を追う

通史番外編 入山雄一の生涯 本紙の終身名誉顧問


この人抜きで京大新聞の歴史を語ることはできない。関係者が口を揃えて称えるその人物こそ、入山雄一である。1925年の創刊以来、およそ半世紀にわたって京大新聞を支えた。一貫して学生の手でつくられてきた新聞を、戦前は法令上の責任者である発行人として、戦後は顧問として守り続けた。その生涯について、本紙出身のジャーナリスト・長沼節夫(故人)が『権力にアカンベエ!』のなかで「入山雄一略伝」にまとめている。ここでは、ご遺族の承諾を得たうえで略伝の記述を転載しながら、入山の人生を振り返る。

歌の投稿を機に新聞社に就職


入山の姪の辻京子は、「子沢山で父親に早く死別した貧しい家庭の総領とあっては、高等教育を受けるのはむりでしたろう。高等小学校か中学出か。しかし、後年、母方の伯父から読書の手ほどきを受けたと申していました」という。

入山は1890年9月7日、和歌山県那賀那根来村に生まれた。少年時代について入山は、後年になって「自分は学歴のない人間でね」と周囲に語っている。それでも、冒頭の姪の回想や後年の軌跡を見れば、入山が多感な文学青年へと育っていったことは想像に難くない。

進学を断念した入山は、郷里の和歌山県庁に就職し、次いで香川県庁に転職。治山治水事業の担当として、荒廃地復旧などに参画した。様々な雑誌を愛読し、新劇に関心を寄せたほか、歌詠みたちでサークルをつくり、馬車に乗って徳島県境の温泉まで出かけて歌会を開くなどした。自信作はよく新聞に投稿したという。

投稿をしていた大阪朝日新聞の歌壇欄の当時の選者は大阪朝日の初代の調査部長で歌人の花田比露思(本名大五郎、一八八二︱一九六七年)だった。花田は朝日新聞、読売新聞で筆を振るったあと、京都帝国大学学生監から、大分大学と別府大学の学長を歴任、かたわら、歌誌『あけび』を主宰した。青年入山は歌の投稿を続けるうちに、花田にその名を知られるようになり、やがて文通をするようになった。花田の知遇を得たことが、その後の入山の人生を変えることになる。

文通するうちに、新聞社で働きたいという気持がつのった入山は、花田に相談をもちかける。努力してみても一向にうだつの上がらない下級役人のままで人生を終わりたくないという思いがあったのと、大正デモクラシー運動、民権思想を鼓舞する新聞ジャーナリズムに身を投じてみたいと、入山が考えたのも無理はない。

明治時代は、投書者が新聞社入りすることは珍しくなかった。入山に相談をもちかけられた花田は、主筆の鳥居素川に入山を推薦。欠員が出るのを待つことになった。

ところが、1918年8月の富山での米騒動をめぐり、報道規制への抗議行動に関する記事が原因で大阪朝日の発行人らが新聞紙法違反の有罪判決を受ける(※)。これに抗議して同社の鳥居や花田らが辞職。入山の入社は立ち消えとなった。

それでも、鳥居らが新たに立ち上げた大正日日新聞に花田とともに社員として迎えられ、念願の新聞記者となった。内勤の編集担当として、赤鉛筆を手に紙面づくりに励んだ。

同紙は1年で廃刊し、その後は花田を追うようにして『西日本』、『読売新聞』、『大阪時事』へと籍を移した。しかし、大阪時事の社風になじめず、辞表を出して郷里に帰った。

※白虹事件
買い占めによって価格高騰した米の安売りを求めて富山の主婦らが役所に押しかけた。この「米騒動」の広がりを危惧した政府が報道規制を図ったことから、新聞各社が抗議集会を展開。その模様を報じた大阪朝日新聞の「白虹日を貫けり」という表現が兵乱を予兆しているとして、発行人と記者が有罪判決を受けた。大阪朝日は社長交代、自己批判の社説を掲載するという幕引きを見た。

発行人として京大新聞創刊


〈大正十三年夏秋のころ花田先生京大学生監に就任、その年末よばれて先生を京大に訪ねたら「こちらでも大学新聞を出すことになったからキミそれをやれ」とおっしゃる。(中略)だいぶ迷ったが、老母が東京大震災で心配した直後であり、東京行き(編集部注:内務省社会局の長官になる知人から、同局の月報編集者として誘われていた)に反対なので、とうとう翌十四年一月末、また先生のお世話で京都にきた〉*

当時は新聞紙法のもと、「安寧秩序」を乱したとされれば禁固や罰金の刑に処され、たいていの新聞の発行人は前科十犯、二十犯といった経歴を持っていた。学生をそんな危険な立場に据えるわけにはいかないということで、入山に白羽の矢が立った。こうして入山は帝国大学嘱託の身分を得て、1925年4月、発行人として京都帝国大学新聞の創刊を迎えた。

29年には、思想の自由が揺らぐ情勢下で、新聞部事件が起こる。初代部長の佐々木惣一・法学部教授が辞任し、後任の大野熊雄が下級生部員を辞めさせるなどして左翼色の一掃を図った。

この事件で苦しい立場に立った入山であったが、部員間の深刻な対立のなかでもどちらか一方に与することなく、黙々と新聞づくりを見守り、京都日日新聞社の印刷所に通って割り付け作業の指導に当たった。大量脱退騒ぎがピークに達した九月には新聞部に出入りする学生もほとんどなく、入山は一人で新聞づくりを続けた。(中略)この新聞部事件で、紙面からは左翼勢力の影響は以前よりずっと排除され、しばらくは創刊当初を思わせる、学内の告知板的紙面へと戻っている。したがって、ときあたかも軍部は国内ではいくつかのクーデター事件を起こし、海外では満州への侵略、そして満州国の建国宣言をするなどの侵略行為を始めるが、京都帝国大学新聞はまったく扱っていない。

特高に頭を下げつつ屈せず


33年4月には、「赤化教授」の排除を進める文部省が京大の滝川幸辰・法学部教授の『刑法読本』を問題視し、同氏の休職処分を強行した。教授会に諮るなどの慣例を無視した対応に学生・教官らが猛反発。一方、京大新聞内では、部長の西田直二郎・文学部教授が一連の滝川事件の報道自粛を指示。抗議した部員が総退部する事態となった。入山は、「西田さんは学生の左傾に対してはあまりに厳しい態度をとった」と嘆いた。入山を新聞部に招いた花田も、よき相談相手だった佐々木も、すでに京大を離れており、入山は部室にひとりぼっちとなった。

このころ、花田は入山に対し、和歌山県庁に新設される観光協会の主事就任の推薦を持ちかけたが、滝川事件への対応から逃げたくないとして断っている。

1933年、滝川事件のさなかに部員を連れて水浴びに出かけた。右端が入山



部員が総辞職してしまったものの、入山はOBに励まされて新聞づくりを続けていく決心だった。たとえどんなに言論統制が厳しくとも、大学新聞の灯を消してはならないという熱き思いがその支えであった。思い直して新たに編集部員を募って新聞づくりを教えた。(中略)特高警察は発行・編集人である入山に以前に増して頻繁に接触を求め、府警に呼びつけた。事前検閲をするたびに、「あの執筆者は好ましくない」「こんな記事を載せるなら発禁だ」などと、脅しをかけられる。丹生山は苦々しく思いながらも、持ち前のソフトな微笑で頭を下げた。しかし、そのじつ屈することなく、左翼とマークされている人にも、ひそかに稿料前渡しで原稿を頼んだりした。

新聞部を去った学生たちがつまらなそうな顔で過ごしているのを見た入山は、京大新聞出身の毎日新聞の記者に相談。京都版の紙面の一角に「カレッジセクション」という欄を新設してもらい、その編集を脱退組に委ねた。彼らは入山宅に集まって相談ごとをしたという。

一方、一般紙の記者も、京大記者クラブで入山から助言を得ていた。

入山はこの京大記者クラブの正式メンバーだった。総長との懇談会や、クラブ記者の見学会、また忘年会や記者たちの歓送迎会にもすすんで出席した。各社の記者たちも、もちろん新聞部の部屋に自由に出入りし、入山と雑談した。このようなとき入山は公正、中立で、京大新聞部OBの記者を特別扱いするようなことはしなかった。(中略)入山は学内のことに限らず、宗教、美術、観光のことなど博覧強記で、勝村(編集部注:京大新聞部出身、当時朝日新聞記者)は京大新聞部まで出かけてアドバイスを得たことがしばしばあったという。

「世の中がどう変わろうとも」


自由主義の空気を学内に少しでも呼び込むことも入山は試みた。一九三七(昭和一二)年の京大浜田総長担ぎ出し工作である。
この年の一月、(中略)三人(編集部注:入山と朝日新聞記者と学生)は滝川事件以来の学内の重苦しさを解決するため、文学部考古学教室の教授浜田青陵を担ぎ出すことが必要だとの結論に達した。これにもとづいて朝日新聞京都版と京都帝国大学新聞は、それぞれ浜田待望論の選挙予測記事を載せた。(中略)浜田のリベラルな人柄への共感は急速に広まり、当初、本人を含めてだれも予測しなかった浜田総長が実現した。

太平洋戦争に突入するころには、特高警察が大学構内を歩き回るようになっており、新聞部室にも顔を出していた。学生が治安維持法で逮捕される例もしばしばあり、ときには土足で下宿に上がり込んで連行することもあったという。京大新聞は、西部構内の小さな編集室で、変わらず発行を続けた。

41年8月には、物資不足を嘆くコラムが原因で、創刊以来初めて発禁処分が下された。入山はその責任をとって一時的に発行人の座を退いたが、その間も学生たちは入山のもとへ相談に行ったため、実質的には何も変わらなかった。

大組み(編集部注:印刷所での割付作業)が終わると、一同で四条河原町まで歩いてビヤホールや赤提灯に入った。大きな特集を終えた後などには入山がすき焼きをご馳走することもあった。(中略)入山は新聞部の伝統について熱弁をふるった。入山は滝川事件にふれ、「世の中がどう変わろうとも、大学の自治と自由を守るためにはからだを張っても努力しよう」と述べて、新入部員を感激させた。

「いまのような軍国主義の嵐はこれからもますます厳しくなるだろうし、言論の統制もこれに応じてきつくなるだろう。嵐の吹きすさむときはじっと首をすくめて嵐の過ぎるのを待つことだ。こんな時代はいつまでも続かない。必ず破局のときが来る。それまではお互い健康に注意してじっと耐えることだ。けっして無用の摩擦や誤解を受けないよう、言動に注意してお互いがんばっていこう」

毎月五日、二十日の発行日の翌日は編集会議だった。入山は企画や編集についてはいっさいを学生たちの手に任せて、会議には出席しても黙って学生たちの議論を聞いているだけでほとんど口を出さなかった。

入山が会議で発言するのは、学生が外部への依頼原稿の執筆者を思いつかない場合に提案するくらいだった。

しだいに編集員が戦地に出るようになり、新聞用紙の不足にも直面した。発行継続が不可能になり、44年4月に休刊した。

その後、入山が東大新聞の関係者に呼び出され、両大学で1紙をつくるという話がまとまった。7月、『大学新聞』の発行を開始。京大新聞は関西支社となった。入山は、体格検査の不合格で戻ってきた学生とともに作業に当たった。

博物館長に就任も「性に合わん」


ついに戦争が終わり、学生が大学に戻ってきた。入山は彼らと新生・京大新聞の夢を語り合った。学生が用紙の割り当て確保に成功し、入山は知人から運転資金を借り入れ、印刷を大阪朝日新聞に引き受けてもらう手はずを整えた。こうして46年4月、『学園新聞』の発行にこぎつけた。食糧だけでなく活字にも飢える時代、新聞はよく売れた。

西部構内火災はそんな矢先に起きた不幸な出来事だった。一九四七(昭和二二)年十二月八日夜、学生食堂から出火した火は、隣接の二部屋続きの京都大学新聞社の部屋をたちまち灰にしてしまった。自宅から駆けつけた入山も、別のキャンパスから集まった部員らも、あまりに早かった類焼になすすべもなく、茫然と立ちつくすだけだった。創刊以来、二十年あまりにわたって保存してきた資料や写真ネガ、バックナンバーが跡形もなく消えた。それは入山にとっては青春のほとんどすべてだった。学生たちは入山が落涙して泣く姿をはじめてみた。

バックナンバーは入山が自宅にも保管しており、復刻できた。

48年早々、京都市長の神戸正雄が入山に恩賜京都博物館(現・京都国立博物館)の館長職就任を打診した。神戸は、かつて京大新聞に原稿を寄せてくれた京大名誉教授だった。

当時は戦争協力者のレッテルを貼られた者が多数、公職追放された直後であり、(中略)戦争非協力者、リベラルな人材を登用しなければ、GHQが承知しなかった時代である。
進歩的といわれた新聞までがついに戦争賛美へと転んでいったなかで、大東亜共栄圏論者には原稿を依頼しないなど、京都帝国大学新聞紙面で反戦・平和を別のかたちで実践した入山である。(中略)京都市は館長ポストという、用意できる最高の栄誉の称号を入山の「反戦・平和」に捧げようとした。

入山は当初、「役所には不向き」と遠慮したものの、噂を聞いた学生が「新聞は順調だから」と背中を押し、受諾に至った。

就任以降も学園新聞にとってなくてはならない相談役だった。学生が訪ねて指示を仰ぐこともあれば、入山が電話して「こういう学者が来るからインタビューしないか」と持ちかけることもあった。50年1月にかけて行われた大学の公認取得をめぐる交渉の際には、学生部側が入山の同席を依頼したという。

結局、館長職は2年足らずで退任した。博物館での生活に、「あんな大事なものを見張っておるのはどうも性に合わん」と周囲にこぼしていたという。

50年9月、入山は60歳で再び京大に戻った。以前と同じように隅に座って編集会議に出た。

55年、入山は常任顧問の引退を表明する。体力の限界だった。受験生向けの書籍『京大を受けるために』の出版が当たり、新聞社の抱える積年の借金がなくなったタイミングでもあった。

惜別として開かれた同窓会では、入山を終身名誉顧問とすることが決議された。12月5日の学園新聞のコラムでは、その盛会を報告し、「金や名誉とはおよそ縁のないその仕事を全うさせたのは、変わることのない新聞に対する情熱と学生に対する愛情だった」と入山に敬意を表している。

1959年、東京に入山(前列左から3番目)を招いて開かれた同窓会



トモシ火の油皿に徹する


これ以降、入山は京大新聞社への毎日の出勤をやめた。創刊以来、博物館長時代も公務の許す限り続けていた編集会議への出席もしなくなった。一方、学園新聞に「京大むかしばなし」などを連載した。その最終回では、「最早永からぬ余命を、せめて短い創作のマネでもしていきたい」と意気込んで締めくくった。周囲には「歴史小説を書きたい」と話していたが、実現しなかった。体力の衰えに加え、顧問を退いても京大新聞関係の仕事が多数持ち込まれたことも影響したと思われる。

たとえば資金調達。印刷所から刷り代を催促され、入山が自宅を担保に資金を融資してしのいだ。実印が必要で学生が入山を呼び寄せることは一度や二度ではなかった。就職の世話もした。マスコミ各社で新聞部や京大記者クラブの関係者が幹部になっていて、入山の紹介状は威力を発揮したという。

70歳になるころには、体調不良から同窓会の誘いを断るようになったが、寄せられる手紙には丁寧に返事を書き送った。

80歳となる70年には、楽しみにしていた万国博覧会が大阪で開かれた。読売新聞の記者時代に上野で開かれた平和記念万国博覧会を取材するなど、入山が思い入れを持っていることを知った学生たちは、彼を車イスに載せて大阪万博を案内した。

1500号を見届けた70年12月、入山は交通事故に倒れる。通りかかったバイクに、着ていたマントが引っかかって転倒。頭を強く打って入院することになった。学生編集員らが交代で看病する数年間を経て、79年11月、89歳の生涯を終えた。

〈私はその(京大新聞の)トモシ火の油皿みたいなものだった。若い元気な人々が、よい油を注げばトモシ火は明るくなり、強い油をそそげば、強い光にかがやいた。〉**
入山はけっして自分がメラメラと燃えてしまうのでなく、学生たちが青春の血を燃やすときの受け皿に徹してきたのだ。
「曼珠沙華ホキホキ折りて行き行けど/どこまで続く曼珠沙華の道」(編集部注:入山が1500号に寄せた歌)。筆者(長沼)にはそれがこれからも続く京大新聞の道にみえる。

※灰色の部分は略伝本文から引用。*の〈〉は、著者・長沼が歌誌『あけび』(1965年第1号「不肖」の弟子の告白)から引用したもの。**の〈〉は1957年3月18日号紙面から。

【年表】入山の生涯
1890 和歌山県那賀郡根来村に生まれる
和歌山県庁に就職
香川県庁に転職
新聞歌壇への投稿を続け、大阪朝日の選者・花田比露思(大五郎)の知遇を得る
1918 白虹事件。米騒動をめぐる記事への取り締まりを機に、大阪朝日の社長、鳥居編集局長、花田調査部長らが辞職
→模索されていた入山の大阪朝日入りが立ち消えに
1919 この年に鳥居らが創刊した大正日日新聞の社員となる
→1年で廃刊
1920 花田らが立ち上げた週刊『西日本』に加わる
→読売新聞に吸収され廃刊
1921 花田らに続いて読売新聞に入社、10月には花田を中心に歌誌『あけび』を創刊
1922 東京・上野で開かれた平和記念博覧会で、慶應義塾大学の三田新聞の部員が手がける博覧会新聞を目にする
1923 9月、関東大震災での打撃を機に読売新聞が経営陣刷新
1924 花田は時事新報へ移る。入山は大阪時事へ
→社風が合わず辞職し郷里へ
1925 前年に京大の学生監(現在の学生担当理事)に就任した花田の誘いを受け、『京都帝国大学新聞』の編集・発行人に就任。
1929 ・京都で開かれた昭和天皇即位記念の博覧会に際し、京都大博覧会新聞を発行
・新聞部事件。初代部長の佐々木法学部教授が辞任し、後任の大野が下級生部員を辞めさせるなどして左翼色の一掃を図る
1931 読売新聞時代の通勤経路の近くにある幼稚園で働いていたイクと結婚
1933 滝川事件で報道規制に対する抗議で部員が総退部。入山だけが残り、新たな部員を募って命脈をつないだ
1937 総長選に際し、朝日新聞記者と協力して浜田氏の待望論を紙面展開
→当選するも、在任中に病死
1941 8月、物資不足を嘆くコラムが原因で発禁処分を受ける
→責任をとって一時的に発行人の職を退く
1944 4月、紙不足で休刊
→7月、東大新聞と合併して『大学新聞』発行開始
1946 4月、京都大学新聞社へ改組し独立採算化。『大学新聞』から分離し『学園新聞』に改題
1947 12月、事務所を焼失、旧石油化学本館へ移転
1948 4月、京大教授として原稿依頼などの縁があった京都市長の誘いを受け、恩賜京都博物館(現・京都国立博物館)の館長に就任
1949 9月、館長職を退く
1954 西部構内に事務所移転
1955 常任顧問を引退、終身名誉顧問となる
1959 通算千号に到達、『京都大学新聞』に改題
1964 京都市職員を養子に迎えたものの、1年あまりで分籍
1970 ・入山が楽しみにしていた大阪での万国博覧会開催
・12月、交通事故に遭い入院
1975 妻イクが老衰で死去
1979 11月、老衰で亡くなる

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コラム⑨ 「昔話」の連載や書評も 入山雄一氏が書いた記事


「少々原稿が足らぬから何かかけということなので、(中略)記憶をたどってみる(※)」。

入山雄一氏は、学生の新聞づくりを見守りながら、ときにみずから原稿を執筆することもあった。数々の書評のほか、戦前や戦後すぐのころの京大や編集部の様子をつづった「京大むかしむかし」などがある。

また、「学生新聞の父」と慕われ、紙面にたびたび登場した。

※47年4月11日号より

55年12月5日号



70年12月7日号



79年11月1日号



入山雄一氏が執筆した記事
231(35-10-16)千葉さんの髯
学園32(47-04-11)学生と共に歩いた23年
学園88(48-07-19)書評『新聞の顔』
学園92(48-09-06)狂歌と万葉巻十六雑歌
学園110(49-02-01)思い出の河上肇先生
学園200(50-11-13)200号に寄せて
583(51-01-01)書評『近代派文学の輪郭』
627(51-11-19)京大解放運動物故者のおもかげ
684(53-03-02)書評『日本学生社会運動史』
685(53-03-16)書評『生きている西洋史』
720(53-11-02)書評『現代政治家列伝』
721(53-11-09)1円50銭、戦前の京大「文化祭」
723(53-11-16)書評『天皇家の歴史』
735(54-01-25)書評『非情』
816(55-10-03)京大と新聞記者:各社から専任で
821(55-11-07)書評『不思議な国イギリス』、京大むかしむかし:寸心忌におもう
823(55-11-21)京大むかしむかし2:幸田露伴翁と釣
824(55-11-28)京大むかしむかし3:銅像というもの
825(55-12-05)京大むかしむかし4:スジをとおす話
828(56-01-02)京大むかしむかし5:笹船先生京大十二景
830(56-01-23)京大むかしむかし6:左翼学生の行方
831(56-01-30)京大むかしむかし7:河上先生を偲ぶ
833(56-02-27)京大むかしむかし8:歌と学生課長、書評:『万葉集の謎』
834(56-03-19)京大むかしむかし9:和服の似合う先生
835(56-03-26)京大むかしむかし10:学園新聞出発の頃
837(56-04-16)古都:祇園の名桜二代目
839(56-04-30)小野三沙子嬢を悼む
841(56-05-14)園遊会の思い出
878(57-03-18)悲しき玩具のように新聞を愛した人々
902(57-09-30)戦後の同学会、再建の声を聞いて
907(57-11-04)京大総長選挙制度いかにあるべきか
1000(59-11-30)永遠に続け:千号に寄せて
1015(60-05-09)書評:『処刑前夜』
1033(60-09-19)情愛あふる女囚の歌
1046(61-01-09)年賀状に思う
1048(61-01-23)ユリイカ社主伊達河太郎君逝く
1053(61-03-27)浪人の歴史
1055(61-04-10)京のさくら
1076(61-09-11)書評『歌唱に現れた厭・反戦の思想』
1132(62-11-26)滝川先生と新聞
1141(63-02-25)滝川元総長の絶筆『激流』を読む
1189(64-04-13)40周年記念号:対東大戦が機縁
1229(65-03-15)書評『人間の教師末川像』
1251(65-08-30)佐々木先生と新聞
1348(67-10-16)新村出氏の市公葬に参列して
1400(68-12-02)風雪45年:京都大学新聞とともに
1500(70-12-07)どこまで続く一本道

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拾い読み⑦ 1面に少ない「京大」の文字 全国の闘争や時事を追う


今回は70年1月〜75年5月の休刊まで掲載。この約4年強は、週刊発行で号外3号を含む274号を出した。京大に限らず全国の市民運動を報じている。(以下、記述抜粋)


1970年


新聞社▼定期購読:年550円▼全日本学生新聞連盟(全学新)再建、第25回大会開催:75大学から参加/代表者会議には青学、阪大、大阪市立、岡山、京大、実践女、高崎経済、中央、東大駒場、一橋、法政、北海道、松山商科、横国、和光/闘争の情勢で機能停止していた▼関学新も開催:35大学/全共闘運動を総括/常任委は阪大、大阪市立、大阪工、関学、神戸商、京大、桃山、立命→弾圧の現状を確認/姫工、京工繊が加盟▼こくばん(編集員コラム):新聞研究会なるものが活動し第2新聞創刊の動きが見られるが、僕らは僕ら 時事▼任錫均の自己批判書▼ブルジョアにおもねる共産党:矢田差別事件に露呈▼三里塚で測量強行に労学2千の座り込み▼国鉄3万人削減▼春闘46万人▼万博、権力の網と華やぐ色彩▼立川基地に3千名:自衛隊解体へ▼安保自動延長に自民党「国民的合意成立」▼学園評論(社説):入管体制を粉砕せよ→徹底的にその反革命性の暴露と攻撃を/弁護士寄稿も▼労働運動関係者シンポ:大阪中電、京大病院など▼中曽根訪米:基地統廃合を促進▼新東京国際空港建設を阻止せよ▼ルポ:中国、人民の日常▼北富士闘争:農民がゲリラ戦で米軍演習を阻止▼仏ゼネストの拡大と限界:とりよせた資料の訳出▼本紙編集員、沖縄へ到着:「国政参加」選挙を焦点に→「本土への復帰」の内に階級性をはらむ/沖縄渡航のパスポート申請が却下された/本紙編集部は旅券事務所を弾劾▼こくばん:四条通り「歩行者天国」は権力の欺瞞▼元自衛隊員討論会:天皇陛下のためなら死んでもいいと思った/上官に言われれば相手が一般市民でも‥‥▼パリ通信:特派員報告/甦るレジスタンスの歴史▼裁判闘争の諸課題→拘置所にはいまだに数百名の学友 大学運営▼時計台裁判(※)に機動隊が乱入▼前田学長インタビュー:学生との討論は困難▼入試で全学ロックアウト▼東大改革準備委、大学法人化を提唱→文部省の自治介入を批判▼教官への処分攻撃すすむ:医学部で粉砕闘争へ▼農学部教官10名逮捕▼レッドパージ:教育学部→闘争に参加した学生が院入学を阻止された▼創立記念行事、昨年は闘争で中止も、今年は実施▼新病院長インタビュー:移転阻止闘争に「権力導入はあり得る」▼職員にとって京大闘争とは:編集部「京大職員共闘会議の結成は劇的であった」▼「筑波新大学」構想まとまる▼学生集会に同志社当局、機動隊導入:46名逮捕▼立命大闘争圧殺:総長が退寮命令/寮側からのアピール文掲載/立命百万遍寮破壊さる 学生▼文学部、政治ストへ:教養部も▼総長団交で活動破壊に反撃▼御堂筋に1万:全国全共闘の再編迫る▼69年京大闘争総括へ:寮闘争の全学化を追求した学生部封鎖→寮闘争委の摩滅→時計台封鎖→C争委の空洞化という痛苦の過程/我々は闘わざるをえなかった▼サークル紹介▼新入生座談会▼新病棟移転阻止に決起せよ▼親学会が解散:戦後の混乱期に学生バイト供給団体として設立/添削業務など受験事業を展開する一方、入試粉砕闘争で態度を打ち出す必要に迫られ、明確に提示できず▼全学学生大会、安保粉砕へ史上4度目の大会成立▼日大全共闘・中村君、右翼に虐殺:官憲は死因隠蔽▼寮選挙:吉田・熊野で闘う執行部 広告▼全面広告(日鐵/富士フイルム/伊藤忠/日本リクルートセンター:コンピュータ入門)

※時計台裁判 京大闘争の高揚の末、69年9月に時計台を占拠し逮捕された学生の処分をめぐる裁判。

▼おすすめします:井上清(歴史学者)(1970年3月9日号)
京大新聞は、支配権力による社会的な攻撃の本質的な意味を認識することを読者に可能ならしめる存在として、また現体制のもつ抑圧からの解放を目指す諸闘争の実像を克明に伝える数少ない存在として、ますますその意義が重要なものとなっている。状況を切り拓く鋭い問題提起によって、読者の信頼をかちえている。

▼熱くあれ! 自由はここに(1970年12月7日号)
歴史の皮相を脱色された言葉で語ることを拒みつづけてきた我々は、1500号の画期に至った/バリケードは解除され、決起した人々は泡沫のように飛び散らされた/しかしながらその歴史は消し去られることはなく引き継がれている/我々は今、噴出する闘いの炎の中で、突き抜ける空の蒼さと状況の厳しさを同時に見つめる目をもとうとする

安保粉砕闘争 1970年6月15日号



1971年


新聞社▼卒業者人名録2千円▼新聞定価改定1部20→30円/年千円▼販売店一覧→大学生協含め、北海道から九州の書店の列挙▼京大新聞合本:各巻1500円▼入山顧問、退院▼懸賞小説中止:高橋和巳先生の逝去により▼声明:同学会「執行部」の第2新聞策動を弾圧する 時事▼在日米軍大量引き上げ:8431人解雇▼国民総背番号制実施へ▼労働者の反乱:パリの新聞の翻訳▼沖縄教職員会・「復帰」運動と訣別▼沖縄全軍労48時間スト:基地の完全封鎖へ▼建築労組委員長不当逮捕:緊急アピールも掲載▼三里塚、長期決戦に突入:機動隊と正面攻防:異常な状況の重荷に克つのだ!▼出入国管理法、法務省案→編集部:法務省が隠し続けてきた「新法案」全文(マル秘文章)を入手した▼沖縄返還協定粉砕へ▼調印阻止へ首相官邸に肉薄:全国全共闘の分裂下で▼解放派・中核派が全面武装衝突:沖縄闘争方針めぐり▼チッソ株主総会、会社が患者側の追及を圧殺▼ルカーチの死を悼んで:編集部「ファシズムとスターリニズムの嵐に抗して生きたマルクス主義思想家」▼報告:三里塚、強制代執行阻止闘争→権力を震撼させた5日間▼住民とのスキンシップからコンピュータの作業労働者へ:実施間近い国民総背番号化▼留置規則を改定:拷問・弾圧体制が強化▼日本人民への公開状:尖閣列島の占領を許すな 大学運営▼京大病院新病棟移転強行へ→阻止に向け組織化進む▼3年ぶり卒業式:京大闘争で中止されていた▼西部生協会館営業を開始:旧食堂はサークルボックスに▼京大、学費滞納者の除籍を決定▼学部長団交へ:理学部臨職闘争、化学主任室占拠▼長期政治ストに突入:機動隊、学内に乱入▼正門︱A号館をバリ封鎖▼川又新学生部長との会見:討論の場の確保へ努力▼私立大学を突破口に:授業料値上げ、阻止への戦線構築を▼夜間ロック撤廃へ:4項目要求に当局は後退▼立命館、復学・再入学をめぐって思想調査へ 学生▼医・闘争委アピール文/機動隊と激突移転強行に実力阻止行動▼文、実力スト貫徹:全館封鎖で試験粉砕▼吉田・熊野寮、学生部長団交:入寮決定権掌握▼コザからの手紙→沖縄の友人から階級情勢を伝える手紙が本紙に届いた▼農・闘争委、学部長室占拠:団交を要求→返還協定調印実力阻止へ▼7学部で長期スト:実質全学ストへ▼こくばん:デパートに就職した友人が参院選で自民党に支持署名/職場に用紙があって、署名する雰囲気があるらしい▼立命館学園新聞合本発行:にじみ出る激闘の後/1500円 文化▼近着雑誌・月刊『地域闘争』:▼高橋和巳氏の死を悼む:編集部「あまりにも深い悲しみと哀惜」 広告スチューデントローン/東京スタイル/京大出版会/日本交通:ロンドン13万円/日本住宅公団

三里塚闘争特集 1971年4月5日号



1972年


新聞社▼編集員募集:情勢への切り込みとプロレタリア勢力の前進をかけ、共に活動を▼本年度合格電報の中止→学費値上げ闘争スト構築中で、入試の実施を容認できない/闘争に勝利せんとする決意を汲み取って▼京大新聞社・京大出版会の声明:日本共産党の迎合を許さず▼声明:「報道の自由」を人民の手に/全日本学生新聞連盟 時事▼「第三の教育改革」とは:中教審答申批判▼各種アピール文:偏向教育として懲戒された高校教諭への支援団体/ホステスら被災者団を支持する会/京大毒物タレ流しを糾弾する会/伊方原発粉砕会議/背番号制反対の市民団体▼スターリン時代への照射:池田浩士▼こくばん:許してしまった武道館での「沖縄復帰記念式典」、もういちど自由を!と叫ぶ勇気を▼沖縄、米兵が労働者を射殺:地位協定を盾に隠蔽▼学園評論:日米首脳会談、危機の深まりを暴露▼灼熱の沖縄から:特派員報告→返還を拒否する民衆▼沖縄「県」知事選▼公害・労災シンポ▼新全総・列島改造論批判:千葉大助手▼三里塚、青行隊20名奪還:空港粉砕へ▼自治体コンピュータ化と自治体労働者の闘い:管理再編をはらむ▼出入国法案全文▼徐君に無期懲役:ソウル高裁、主張無視▼優生保護法改悪阻止へ京都で100人が決起:女性解放の新たな地平へ▼連合赤軍2月蜂起に弾圧:軽井沢で銃撃戦 教育研究▼単位の互換制導入へ 大学運営▼奥田前総長に追及続く:時計台死守戦公判→反対尋問、当局の欺瞞を暴露▼学費値上げ総長説明会:1回生中心に撤回求め追及→後期値上げか:入学金は据置き▼教育学部差別問題、自治会が場当たり的態度を追及→学部長の自己批判書を掲載/学部も差別克服へ声明▼非常勤講師の悲惨な実態:組合寄稿▼前田総長との会見:学費値上げは残念▼東北大教養部、学費値上げ阻止闘争に大量処分→自治会の破壊を許すな▼全国学費闘争・続々と無期ストに突入→阪大・神大に機動隊導入/龍大、ゲリラ戦に警官が発砲▼竹本助手対する給与保留処分を断じて許さない:京大教官有志 学生▼全関西集会呼びかけ:学費闘争・自衛隊派兵阻止へ▼東京・早大で総長団交▼秩序派が大量に登場:工学部学生大会、闘争態勢強化ならず▼経済学部、無期限スト解除さる:右翼秩序派が台頭▼教養部、闘う臨時執行部確立:民青系を罷免▼京大生の読書調査:教育の荒廃反映か▼室町寮、新入寮生を決定:初の完全自主選考▼定時制高校生有志のアピール▼11月祭本部を糾弾する!:京大女性解放研究会アピール→合同ハイキングの宣伝文に「京大女生徒などに目もくれず参加しよう」などと記載、「言葉の行きすぎ」との謝罪に「根底の人間観が問題」と批判▼『自殺論』から:京大カウンセラー 文化▼映画評:『男はつらいよ』▼本社主催、バリスト中の教養部で上映会→50名が結集▼書評:『赤軍の形成』/『兵役を拒否した日本人』→戦時下の抵抗運動を現在的な教訓へ/『人種的差別と偏見』→差別の根源に迫らず知識の提供のみに終始 広告カナダ政府観光局/リーバイスジーンズ/宮崎電子計算センター/京都コンピュータ学院/宝ヶ池教習所/日本専売公社/日本住宅公団

狭山裁判闘争 1972年4月24日号



1973年


新聞社▼『京大を受ける人のために』→編集・京都大学新聞社、発行・進学研究社▼編集員募集:我々は、学生の社会的な階級的交通形態を創出してゆく▼声明:革マル派による編集室乱入と物品の略奪を弾劾する→後日、激励メッセージを掲載:編集部「様々な形で読者から多数の激励」「勇気づけられた」▼学生新聞の地平:安直な政治性を斥けよ 時事▼報告・キノホルム薬禍▼自衛隊基地前で攻防戦▼西山レポートに公開質問状:「社会的損失」を被る人の関係をどう考えるか→関西新国際空港建設の計画立案者である京大工学部教授に、京大淡路島闘争委が質問状/編集部:回答を我々からも要請する▼「障害者」として:逃げきれぬ運命見すえ→編集部「本稿は『障害者』からの自己への問いであり『健常者』への訴えである」▼女性解放運動の現段階:本来あるべき闘いではなく、現実のただ中に共通の利害を▼大学闘争が部落解放運動から学ぶべきもの/診療所員寄稿▼第七艦隊空母の母港化阻止へ:横須賀闘争▼入管法4度目の上程:成立を阻止せよ▼求人調査→編集部:初企画として実施/約200社に依頼、98社から回答/求める人材、連絡先など▼企業ルポ:東洋工業/人間とクルマ▼座談会:わが社の求人姿勢/住友化学などの人事担当者が討論▼革命的労学共闘の前進かちとる:政府打倒闘争▼出入国法案全文→編集部:法務省入国管理局の岡田参事官の暴言「外国人は煮ても焼いてもかまわない」に露呈している▼国会、筑波・防衛二法で強行採決:無力をさらす野党▼優生保護法改悪阻止へ:全関西集会で激烈な論争▼伊方原子力発電所粉砕へ!:粉砕労学共闘会議▼労災・職業病・公害と闘う討論集会▼全国水平社の歴史と労働者との共闘:部落解放同盟大阪府連支部員▼社説(1面全体に):部落の完全解放に向け狭山再開公判闘争に結集せよ▼狭山裁判、石川君の獄中からの手紙 大学運営▼竹本(滝田)処分の白紙撤回へ:経済学部当局の暴挙を許すな▼竹本免職処分に全学で反撃:各学部で無期ストに突入→処分はデッチあげを利用した反革命的包囲網▼機動隊学内に乱入:竹本処分粉砕闘争の圧殺狙う▼筑波法案、国会上程へ:新学校体系構想を推進/文相「学部自治を中心に慣行が積み上げられてきたが、中枢的な管理体制で指導力を確立すべき」/学長らに管理権を集中させる構想を盛り込み、しかも他大学でも採用できるとの認識→文部省と国大協の「対立」として仮象する猿芝居を通し、自主的な管理強化が進めらていることに注意を▼筑波法阻止へ理学部ストに突入▼京大の「筑波」化を許すな:京大教官有志▼「障害者」差別との公開質問状へ回答:京大入学者選抜方法研究委の委員長▼アピール:教官こそ憎い!という叫びは道理ある/学生部職員寄稿▼総長、警察と内通:評議会にはウソの報告、清風荘の密会▼新総長に岡本道雄医学部長:茶番選挙制度の初投票で 学生▼学生の職業意識調査:拒否される公害企業→全学新、11大学1万3千の4回生を対象に調査▼教官の女性差別を追及:西洋史学科▼3寮自治会、学生部を占拠:団交確約破棄を弾劾▼総長室前に座り込む:全学臨職闘争委▼同学会、再建さる▼臨時職員の格差是正へ:3寮自治会学生部長団交へ炊夫公務員化めぐり 広告▼特許事務所/大学情報センター/東芝:4200名に船旅プレゼント/明治生命/人事院近畿事務局:国家公務員募集/日通空港/双葉社まんが祭

▼他社との結合を求めて(1973年1月29日号)
1600号を迎えるにあたって、その創刊48年という歴史性自体は何も記念すべきものはないと言い切ろう/なぜなら、全ての学生新聞は、宿命的ともいえる編集者の世代交替によって、その中味と社会性を絶えず変遷させ続け、時代状況に適応することをもって解体の危機を免れ、定期発行の形式を維持してきたにすぎないのだから/一歩も退却せぬ決意をこめ、1600号を新たなる出発の契機にしたい/京大新聞社は、一人一人の人間のドロドロした利害を、普遍的な働く階級の共同の利害へ結びつけ、諸個人が階級的にふるまえる豊かな交通関係を創出するという学生新聞の任務を鮮明にし、闘いの困難さを誇りとして前進する。

企業ルポ 1973年4月16日号



1974年


新聞社▼定価改訂:1部50円 時事▼激動する国際情勢とわが国のエネルギー産業▼タイ国麻薬風聞書▼見せかけの外交的緊張:韓国、反共意識の定着狙う▼日韓閣僚会議強行▼革マル派の救援運動への敵対を許すな!:神奈川救援連絡センター▼産業構造変化の条件:経済企画庁内国調査課の職員寄稿▼時の目:京都府知事選終わる▼反人民的立法山積み:参院選前に警戒を▼野蛮な拷問に抗議:徐君兄弟を救う会▼学生の職業意識調査、人事担当者の反応:旺盛な自己保身術▼原子力船「むつ」が事故:各地の原発闘争に波及か▼挟山裁判、無実の石川氏に無期懲役→3万人が怒りのデモ▼フォード来日・訪韓阻止闘争、全国実行委2千の隊列▼社説:田中、三木交代劇の意味するもの 教育研究▼脳生検人体実験を告発:京大病院精神科、研究至上主義の暴挙 大学運営▼総長インタビュー:竹本問題「問題の整理が充分でない」▼6年ぶり静かな入試:女子合格者が減少/大阪御三家の一角崩れ甲陽学院が躍進▼参院文教委来学阻止:労学3千人が決起、東一条・百万遍を制圧▼臨時職員寄稿:人間性無視の「研究」を許すな▼学園論壇:生協値上げに抗議▼大管法の動向:管理強化進める文部省▼京大病院小児科医科ミス告発さる▼私大学費値上げ阻止へ学費闘争 学生▼人体実験討論会開く:医学部自治会主催で▼選考時の戸籍提出廃止を確認:理学部長団交▼11月祭に向け全学実行委員会を結成▼同学会、英語版会誌を発行▼文・長期ストへ:権力、日共との対立かかげ▼吉田・熊野寮自治会、自主選考を堅持:女性も対象 文化▼編集部座談会:新入生にすすめる読書▼パンフ紹介:教育新聞闘争の記録▼仏独中の文芸界近況▼書評:『自動車の社会的費用』▼訳者からのあいさつ状:長篇詩『ドイツもうひとつの冬物語』 広告北海道拓殖銀行/国際電信電話/資生堂/日清製粉/日本郵船/藤沢薬品

大学周辺図 1974年4月8日号



1975年


※休刊前まで(1708〜10、12〜18号は飛び番号)

新聞社▼定期発行の乱れを是正するため、最小限の準備期間として、5月以降8月末まで約3か月間休刊する 時事▼韓国・国民投票実施へ:進展する言論界の闘い▼学園論壇:階級裁判所の不当判決を糾弾す▼愛媛県当局を追求す:伊方原発設置中止訴え▼釜ヶ崎・テント村を強制撤去→抗戦闘いぬく▼東南アジアだより:バンコクで巨大なデモ▼企業アンケート:各社とも協定順守へ▼的確な情報提供を:就職問題共同企画発刊に際して→10大学新聞が共同企画編集委員会(北大、東北、一橋、都立、横国、慶応、京都、大阪市立、神戸、九州) 教育研究▼特集:京大の科学→教官数名の論考▼アジア研究の視座:太平洋アジア現代史研究所 文化▼映画評:『新仁義なき戦い』→醒めた殺意が見せるクールな集団暴力/『不知火海』→明るさの裏の巨大な闇▼編集部座談会:総合雑誌と文化状況→学生に読まれる総合雑誌のない時代は不幸である/時代に鋭敏な読み手こそが内容の歴史的意義を決める▼河上肇追想文一覧

教官寄稿特集 1975年4月14日号



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