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【連載第四回】京大新聞の百年 紙不足で休刊、東大と合併、戦後「関西一円」掲げ復活

2023.12.16

【連載第四回】京大新聞の百年 紙不足で休刊、東大と合併、戦後「関西一円」掲げ復活

1940年ごろ、海軍機で体験飛行した際の新聞部員ら

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第四回。時系列で振り返る「通史」は、今回1940年から49年までを扱う。なお、内容は1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から記事を書き留める「拾い読み」は、前回の先取り範囲を除く44年から49年までを掲載する。また、各氏の論考やコラムで視点を補う。連載を通して社会背景や編集部の理念を顧みることで今後の紙面づくりに活かしつつ、各方面の歴史を考える際の一助となることを期待する。(編集部)

通史③ 休刊から復刊へ(1940〜1949)


コラムが原因で発禁に


1940年に日独伊三国同盟が結ばれ、大政翼賛会が発足。翌年には太平洋戦争が始まった。思想統制下でも学生運動が途絶えることはなく、41年4月、京大の非合法グループの28名が検挙された。少なくとも2名の新聞部員も含まれていたという。

こうしたなか、京大新聞は発禁処分を受けることになる。

39年に西田直二郎が新聞部長を退き、八木芳之助教授が後任に就いた。報道差し止めも辞さない前任者とは異なり、八木は編集に口出ししなかったという。部員が増えたこともあり、35年の総退部騒動から閉塞感のあった紙面に活性化の兆しが見えつつあった。

しかし、41年8月5日号に掲載した新聞部卒業生のコラムが京都特高警察から問題視され、発売禁止処分を受けた。その責任をとり、入山雄一が創刊以来務めてきた発行人を退き、代わって新聞部出身の西田一郎が就任した。入山の戦前・戦後50年にわたる大学新聞生活で、発禁はこのときが唯一である。戦時中は発行前に京都府庁の特高課で検閲を受けることになっており、事後的な発禁処分は例がなかった。

発禁とされた号は、学生編集員の帰省に伴い大部分を入山一人で編集したものだった。のちに入山は「学生記者に何の迷惑もかかっていないのが、せめてもの慰め」と語っている。発禁処分時点で購読者への発送を終えており、事務室に残る数百部の押収で済んだ。入山が自ら発行人を退いた背景には、文部省の介入が強まることを危惧し、先手を打つ狙いもあったという。ただし、退任後も毎日、部室に顔を出し、学生の相談に乗った。

入山は発禁に合点がいかず、特高課長を訪ねたところ、コラム〈S夫人行状記〉と短歌〈市井吟―パンと米と―〉が問題であるとの説明を受けた。前者は新聞部出身の新聞記者が寄せたもの。「S夫人」がデパートへ出かけるも、米や服などがことごとく売り切れているという内容で、配給制に伴う「新体制」として定着した買物行列を描いている。後者は外米混じりの米を「味のけじめも分からなくなり」と嘆いている。入山は現実の描写であると抗議したが、敵国のスパイに物資不足の窮状を知られうるとの理由で認められなかった。

特高が問題視した詩歌



用紙不足で休刊へ


戦線を拡大する日本は、東南アジア諸島を次々と占領下におさめたが、42年6月のミッドウェー島海戦での敗北を境に戦局が逆転した。このころには、新聞部出身者の戦死の悲報が届くことも珍しくなくなった。

43年9月、文科系学生の徴兵延期が停止され、現役編集員も召集を受けるようになった。人手が減りながらも発行を続けていたが、戦時下の経済の破綻は新聞用紙にも及び、44年3月、第378号で休刊した。東大では、38年の「新聞用紙供給制限令」などにみられる統制以降、帝大新聞の頁数を12→8→6→4と減らしており、割り当てが止まった44年5月、こちらも休刊に至った。

一方、命脈をつなごうとする動きが並行して進んでいた。

出陣学徒の壮行式(1943年11月20日)



『大學新聞』へ東西統一


44年4月末、入山は帝国大学新聞に呼ばれて上京した。東京帝大の新聞部長・戸田貞三教授らの働きかけで、内閣情報局次長を通じて用紙の配給を受けることになったという。ただし、全国の大学に分けられる量はなく、合併して一紙を発行するということで相談がまとまった。

同年7月に大學新聞社が発足。これを本社とし、京都帝国大学新聞を関西支社に据え、当時全国唯一となる学生新聞『大學新聞』が創刊された。

7月1日から月3回の発行を始めた。出陣・動員学徒以外からは個人の直接購読を受け付けず、京大2千部、神戸大600部、大阪大200部など各大学に配布した。

事務所や役員構成は旧帝大新聞のままで、編集・印刷を東京で実施した。京都からは記事を送るのみで、入山によって新たに採用された学生2名が、これを担当した。2名とも召集後の体格検査で即日帰郷となり、やることを探していたという。東大側も徴兵で人手が足りず、助手や女性職員の力を借りた。のちに復員学生も加わったほか、若手研究者からなる「青年文化会議」の構成員も原稿を寄せた。

大学新聞は、「戦争を鼓舞する」という名目で用紙配給を受けており、その紙面には、出陣学徒の手記や青年将校座談会、文部省の「決戦教育措置」を説明する記事など、戦時下の色があらわれている。一方、研究論文を載せて学術要素をとどめるほか、文部当局の授業停止措置を「ドサクサ仕事」と指摘するなど批判的視点の記事もあった。当時の部員は、「指導的な発言と、新生への胎動的発言が入り混じっている状態」と回想している。

終戦後、「過渡期を支えて来た『大學新聞』は充分その使命を果たした」として、46年4月21日の58号をもって終刊する。57号には、『帝大新聞』再刊の予告が載っている。そこには、『大學新聞』の定期購読者を引き継ぐ旨も記されている。

終刊に先立つ46年4月1日、京都では入山を中心に『学園新聞』の発刊を迎える。

『大學新聞』の創刊号



『学園新聞』として復刊


戦後の食糧難と物価高の嵐が国内を襲う一方、GHQ(連合国軍最高司令部)の指揮のもとで軍国主義者の追放をはじめとする社会構造の変革が進み、日本社会は平和主義、民主主義へ衣替えしていった。大学にもその波が及ぶ。46年春には、戦時中に国家主義的な教育を推進したとされた教官が大学を去り、入れ替わって滝川事件の関係者ら免官組が大学に復帰した。

学生運動が盛んになり、学園民主化や「反戦・平和」が叫ばれた。ただし、後年に比べると政治的色彩は薄く、学生大会では「生活危機突破」をスローガンに「学生食堂の値上げ反対」などが決議された。46年11月には、同学会が大学当局との交渉を経て改組。それまで加わっていた教官らを排して学生だけの自治組織となった。

こうした情勢を背景に、『学園新聞』が生まれる。45年9月以降、軍から学生が戻り、同年秋からは赤旗や中央公論、改造、文藝春秋など雑誌の創復刊が相次ぐなか、戦時中に『大學新聞』の関西支社で活動した部員が、「新時代にふさわしい学生新聞を」と動き出す。発刊へ向けた課題は多く、ここでも入山が奔走した。卒業生から資金を調達したほか、朝日新聞大阪本社に印刷依頼の手はずをつけた。

用紙の入手も一筋縄にはいかない。内閣の新聞用紙割当委員会に対し、45年10月、戦前の京大新聞の復活を図る趣旨で配給を申請したところ、京大の特別扱いは認めないとの理由で拒まれた。そこで、申請理由を「関西一円の学生が求めている」と書き換えたところ、用紙割当が認められたという。当時、全国の大学で用紙を得たのは東大と京大だけだった。そのため、配給の条件として、東大は全国を対象とする『大學新聞』の実績を維持し、京大は「関西一円の大学・高校を対象にした学生新聞」という制約がついた。

こうした事情から、題号は「学園新聞」に決まった。次の問題は発行母体である。戦前は同学会新聞部から発行されたため、機関紙の側面が拭えなかった。経済的にも同学会や大学当局に依存しており、部内では束縛のない独立採算制への志向が強かった。こうして、将来的な法人化も視野に46年春、「京都大学新聞社」が発足した。「学園新聞社」とする案も出たが、「京都の大学新聞社」という意味を込めた。47年10月に京都帝国大学が国立京都大学へ改称したことで、「京都大学の新聞社」という意味合いが強まった。

46年4月1日、2頁30銭で『学園新聞』の発行が始まった。その直前、部室を訪ねてきた卒業生・伊達得夫が、入山の依頼を受けて初代編集長に就任した。

のちに詩誌『ユリイカ』を創刊する編集者・伊達のもと、紙面には大学に関するニュースや関西各校の報告、研究者による評論のほか、文学や美術に関するコラム・随想もみられ、総合雑誌的な雰囲気も漂っていた。「関西一円」を掲げるなか、学外では京阪神の女子専門学校の学生によく読まれ、毎号数百部行き渡らせていたという。各校に置かれた通信員がニュースを送る体制もできていた。

47年4月、男女共学が始まり、京大にも17人の女子学生が入学した。49年には旧制三高が京大に吸収されて教養部となった。さらに、戦時下で設けられた航空医学や日本精神史などの講座が廃止され、応用物理学、農薬化学といった購座が新設された。食料科学研究所や人文科学研究所、教育学部も新たに置かれるなど、新局面への下地整備が図られた時代だった。

『学園新聞』の創刊号



拠点と過去紙面を焼失


『学園新聞』発刊に尽力した星野輝男が46年9月に編集長となった後も、紙面づくりの方向性は維持された。学外では農地解放や財閥解体、極東国際軍事裁判、新憲法草案討議など、戦後史の方向を決定づける重要事項が次々と生起していたほか、各大学で軍国主義者を追放するべく教員の適格審査が続いていた。しかし、当時の学園新聞ではこれらの話題が紙面を埋めることはなかった。政治や経済といったテーマから距離を置く傾向があったという。

それでも、用紙不足で出版物が少ないという追い風に乗り、学園新聞はよく売れた。広告収入が伸び、独立採算制は上々の滑り出しとなった。47年6月11日号からは週刊に移行した。

そんな矢先、事件が起こる。12月8日19時過ぎ、西部構内の学生食堂炊事場から出火。朝から吹き荒れていた季節風に乗って燃え広がり、学生食堂を挟む2棟をたちまち焼き尽くした。京都大学新聞社の部室は燃えた南棟の西端にあり、1925年の創刊以来の紙面や写真などが灰となった。部員や入山が駆けつけたが、建物を呑んで燃え続ける紅蓮の炎を前に、呆然と立ち尽くすしかなかった。

しかし、一度たりとも発行を休まないという部員らの思いで、翌日には本部構内の建物の一角に部室が構えられるに至った。工学部所管の実験室の空き部屋で、移転前より狭い。大学から借りた机とイスを置いて電話を取りつけただけの急場しのぎだったが、予定どおりの発行にこぎつけ、当面はここを拠点に活動した。

48年4月、入山が市長に請われて京都(現・国立)博物館館長に就任し、部室を訪れる回数が減った。それでも、部員は入山の知恵を借りるべくしばしば東山七条の博物館を訪ねたという。

このころから、紙面は社会問題重視の傾向を強めていった。ヨーロッパではベルリン封鎖、アジアでは中国の国共内戦激化や朝鮮半島の南北分断など、東西緊張がいよいよ高まってきた。国内では公務員のスト禁止や大学の管理統制を強化する「大学法」の制定準備など「右旋回」の様相がみられた。

ルポ記事から警察導入騒動に


49年、学園新聞のルポ記事が波紋を広げる。

医学部の看護師養成機関「厚生女学部」の学生が病院実習の名目のもと無給でこき使われているという旨の記事が3月21日号に載った。

これに反応した共産党が生徒たちをけしかけてストライキを起こし、医学部長らとの団体交渉に発展した。病院側は対抗手段として、騒動に関わったとされる卒業予定者6名を不採用とした。これを受け各学部自治会が生徒の支援を表明。同調ストを打ち出す事態になった。5月18日には病院長室を数百人の学生が取り囲んだ。にらみ合いが続くなか、約400名の警官隊が突入。3名の学生が逮捕された。京大が戦後初めて警官隊を導入した。大学の自治の侵害であるとの反発を呼び、抗議運動に拍車をかけることになった。

さらに、このころ全学連(全国学生自治会総連合)が国立学校設置法案などに反対して全国的なストを指令していた。6月3日には、京大本部時計台前でルポ記事に端を発した「闘争」の支援を兼ねた「全国学生大会」を強行した。これが深夜に及び、数百人の学生が総長室を取り囲む事態となった。大学側は収拾を図って2度目となる警官隊の導入に踏み切った。

学園新聞は一連の騒動を2度の号外などで報じた。ところが、当時学内で影響力を強めていた滝川幸辰法学部長から、その報道姿勢が偏っていると牽制された。もともと滝川氏は、学部紹介記事の内容に不満を抱いて編集員を呼び出すなど釘を刺す動きを見せていた。さらに、京都大学新聞社について、同学会の組織でも大学が認めた団体でもなく、大学の施設を不法占拠していると指摘し、解体論をちらつかせることもあったという。

一方、同学会では1949年秋ごろまで運動部を中心としたいわゆる「右派」が執行部の大勢を占めるなど、学生側にも学園新聞と対立する勢力があった。

こうした情勢で、新聞社の学外移転も考え、入山に相談した。入山は「大学の中にあってこそ、その伝統と格が維持できる」と述べ、独立採算制にもとづく新聞の自由を守りつつ大学と折り合う方途を考えるよう助言した。入山の激励を受けた部員たちは、滝川の恩師であり戦前に新聞部長を務めた佐々木惣一名誉教授、学園新聞発足時の顧問だった静田均経済学部長らに協力を依頼しつつ、学生課長を窓口として大学からの新聞社公認を得るべく交渉を進めた。49年9月から始まった話し合いは、管理権を持ちたい大学側と編集権の侵害を懸念する学園新聞側との間で簡単にはまとまらなかった。最終的に、教官らで構成する顧問団を置くことを条件に、鳥養総長と編集長の名義で交換協定文を作成し、50年1月23日、公認の調印に至った。

警察突入を報じる『学園新聞』(1949年5月23日号)




拾い読み④ 時局に応じて変わる「使命」「全国一本建」から「関西一円」へ


1944年


▽4月〜(大學新聞)

新聞社▼一般購読は受け付けず各大学へ割当配給/「読了後は前線の戦友に送って」▼原稿募集:出動学徒の手記/短歌・俳句も可時事▼ナチスの接近と差異▼緊迫する世界戦局の動向▼教授の激励:学徒の総力発揮を望む→諸君こそ国の柱▼全面生産体制へ:授業時間も撤廃▼学徒動員、量質共に全能を傾注▼虚弱学徒も動員:事務作業に参加▼米国の学徒動員:朝日新聞特派員寄稿▼満17歳以上の学徒は全て軍人に▼妙味含む最高戦争指導 教育研究▼国民食糧供給確保の課題▼宣伝政策と映画▼アジアの大学との提携のすすめ▼鉱山・溶接学科新設▼「清風荘」寄贈で表彰▼決戦下の刑▼学者と責任感▼西洋的思考の反省▼動物と戦争▼哲学史的事実の開明▼研究随想:敢闘の精神▼白色人種の皮膚と毛▼兵器論▼戦時細菌学の課題▼戦争と学問と死:海軍大尉の寄稿 運営▼各大学の勤労出動:京大、九大など▼各大学入試、ほとんど定員超過▼文科系定員を縮減▼戦時研究に殉じた助教授の学部葬▼「学徒勤労援護会」設立▼北大結核研究所落成▼新潟高校、小林教授ほか9君を校葬:勤労動員中チフス罹患▼教授団、前線で講義:美大、音大は閉鎖▼京都医大、初の式なし卒業:証書は出勤先へ郵送▼良書入手難に救ひ:京大、出勤中の学徒にも巡回文庫▼滅敵の誓いも堅し:軍服姿も混ざる全大学3万の卒業式▼近く医学徒も出動▼北大で掘る鉱脈二筋道▼出陣壮行式一年→攻勢転移の神機遂に至る▼仮卒業の戦病死学徒に卒業証書▼千葉医、奉仕隊結成▼各大学供出:北大は白金 学生▼夏休み返上で生産に邁進▼講義に飢える学徒▼出陣学徒手記→信濃そばに内地偲ぶ/生まれた甥へ(陸海軍報道部検閲済み) 文化▼詩「兵隊さん」「茄子紫なり」▼非常時の演劇界▼風刺小説と経済▼陣中で作られた楽譜▼ドイツ文化の祝祭▼書評:『支那統治史』▼映画評『かくて神風は吹く』→「もっと堂々と勝利の論理を」▼「戦時特別美展」評 広告▼ほぼ出版社▼東宝▼痔の薬▼米英撃滅の歌

出陣壮行式1周年 44年10月21日号



『大學新聞』創刊号
社説「祖国の要請に即応して学徒総決起の推進指導機関となり」「緊密一体化を促進」、「全学園の指導紙たることこそ新たなる学徒新聞の使命」
創刊の辞「全国一本建の学徒新聞として文部省のご支援を得て発足」、「皇国教学の本義に則り」「祖国の運命を担う若き学徒へ送らん」

1945年


▽終戦まで(大學新聞)

新聞社▼空襲で一時第三種郵便物の停止→回復後、一括送付時事▼陸軍関係者や東大学生課長ら座談会(陸軍報道部検閲済み):陸軍中尉「学問は戦闘のためであった」▼生命以上の尊さ:悔ひなからんがためには、自己の命にも優れる尊きを求めなければ→それは輝ける歴史を有する皇国を愛護すること▼石炭増産の経路▼米国戦争経済の動揺:朝日新聞記者▼民族の優秀さ:東文理大教授→特攻隊は生きながら神の姿をもつ/聖敵完遂へ敢闘を▼社説:一切を航空機生産へ 教育研究▼熱帯菌に挑戦▼国際法の価値▼大国民的資質の錬成運営▼在郷軍人分会結成▼出陣学徒に餅を送る▼動員学徒援護会発足へ予算150万円▼東大勤労部を新設▼京大、学生食堂で菜園経営▼京大、檄文を発送:学生代表「持てる一切を捧げ祖国に殉じ神州護持の礎石たらん」▼東大、チフス予防注射 学生▼出陣学徒手記:(残留学徒へ)我々は諸君を羨まない。次代の明るき自由なる青春を迎えられんことを▼角帽異変:不用品は譲って→新入生が帝大生の象徴たる角帽を手に入れられない▼投稿〈突撃路〉:技術指導者を十分錬成せよ 文化▼東大教授作「学徒神風の賦」:必死必殺、日本万歳▼随想:書物疎開広告▼ドイツ語通信講座▼大日本言論報国会▼慶大米英批判講座▼動員学徒叢書『皇国人の真姿』

▽終戦後(大學新聞)

新聞社▼懸賞小説:老若男女の佳編62作集まる時事▼文相、学徒に告ぐ:使命を自覚し明日の皇国に生きん:終戦の詔書も▼文教刷新の機運濃化:休職教授ら復職か 教育研究▼アメリカ民主主義の本質▼森戸辰夫:生誕を待つ新無産政党▼治安法廃止の必然性▼人民の手による憲法改正▼日本財閥の発達と功罪▼日刊新聞評▼鈴木茂三郎:戦争責任の所在をつく 運営▼玉音拝し血涙:東大講堂で厳粛な誓い▼京大、殉職した原爆調査班の学生の大学葬挙行▼阪大、人文科学部を設置▼京大、軍学徒入学に反対 学生▼復員学徒は思う「悲壮と感ずるほかない」▼社説:空疎な学生運動文化▼新文化への胎動:日本映画様式論 広告▼古書買入

トップに終戦の詔書 45年8月21日号



1946年


▽〜4月(大學新聞)

時事▼英国労働党内閣の政策の解剖教育研究▼両立し得る余地ありや:民主主義と天皇制 運営▼帝大総長会議:男女共学推進へ▼学園に帰る英霊142柱:東大で慰霊祭▼社説:学生に訴ふ「民主革命への反動勢力に対して戦争を開始せよ」「終刊に際し切に訴える」▼東大、校内外食券食堂開く 学生▼食糧難で休退学者増加 文化▼ナチス強圧下のフランス文学 広告▼5政党代表政策発表演説会

▽(4月〜)学園新聞

新聞社▼直接購読受付▼各学園の通信員募集▼教職員追放への意見募集▼19号より値上げ:2頁40銭▼23号より常用漢字と新かな使用・ルビ全廃 時事▼憲法改正案を学生は如何に批判したか 教育研究▼プロレタリヤ独裁と民主主義▼考古学の使命運営▼苦境受け講義続行か休講か→続行へ▼女子帝大生・医軍人帝大制を囲む座談会▼世紀の教育裁判→教員適格審査:愛国団体参与者などを追放へ 運営▼図書館、貸出中の書籍多し→本を買えない学生多い▼引揚学生に転入試験▼阪大に2学部新設学生▼黒板(コラム):真摯な学生は学問への意欲をどこへぶちまけたらいいのか▼生活難の打開に全京都学生協同組合成る▼京大同学会改組へ▼学生の生態:食を与えろと怒号▼東京ルポ:喫茶店が大繁盛▼法経にも研究室制を:学生と総長が意見交換▼オーケストラ演奏会▼インターハイ復活▼六大学野球、戦後初シーズン▼言論の自由なき立命大新聞:印刷所に総務部長が訪れ、学生部に関する記事削除を命令→掲載できず→学生側、会則改正案を提出へ 文化▼松竹の支援で学生演劇統一▼京都学生映画連盟、映画人気調査▼全関西美連の展覧会

生活費のグラフ 46年4月11日号



『大學新聞』終刊の辞
・「使命を終わりたる」
・戦時の圧力下で「唯一の学生文化新聞」/「文化的精神の培養体」として発行
・「微力にして時に圧力に屈し」「自責に耐えざる」→「自己批判に立って終刊」
・「学生運動の旺盛なる展開」をふまえ、「57号を以て決別」
※58号では終刊に言及なし

『学園新聞』創刊号より
京大や大阪商大、立命館大の各学長ら寄稿 休刊を淋しく思っていた/新しい立場から関西一円の大学高専の学生を対象に/社会人にも高い指導性を持て/一般紙を模倣せず学園の方向を示せ
社説 関西の学生運動を指導する任務/共通課題を提示することで同一方向へ/特定学校の新聞でも運動の機関紙でもない/一つの主張を押し付けるものでもない/学生が緊密な連絡を/全関西学生の世論を反映せしめんとする新聞社側とそれを認識する読者側が相互に密接な関連を持って初めて恥じからぬ実質を備える
『学園新聞』7号より ▽学生論争:大学新聞の在り方 一般的新聞と雑誌の中間/学校の掲示板的作用/学生生活の批判も

1947年


新聞社▼懸賞論文当選3作全文→編集部講評:募集課題2つのうち「恋愛観」の応募多数→「思想」へ反響なく「さみしい」▼各学園の通信員募集、謝礼あり▼寄稿募集:最近内容の空虚なるもの多く残念/より充実せる寄稿の多きを望む▼資材騰貴で50銭に値上げ(3月)→紙・印刷代高騰で1円へ(6月)→2円へ(10月)▼発足した関西学生救済委員会の求人申込受付 時事▼社説:府議の失言ふまえ「男女共学には社会的基盤を早急に築かねば」▼4大政党、文化政策展望▼神戸市長に聞く政治と学問▼高橋文相入洛談:左翼学生は勉強不十分 教育研究▼物理学の現段階:湯川秀樹▼自由研究体制へ京大科学陣乗り出す▼現代哲学諸問題▼電子顕微鏡を探って▼ギリシャ女性観 運営▼急げ教育民主化:米国教育視察団の報告▼17校が女子大昇格か▼再び食糧危機:休講か続講か悩む学校当局▼帝大の名称廃止決まる:全国総長会議▼育英資金増額へ▼授業料未納者多し▼内職案内一覧:ラジオ組立、サイダー製造▼京大で東洋一の図書館着工▼50周年祭へ物資不足呈出▼また授業料値上げ▼完成近い大体育場▼京大西部構内全焼▼立命館、夜間大設置へ学生▼東西対抗ラグビー10年ぶり制覇▼震える学生:燃料不足でストーブない▼仏教学生連盟発足▼京大学生協議会発足▼京都地区学校寄宿舎連盟発足▼市議選で2学生当選、批判も▼学生思想傾向調査▼全国官立大学学生会議▼日米学生会議:対等に討論▼政治経済を語る学生座談会▼文学部学友会世論調査、相変わらず無関心主義▼社説:女子学生を「特権階級意識のしみこんだお嬢さま」と批判▼学園に放送局の街頭録音▼学生服地の配給▼ソ連映画上映会▼自治の混乱:立命館大で暴力沙汰 文化▼井上靖の散文詩▼新短歌の方向▼学生映画をつくる会▼音楽大学の誕生 広告▼高級カメラ▼スポーツ用品▼ビタミン注射液▼PHP新雑誌

アルバイトルポ 47年7月16日号



1948年


新聞社▼年間購読を100円に値上げ▼1部4円に値上げ▼誤植訂正:「厚生」は「原生」の誤り→活版ならではの誤字か▼部員募集:京大の1回生▼取引高税法上日刊紙扱いに(10月)▼本社で盗難:発送名簿や社印 時事▼各国農業生産機構▼日本学術会議設置へ▼イタリア総選挙後に来るもの▼米大統領選挙迫る▼社説:今や民主主義の危機▼学生政治活動に制限、文部省正式に態度表明▼社説:文部省には各大学や学生の意見を十分聞いて法案を作成するよう望む▼岐路に立つアジア:赤色旗風の嵐 教育研究▼遺伝よりみた癌▼近代精神の克服▼洪水防止の根本論▼原子力時代の人間像▼ロシア革命勝利への道▼ルポ:北海道農業▼ルポ:京大舞鶴水産学科運営▼また授業料値上げへ→約3倍に▼京大職員組合結成▼京大経済、二期制実現へ▼同志社、法経神文4学部今春から設置▼三高、京大に合流▼教授連合総会:守らん学問の自由▼京大協同組合発足▼人文研、東方・西洋文化研究所を合併へ▼新病理学教室落成▼教養部校舎を宇治に▼京大図書館司書の訴え:経費が東大の16分の1▼学生の紙面投書「『本部』抹殺論」に職員が寄稿で反論▼大阪専門学校、大学昇格めぐり教授陣総辞職▼龍谷大、教職員再追放の旋風 学生▼アンケート:新春への期待▼全国学生宗教調査▼本社世論調査:学生運動関心68%▼三高・姫高に初の女子学生▼試験制全廃論▼社説:女子教育は戦争による空白を無視している▼総長を囲んで女子学生座談会▼初のインドネシア留学生卒業▼同学会、授業料不払体制を堅持→のちに解体▼同学会改組案に運動部が反対▼全国自治連会議、スト不成果を自己批判▼超党派的学生運動へ、民学同結成近し▼東大新聞の人事に大学当局が圧力▼東大新聞、発売禁止に:原因は左翼的な編集方針か→構成員の反発受けつつ大学側主導で「東大学生新聞」を発刊、「東大新聞」は廃刊に 文化▼関西出版会展望:良書は荒天の星のごとし▼ロシア文学における死▼日本考古展▼三島由紀夫寄稿▼映画部、松竹と提携して脚本募集▼六大学野球、立命館大に栄冠 広告▼太宰治『人間失格』▼近畿大学予備校▼大学制服調製▼詩誌『ユリイカ』

滝川事件15周年 48年6月7日号



1949年


新聞社▼黒板:京大受験生へ本紙を立売りした→活字への無関心を露呈▼編集員募集:1回生のみ▼1部5円に値上げ(6月)▼受験電報取扱→合否結果発表通知の電報を取り扱う/基本40円▼毎週4頁制を目標に漸次移行 教育研究▼危機に立つ「ドルと原子力」外交▼中国革命の根本問題▼スペイン学術代表、京大を訪問▼関大、全国初の新聞学科▼学部紹介:法学部→禍痕残す「学部自治原則」▼癌の正体発見か:電子顕微鏡学会で論争 運営▼新制大79校決まる:京都に10大学▼受験生に東山会館開放▼同志社女子大発足▼京大農、北海道に演習林、京大病院看護婦不採用問題、再燃▼3学生を逮捕、警官400名学内へ▼波紋描くアカ教授追放と反対運動▼学内掲示制限、具体化 学生▼最後の三高ラグビー祭▼全学連総会▼京大春季文化祭:主催同学会、後援京大新聞社▼全学学生大会、責任追及で紛糾、共闘と同学会の溝深し▼戦争原因の究明へ:京都で全日本学生平和大会▼同大新聞に応援団干渉で暴力沙汰に▼ルポ:ソ連引揚学徒を尋ね▼自治会連合、全学学生自治会と改称▼学生運動、渦巻く左右の対立▼全国学生新聞連盟成る▼近畿高校新聞講習会:朝日新聞本社▼神戸女学院新聞部、厳重な学校検閲で散々削られる 文化▼革命期の文学▼映画評「女の一生」▼文化遺産への新しき感覚▼黒板→野球部が弱い▼画家とファシズム▼日本映画の危機 広告▼角帽▼洋服▼眼鏡▼東大学生新聞▼朝日新聞社

引揚学徒ルポ 49年7月11日号



▼関西学生新聞連盟新発足(125号ニュース要旨)
48年春発足した関西学生新聞連盟が弱体化していたが、学生運動取締が強化され、自由な編集権を保持すべく連盟再建。関学新聞部を中心に会合が持たれ、京大、関大、龍大などが参加した。関東学生新聞連盟とも連携する方針を確認した。

論考② 『大學新聞』をどう読むか 小関孝子 跡見学園女子大学講師


小関孝子氏は、雑誌『婦人之友』の研究の一環で1945年の新聞雑誌について調査し、『大學新聞』に偶然出会ったという。その縁から、研究対象としての活用の可能性を「『大學新聞』の研究にむけてー終戦前後を語る史料の可能性ー」(『生活学論叢』32巻、2017年)という論文にまとめている。今回、小関氏に寄稿を依頼し、『大學新聞』の希少性や読み方について当該論文をもとに改めて考察してもらった。(編集部)

検閲の端境期に見出しうる学生らの本音


1「検閲のない約1か月」にも刊行された機関紙

『大學新聞』が創刊されたのは、1944年7月1日である。戦局の激化にともない、全国の大学新聞は休刊を余儀なくされ、財団法人大學新聞社が発行する『大學新聞』に集約された。『大學新聞』第1号掲載の「創刊の辞」には、『大學新聞』が「全国一本建の学徒新聞」であると明記され、創刊の目的には「全国学徒動員の徹底」という言葉が記されている。『大學新聞』は終戦をはさみ、1946年4月21日発行の第58号まで、ほぼ毎月1日、11日、21日のペースで発行され続けた。

戦前・戦後を語る史料として、『大學新聞』が特筆すべき存在であるのは、終戦をまたいで継続的に発刊されていた点にある。1945年の言説を分析する際には、言論統制の環境が変化することに伴い、①日本政府によって言論が統制されていた8月14日まで、②日本政府による言論統制が機能しなくなった8月15日からGHQによる検閲が始まる前の9月下旬頃まで、③GHQによる検閲が開始される9月下旬頃以降、以上の3つの時期に分けて読み解く必要がある。『大學新聞』の史料的価値は、②にあたる時期、すなわち日本政府の検閲もGHQの検閲も免れ、自由に発言できた可能性がある「検閲のない約1か月」にも継続的に論考や随筆が掲載されているという希少性にある。

2「特攻隊たらしめるな」を解釈する難しさ

『大學新聞』の記事の内容を大きく分けると、全国の国公立大学の動向を報じる記事、時局に応じた特集(専門家による論考や座談会など)、学術関連の連載記事(誌上講義や書評など)、随想・投稿その他、となる。『大學新聞』の史料としての魅力は、多くの記事が記名記事であるという点である。私が数えてみたところによると、第1号から第58号の総記事数約1600のうち、938本の記名記事が確認できた。執筆者の所属は全国各地の大学教員のほか、新聞記者、官僚などもみられる。また一部には学生による手記や論考も掲載されている。執筆者の専門分野は広範囲にわたり、大学史、政治史、思想史に関連する記事のほかにも、機械工学や法律、文学に関連する内容も多い。

貴重な記事が多数掲載されているものの、『大學新聞』の言説を研究資料として使用する場合、特に戦時中の記事の扱いが難しい。戦時中の記事は厳しい言論統制下で書かれたものであり、内容を執筆者や発言者の真意としてそのまま受け取ることはできない。ここで『大學新聞』の記事を読み解く難しさを示すために、当時の東京帝国大学法学部長であった末弘厳太郎の記事を紹介したい。1945年3月11日発行『大學新聞』第23号の1面には、末弘が法学部の学生を学徒兵として送り出す際に「特攻隊たらしめるな」という発言をしたという小さな記事が掲載されている。記者名は記載されていない。記事の内容は、末弘が学徒兵として動員される法学部生を送り出す挨拶のなかで、学生は貴重な人材なので、政府は計画的にこの人材を活用するべきで、特攻隊にしてはいけないという趣旨の発言をしたというものである。末弘厳太郎は当時、「全国学徒動員の徹底」を目的に掲げる『大學新聞』を発行する財団法人大學新聞社の理事であったこともわかっている。どのような意図で「特攻隊たらしめるな」という発言をしたのであろうか。この記事は、戦時中の記事を解釈することの難しさを示している。

45年3月11日号



3 戦前・戦後の学生の声を記録する史料として

『大學新聞』を研究する最も重要な意義は、『大學新聞』には学生たちの声が多く寄せられているということに他ならない。戦前・戦後の学生たちの発言や手記が、まとまった分量で掲載されている『大學新聞』は、学徒動員当事者の声が集積された重要な史料である。学生の記事には投稿のほかに、座談会も企画されている。例えば、1945年5月21日発行『大學新聞』第29号には「学徒と操縦」と題した座談会が掲載されている。出席者は東大、京大、東工大、阪大の学生たちで、操縦した感想や、航空技術について意見が交わされている。

終戦を迎えると論考を寄せる大学教員などの知識人の顔ぶれが変わり、内容も大学再建に関する内容が主となっていく。知識人たちの発言から見えるのは、終戦前と終戦後の不連続性である。しかし、学生の発言からは戦前と戦後の連続性が浮かび上がる。1945年9月1日発行『大學新聞』第37号には、東大の学生が「偉大な試練への道 徹底的反省への出発」という論考を寄せている。これは「検閲のない約1か月」にあたる極めて貴重な言説である。学徒動員で駆り出された学生たちは、帰還するも、戦後には戦後の混乱に見舞われた。1945年10月21日発行『大學新聞』第42号には、京大生が「復員学徒は思ふ」という論考を寄せ「秋深い故郷の山川にかへつて来て机に向かひ本を読む。こんなことがありうるだろうか。」と綴っている。『大學新聞』の真価は、学生の声にある。

コラム⑥ 検閲官の懐柔に成功? 親交深めて「フリーパス」に


学園新聞は発刊当時、占領軍を批判しないなどの「プレスコード」で規制されたという。47年卒の小林萬里夫氏によると、新聞発行のつど事前検閲を受けるべく四条烏丸のCIE(民間情報教育部)へ出向いた。以下、検閲への「対策」について小林氏が『アカンベエ!』に寄せたコラムから引用する。

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虎穴に入らずんば虎子を得ずの覚悟で、CIEのチーフであるアンダーソン中尉の秘書であったミス尾本を、英会話の先生として誘い出すことに成功した。編集部員とのパーティーを数回もって親しくなったころ、ミス尾本は同情してくれて、アンダーソンをパーティーに引っ張り出してくれた。その席で「学生時代から詩作が好き、いまでもつくっている」というアンダーソンの話を聞いたわれわれは、学園新聞で紹介したいと、かれの英文の詩を掲載したところ、「自分の詩が印刷されたのははじめてだ」と大喜びした。以後、CIEへの出入りと学園新聞の検閲はフリーパスとなった。

その後、ミス尾本がこっそりみせてくれた「R」と大きく表記されたCIEのファイルのなかには、(中略)編集部員全員の顔写真を貼った個人別経歴カードが、整理されていた。その顔写真が望遠レンズによる撮影であったことを確かめたとき、ある種の戦慄を感じた。(コラム「リマークド」)

コラム⑦ 「世論調査」でお叱り 「ずさんにすぎた」


48年卒の林篤二氏は、46年7月11日号に掲載した「世論調査」をめぐって静田均教授から呼ばれて叱られたという。当該の調査は、戦争協力者追放のために当時行われていた教職員適格審査をふまえて学生の声を調べるべく、「やめてもらいたい教授」と「迎えたい教授」を尋ねている。これについて静田教授は、「全調査票数すら記載しない調査結果を発表することは悪質な宣伝」「学生に先生を有能か無能か判定する資格はない」と叱責。

林氏は『アカンベエ!』のなかで、日程の都合があったとはいえ、回収した調査表は各学部3、40枚ほどで、「拙速、ずさんにすぎた」と振り返っている。

46年7月11日号の「世論調査」

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