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【連載第七回】京大新聞の百年 不況に人不足で休刊、復活し「闘争」スタイル脱却

2024.04.01

【連載第七回】京大新聞の百年 不況に人不足で休刊、復活し「闘争」スタイル脱却

70年4月の合格者名簿号の立ち売り

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第七回。時系列で振り返る「通史」は、1970年から79年までを扱う。なお、内容は1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から記事を書き留める「拾い読み」は、1964年から69年までを掲載する。また、当時在籍した卒業生への聞き取りも実施した。連載を通して社会背景や編集部の理念を顧みることで今後の紙面づくりに活かしつつ、各方面の歴史考察への寄与を期待する。(編集部)

目次

通史⑥ 休刊・復刊と竹本処分(1970〜1979)
コラム⑧ 癖字も読める植字工 70年代の印刷事情
聞き取り③ つぶさないことが最大の目的 1970年代在籍者に聞く
拾い読み⑦ 増える「闘争」記事に批判も 企業広告もあふれんばかり

通史⑥ 休刊・復刊と竹本処分(1970〜1979)

前回の振り返り
60年代後半、学費値上げなどの身近な問題をめぐって各大学で火がついた学生運動は、実力行使を伴う大規模な闘争に発展した。文部省による管理強化や揺らぐ大学自治、さらには教授を頂点とする学部運営への批判といった大学のあり方の問い直しが叫ばれ、各大学でいわゆる無党派の学生らが数千〜万単位の規模で全学共闘会議(全共闘)を組織。「自主的」な解決のために警察導入も辞さない大学当局と激しく対峙した。京大でもバリケードによる建物封鎖や機動隊との衝突といった光景が珍しくなくなった。特に69年9月の学生による時計台封鎖と、約2千の機動隊の実力行使によるその封鎖解除は、「京大闘争」の高揚と後退を象徴する一場面となった。
京大新聞の編集員は、ヘルメットをかぶって各地に赴き、紙面で連帯を訴えたほか、闘争委員会の担い手にもなった。70年代にかけて全国に消耗の雰囲気が漂うなか、編集部は、くすぶる学内外の問題に加え、団体運営の課題と向き合うことになる。

闘争の総括、編集長制廃止


「京大闘争」の高揚が峠を越えた1970年11月、京大新聞は1500号記念号を発行。編集部の総力を計40頁におよぶ紙面に結集させた。3部構成で、〈シンポジウム・反戦派労働運動の到達点とその課題〉〈激動の70年代を闘いぬくために〉などの特集や懸賞論文・懸賞小説を掲載した。編集員総出で学内各所に散らばって売り子に励んだ。通常号より30円高い特価50円だったが、飛ぶように売れ、学内販売だけで2千部以上さばいた。広告もよく集まり、この号だけで58件載った。

学園闘争の総括がこのころの大きなテーマで、その模索が京大新聞社の運営にも反映される。70年4月、それまで置いていた主幹や編集長といった役職を廃止し、幹事会体制に切り替えた。週2回の編集会議を組織運営の要にすえ、紙面づくりは輪番によるデスク担当制にして分担の固定化を避けた。これは全共闘運動の反省から生まれた組織論だった。すなわち、教授を頂点とするピラミッド型構造の不平等性を追及するなど、学園闘争を通して大学のあり方の問い直しを迫るなかで、主幹︱編集長制というみずからの組織に顕在化する権威主義的な側面にメスを入れたのである。

全国の運動体の拠点に


70年12月には、各大学での運動の過熱に伴って停止していた全国学生新聞連盟が再建され、2年ぶりの会合が開かれた。京大新聞が委員長校となり、全国75の学生新聞関係者180名超が京大に集まった。▽全共闘運動の総括▽なぜ新聞をつくるのかといった話題で盛んに議論が繰り広げられた。

当時、各大学で闘争が下火になり、全共闘が解体するなど全国的に諸団体が疲弊していた。一方、京大新聞は活気を保った。京大内の学生新聞という枠を突き破り、みずから押し広げた領域や集会で知り合った人々を読者とし、学生運動での逮捕者らに新聞を差し入れたほか、各地の書店で販売した。全国各地の運動体を支えるメディアとして、交流の拠り所となった。

創刊以来の紙面を全6巻(のちに増刊)の縮刷版として刊行したのもこの時期である。高度成長期に伴う豊富な広告収入が、これらの活動を支えた。

70年12月の全学新大会



広告激減、新陳代謝進まず


72年から74年にかけては、ニクソンショックなど世界的な経済危機が起き、日本の経済社会も高度成長のひずみが目立ちはじめた。学生運動では、72年の沖縄返還・自衛隊派遣、73年の米空母ミッドウェイの横須賀母港化、74年の米大統領来日・訪韓に際し、阻止に向けた実力闘争が盛り上がった。狭山裁判糾弾や刑法改正︱保安処分粉砕(※)も熱を帯びた。一方、浅間山荘︱連合赤軍事件や連続企業爆破事件などの過激な闘争への反発から、大衆運動・学生運動は後退の一途をたどった。

※前者は部落差別による冤罪であるとの追及、後者は「犯罪者予備軍」の処分を含む法案反対。

このころの京大新聞の紙面は、1970年ごろのスタイルを続け、沖縄などの政治闘争の現場や課題領域に編集員を派遣し、闘う者からみた報道という路線を貫いている。教育改革、公害、労災など、現在にもつながる話題もみられる。しかし、大衆運動・学生運動の後退が活動基盤の弱体化につながり、73年のオイルショック以降は広告収入の激減による財政難にも直面した。さらに、69年ごろから定着していた闘争・編集・生活を共にする編集員の活動スタイルは、新編集員の定着に結びつかず、サークルとしての新陳代謝が進まなかった。74年以降、週刊体制の維持が困難になり、合併号が頻発するという苦しい時代を迎える。

「竹本処分」いったん凍結


京大で72年11月、史上3度目の全学学生大会が行われ、2500を超える学生の投票により同学会の民青系執行部が罷免された。京大新聞はこれを12月1日号のトップで取り上げ、「権力の庇護の下に闘争への露骨な敵対を行ってきた執行部=民青系学生をリコールし、闘う同学会(京大全学自治会)の創出へ向けた第一歩を踏み出した」と報じた。

この再建同学会を中心に73年、第一次竹本処分粉砕闘争が繰り広げられることになる。京大全共闘の理論的な指導者のひとりだった経済学部の竹本信弘助手は、71年8月の自衛官殺害事件の重要参考人として指名手配されて以来、潔白を主張して地下潜行していた。学部当局が無断欠勤であるとして73年1月に免職処分を上申し、評議会での審査がはじまった。これに対し学生・教職員は「学問の自由への弾圧」と批判し、ストライキ(授業放棄)や建物封鎖などの反対運動を展開。不安定な学内情勢から、卒業・入学式が中止される事態となった。結局、総長の交代などもあり処分が凍結された。

「3か月の準備期間」


昭和50年代(1975年~)は戦後最大の不況で始まる。狂乱物価を抑えるための金融財政政策が景気を冷やし、円高の進行や78年の第二次オイルショックも追い打ちとなった。打撃を受けた各企業は減量経営による安定を図り、省エネルギー型産業が台頭。世界的な苦境のなかで、日本経済は総体的地位を高めるに至った。

75年春、創刊50周年記念特集を出したばかりの京大新聞は、危機に直面していた。編集員はわずか2、3人。それも4回生や院生で、後を継ぐメンバーがいない。運営資金も枯渇寸前。

学生運動を取り巻く社会環境は厳しく、激しさを増す中核派と革マル派の内ゲバにみられるような「過激派」の動きが市民の支持を遠ざけた。大学では、親から学生運動をやらないよう釘を刺される学生が増え、いわゆるノンポリの比率が高まった。ビラを受け取ることすら拒む学生が多くなった。

全国的な学生運動の退潮に不況も相まって、各地で大学新聞が廃刊した。京大新聞も無縁ではなく、75年5月、やむなく休刊した。しかし、灯を消すまいと、同学会メンバーら1・2回生に加入を呼びかけ、夏休み明けに新体制が始動した。編集員は6人となり、再び輪転機を回すことができるようになった。発行ペースは週刊から毎月1日と16日の半月刊に落とした。復活後の9月16日号では、社告で約3か月の休刊を詫び、「3か月間の準備期間をもって定期的発行の体制も整いつつある」と報告。この号のトップ記事では、「天皇訪米を前に実力阻止へ陣形構築」との見出しで各学部の集会の様子を報じており、以前と変わらず学生の動きを追っていく姿勢がうかがえる。なお、この号で「来年度からは週刊に戻し、読者諸々兄姉のご期待に応えん」と記していたが、月2回の発行体制が定着し、今に至っている。

失意の竹本処分強行


73年に竹本処分が一時凍結され、翌年春は入試や卒業・入学式が通常どおり実施された。

しかし、77年からはじまる第2次竹本処分粉砕闘争が、キャンパスを再び燃え立たせる。この年の2月、京大評議会は竹本助手の分限免職をめぐる審議を再開した。就任直後に「理解を深めたい」として議論を凍結していた岡本道雄総長が、懸案解決に乗り出したのである。京大新聞は2月16日号のニュースで、「総長岡本はとうとうその本性を現し、欠席密室審査による処分強行を図ってきた」と警戒し、「不当なデッチ上げ政治思想弾圧」と批判した。3年前の処分粉砕闘争から時は流れ、学生の大半は竹本氏に会ったことすらない。それでも、その処分は学問・思想の自由に関わるもので、戦前の「滝川事件」の再来と受け止められた。同学会は再び闘争の狼煙を上げ、文・農・経済・教養の各学部が相次いで抗議のストライキに入った。

大学当局は学外施設を転々としながら43回にわたって評議会を開き、審議を続けた。採決直前の段階で、岡本総長は学生側からの団体交渉の求めに応じた。77年6月17日の夜のことである。法経一番教室は約千人の学生・教職員で埋まった。約6時間に及んだ交渉では、処分は思想弾圧であると追及する学生らに対し、大学当局側は本人の思想ではなく連絡不通や無断欠勤を問題視していると応酬するなど平行線をたどったものの、同学会が「断固粉砕」を改め「票決を学内で行うなら実力介入しない」と提案し、岡本総長は「明日の評議会は学内で行う」と応じた。のちに紙面でこのときの雰囲気について「総長の『譲歩』に『楽観的』雰囲気」と記したように、処分案の否決や棚上げが期待された。しかし、翌日の6月18日、「静かな怒り」をもって学生らが包囲するなか時計台で評議会が開かれ、3分の2の賛成で竹本氏の免職を決定した。

処分が決まった夜、京大新聞はただちに号外づくりに着手した。通常、刷り上がりまで5日ほどかかるところを、大阪・京橋の印刷所に拝み倒して2日で印刷してもらった。1面は〈竹本処分強行される〉の見出しと、団交中の法経一番教室をぐるっと眺めるパノラマ写真。2面には竹本氏が友人の教官に送った委任状の記事を載せた。正面前で配ると、飛ぶようにさばけた。

77年6月23日号外



処分に反対する学生らが総長室前で座り込みを行うなど抗議を続けるなか、大学当局は77年末にかけてたびたび機動隊を構内に導入した。正門付近には連日、警官や機動隊が待機するようになった。この異例の状況について、京大新聞は岡本総長にインタビューを実施して追及。「開き直る総長」と題した解説記事をつけたうえで次のようなやりとりを掲載している。

〈―学生は「機動隊常駐体制」と糾弾している。

岡本もちろん学生の自由な自治活動を尊重しますが、現在のような教官に乱暴が加えられたり施設を壊されたりするような学内の状態では止むを得ないじゃないですか。

―竹本処分に反対する側は、処分の審査過程そのものに疑惑があると主張している。

岡本疑惑を持つことは構いませんが、異議を唱えるその方法が良くないんですよ。学内の理解を得るために、京大広報や総長所感などで十分説明してきたんですがね(一部要約)〉

大学当局はこの年の末、闘争の象徴として時計台に白ペンキで書かれていた「竹本処分粉砕」のスローガンを消し去った。さらに、「学内正常化」の旗印のもと、ビラ張り禁止や立看板撤去、正門の夜間ロックアウトなどの措置を打ち出していった。

77年11月16日号総長インタビュー



紙面刷新、社会問題の先取りも


当時の京大には、成田闘争などに力を注ぐ同学会と、共産党の指導を受けて「暴力学生追放キャンペーン」を張る民青が真っ向から対立する構図があった。京大新聞編集部は、全学自治会としての同学会の動きを主に伝えつつ、編集方針は完全な独立を保った。編集員たちは運動の現場に入り込み、マスコミに報道されない事実を自分の目で掘り起こそうと努めた。こうした方針のもと、時代に先んじて社会問題の紙面化を結実させる例もみられた。欧州の反原発運動を紹介する特集を組んだのは、スリーマイル島事故(※)で世間が問題に注目する2年前となる1977年のことである。

※79年3月28日、米ペンシルバニア州スリーマイル島の原子力発電所で冷却水が流出するなどの事故が起こった。商用原子炉として世界初のメルトダウンの衝撃は大きく、原発の「安全神話」に亀裂が生じた。

77年10月16日号の反原発特集



また、75年の休刊の一因には一般学生からの遊離があると考え、学生メディアとして新しい編集方針を模索。「読む価値があると同時に、読まれる紙面」を目指した。ニュースを基本としてルポやインタビューに力を入れたほか、見開き2頁を活字で埋め尽くすような大論文の掲載は控え、堅苦しくない要素も加えるよう心がけた。かつてのような「昼はヘルメット、夜は原稿書き」といった生活スタイルが消えたことも影響したのか、編集員が増え、特集号では通常の4頁を大きく上回る十数ページ建ての大型企画も可能になった。兵庫県の福祉施設で起きた「甲山事件」の冤罪を訴える公判傍聴記や、日本アジア・アフリカ会議が79年4月に京大会館で開いた反体制詩人・金芝河のシンポジウム記録などを長いスパンで取り上げた。

「反原理」に着手したのもこのころである。勝共連合や統一協会を背景に持つ原理研究会は、大学へ勢力を浸透させる手段として、70年代前半から各地の大学で学生新聞を装った活動をしていた。京大では「京大学生新聞」という題字の新聞が出された。研究室に投げ込んだり学内で無料配布したりする程度だったものの、卒業生から寄付を集めるなど、各大学の学生新聞は妨害に苦慮した。京大新聞では、77年10月から「原理研レポート:その腐蝕の軌跡」と題した連載を組んだほか、「京大学生新聞」からの寄稿依頼に協力しないよう教官に呼びかけるアピール記事を掲載している。

77年6月16日号の「反原理」呼びかけ



卒アル開始、経営上向き


京大新聞社の経営面は、75年を底にして徐々に上向いた。79年の大学共通第1次学力試験の開始をステップに受験産業が事業を急拡大し、予備校などから盛んに広告が入るようになった。また、新たに卒業記念アルバムの製作を引き受け、年150万円ほどの編集料を得た。当時の年間支出は約800万円で、これらの収入は大きな助けとなった。懐具合がわずかながらも豊かになり、中古のライトバンや一眼レフカメラを購入したり、学内配布ボックスを新調したりした。

79年6月、通算1800号に到達した。大正末の創刊以来、半世紀にわたって京大新聞を見守ってきた入山雄一・名誉顧問が永眠したのは、この年の11月1日夕刻だった。

現在も使われる販売ボックス


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コラム⑧ 癖字も読める植字工 70年代の印刷事情


70年代の京大新聞の印刷事情について、次頁に掲載する聞き取り取材のやりとりから紹介する。(発言者の情報は次頁参照)

* * * * *

篠田 割付の作業が大変だった。徹夜することもしばしばだった。

橋本 今はパソコンでやると思うけど、当時は紙面の設計図を手書きして印刷場で植字工さんに渡して、活字に組んでもらう。

篠田 教授に書いてもらった原稿の字が読みづらくて。そのまま植字工さんに渡したら、彼らは読めるんだよ。それで仮で刷られたものを見て校正した。あの人たちすごかった。

橋本 反転した文字も読めるし。一字ずつ積み木みたいに組み立ててヒモでしばって、台の上に組み上げていく。

篠田 何字足りないよとか言われて、その場で書くんだよ。

橋本 最後に厚紙を押し当てて型を取って、半円形に反った鉛板をつくる。それを2つつなげて1回転分にして輪転機へ。

篠田 そこまでいくと修正不可。鉛板がぐりぐり回り出すのを見届ける瞬間が嬉しかった。

岸根 大阪の福島の印刷所まで行ったね。植字工さんが原稿を勝手に変えてしまったこともあったな。見出しに韓国の「ソウル」と書いていたのに、余白の都合で「京城」に変えられた。日本が統治していた時代の呼び方だからまずい。こっちも気がつかなくてそのまま出して読者に指摘された。あれは困ったね。

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聞き取り③ つぶさないことが最大の目的 1970年代在籍者に聞く


70年代の京大新聞を知る7名に話を聞くことができた。以下、東京と京都にて座談会形式で実施した取材の内容を掲載する。前半の東京での聞き取りでは、世代が近く今も飲み仲間だという3名に休刊後の再建期を振り返ってもらった。後半の京都では、学生運動の高揚期から退潮期へと世代をまたぐ4名に、数年の間で様変わりした編集部内外の様子を回想してもらった。(聞き手 村・史)

⑴東京の3人のやりとり


右手前が岸根正実さん(1972-78)、奥が橋本聡さん(1975-80)、左が篠田謙一さん(1975-79)=3月9日、京大東京オフィスにて



サッカー同好会から増員

―入社の動機は。

岸根 4回生のころ同学会の知り合いに誘われて入った。京大新聞に人がいなくて後が続かなそうと言われて。まだ卒業するつもりはなくて、やることを探していたからよかった。すでに橋本くんがいて、あとは先輩2人と同じく誘われた2人かな。

篠田 私は3回生のとき。当時は、学生運動が盛んなころの世代が抜けて橋本さんがほぼひとりでやっていて、彼から手伝ってと言われて入った。きっかけはサッカー。体育の授業で彼がゴールキーパーをやっていて、私が入っていた同好会に誘った。広島県選抜の経験があってすごくうまいんだよ。でも彼は新聞で忙しい。どうにか試合に出てほしくて、同好会から私と友人(阿形清和さん、75︱79年)が新聞を手伝うことにした。

橋本 75年入学後、体育会のサッカー部に入っていたけど、ボール磨きをさせられるような当時の雰囲気が嫌で夏前にやめてしまった。やることがなくフラフラしていたら、西部構内の建物の壁に京大新聞社と大きなペンキ文字で書いてあるのを見かけて興味を持った。一般紙は普段から読んでいたし、文学部だし。部室に入ってみると事務員さんしかいない。関心があると伝えたら、あとで先輩が下宿に来て、「今は休刊中で、夏休み明けから復刊するから一緒にやろう」と言われた。そのとき編集部には先輩2人だけ。復刊したものの、低空飛行が続いていた。

―編集部の雰囲気は。

篠田 そもそも会議には人が集まらない。

岸根 会議というより、書いてきた原稿を持ち寄って「ここはおかしい」と言い合う程度。

篠田 次の紙面をどうするか話したな。回数を確保するために合併号もたくさん出した。

岸根 合併号は第3種郵便の認可との兼ね合いもあった。

広告が入らない

篠田 75年から数年は、新聞をつぶさないことが最大の目的だったね。全共闘世代の後片付けをする感覚で。

橋本 全然お金がなかったね。

篠田 世の中の経済が落ち込んで、それまでけっこうなお金になっていた就職情報の広告が入らなくなった。

橋本 学生運動の全盛期は、紙面はハードでも、たくさん企業広告が載っていた。69年をピークに、学生運動のうねりが収束し、その後、高度成長もおわっていく。

岸根 石油危機が73年で、企業の業績が顕著に悪くなったのが75年ごろだった。

―広告を頼んでも断られる。

岸根 全然だめ。昔は営業活動しなくても入ってくると聞いた。

橋本 このころ他の大学新聞がどんどんつぶれていった。

篠田 そんななかで、存続にすべてを費やした時代だったね。枠をなくしたら終わり。続ければいいことがあると思っていた。

橋本 上の世代には営業担当がいたけど、僕らのころは役職を割り振れる人員がいないからみんなで手分けした。力を入れたのが予備校広告集め。当時、79年から共通一次試験がはじまるということで、予備校が積極的に宣伝していた。営業に行くと快く出稿してもらえたね。あとは合格電報(49年にはじめた合否通知サービス)も収入になった。京大新聞は大学から合格者名簿をもらえたから、発表の日に受け取りに行って、手分けして電話する。

岸根 ただ、合格電報は新聞以外の人も集めて回していたから、バイト代として飲み会をやると稼いだお金がなくなる(笑)。

橋本 卒業アルバムの制作をはじめたのも大きかったな。出版社側から窓口をやってくれと話を持ちかけられた。

―大学当局ではなくあえて京大新聞に言ってきた。

篠田 そうそう。大学に断られたのかも知れないね。

橋本 こうして金銭的に少し余裕ができて、中古車を買ったり学内の販売ボックスを新調したりした。それまでは先輩がつくった木製の箱だった。

篠田 ゴミ箱扱いされていたね。

岸根 知り合いに鉄工屋の息子がいたから、頼んでつくってもらった。

橋本 岸根くん図面を書いたね。壊されないように。まだ使っているんだね。他の収入源として、もともとつくっていた『京大を受ける人のために』という本も復活させた。名古屋の河合塾に泊りがけで行って、紙面のエッセイとかを集めて載せる。

篠田 居酒屋にも広告をもらいに行ったね。結局飲んで支払うお金の方が大きかったけど……それと出版広告。あれはユーピーユー(※)が扱っていた。

※就職情報誌で台頭する「リクルート」に対抗して京大新聞の卒業生らが立ち上げた採用広報事業の会社。

全国に声を聞きに行く

橋本 全国の大学で学生運動が収束するなか、京大は『週刊朝日』が「ガラパゴス」と表現したように、全共闘時代の雰囲気が残っていた。ストライキをやるのが京大に来た者の務めだと言う人もいた。一方、世の中はセクトの内ゲバや連合赤軍、東アジア反日武装戦線などのニュースにふれて、ハードなものに拒否反応を示していた。僕たちはその中間にいた感覚。先輩の世代は自身が学生運動のプレーヤーとして記事を書いていたけど、僕たちはそうではなくなっていた。

篠田 横から見るスタンスに変わっていった。

岸根 なかには思想的に偏向している編集員もいて、党派に取材してきたと言って運動の記事を書こうとするんだけど、私がボツにしたね。そんなの京大新聞に載せるのはおかしいやろって。せめぎ合いだったね。

篠田 ろうそくの炎を消さないように必死だから。「〇〇粉砕闘争」ばかりでは立ち行かないし、ソフトな方向にブランディングした。先生に書いてもらうことも多かったね。

橋本 著名な教授にも原稿料なしで書いてもらえた。もちろん、学生運動を報じることは引き続き柱のひとつだった。でも、それだけではなくて、学内にとどまらず地域に出ようと。成田空港をめぐる三里塚闘争の現場に行って農家の人と話をした。反原発問題も取材した。根底には、権力側から虐げられている人たちと一緒に物事を考えようという発想があった。自分でデモをするわけではない。僕らのやることは書くこと。直接的には京大に関係ないように見えるテーマでも、成田や伊方原発、水俣など全国の人たちが京大生とのネットワークを持っていて、学生が出向いたり現地の人が京大に来たりしていた。そこに、学生の正義感や、社会の関心を引きつけるものがある。

批判精神は絶対

―読まれている感覚はあった。

篠田 販売ボックスにお金を入れてくれない人も含めれば、読む人はけっこういたと思う。

橋本 学生部の買い上げもあって、だいたいの先生に届いた。

橋本 定期購読案内に総長の推薦文を載せた。当時、竹本処分をめぐって紙面で激しく批判していたのに、「今年も推薦を」とお願いして。バランスをとってほしいという一言こそ添えてあったけど、書いてもらえた。

篠田 懐が深かったね。

橋本 それを見て購読契約してくれた人もいたと思う。でも実際に紙面を見て、特に親御さんがびっくりしていたのではないか。こんなに学生運動をフォローするのかと。69年以前よりもソフトになっていたのに。

篠田 世間はもっとソフトに、ということだったんだろうね。

橋本 「しらけ」の時代だね。以前の熱気を知る先生と話すと、「最近の学生は何を考えているか分からん」とこぼす。

篠田 世界がどこに向かうか見えないなかで、続いてきたものを残したかったし、受け継がれる批判精神は絶対に捨ててはいけないという意識があった。そこを残しつつ、経営を安定させる体制づくりを考えていた。

―本のタイトルにある「権力にアカンベエ」という考え方。

橋本 それはベースにある。当時、情報発信の手段が少なくて、立て看板かビラくらい。もちろん携帯電話もなく、今のように電子的にいろいろできない。そういう意味で学内唯一のマスメディアと言えた。全学で配るというのは影響力があって、それを大学の先生たちも認めていた。もちろんけしからんと思う人もいただろうけど。

嫌味言われてもお金も大事

橋本 1800号記念号では、一般紙各社から広告をもらった。各社にいた京大新聞の先輩たちに声をかけて集めた。当時の一般紙は、60年安保のときに7社共同宣言(※)を出したりと学生運動を批判する論調だったから、広告を見た同学会の人に「おまえら筋はないのか」と嫌みを言われた。でも、お金も大事。先輩の世代が「ブルジョワ新聞」という言葉で一般紙を権力寄りだと批判していたことを思うと、マスコミとの距離感が少し変わったと言えるね。

※60年6月、国会内外で繰り広げられた安保闘争をめぐり、一般紙大手7社が「暴力主義を廃し、議会主義を守れ」という声明を一斉に掲載した。

橋本 僕らのころに反原理(※)も打ち出した。最近また問題になっていて、早くから注視してきたのは正しかったなと思う。

―当時、学内で存在感があった。

篠田 当時から怪しかったよね。

橋本 構内で学生に声をかける。

篠田 教官にも。先生は京大新聞だと勘違いして原稿を書いてしまう。商売敵だし、橋本が熱心に注意を呼びかけていたね。

橋本 原理研の新聞だけが残る大学もあって、危機感をもった。

※原理研究会は旧統一協会系のカルト団体。京大では「京大学生新聞」を発行していた。

この車で大阪の印刷所や各地での取材に行った



主張はあえて抑えた

―前の世代は社説で積極的に主張した。発信についての考えは。

岸根 そのあたりは少し抑えた。

篠田 意図的にね。新聞をどう再建するか考えたとき、それ以前のやり方が行き詰まっていたから、学生に受け入れられるあり方を模索した。

岸根 どこかの党派に偏ることは避けるべきだと考えて、広く情報を集めようという気持ちでやっていた。自分たちで書いて発信するのは書評ぐらい。難しい本を読んで載せた。

―現役の編集部へ一言。

篠田 100年の歴史で様々な画期がある。私たちは学生運動が終焉して今につながる入口にいたんだろうなと思う。そういう流れを追うと理解が深まると思う。

橋本 デジタル化に対応して足腰を整えているのはいいこと。何が起きたかを客観的に伝える姿勢は大事にしてほしい。

岸根 卒業しても京大新聞を見れば京都や大学のことが分かる。京大という場で地に足つけて取材を続けてほしい。偏向しすぎず、かつ当局にすり寄らず。

1978年のボックス。中央にはこのころ買ったという煙突つき灯油ヒーターがある



⑵京都の4人のやりとり


左から原田敏さん(1967-71)、宮崎史朗さん(1967-71)、浪岡俊行さん(1972-77)、蜷川泰司さん(1973-80)=3月10日、京大西部共用室にて



西部講堂から助っ人

―入社の動機は。

原田 特別な目的はない。作文と面接の入社試験を受けて、全員合格したと思う。夏休み前、経験を積むために1回生だけで編集する号があって、潮岬で合宿して作業したのが印象的。

宮崎 1回生だった67年10月8日、第一次羽田闘争で山崎博昭くんが亡くなった。旅行先の能登半島で報道を見て衝撃を受けて、切り上げて帰ってきた。いろいろ考えて、もっとものごとの裏側も知りたいと思った。それで11月に入った。

―募集があった。

宮崎 常時受け付けていたかな。

浪岡 高校のころ、自分たちが新聞を作って京大新聞に送って、逆に京大新聞が送られてくるという交流があった。反安保のデモに参加した経験もあって、京大の中で居場所はここだろうと思った。

蜷川 僕の在籍は80年の1年間だけ。芝居をやっていて、学生生活の大半は西部講堂にいた。知り合いから、次が1年生だけになるから面倒を見てと言われて入った。70年代に京大にいた視点で言えば、いくつか裁判闘争があったのと、なんといっても竹本処分だね。入学式が中止になった。それから東アジア反日武装戦線とか、焼身自殺した船本洲治(※1)が衝撃的だった。在籍期間中では、韓国・光州事件(※2)の記事を載せたのをよく覚えている。

※1 75年6月に米軍嘉手納基地前で「皇太子訪沖反対」を叫びながら自殺した活動家。

※2 80年5月に起きた大規模な民主化要求行動。

「ここらでギブアップ」

浪岡 僕は主に休刊の前まで。そのあとは助言する程度。休刊直前は僕ら4回生と、3つ上の先輩しかいなかった。下の世代がいないから、編集がすごくしんどい。お金もない。この際、一度休刊して人を増やそうということになった。それまでのスタイルを維持できず、ある種の負けだね。しかも、人を増やそうにも周りからは党派の新聞だと思われていた。プロパガンダのつもりは一切ないけど、傍から見たらそういう印象だった。

宮崎 敬遠されがちだったね。

浪岡 逆に、党派性の強い人もほぼ入ってこない。そっちからも敬遠される。文学青年的な編集員が政治色の濃くない紙面づくりをしていたからかな。ただ、まったく人が来ないわけではない。でも、取材と言って新入生をいきなり闘争の現場へ連れ回す。一緒にデモをやりながら記事を書くスタイルを準備のないまま目の当たりにすると、せっかく入っても結局定着しない。

原田 人数が多かったら余裕を持って対応できるけど、週刊で出すことに必死で、「事件があったからあそこに行け」と引き回し状態にしてしまったね。

―外から見た印象は。

蜷川 たしかにレッテルはあったと思う。休刊後はノンセクト的な色で再建。100年近く続いているのは、あそこでなんとか踏みとどまって色が変わったことも影響したんじゃないかな。

浪岡 休刊の前後で大きな断絶がある。全体としては「権力にアカンベエ」という思考の人が集まるんだけど、新左翼的な政治性からは脱却した。

―休刊の際、発行ペースを落として続けるという選択肢は。

浪岡 そもそも出すのが難しかった。編集部として「ここらでもうギブアップ」という気分もあった。当時は、各大学の学生新聞がなくなっていく時代。京大新聞も合併号の連続で悲鳴を上げながら出していた。50周年の直後で、歴史ある新聞をつぶしてしまっては申し訳ないし、つぶす権利はない。そう思って、先輩のツテで人を集めた。

数年で広告激減

宮崎 リクルート社から広告がたくさん入ったから、段数を増やしたり広告だけで埋める面を作ったりした。

原田 第3種郵便の割引を受けるためには、広告を全体の半分以下に抑えないといけない。規定を超えないようにギリギリのサイズに調整したね。

宮崎 70年度の1年間は、リクルート側と交渉して何百万円規模の最低保証を取り付けていたけど、それを上回る広告が来た。求人広告のみで埋めて記事がない紙面ができるほど。そういう場合は第3種では郵送できない。

浪岡 広告が載ってこそ新聞というイメージがあったなかで、石油危機以降は全然入らなかった。不況の苦しさを救ってくれたのはユーピーユー。僕らだけでやるのは限界があるし、プロの支えは大きかった。

原田 僕らは京大闘争の昂揚期。当時から、新聞は続けることに意味があるとする人と、その時々で柔軟に考えようという人がいた。後の世代の話を聞くと、退潮期の難しさを感じるね。記録媒体として検証できる点に、続けることの意義がある。


広告で埋め尽くされた紙面(67年6月6日)



編集長や給料の見直し

―編集会議の雰囲気は。

原田 僕のころは3回生が編集長。先輩が喧嘩腰で意見を言って激論になった。党派とか関係なく紙面内容に関する議論だった。佐世保エンプラ闘争(※)の68年1月あたりから、新聞社内に党派闘争の様相がみられて、私自身、違和感を覚えて距離を置くようになった。1年ほどして戻ると、より一層、京大新聞が主体的に闘争に関わるスタイルに変わった印象を受けた。東大闘争が一番激しくなったころ。戻る前は、いろいろな人がいながら客観的に意見を紹介するイメージだったけど、だんだんそうではなくなった。

※68年1月の米海軍の原子力空母寄港をめぐる反対闘争

宮崎 3回生が幹事になる旧体制は、僕らが最後かな。70年4月から、幹事会は組織するけど、主幹や編集長は置かないことにした。我々67年組とひとつ下の68年組はかなり議論したね。68年組が3回生になったとき、編集長を決めずに全員が編集員という体制にしたと聞いている。

―変えた理由は。

宮崎 大学や教授の権威、そしてそれらがつくる構造の権威。そういうものをつぶそうとして大学闘争をやっている自分たちが、権威主義的な体制を抱えているというのはいかがなものかと議論になった。

原田 責任の所在とか、課題が出てくるけど、「権威主義はダメ」と定まったら徹底的にその方針でいく雰囲気があった。

宮崎 だから、それまで編集員に支払われていた奨学金も廃止した。編集員は取材費が出るけど、闘争に行く一般学生はどこからもお金が出ない。そんな不均衡はおかしいという話。お金がなくてやめたわけではない。

―現在は編集長ではなく議事進行役として議長を置く。当時は。

蜷川 各号、紙面の検討から印刷まで統括するデスクを持ち回りで担当する。編集会議はデスクがそのつど回していた。

宮崎 僕らのころは編集長がすべての原稿に目を通して、見出しもつけていたと思う。

原田 世代が少しずれるだけで状況が全然違う。

かつての全国性を落とす

宮崎 編集部だけではなくて、71年に全国全共闘が解散したりして、党派もバラバラになった。

浪岡 京大新聞としてすべての動きを追いきれない。その結果、取り上げられない立場の人たちから敵視されることもあった。

浪岡 72年ごろの連合赤軍の衝撃が強くて、学生運動が立ち行かなくなった。教養部でクラス討論するとなっても、「ああういうものには関わらないでおこう」という空気。ストライキが実現することはあったけど、それは理念に対してではなく授業がなくなることへの賛成だった。

―そういう状況で、京大新聞としての方針の軸は。

浪岡 休刊前は全国紙だという意識が強かったな。

宮崎 東京の救援連絡センターとか、いろいろな団体に新聞を送っていたからね。下手な記事を書いたら全国から批判が来るという緊張感があった。

浪岡 闘争の後退期には、あらゆる運動が四分五裂していた。残った全国的な組織のうち、京大新聞は政党主義ではないから、おのずと全学連に目を向けることになる。

―休刊後、全国紙の意識は。

浪岡 闘争全盛期の意味での全国性は落とした。学内新聞という原点をふまえつつ。

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拾い読み⑦ 増える「闘争」記事に批判も 企業広告もあふれんばかり


今回の「拾い読み」は64年1月〜69年12月を掲載する。この6年間は、週刊発行で号外2号を含む275号を出した。十数頁に至る号もある。以下、紙面の記述を抜粋した。


1964年


新聞社▼4頁15円/年400円/編集員募集/原稿募集/懸賞小説:入選2万円、佳作5千円▼創刊40周年記念講演会:戦後日本論▼『京大を受ける人のために』270円▼正門・有信会前・図書館前・吉田正門・食堂(吉田・西・医・北)にて無人スタンド販売→料金の回収率が低下したので5月4日号から立売も行う/発行より3日間 時事▼韓国学生の思想と行動:毎日新聞ソウル特派員▼恐るべき公害▼近畿地区大学、バイト斡旋再開▼自衛隊、宇治グランドで演習:寮生反対▼各地でデモ:原潜、佐世保に入港▼複眼時評:戦時中、新聞を開くのが怖かった/戦後も読まない/商業新聞の低俗な記事を押し付けられて発狂しない気持ちは解せない▼学園評論(社説):中国核実験に反対 教育研究▼京大原子炉、臨界実験成功▼アフリカ研、ゴリラと対面6時間▼マツタケ栽培実験進む 大学運営▼新しい大学創造を:奥田学長、就任挨拶「学生諸君の声を聞きたいので、私に手紙を出してほしい/誠実な声なら、実現に努力する」▼労働強化危惧:京大病院業務部長「企業精神に偏るな」▼「熊野寮」一挙実現へ▼京大構内を一新:長期施設計画明らかに:西部→京大会館、体育館▼学園論壇:京大に保育所を▼学生も設計参加:教育学部移転で話し合い▼寮総務ら座談会:規定がないのが理想/全寮連はセクト臭強い▼文部省、初の大学白書出す→大学人は警戒▼学園の眼:生協への提言→汚物を捨てた手でうどんを手づかみ、衛生にとどまらない根本的問題 学生▼生協生活調査:意外に少ない書籍費▼署名4千人:生協地下売店移転に▼府警本部長の「新聞社の記者と学生新聞の学生を間違えて殴った」との発言へ抗議文:京都の学生新聞・放送局(同志社・学芸・工芸繊維・立命館・京大)の連名→▼山岳部ネパールへ:学術調査▼応援歌、一編も集まらず→1等5千円▼京大民青が分裂:京大学生統一会議を結成▼体育館の獲得目指し体育会が準備委設立 文化▼理解されなかった芸術映画▼正倉院展の魅力▼書評『ポポロ事件』:情報収集の実態暴露 広告▼「印刷界のパイオニア」大日本スクリーン▼IBM全面広告▼劇場や飲食店から祝40周年広告▼通産省・電源開発学生論文募集▼比叡京福ランド開場▼麻雀新開店▼国立近代美術館、ダイハツ、日本生命、日本電信電話公社、日本ブラッドバンク、不二家

▼時に思う:創刊40周年を祝して(1964年4月13日号)
学生部長寄稿100%学生自身の手になる新聞の果たした仕事は、時には若さに任せてのいさみ足的な誤りもあったのかもしれない。みる人々によってその評価はさまざまであろう。これに対する正しく評価を下す自信はない。しかし少なくとも京大学生の世論をその時々忠実に表現しようとするその努力は評価すべきであろう。

熊野寮の設置を報じる1964年3月16日号



1965年


新聞社▼購読:年450円▼卒業者人名録12月創刊、4万名を収録:日増しに要望高まった▼第6・7回懸賞小説▼編集員募集:1回生若干名、作文を課す/『京大を受ける〜』京大親学会と共同編集:320円▼佐々木惣一・初代顧問死去→入山雄一・名誉顧問寄稿「佐々木先生と新聞」▼同人誌寄贈のお願い→文学運動創造の芽を広く支援するため紹介企画を新設 時事▼国立9大学声明:就職青田刈り禁止呼びかけ▼世界経済の動向:発展の不均等を露呈▼黒板(編集員コラム):五輪映画騒動に腹が立つ▼立命館大の在日朝鮮留学生の寄稿:「関東大震災の時の虐殺を忘れない」▼3府県学連統一行動、北爆日韓反対で7千人▼ベトナムの図式:主役は米国→毎日新聞外信部員寄稿▼医学生全国統一行動:インターン制に反対▼黒板:農地報償法が社会党の懸命の阻止にもかかわらず自民党の強引な会期延長などで成立してしまった▼長崎大学館闘争:権力に勝てなかった民主化運動▼ヒロシマの印象:編集員「被爆者は、原水禁運動の発火点の役目が終わったいま、『政治の道具』でしかないのかも」 教育研究▼防災研、チリと共同研究▼東洋学文献センター開設▼人文研、全文献マイクロフィルムに▼アメリカ反戦運動の実態:米国人指導者寄稿▼オーストリアの新聞記者の講演▼白血病予知をつきとめた医学部助手:12年の執念実る▼米農務省、農学部へ研究費2万ドル贈与 大学運営▼燃料化学教室焼く:現存最古の赤レンガ▼京大70周年、ぐらつく記念事業計画:寄附が不況で集まらない▼大学・学生の意思疎通機関を:厚生問題対策協議会が発足▼宇治寮、今年度限り廃止▼京大工業教員養成所、定員満たず▼留学生に施設:日本人学生も協同生活▼大学院生寮発足▼学園の眼:教養A号館地下に控室▼同志社大此春寮、教授会が閉鎖勧告「寮自治の限界越える」▼ルポ:山形大の寮闘争▼激化する各大学闘争:お茶の水大→新寮規定改定反対で全学授業放棄/高崎経済大→授業料値上げ、機動隊に守られ可決▼学園短信:九大新寮完成▼吉田寮憲章改正:総務会から委員会制へ▼団交決裂:京大寮闘争、学長「受益者負担は当然」▼宇治に総合研究所:理工系研究所を集中▼同志社大学館闘争終わる:学生側に運営権 学生▼反戦へ学生・労働者3千人結集▼教養部、250人留年か▼宿状況好転の見込みなし▼学園論壇(投稿):不払闘争の理由→寮連委員長寄稿▼野球部、関西六大学復帰またできず▼京大生本紙意識調査→望まれる全国共闘結成/強い米ベトナム侵略批判▼女子学生の4分の1が喫煙:生活実態調査 文化▼会社員や詩人、教員ら書評▼アジア映画祭を見て▼懸賞小説選考発表:49編しか応募ないジリ貧▼書評:ウイルスの総体を見事に解説▼書評:『ヒロシマ・ノート』▼新連載「京大雑誌拝見」:文学不毛の地から決別を▼ツタンカーメン展に寄せて:同志社女子大講師 広告▼図書専門店開設▼ドイツ万年筆モンブラン▼六甲山ホテルのジンギスカン鍋▼銀行(京都・京都信用・神戸・埼玉・北陸・横浜)▼トヨタ/日本興業銀行/古河電工ロケット/ワコール/大阪府庁/野村総研/松下電工/明治生命

7千人規模のデモ
1965年6月7日号



1966年


新聞社▼卒業人名録、好評で重版▼購読:年550円「あなたと京大を結ぶ一つのきずな」▼発行部数2万▼内線で迷惑をかけることが多かった→直通電話を開通 時事▼大阪・京都府学連がデモ:国・私鉄運賃値上げ反対で→逮捕者29名▼複眼時評:女子学生亡国論→男性側は徳川時代以来、なんの進歩もない▼労働運動の転機と今春闘:関西労働者協会会員寄稿▼小選挙区制の問題点:法学部助教授▼憲法第9条と日本防衛論争▼ルポ:原潜闘争現地報告▼5・25制服警官学内立ち入り調査:官憲の学園侵入→生協、同学会、学生部長、抗議文を渡す▼学園評論:府警は大衆的に弾劾されるべき/総長はその先頭に立て/学生は完膚なきまで国家権力の否定の構造を▼三高の影また消える:教養部木造研究室取壊→跡地はグラウンドに▼学園評論:市電市バス料金問題▼生協に盗賊侵入:35万円盗まれる 教育研究▼花山天文台:山奥へ移転の運命▼交通情報案内に新兵器/血圧の連続記録 大学運営▼ルポ:早稲田大学スト▼百万遍などの学生会館に機動隊200名:退館の仮処分執行▼インターン制廃止へ:厚相国会で答弁、研修義務付け→医学連、全廃要求を貫徹▼入学金は一挙4千円に▼大学当局、熊野寮生全員の家庭に学校側督促状を発送、寮側は負担交渉継続求める▼吉田寮南庭に娯楽場建設進む:寮執委では抗議→学友会館の付属施設として撞球場、麻雀、娯楽室を建設へ▼教科書合戦休戦:ナカニシヤ・生協書籍部、仕入れ販売で協定▼生協利用者懇談会:利用者と従業員、理事との直接の話し合い▼大学協議会開かれる:学長選挙権拡大を決定→教授から専任講師まで▼歯学部設置原案を提出▼学園評論:総長選挙権拡大→学生が学長選挙権を持たなければという我々の主張を示唆したい▼北部食堂改築着工:845万円▼保育所開設:建設費は384万円▼職員組合がスト:京大集会に千人参加▼文学部東館の噴水→以文会の寄附金約100万円で作られた 学生▼浪人3分の1割る▼黒板:我々は余りにもテレビや雑誌、新聞を通じて考えることに慣れすぎている▼相次ぐ講演会・音楽会→各団体予定出揃う:ハイキングやスポーツ大会も▼陸上部19年ぶり優勝▼ある生活集団「ユートピアを求めて」(4)原理研究会→京都に教会が誕生したのは去年の9月/11月祭で展示も/現在、京大生は10人ほどが伝道者に/その他京女大、同志社など総勢20人近くが集団生活/廃品回収や花売りで生計▼教養部自治委「授業放棄」決議:「スト案」否決▼11月祭模擬店に人気:60枠に230超の応募 文化▼複眼時評:歴史ブームの背後→ツンドクという読者の抵抗▼現代芸術の二方向:武蔵野美術大学教授▼第7回懸賞小説選考評:雑駁な感じ→一応の水準作の多い内容/応募は減少し40篇▼映画評:博物館映画で失敗作▼東京大阪ジェット3400円空の旅:新幹線族の増加に伴う乗客激減受け実施▼サルトル氏・ボーボワール氏講演▼座談会:総長「楽友会館より大きい京大会館を考えている」/教員「周年事業は非民主的な運営、白紙還元して再検討せよ」/学生「学生生活は豊かにならぬ」 広告▼日本IBMタイアップ記事▼兵庫県自動車学校▼博報堂:会社訪問歓迎、但し男子

▼本紙に対する意見に答えて(1966年7月25日号)
読者アンケートで、難解、観念的、自己満足、学生運動・政治問題が多すぎる、投書欄を拡充せよ、一部の左翼の機関紙化、中立で公正であれ、誤植が多い、アンケートの選択肢が少ない、値段が高い、無料配布せよ、などの意見が見られた。

→「中立」が編集員主体の排除を意味するならば、現実問題の取捨選択は不可能であり、我々は思索者としての意味を失う。我々は学生であり人間であることを確認し、編集会議での討論によって個々の編集員の問題意識の深め合いの中から新聞編集している。事実の見誤りがあれば投書で指摘してほしい。

→「学生運動が多すぎる」は、学生団体の活動としてはやむを得ない。しかし、読者との対話をなくすことはしない。

総長らを集めた座談会
1966年11月14日号



1967年


新聞社▼購読:年550円/発行部数2万▼卒業者名録刊行 時事▼市電市バス値上案否決:市長は日共と絶縁▼学園評論:赤松判決を考える→「不法侵入」罪の危険性▼アンチサラリーマン族へ:記者、広告マン、プログラマーの紹介 教育研究▼コンピュータの創る未来像:日本IBM学生懸賞論文1位作→コンピュータ=創造能力の付加は不可能に近いが、有効な補助手段となりうる 大学運営▼全学連に破防法適用か、学生断固粉砕の構え▼「大阪市大は左翼偏向」:自民党市議団が声明、学生は抗議→「アカの教育をする大学に市が助成するのは筋が通らぬ」▼5・25京大警官侵入事件公判へ:起訴された藤枝君公判、長期的展望を予見し大衆闘争の方向追求を▼自衛隊が深夜に演習:水産学科が抗議▼国立大授業料値上げ▼理学部化学教室70周年記念事業:産学協同を露骨に表す▼70周年事業・同学会・院協が不協力訴え:財界の予算使うのは学問の自由の侵害▼合格者発表、昨年より遅れそう:受験生増加で採点が間に合わない▼西部食堂で拡張工事:雑貨店売場増設、営業延長も▼生協総代、1回生から活発な意見:「政治闘争の大衆化を図れ」/食器不足や食券売り場の非能率の指摘も▼科研費総額40億円:西独の7千億円と比べて少額▼本紙学長会見・捜索は事案に応じて:大管法に代わる自己規制進化か▼関学大、授業料値上げ 学生▼文1回生・山崎君虐殺さる:10月8日羽田で機動隊と衝突中/断固たる行動を展開せよ/追悼に3千人参列▼こくばん:産業新聞は10・8参加学生を「暴徒」と表現→本紙のようなミニコミ新聞の存在価値の大きさを痛感▼10・21に反戦の大波・全国で100万人が参加▼11・12羽田闘争報告→自ら流した血を洗うことこそ我々に残された任務▼原空母反対で府学連、再建全学連初の闘争へ▼府学連カンパ活動に府警干渉:学生、市民が抗議し撃退▼ベトナム・砂川に団結強化:関西学生3千人デモ▼沖縄高校生座談会「沖縄のこころ」:ジェット機の爆音で目を覚ます/大声しか通じない▼学園短信:都立大、西南学院▼群馬大「はだか祭」→新入寮生がパンツ一枚で踊り街頭にくり出す▼スポットライト:新文学部委員長→ベレー帽にネクタイ、秘められた学生運動への情熱は並々ならぬもの▼東大戦・ラグビー逆転勝▼学園の眼:全国の学生生協書籍部で万引きが多発。京大では1月で23万円の被害▼複眼時評(教員寄稿):学部によって答案の熱心さに差がある▼自衛官公演に抗議集会:300人の学生が結集▼学園評論:行動する自治会再建を→全学共闘会議が「行動を起こし続け得る」期待で結成、自治会空洞化阻止へ▼本社全学世論調査→1500人に配布、896人回収▼探検部、24時間「海底生活」実験成功▼留年の調査結果:クラブが理由の第一→文部省が京大生約2500人調査 文化▼京大写真部、創立30周年写真展▼同志社大映画祭を観て▼演劇映画連盟結成▼談話:大島渚の映画観▼書評『ロシア経済思想史の研究』:東大院生寄稿▼劇評:『奇想天外神聖喜歌劇』→ちっとも奇想天外ではない/『汚れた手』名演だが方向が間違っていないか▼「仲間意識」決別を:京大演劇界の危機→全く愚劣な舞台構築と批判精神で悪循環(※翌年の紙面に反論投稿:「観客はもっと利口だ」) 広告▼日本ビクター卓上型ステレオ:80分音楽を聴ける▼親学会『京大を受ける人のために』▼三菱電機「あなたをゆたかにします」/大日本印刷「日本の文化とともに躍進をつづける」▼西友ストア全面広告▼早稲田大学新聞縮刷版▼花王、河合塾、トヨタ千ドルカー35・9万円、京都レンタカー

全学スト・総長団交
1967年7月3日号



1968年


新聞社▼抗議声明:民青系学生による立命大新聞での破壊活動糾弾▼新幹事→主幹・編集長・編集担当幹事・業務会計担当幹事▼新編集員募集→新1回生はもとより在学中の学生諸君も期待の応募を期待▼映画界への招待:京大西部講堂で映画会を開く→入場無料▼第9回懸賞小説・最終選考評→例年になく高い水準:入選作2編 時事▼IBM社インタビュー:徹底する個人の尊重▼ルポ:サバンナの長征▼ルポ:韓国→特需という大義、現実は人命貿易▼動揺するチェコスロバキア▼学園評論:反政府闘争という個別闘争の中から国際性を引き出し戦争阻止へ▼原空母寄港に怒り:佐世保で5万人決起→機動隊と衝突、学生50人逮捕▼成田新空港ボーリング調査:全学連が阻止へ▼米軍車輸送拒否問題で騒乱罪▼反戦労働者寄稿▼返還拒否の会生まれる:羽田闘争参加を理由とする奨学金打ち切りに抗議 教育研究▼たん白質合成に成功▼電子計算機完成 大学運営▼入学式学長告示「学生との話し合いを」▼学長、府警に抗議:覆面パト侵入▼機動隊学内に導入:学生5人逮捕→登録医制粉砕ストの医学部に機動隊300人▼教養部廃止の動き:挙党一致の学生運動対策▼日大、千名の角材ヘルメット部隊/東京教育大:筑波移転に反対し本部封鎖▼機動隊導入も辞せず:東大総長声明▼東大ストで機動隊導入▼九大、米軍機墜落めぐり学内衝突▼神戸大寮闘争:本部事務封鎖へ▼日大に機動隊→全理事退陣▼東洋大に機動隊▼本紙学長会見:機動隊導入→大学の態度は不変/奨学金問題、学生部長の回答知らぬ▼生協食堂値上げ:ライス30円に▼西部取り壊し始まる:体育館建設へ 学生▼5・25事件、藤枝君に罰金1万円▼本紙ルポ「にっぽんの断層地帯」を見て、NHKがバンドユニオンを取材▼七大戦日程決まる▼ルポ:中大授業料闘争→闘いの主体はクラス・サークル連合を核として結集した様々な層の部隊▼阪大教養部自治会:学生部本館を占拠▼神戸大教養無期限スト:大衆団交を要求▼学園評論:エンプラ闘争総括→「暴力性」を貫くことで高揚を切り開いたことは大きく評価しなければ/政府が破防法攻撃を仕掛けてくれば、すぐにも反撃を▼東大・学園封鎖バリケードへ:学園闘争に戦術転換 文化▼映画評:2001年宇宙の旅→宇宙基地がつくられる話▼特集:そぞろあるき→5頁で構内・近辺写真特集 広告▼カネボウ懸賞、特賞は車▼京極東宝劇場:紙面の端に学生割引券▼日本航空海外短期留学「ジャルパック」欧州22日間46万円▼阪神百貨店「常にユニークでありたい」/住友金属「永遠の企業」▼毎日新聞「紙面がもっとも意欲的という評価を受けている」▼日本合成ゴム全面

▼学園評論(社説):学生新聞と学園新聞(1968年4月15日号)
幹事交代にあたって方針を次のように位置付ける。第一には学生新聞という側面⇒学生の全状況、政治・文化・学問の領域に積極的に参加してゆく。第二には学園新聞という側面⇒一貫して学内唯一のマス・メディアとして機能してきた。今後もその機能を追求する。(中略)大学本来の目的である学問研究と、その場の保証としての大学機構を変革する主体を京大新聞自ら作りあげてゆかなければならない。

風景写真と企業広告
1968年4月29日号



1969年


新聞社▼学園評論:70年を視座に総体的活動を/68年度の批判的な総括→根底的な状況を十分把握できず、豊富なテーマの準備もできず▼京大闘争への意見・資料を募集 時事▼10・21闘争、官憲未曽有の厳戒体制→都内各所でゲリラ闘争:1200余名の逮捕者▼学園評論:大衆の危機意識とファシズム▼人文研の研究室に捜索:訪米阻止の事前弾圧 教育研究▼東南ア研の研究費、フォード財団が打ち切り:学園闘争により今後の研究が円滑に行われそうもないと判断された▼4教官がレポート試験に糾弾声明▼催涙液の医学的実験進む→精神異常おこす毒性▼大型電算センター、本学で完成 大学運営▼京大など振分け入試を拒否:東大入試中止受け▼立命大で本部封鎖:民青系は解除要求▼関学、機動隊導入して入試強行:全共闘、激しく抵抗▼京都府警、紛争解決に役立つ場合は大学の要請にかかわらず機動隊出動判断へ▼ドキュメント狂気の3日間:学生部封鎖の根源▼京大入試、試験場探しで難航▼学内へ機動隊乱入:東一条にバリケードで対抗▼大学当局、卒業式を中止▼大学当局、事態収拾を計る:教養闘争委、授業再開中止を要求▼岡大に機動隊乱入:激闘、警官死亡▼4・28を前に予備弾圧:中大、早大、法大に機動隊▼新文部次官通達:警察の判断で学内出動へ▼文相「国立大学特別処置法」閣議で了承:紛争大学の予算カット▼大学立法に抗し教養闘争委、バリケード構築へ▼学内に再び機動隊:全共闘の全学封鎖に▼大学法発効日、広島大に機動隊→全共闘は徹底抗戦▼阪大にも機動隊:全闘委と封鎖阻止派が衝突▼滋賀大・教育本館封鎖:全学部集会を要求▼中大・駒沢大に機動隊▼法学部試験レポートに→法共闘は白紙撤回要求▼工学部院入試強行へ:試験場も秘密▼京大闘争・収拾策動への反撃開始→当局機動隊導入を決意か▼慶大がロックアウト:機動隊乱入で53人不当逮捕▼70周年寄付金17億円据え置き→紛争収まるまで延期▼大阪市大封鎖解除:塔屋上で徹底抗戦▼東大文、封鎖解除から授業再開へ▼早大で授業始まる:正門に機動隊▼文部省正式見解:高校生の政治活動を禁止する▼北大も封鎖全面解除:徹底抗戦で逮捕30人超▼阪大に機動隊導入:正常化の流れ▼文部省、入試強行を決意▼岡大、機動隊駐留で授業強行▼各大学で入試強行▼医学部授業再開:機動隊の制圧下で 学生▼寮闘委、団交決裂で学生部封鎖:民青系学生が妨害▼死守むなしく安田講堂強権的に解除:東大当局機動隊を導入▼学生部封鎖解除される→大学当局、五者と共謀:丸太、放水など暴力を行使▼各学部、順次無期限ストに突入▼学生生活委員長ハンスト:バリケードの自主撤去を求めて▼全共闘、本部時計台を封鎖:民青行動隊と武装衝突▼受験とは何か:バリケードの中からの告発▼時計台封鎖、暴力的に解除される▼全共闘、入学式を実力で阻止す▼名大教養部スト実委、本部建物を封鎖▼同大全共闘、今出川学舎を封鎖▼阪大工学部がスト:全闘委、学生部を再封鎖▼月2万4千円の生活費:学生部、生活実態調査▼レポート試験闘争・白紙撤回勝ち取れず▼農学部、スト解除案を圧倒的否決:無期限スト継続▼探検部、ボックスを自主封鎖▼ルポ東大裁判:統一被告団結成▼全共闘・工学部院入試を粉砕▼時計台封鎖全面解除▼機動隊導入に抗議続出:増大する教官内部の分裂▼学園評論:巨大な闘いを準備せよ▼授業再開に反撃開始:全共闘総決起▼学園評論:市民社会末端にまでの波及力を▼府警、一斉に捜索▼工学部、スト継続を確認▼反逆する高校生:大学闘争を受け継ぎ高校生の闘争が全国に広がる▼11月祭細々と▼工学部でスト解除決定:学生大会で民青系提案 文化▼独立プロ映画の現在:自主制作上映運動の登場▼収束期に入った独立プロの壁▼投稿・酒さまざま:どぶろくは民衆の酒/朝鮮の家庭の中から生まれる▼書評:葬送の倫理 広告▼1418号で9頁が求人広告で埋まるなど引き続き出稿多数

何度も機動隊が入構
1969年5月26日号



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