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【連載第六回】京大新聞の百年 ヘルメットかぶり、カメラとペン持ち全国の闘争へ

2024.02.16

【連載第六回】京大新聞の百年 ヘルメットかぶり、カメラとペン持ち全国の闘争へ

国会デモの様子をつづったルポ記事(1960年6月20日号)

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第六回。時系列で振り返る「通史」は、1960年から70年ごろまでを扱う。なお、内容は1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から記事を書き留める「拾い読み」は、1958年から63年までを掲載する。また、当時在籍した卒業生への聞き取りも実施した。連載を通して社会背景や編集部の理念を顧みることで今後の紙面づくりに活かしつつ、各方面の歴史考察への寄与を期待する。(編集部)

目次

通史⑤ 安保闘争から京大闘争へ(1960〜1970)
「大学と社会との接点網羅」 企画展示で本紙紙面活用 京大大学文書館 渡辺恭彦助教
聞き取り② 「闘争」時代の京大新聞 1960年代在籍者に聞く
「新しい文化活動に敏感に」 東大教養学部新聞での経験 放送大学名誉教授 柏倉康夫
拾い読み⑥ 社説やルポで社会問題斬る 多彩な求人広告が下支え

通史⑤ 安保闘争から京大闘争へ(1960〜1970)


デモで死者、悲痛な紙面


1960年は「安保」の年となった。岸信介内閣は、講和条約と同時に締結された日米安全保障条約について、対等性や双務性の強化を掲げてその改定を図った。しかし、日米の共同防衛や核搭載船の寄港をめぐる懸念から大規模な反対運動が巻き起こった。5月に自民党が強行採決に踏み切ると、内閣退陣を求める数十万人規模の抗議デモが国会を取り巻く事態に発展した。京大新聞では、同年春から関連の話題が毎号トップ記事を独占し、教員や学生らの反対表明が紙面に並んだ。

条約の自然承認となる前日の6月19日夜には、全日本学生自治会総連合(全学連)の学生が国会内に突入して警官隊と衝突。その最中に東大生・樺美智子が命を落とした。京大新聞はデモに参加した学生のルポを6月20日号に掲載。「警棒と鉄カブトの渦」という見出しで、「力いっぱい振り下ろされる警棒が(中略)学生の肩や首にくい込む」などと生々しい言葉が並ぶ。翌号の編集員による報告記事にも苦しい胸の内があらわれている。

「『死』という最終の事態が学生の心をゆさぶってひろがった」

「この死は、(中略)沈鬱な、また力感をともなった声で、速やかに伝わらねばならぬ」

改定成立と引き換えに岸政権は退陣。代わって発足した池田勇人内閣は、「所得倍増」のかけ声で経済政策を展開した。想定を上回るペースの経済成長が生まれ、耐久消費財の普及率が急上昇したほか、レジャーブームといった言葉が定着し、国民の多数が「中流」を自覚するようになった。人手不足が省力化技術への設備投資を後押しし、経済成長が加速した反面、鉱業所での労使紛争や農山村からの労働力流出など、ひずみもみられた。国外情勢への懸念もあるなか、1964年には東京で五輪を開催。同年に開通した新幹線の勢いに乗り、日本は経済大国の道を走りはじめる。

経済の活気は京大新聞にも反映され、東大の学生が立ち上げた広告代理店(現・リクルート)から得た多数の求人広告が紙面に並んだ。

処分覚悟でスト提起の社説


創刊千号の記念行事が一段落したころ、京大新聞の存亡に影響しかねない状況が訪れた。全学連が60年4月26日を安保改定の国会審議の山場と位置づけ、阻止に向けた統一行動日として全大学にストライキを呼びかけた。京大同学会は呼びかけに応じてスト準備に入った。一方、大学当局は1950年のレッド・パージ闘争の際に出したスト禁止の告示を念頭に、処分を辞さない構えで学生を牽制した。当日の集会申請は不許可となり、スト呼びかけの看板は即撤去されるという情勢だった。京大新聞は、処分を覚悟で「全学スト」を呼びかけるかどうか、選択の岐路に立たされた。

主幹の藤田と編集長の小坂は学生部に呼ばれた。芦田譲治学生部長から、「伝統ある京都大学新聞を危機に陥らせる」としてスト呼びかけを避けるよう諭された。京大新聞出身で顧問も務めた芦田からの言葉に困ったふたりは、入山雄一顧問に相談した。入山は「きみたちが正しいと思うことを好きなようにやってください」と言った。新聞社の先輩からは「京大新聞を潰すような社説は書くな」との声も聞かれたという。

編集員の考えは、安保改定反対では一致するものの、社説でストを提起することの是非をめぐってなかなか結論が出ない。しかし、多数決にはよらなかった。激論を闘わせる編集会議を5回重ね、ほぼ全員が納得できる社説ができ、4月18日号に掲載した。その見出しは「ストライキでたとう」。明確なスト提起だった。編集部として制裁も覚悟した。当日は、文学部などの学生大会でストが決議されたほか、大勢の学生らが時計台前を埋めて集会が強行された。

9月12日、京大当局が安保闘争に関する告示を出した。「正常な授業遂行を阻止するなど、ときに行きすぎもあったことはまことに遺憾」と批判しつつ、「民主主義をまもるべく、(中略)行動しようとしたことは理解できる」とし、「混乱せしめるような行動をくりかえしてはならない」と警告するにとどめた。京都大学新聞にも制裁はなかった。

政府への抗議として教職員や学生にスト(授業放棄)を呼びかける社説(1960年4月18日号2面)



大学管理法めぐり紙面で主張


学生運動は安保闘争以降、停滞期に入る。一時的に高揚感が生まれたのが大学管理法反対闘争である。1962年5月、池田首相が選挙演説で「大学教育においても、教育が革命の手段に使われている」と発言したことをきっかけにその内容が公となり、12月に法案化された。

法案の骨子は、学長や評議会などの権限を明確にして大学の管理強化を図るとともに、政府の諮問機関を設けて「著しく不適当」な場合には文部大臣が学長や教官の人事の再考を求めるというものであった。これに対し大学の自治の否定であるとして、学生や教職員、日本学術会議、国立大学協会などが抗議運動を起こした。京大新聞は各層の動きを追いながら、社説で政府案を「絶対に許せない」「徹底的にはねかえしていこう」と記すなど主張を打ち出した。編集部は、学内唯一の報道機関としての客観性を意識しつつ、現実に繰り広げられる学生運動に学生の立場で加わるという微妙なバランスの上に身を置いていたと言える。

大管法反対闘争は62年秋に頂点を迎える。11月1日、安保闘争以来の規模で全国的な統一行動が実施された。さらに京大同学会は、12月8日の国会開会日に合わせた「京大全学閉鎖」を提起し、全学投票を呼びかけた。京大新聞は社説で、「大学が、その自治・学問研究の自由の根幹をゆるがすような政治的意図に直面したときには、自らがその門を閉じてでも(中略)はねのけていかなければならない」と主張した。のちの全共闘運動で日常化する「全学閉鎖」の戦術はこの時点では支持を得ず、目標とされた1万人の投票に届かず挫折した。

63年3月、池田首相は「大学の運営は自主的に適正化されることを強く期待する」として法案の国会提出を取りやめ、大管法闘争は収束に向かった。一方、文部大臣が教官人事に「差し戻し権」を持つとする方針は、法案が消えても認識として残っており、同年1月28日号の京大新聞社説は、「表面上の形式をかえただけで、支配者の意図の実体はもののみごとに貫徹されてしまった」と憂いている。

「層」から「個」へ紙面の変質


1963年1月、アメリカが原子力潜水艦の寄港を日本に申し入れ、翌年8月には政府が原則同意した。戦争協力を危惧する抗議運動が広がり、学生運動も勢いを持った。一方、夏休みに入ると、京都府学連などが、安保闘争の挫折により分裂していた全学連の再建を画策したものの失敗。9月には、京都府学連の一翼となっていた共産党系学生組織が分裂した。さらに、市電・市バスの値上げ審議中だった京都市議会場に府学連の学生約30名が乱入し、全員告訴されるという事件が起きた。

こうした情勢は京大新聞の紙面に反映された。編集部は学生運動の現状分析に着手し、64年4月13日号の巻頭評論で、「学生運動はその政治性の喪失のゆえに(中略)再出発を問われている」と記した。その後、「憲法の背理を追う」をテーマに紙面づくりを進め、「戦後文学・思想の転換」 といった論文や15回にわたる「戦後映画史」の連載など、様々な視覚で「戦後」を語った。当時在籍した編集員は、それらの試みは京大新聞の変質を意味すると振り返る。大管法闘争以後の学生運動の混迷にともない、「層」としての大衆運動を報じる「商業新聞の学内版」的なスタイルから転じ、放り出された「個」として編集員自身が問題提起の主体になろうと努めたという。

「学友の死に満身の怒り」


1965年、ベトナム戦争による特需に支えられ、戦後最長の好況とされる「イザナギ景気」が到来した。カラーテレビ、クーラー、乗用車の「新・三種の神器」が急速に普及率を上げ、68年には国民総生産(GNP)が西側諸国2位となった。一方、四大公害訴訟が提起されるなど、経済成長の反面で公害対策や自然保護のあり方が問われた。

67年になると、学生運動が再び高揚をみせる。ベトナム戦争の激化は、高度成長を続ける日本に戦争への姿勢を問う契機となり、学生運動に根拠をもたらした。前年に再建された全学連は67年10月8日、佐藤栄作首相のベトナム訪問の阻止を試みた。全学連を中心とする新左翼(※)系学生らが羽田空港付近で警官隊と衝突し、その渦中で京大生・山崎博昭が犠牲となった。京大新聞は号外を出して「官憲の暴力により虐殺」と報じ、「本紙では、(中略)学友の死に対して満身の怒りをこめて抗議の意思を表明する」と記した。この第一次羽田闘争(10・8闘争)が、ゲバ棒とヘルメット姿で権力にぶつかる学生運動のスタイルの定着につながった。

10・8以降、エンタープライズ号の寄港阻止を訴える佐世保闘争や「王子野戦病院」反対闘争など、学生運動は激動の季節をくぐる。70年5月に迫った日米安保条約の自動延長阻止を射程に入れ、多数の負傷者を出すなど尖鋭化した。京大新聞では、編集員が運動に加わって現地発のルポ記事を載せ、読者への問題提起を続けた。

※新左翼
共産党批判から発生した左翼運動。1950年代後半から学生運動のなかで中核派、革マル派などの党派組織が生まれ、共産党の指導を受ける民青同盟と対立。党派間でも革命理論をめぐって批判を重ね、中核派と革マル派の「内ゲバ」は殺人事件に発展している。

号外(1967年10月9日)



「狂気の3日間」めぐり出版も


1960年代後半は、全国各地の大学で国内外の情勢にくわえて学費値上げなどに端を発する抗議運動が活発化し、学生間の党派対立も相まって実力行使を伴う闘争に発展した。全学共闘会議(全共闘)が組織され、日大全共闘などが機動隊とわたり合った。

69年1月には、東大で安田講堂を封鎖した全共闘と機動隊の攻防が繰り広げられた。同じころ京大では、寮の運営をめぐり大学当局との話し合いが決裂したとして、全寮闘争委員会が学生部を占拠し建物封鎖を実行した。これに対し、「五者連絡会議(同学会・職組・院生協議会・生協・生協労組)」は実力による封鎖解除を主張。封鎖を支持する学生らが正門前に詰めかけると、「五者」の学生らが看板などでバリケードを築いて立ちはだかった。突入を試みる封鎖支持派に対し、大学当局からヘルメットを支給された学生らが放水で応じるなど、衝突は3日間にわたり続いた。京大新聞は1面トップで報じるとともに「ドキュメント『狂気の3日間』」と題した特集を組み、「大学が潜在的にもつ矛盾の暴露」の解析を試みた。

孤立した寮闘委が白旗を揚げて封鎖は解かれたものの、大学当局による実力行使の黙認が波紋を広げ、学内で大規模な衝突が相次ぐことになる。寮や各学部の学生が全学闘争委員会を組織し、総長と団体交渉を実施。「逆封鎖」への自己批判や総長の辞任など8項目を要求した。押し問答が延々続き、開始から53時間後に決裂した。教養部や文、医、工など各学部で学生大会の議決をもって無期限ストライキに突入、「闘争」は全学的な広がりを見せた。3月には入試中止による「学園民主化」を訴える動きが起き、当局が試験会場を学外に移す事態に至った。

関わった学生の問題意識は様々で、党派の理論にもとづき政治拠点づくりを図る者、文部省による管理強化を批判する者、自治を掲げながら政府や産業社会の意向に従っているとして大学当局を追及する者、教授中心の旧来の学部運営を疑問視する者などが入り組む状態となった。さらには国内外の政治問題とも結びつき、「学園闘争から70年安保闘争へ」というスローガンが叫ばれた。

この時期の京大新聞の構成員は、各学部闘争委員会の担い手でもあった。紙面を通して全学に発信し、「闘争の徹底化に努めるべき」とする社説を載せるなど連帯を呼びかけたほか、全国各地の運動の現況も伝えた。ルポや特集で検証に取り組み、〈関西学生運動の新たな発展は可能か〉〈特集:東大裁判〉など直接の記録のほか、〈ドイツ革命の敗北と70年安保〉のような革命論、〈日本帝国主義と部落問題〉〈反大学講座―朝鮮問題〉といった大局的な視点の記事も掲載している。6月には京大闘争の記録を収めた『ドキュメント・京大闘争』を出版した。

1959年7月14日号2面の特集タイトル



69年6月刊行『京大闘争』(三一書房)



時計台封鎖、くすぶる「京大闘争」


1969年8月、大学臨時措置法が成立した。「紛争の解決が困難」と認められる場合に文部大臣が学部などの機能を停止できるとする内容で、これを機に各大学は「自主的」な解決を図るべく機動隊の導入による「正常化」を進めた。

京大では、各学部の建物で抗議のバリケードが築かれたり授業が延期されたりと緊張が続くなか、9月に学生が本部時計台を占拠・封鎖したほか、百万遍から東一条に至る街頭バリケード闘争などが展開された。長引く異常事態に対し、大学当局は警察導入に踏み切った。約2千名の機動隊が突入し、抗戦する学生らに放水や催涙弾で迫り、封鎖解除に至った。

各闘争委員会は多くの消耗者を出した。それでも完全な沈静化には至らず、各学部で浮上する諸問題に対し、学生らはストライキや建物封鎖をもってたびたび抗議の声をあげ、不安定な学内情勢が続いた。学生運動の領域は学外に広がり、安保・沖縄闘争を軸に三里塚や反公害の地域運動などとも結びついた。

京大新聞の編集員は、朝は立看板を出してビラをまき、夜は会議に原稿執筆、看板づくりという生活を送った。各地での闘争を追い、ヘルメットをかぶってカメラをぶらさげ東奔西走した。こうして得たニュースや論説のほか、「入管をめぐる諸問題」「報告レッド・パージ」「沖縄現地報告」などの特集が並んだ。

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「大学と社会との接点網羅」 企画展示で本紙紙面活用 京大大学文書館 渡辺恭彦助教


京都大学大学文書館が開催する企画展では、本紙紙面の写真が展示資料としてたびたび登場している(最新の展示は百周年時計台記念館にて3月31日まで)。大学の歴史を顧みる営みにおいて、本紙はどのような特徴を持つのか。展示を担当した渡辺恭彦助教に尋ねた。

▼渡辺助教
これまで文書館の企画展示を3回担当した。1回目が「京大図書館の起源―知の集積地として―」、2回目が「1969年再考」、そして今回開催しているのが「京大生の文化活動―1950年代を中心に―」である。1回目は大学創設期からはじめて、やや幅の広い年代を対象とし、2回目、3回目は年代を限定しつつ企画を構成した。企画を作り上げていくなかで、『京都大学新聞』は大きな助けとなった。毎号、学内の動きや学生生活、教官や学生へのアンケート、時代によっては急進的な学生運動等をとりあげた密度の高い紙面が構成されている。学内の出来事や学生気質を中心に、大学と社会との接点がかなりの程度網羅されているのではないだろうか。取材力と筆力には、恐るべしといった感がある。

教官が多少くだけたスタイルでコラムを書いていたりするのも、妙味の一つだ。後に書籍に収められる論説が掲載されているだけではなく、同新聞のみに書かれたものも多いと思われるので、史料的にも貴重な価値があるといえよう。

文書館の企画展は主として文書館所蔵資料を展示するため、まずは資料をもとに考えるのだが、重要な出来事であっても資料を所蔵していないことがままある。そこで頼みの綱となるのが、『京都大学新聞』である。

今回、京大生の祭りというテーマのなかで、河上肇の業績を記念する河上祭の資料を展示している。祭が始まったいきさつを調べようとしたところ、所蔵資料数点からはいっこうに分からない。そこで『京都大学新聞』のページを繰ることになる。河上祭が行われたのは周忌の1月末で、2月の号を見ると、1947年以来、ほぼ毎年掲載されていることを確認できる。1960年の第14回からは、新入生を迎える4月下旬に行われるようになった。

そのほか、今回の展示に関して言えば、1951年7月14日に京都丸物百貨店で行われた綜合原爆展や1954年6月18日の京大創立記念祭で行われた水爆展が大きく取り上げられており、新聞社としても社会問題への意識が高まっていたことを窺うことができる。

1969年を扱った際には、バリサイ、反大学、ティーチイン、自主講座などの学生たちが主催した試みをはじめ、教官たちの学問論や大学論が紙面を埋め尽くしており、時間を忘れて読みふけってしまうこともしばしばあった。全共闘支持を表明し、学生のあいだでカリスマ的な人気を誇った高橋和巳(中国文学)が1969年2月8日に行った講演も、すぐに『京都大学新聞』に掲載されている(後に、京都大学新聞社編『京大闘争―京大神話の崩壊』三一書房、1969年に所収)。大学や体制に批判的な文章が多く載せられているのを見ると、はたからみてもはらはらしてしまう。ペンの力を信じた気骨ある精神に、ただただ感服する次第だ。

その時代を一望できるような気がして、まとまった年数を製本刊行した縮刷版を愛用してきたが、このほど、創刊号から2000年までの大部分を京都大学学術情報リポジトリ紅で閲覧することができると知った。同時代と並走する新聞社にさらなる期待が高まる。創刊百周年へ向けた「京大新聞の百年」の連載も楽しく読ませていただきたいと思う。

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聞き取り② 「闘争」時代の京大新聞 1960年代在籍者に聞く


60年代の京大新聞を知る8名に話を聞くことができた。各地で学生運動が盛んな情勢で、何を意識して紙面づくりに取り組んだのか。通史では拾いきれない一人ひとりの思い出を、級友との会話を通して回想してもらった。以下、東京と大阪で実施した聞き取りおよびメール取材の内容を掲載する。(聞き手 村・史)

⑴東京の4人のやりとり


左奥が片岡優さん(1964-68)、左手前が国吉澄夫さん(1967-71)、右奥が枚田繁さん(1968-74)、右手前が吉澤潔さん(1968-73)=1月27日、京大東京オフィスにて



重労働で「裏側」学ぶ

―入社の動機は。

片岡 同学会作成の冊子『樹々の緑』に紹介が載っていて、中高で新聞の経験があったから興味を持った。「薄給進呈」と書いてあったのも魅力的で。

国吉 私も中高で新聞の委員。高2のときには地元地区の高校新聞連盟の委員長も務めた。大学入学後、友人に誘われて新聞社に入った。抵抗はなかったけど、高校新聞よりも政治色があるというのは後で分かった。新人が入ると先輩の間であそこの党派らしいといったうわさが回ったと聞く。でも特定の政治団体に肩入れする組織ではない。

枚田 大学に入るとクラスに高校のころから闘争をやっている連中がいた。話を聞いてもわからなくて、中立的に見たいと思って学生新聞の扉を叩いた。

吉澤 浪人時代に10・8羽田闘争をテレビで見た。それがきっかけで、志望校を体制派的な東大から京大に変えた。ときどき遊びに行っていた同志社で京大新聞が配られていた。入社後、学生の逮捕を身近に感じる機会があって、「そういうこともあるところなんだな」と思った。それから任されたのは、代理店「リクルート」の大阪支社で広告を受け取って印刷所へ持っていく仕事。重たい凸版を運ぶ。20キロ以上あったかな。

片岡 原稿を印刷所に届けたり新聞を販売スタンドに置いたりするのも新人の仕事。それと、今は封筒に入れて新聞を送るけど、当時は紙の帯を直接巻いて送った。その作業を頼む「折り屋さん」へ、重い新聞をタクシーで運ぶのも1回生だった。

―1回生は記事を書かない?

片岡 書くけど、上回生の方が多い。優先権とかはない。

吉澤 当時はテレビドラマ『事件記者』が流行っていたけど、そういう記者像とは違う裏の部分の仕事を知れたのはよかった。

片岡 組み方とか、文章以外のことも先輩から教わった。

国吉 毎週とても大変だった。

片岡 印刷所に行く電車で社説の原稿を仕上げることもあった。

吉澤 週刊の学生新聞は珍しい。

枚田 印刷所からしてもいいお得意様だったな。

吉澤 印刷所の職人技はすごかったね。

枚田 でこぼこした活字という物体を一文字ずつ並べていく。

吉澤 15字詰めで横長の「棒打ち」の部分と、コラムで使う「箱組み」を組み合わせていく。

枚田 あとは鉛板。大きい見出しは板に焼き付けて形を取る。

―鉛板はその1回限り?

枚田そう。一度使ったら溶かす。

「取材」で羽田闘争へ

片岡 新入生にアンケートを取ったり、学生や教員の座談会、就職情報を載せたりと、読者に興味をもたれるような企画を意識した。ニュースは、当時各地で事件や集会が多くて、実際に現場に行って記事を書いた。殴り合いの場もあった。

国吉 私は最初の大きな取材が10・8だった。夜行列車に乗って東京へ。取材だけど、集団と一緒になって羽田空港まで走って、機動隊に押し返されて。

―取材はひとり?

国吉 先輩も行って記事を書いていた。でもあれ以降みんな機動隊に震え上がって。取材に行きたがらない人が増えた。

吉澤 10・8の経験から運動全体で武装が強まった。

社内で意見対立も

―編集会議の雰囲気は。

国吉 週のテーマを決めたね。

片岡 司会は編集長。発行直後の紙面の批判をみんなでする。見出しのつけ方がおかしいとか。その後、学内のできごとや人事、自治会の集会日程を確認。決めたテーマに沿って、書きたい人は手を挙げるけど、幹事の3回生が下級生に「あなたこれ」と振る場合もある。

国吉 入ったときはみなさんの議論に面食らったね。

片岡 我々の世代も喧々諤々、いろいろな意見が出た。

国吉 私のころは京大闘争の収束の時期で、京大新聞として総括をしようと激しい議論になった。一方で韓国の問題を熱心に取材する編集員もいて、主幹が「今は学園闘争の総括だ。アジアなんか放っておけ」と叱責したり。僕は編集長として広く取材をやっていく方針で、結局消耗して編集部を離れてしまった。

片岡 学園闘争については各人で評価が違う。新聞社の中で対立もあった。党派の主張を編集会議で述べる人がいて、厳しい言葉が飛ぶこともあった。そういう状況で一本の主張を出すとなると、なかなか収まらない。

国吉 セクトは全共闘が退潮すると出てくる。セクトどうしの争いが激しくなると内ゲバが起きたりする。京大新聞として、いかに客観的に全体を見て方向を示すか。そういう議論をしたいと思っても、党派の意見を言う人もいてバチバチの議論に。

吉澤 内ゲバでセクトの力が弱くなって、京大新聞としても民族差別問題などなどの他の大きなテーマを扱おうという流れになった。同学会の存在感も弱くなって、事実上、京大新聞が全体の事務局だった。編集会議で、「記事がないから何か一発やろうか」と冗談を言うほどだった。

入試は稼ぎ時、でも「粉砕」

枚田 69年9月の時計台闘争で京大の全共闘運動はバラけて、サークル棟が空になった。流れとして69年で切れる話ではない。

吉澤 受験指導をする親学会が持続不能になって、『京大を受ける人のために』の刊行を我々が引き継いだ。

枚田 もともと京大新聞が始めて親学会に譲った。改めて引き受けた後、社の「利権」をめぐって大手予備校とやりとりした。

吉澤 毎週のように名古屋まで行ったね。京大新聞は入試問題が一番早く手に入るし、そういう利権をいかして儲けられるように、問題解答集を速報で出したい予備校側と交渉した。合格者名簿も利権で、合格電報(※49年に京大新聞社が始めたサービス)はドル箱。その申し込み受付は入試当日にやるしかないから、当時起こっていた「入試粉砕闘争」には、それを気にしながら関わった。

片岡 受験関連や学術系の出版、合否通知などの事業は、京大新聞社発で今に至っている。

全国の学生を意識

吉澤 70年ごろの京大新聞は、他の大学新聞が弱るなか、東京の救援連絡センター(69年設立)に毎号千部以上送っていた。

枚田 運動で逮捕された学生らを支援する組織。

吉澤 何千人規模の拘置者がいた。編集部として、京大ではなくて全国の学生の新聞だと意識するようになった。一面に京大の話題は出すなと言われるほど。大きな編集方針の変更と言えるかも。他の党派の新聞は差し入れしてもはじかれるけど、うちは国立大学の公認団体だから大丈夫。「あのころ京大新聞を読んでいた」としばしば言われる。いいことをしたなと思う。

⑵大阪の3人のやりとり


右から荻原征三郎さん(1961-65)、岡田盾夫さん(1962-70)、垣口弥生子さん(1968-73)=※2月12日、大阪市内会議室にて



闘争委の一員として

―入社の動機は。

荻原 理系志望だったけど、物理がダメで文系に。教師かマスコミしかないと考えて編集員の2次募集を受けた。月500円給料が出たのもよくて。

―応募は多くなかった?

荻原 枠が6人で、応募多数なら選考、足りなければ2次募集。

岡田 私は工学部で、文系のものがおもしろそうで入社。紛争のせいで博士課程中退。女性編集員はずっといなかったのかな。

垣口 前にもいたと聞いた。私は中高ずっと運動部。大学では美術部にと思っていた。ところが、新入生歓迎の催しで京大新聞の人に話しかけられた。「君らは70年安保を担う世代だ」と檄を飛ばされて、戸惑いながらも入社した。面接はなかった。

―入ってみて雰囲気は。

荻原 おもしろかったけど、入ったころは会議なんて初めてで、どうでもいいことをぐだぐだやっているなと。夜中まで続いてトボトボ帰った。それが毎週。週刊は誇るべきことだけど、だんだん授業に出なくなった。

―会議の参加人数は。

荻原 3回生まで全員参加。暇な4回生も。狭い部屋に約20人。

垣口 私のころは15、6人かな。

荻原 僕の年から宇治分校が廃止されて最初から吉田にいた。1年上の先輩は、宇治から毎週輪番でひとり吉田に来て会議に出て、他は不参加だった。1回生から会議に出ていた僕らは、2回生を少し馬鹿にしていたね。

―何を話し合った。

荻原 寄稿を誰に依頼するとか。

垣口 どんなネタを扱うか、コラムを誰が書くか。なかなか決まらなくて、論破した人が書く。

―揉めることもあった。

荻原 一本の軸として編集長のイデオロギーがあって、僕らノンポリが「おかしい」と茶々を入れて、反論され、という流れ。セクトの影響は感じたけど、政治ばかりやるのが学生新聞ではないという発想もあった。バランスをどうとるか、全体として迷いながら編集方針を議論した。

垣口 初めのころ新聞の部室にあまり行かなかった。クラス討議のほうが政治的で大変で。東大や日大から全国で学園闘争が起こって、京大でもやるぞという雰囲気だった。1回生の秋までは教室で勉強していたけど、以降はバリケード封鎖で授業がなくなる。69年1月、学生部封鎖が始まったころ私は教養部闘争委員会にいた。学部の教室にほぼ入ったことがない状態で、授業が再開されても、ほぼレポートでの単位認定だった。京大新聞の取材に加わるようになったのは、この年9月の全共闘結成大会あたり。

岡田 私のように院に進んだ者がぞろぞろ闘争に参加した。一度下火になったけど呼び戻される感覚。嫌だなと思いつつ。

荻原 僕らの4年間は、大管法とかはあったけど、前後と比べれば無風状態。たまにあったデモで機動隊を見ると怖かった。

岡田 大管法闘争のころは、理屈をこねて闘うものを見出して運動が展開されていた印象。僕らは冷ややかに捉えていた。

荻原 闘争に精を出す連中の間で僕はのどかな記事を書いた。ハスの花の写真を撮ってきたり。

リクルートの進出

荻原 62年ごろからリクルートが関西に進出してきて、もともと付き合いで広告を出してくれていた企業との間にも入るようになった。マージンを引かれるから、直接出稿よりこちらの取り分が減る。収入に響くということで、リクルートの江副(浩正・東大在学中に創業)とすったもんだした。でも向こうはプロ。簡単に論破された。

―収入減にどう対応した。

荻原 僕は64年に会計担当になって、最初はやりくりしたけど、秋には金欠に。入山(雄一・顧問)さんの個人的な負債として10万円を銀行から借りて踏みとどまって、合格電報でお金が入る3月までしのいだ。そのころ編集員の給料は廃止した。

垣口 私のころ給料はなかった。

―入山さんとの関わりは。

荻原 週に1回ほど来られる。幹事団が出がらしのお茶で迎えると、ニコニコして「君たちと会うのが楽しみ」とおっしゃる。戦前は入山さんが責任者。大変な功績のある方。

垣口 私は入山邸で新聞縮刷版の発送作業に携わった。

海外取材の一方で

垣口 年2回ほど合宿に行って、向こうでも会議をやった。

荻原 週刊の間でよく行けたね。

垣口 合併号にしたと思う。

荻原 郵便局の第三種認可を受けるには3か月で10回発行するとか決まりがあった。ときどき電話がかかってきて確認されるから、小さいタブロイド版も挟みながら発行を重ねた。

岡田 合宿に行けるお金があったんだな。高度成長の最盛期か。

垣口 高度成長期でも文学部の女子学生向けの就職案内は2件くらいしか来ない時代だった。

岡田 私は取材で韓国に行った。アメリカ国務省の招待で東大・一橋大の新聞の記者と一緒に渡米した編集員もいたね。

荻原 僕は三池闘争のルポに行った。自分の未熟さを思い知らされた。

岡田 自分の生き方を絡ませながら、政治や大学に向き合うことで浮上する苦悩をどう表出するか考えるという営みだった。

―紙面を読まれていた実感は。

荻原 ないね。販売ボックスは空になったけど、ほとんどお金は入っていなかった。

垣口 読まれていたと思う。全共闘の取材に行くときは新聞を持っていって現地で配った。

岡田 ニュースは先生方も読んでくれていて、そういう硬い記事をどんどん載せようと考える編集員がいる一方で、僕は学生をどう教化するかを考えていて、そういうものはあまり読まれなかったんじゃないかな。

荻原 遠回しに考え方が違うと言われて原稿を書いてくれなかった先生もいるけど、京大新聞に書くのが楽しみと言ってくれた先生もいた。

いつの時代も変わらない

―現役の編集部に一言。

岡田 よく100年もったなと。101年目がうまくいけば、5年、10年とつながる。我々はノスタルジックに紙媒体が不可欠。若い人たちがどんな展望を持っているのか気になる。

垣口 大学という場で学生たちに向けた媒体として、存在意義はある。世相や課題にどう向き合うかという問いかけはいつの時代も変わらない。

荻原 IT時代をぶったぎってほしいな。

伊東廸之さん(60〜64年)の2月6日付メール回答

入社の動機
母校鳥取東高が間欠ながら連続して社員を輩出しており、迷わずその伝統に従った。

当時の印象的な体験
安保闘争を現場体験した一人として、激しさを増したジグザグデモに対する機動隊による棍棒殴打、放水、身柄拘束などの強烈な弾圧と共に、街頭カンパにより得た資金でオルグ要員として上京し東大学生樺美智子の死から自然承認の夜の徹夜の座り込みまでの一連の記憶は今でも鮮烈である。中でも30万人ともいわれる学生、組合員の人波が議事堂前を埋め尽くした光景は忘れ得ない。

編集部と党派・大学当局との関係性
大学新聞で「社」を冠するのは珍しい。経営の独立の確保という理念が「社」の一文字に込められているという認識を共有していた。当局をはじめとして学内外の干渉を排し独立自由の主張を護るに当たって最も留意されたのが財政の独立で、会社人事や総務部門への直接交渉による広告の独自入手などに取り組んだ。

当時は学内外で激しい党派闘争が繰り広げられていた。その中にあって、あくまで中立不変を貫くことによって一定の信用を得た。その効果は学内外の論客、学内革新系若手教授らの意見発表の場として活用されるなどの形で現出した。

本紙紙面に見る1969年の攻防(学生部「逆封鎖」〜時計台封鎖解除)






上から順に1969年1月27日号、3月3日号、3月10日号、3月17日号、5月26日号(1面と3面)、9月22日号


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「新しい文化活動に敏感に」 東大教養学部新聞での経験 放送大学名誉教授 柏倉康夫


60年代、学生新聞づくりは他大学でも盛んに行われていた。放送大学名誉教授の柏倉康夫氏は、東京大学での学生時代に「東大教養学部新聞」の編集長を務めている。その経験を振り返ってもらった。

* * * * *

入会の動機は。

→高校でフランス語を学ぶ機会があり、大学ではフランス文学・文化の吸収を中心にした生活でした。一方で時代は政治の季節を迎えていました。高校の社会科の担任は「原爆許すまじ」の作曲家の木下航二先生で、皆でよく歌ったものです。入学の翌年の1960年には「日米安全保障条約」の改定があり、全学連などが激しい反対運動を展開していました。こうした社会状況に学生としてどう向き合うかを真剣に考えるために、仲間と議論する機会を得たいと思いました。そして新聞作りで、自らの思考を文章にする機会を得られると考えました。

東大新聞の縮刷版にある卒業生の手記に、「教養学部新聞は、本郷の東大新聞とは独立しながら、やはり兄弟分の関係にあって、何かあると出入りしていた。あの第二食堂の階段を上がって東大新聞のドアに向かうと教養学部の学生は、なんだか一段とおとなの世界に足を踏み入れる思いがしたものである」という記述がある。2年生までという区別があったのか。

→区別はありました。1・2年生で「東大新聞」の部員だった者はいません。私の同期10名のうち2名が「東大新聞」に入り、他は「教養学部新聞」で新聞作りをやめています。

東大新聞との関係性や内容のすみ分けは。

→学内のできごとは本郷と駒場というすみ分けがありましたが、その他はそれぞれが独立した立場を守っており、財政的な点では競合関係にありました。新聞の販売益と広告が主な収入源ですが、広告は競合するものが多く、広告取りには大いなる企業努力が必要でした。私たちは駒場周辺だけでなく本郷の喫茶店や古書店などにも出向いて広告をお願いしたものです。もう一つ大きな財源は、毎年の合格者発表号でした。名簿の掲載は「教養学部新聞」の専売で、普段の数十倍の部数を発行して売り上げました。

運営は学生のみで。

→顧問の先生は一応いましたが、私の在籍中、一度もお目にかかったことはありません。新聞の発行は完全に学生の手に委ねられていました。ただ、東大ほか他大学の著名な先生方に原稿を執筆料なしで書いていただいたことは多々あります。これは学生新聞の特権でした。

編集長の権限は。

→ 「教養学部新聞」は隔週刊行で、記事の内容を統括する「編集長」と財政や庶務をあつかう「総務」を設けていました。会員全員の互選で決まりました。毎号の取材対象、記事の内容に関しては、すべて部員の合議制で決めていました。編集長はこの会議を主宰し、かつ記事の内容、表現に関しての責任を取ることが暗黙の了解事項でした。さらに毎号1面に載せる論説を書くのも編集長の役割でした。

当時の「新聞会」の雰囲気については、60年入学で私の次の編集長になる上村忠男氏(東京外国大学名誉教授)が、『回想の1960年代』(ぷねうま社、2015)で次のように書いています。

「喧々諤々の議論、部室はいつも活気に満ちていた。議論は時として激することもめずらしくなかった。なかでも、ブントに所属していたNが、編集部員の担当する「斜影」という一面下のコラムで、日本共産党の構造改革派の論客の一人として知られる安東仁兵衛の4・26デモ当日の行動を批判する記事を書いたさいには、どうやら共産党内で安東らの構造改革路線に同調する立場をとっているらしいGがクレームをつけ、一座の空気が一瞬凍りついてしまったことがあった。11・27以降顕著になりつつあった全学連内部における主流派と反主流派の対立は、新聞会の部員たちのあいだでの議論にも折りに触れて顔をのぞかせていたのだった。しかし、そんな場合でも編集長のKが仲裁に入って、議論を巧みに収束させていた」

私の編集長時代は、安保闘争を中心とする政治ネタだけでなく、大学の内外で起こっている新しい文化活動にも意識的に目を配ることに努力しました。映画についていえば、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」、「灰とダイヤモンド」などが評判を呼び、東大の「ギリシア研究会」がギリシア悲劇を日本で初めて上演する運動が起っていました。日比谷野外音楽堂での上演初日には、脇の日比谷通りを「安保反対」を叫ぶデモ隊が通っていくといった光景が出現しました。学生新聞はこうした新たな傾向に敏感であるべきだというのが編集方針の一つの柱でした。

販売経路は。

→郵送での定期購読、学内の本部や図書館、教室のある建物の入口に、大学当局の許可を得て無人スタンドを設けました。代金はほぼ販売部数に見合って回収できました。加えて、合格者発表当日や駒場祭などの特別の日は部員総出で立ち売りに励みました。

教養学部の学生の少なくとも半数は「教養学部新聞」を読んでくれていたと思われます。「安保改定」という国の形をゆるがす問題が最高潮に達する時代であり、反対運動の先頭に立つ「全学連」の動向は社会的に大いに注目されていました。それゆえに、「東大新聞」や「東大教養学部新聞」に限らず各大学の新聞記事と主張は、大変注目されていました。

学生時代、京大新聞との接点は。

→残念ながらありませんでした。東京の他大学の新聞とは若干の交流がありました。忘れられないのは東京女子大の新聞会と合同でダンスパーティーを開いたことです。パーティー券は用意した100枚ほどが完売した記憶があります。ただし、わが部員の誰一人ダンスができず、みなが教室の壁を背にして立ちん坊でした。

卒業後、文学部二十世紀学専修の初代教授として京大へ。京大新聞の印象は。

→96年に赴任してから毎号購読し、退任前(02年)にはインタビューも掲載してもらいました。その際に部室を訪ね、あまり活気を感じなかった印象があります。京大には記者クラブも置かれており、こと学術・文化に関しては豊富な情報源が身近にあるはずです。取材の窓口をもっと広げてはどうかと思います。また、SNS全盛の時代に紙媒体が直面している困難に、学生新聞としてどう対応するかを真剣に検討すべきです。

* * * * *

63年、東京大学文学部フランス文学科卒業。NHK解説主幹や京大文学部教授を経て02年から放送大学教授。副学長や附属図書館長を歴任し、現在は同大学名誉教授。文学博士。

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拾い読み⑥ 社説やルポで社会問題斬る 多彩な求人広告が下支え


今回の「拾い読み」では、1958年1月から63年12月までを掲載する。この6年間は、週刊発行で号外3号を含む267号を積み重ねた。原則4頁で、増減することもあった。各地での闘争に関する話題のほか、映画や文学、芸術の記事もある。広告は、毎号書籍系が1面に載るほか、多様な企業の就職説明会案内のみで面を埋める号もある。以下、実際の紙面から記述を抜粋する。

60年代の自社広告




1958年


新聞社▼戦後学園新聞の歩み:先輩、顧問に聞く座談会 時事▼共同行動デー:米水爆実験に抗議▼小学校教員ら座談会▼学園評論(社説):革新政党に勝利を▼教養部学生、自殺企図19%→厚生省に防止研究班▼教員座談会:アメリカ資本主義の方向▼原水爆禁止世界大会:核武装禁止宣言を採択▼メーカー・商社、昨年より多い求人:ナベ底景気ひびかぬ?▼警職法改正に抗議:京大助教授、立命総長ら▼松川事件現地報告:この不正が許せるか 教育研究▼南アで霊長類調査へ▼地球の変形と剛さ▼音声タイプライター:機械を音声で指令できる時代がくる▼世界一大きい電子顕微鏡▼研究所めぐり:生駒山天文台▼新築の助教授宅:しゃれた近代的ブロック建築▼奄美群島を訪ねて:水産学科報告▼高音プラズマ発生装置完成へ▼私の受けてきた教育:赤紙の前に大義なし、軍事教練が青春を圧殺▼科学技術者に望むこと:工学部教授「戦争中の考えがなお残存」▼京大留学の実態:案外多いチャンス▼「雪男」を生物学的に考える 大学運営▼新春対談:京大総長・立命館総長→立命館学園新聞と共同企画▼来春、吉田分校を増築▼教養部クラス担任決まる:老教授中心 学生▼全学自治組織再建賛成3800票:学生部は認めず→学園評論:再建承認を要求しよう▼記念祭事件、両君に有罪判決、控訴へ→本人寄稿「けんか両成敗不満」▼メーデーで同大生逮捕▼三上君、滝川前総長を告訴▼学生総決起、京都で800人▼京大生の表情:たいてい日に一度は掲示板で奨学金の公示など見る▼連載「京大の顔」:応援団創設者▼荒神橋事件勝訴:権力の暴圧に勝利▼同学会代議員選挙強行:9人に停学処分→学生「でたらめ」/教授「相互の努力不足」▼勤務評定阻止京都総決起▼各地で帰郷活動:市民と共闘体制組む▼京大合唱団、地方演奏旅行▼争鳴(投書):商業劇団のマネやめよ▼山岳会チョゴリザ登頂▼関西ボート番狂わせ:京大敗れる▼京大オーケストラ、批判に反論:実りある忠言を▼京大スポーツの現状:大半がOBの寄付、部費捻出に悩む▼11月祭に改称▼就職先の決まった学生一覧 文化▼映画評:ポーランド映画「地下水道」▼書評:『宇宙への設計』▼近代文学の舞台:小豆島▼大衆性失った現代詩▼ゴッホ展に思う 広告▼トリスウイスキー:テレビ・ラジオが5千台当たる抽選券進呈▼古河電気▼予備校20校▼キリンレモン▼マツダ真空管

1959年


※11月23日号までは学園新聞、11月30日号=通算千号からは京都大学新聞に改題

新聞社▼紙面の刷新:私の研究・大学生・海外から帰って・入試講評を開始/あの人この人・研究室めぐりを廃止▼写真部・本紙共同ルポ:西陣▼紙名変更「各大学も各々学生新聞を発行している現状や読者の皆様の要望などからみて」「変える時期だと考える」→京都大学新聞へ▼千号記念懸賞小説募集▼入山氏囲んでなごやかに:創刊千号を祝う会開く 時事▼日本の課題:半独立から真の独立へ▼最賃法政府案を批判する▼京大教官に聞く安保条約改定・砂川判決→多い判決の支持者▼国鉄学生運賃値上げへ▼今年の就職:破られた紳士協定▼学園評論:値上げに関心を▼教員座談会:日本の裁判→国内では条約より憲法/誤解される砂川判決/紳士的に取り調べよ 教育研究▼数理工学科・経営学科新設▼パルプ廃液から合成繊維作る▼戦後社会科教科書の変遷▼早期発見の手がかり:胃ガン撲滅へ▼ウイルス内部構造を撮影:京大教授が世界初成功▼スターリン主義からの決別▼京大学術調査隊、中央アに▼言葉がすぐ文字に:世界初の音声タイプ▼ゴリラ調査隊みやげ話:ゴリラは竹の子が好き 大学運営▼京大で働く人々:生協従業員/用務員/電話交換手/守衛▼200万円で時計台修理▼入試統計:近畿出身者増える▼原子炉設置予定地、寝屋川へ三転:住民また反対▼園遊会でのど自慢▼国立7大学、庶務課などを部に格上げ▼女子寮完成、19人収容▼揺らぐ大学自治:熊本大と愛媛大、予算削減で脅す▼研修センター実施へ→中止決定:臨時教授会「理解得られず」、抗議実る▼花山天文台に米から火星観測用望遠鏡▼京大、台風被災者に学費免除へ▼大学院奨学制度改革案決まる 学生▼同学会4年ぶり再建、賛成4千票超→学生部長も祝杯▼高校生座談会:政治より受験に関心▼角帽:学生の象徴は昔のこと▼学園論壇:厚生施設の改善を▼ふすま張り講習会▼安保改定阻止へ気運高まる→メーデー学生2千▼スポーツ・武道に集中:新入生の入部傾向▼宇治分校に赤痢発生▼詩人座談会:空想は社会変革の力▼奈良道徳講習会阻止闘争、初公判▼11月祭全国学生サークル研究集会:全国初の試み▼11月祭予算10万円増 文化▼週刊誌ブーム展望▼モスクワ芸術座▼健康軽視の文学部生▼荷風の死▼チョゴリザ登頂の記事を見て:金沢大学講師▼劇評:笑えない状況を知れ▼新しい送り仮名の問題点▼私の好きな道:北白川の並木道▼NHK局員座談会▼『学園評論』編集方針決まる▼魯迅の作家的特質:強い主情性 広告▼ご存知ですか?目に入るメガネ「京都コンタクトレンズ」▼テレビ局(朝日関西毎日読売)/一般紙(朝日京都毎日読売)▼予備校30校▼トーヨータイヤ▼富士フィルム▼味の素▼サンヨー電気釜▼東京ガス▼昭和電工▼積水化学▼京阪タクシー

通算1000号(1959年11月30日号)より抜粋(一部要約)

▼学園評論(社説):共通の広場に-学生と学生新聞のあり方
千号を機に名称も京都大学新聞と改め、更に進歩発展を目指す/現在、新聞未発行の大学は全国でも数えるほどしかない/沈滞した大学内の空気を打破し、若いエネルギーを結集させるために共通の広場を提供するのは、われわれの急務/学生新聞が大学や特定団体のいいなりになっては存在意義はなく、機関紙以外の何物でもない/学生新聞の役割の一つが、学生の手による大学、教授と学生の意見交換の手段でもあることを強く認識してもらいたい。

▼永遠につづけ:入山雄一(創刊以来の顧問)
一千号を数えることは驚くべき事実/戦前は広告や販売、庶務、会計のような仕事は、学生以外の者でやっていたが、戦後はこれらいっさいを学生の手で扱ってきたのだから、その苦労はひとしおであった/帝国大学新聞や三田新聞、大谷大学新聞という先輩にさきがけて一千号を迎えたことは何としてもめでたい/京都大学とこの新聞は、未来永遠につづくのであり、一千号はその向上への階一段をのぼったものと見るべきであろう/二千号、三千号をむかえる日あるを信じ、若い人々とともに、希望に胸ふくるる思い。

▼アンケート:本紙と読者をつなぐ
→京大生174人を無作為に選び意見を求めた。
・毎週読むと答えた人は3割強(62人)
・サークルの動きを多面的に取り上げてほしいという要望が多い。
・黒板(編集員コラム)は皮肉ばかり目立つとの指摘があった。
・学生運動は、本紙としては日本の学生に課せられた任務として重点的に取材してきたが、さらなる充実を望む声とスペースをさきすぎるという声が相半ば。
・ 論文の執筆者に京大教授陣を多用せよとの要望が見られたが、テーマに適当な人であれば京大に限らず執筆してもらう方針。
・社説が左翼的、一方的という指摘があったが、中立を保てという言葉はわれわれにとって空疎なもの。ニュース報道には可能な限りの客観性や中立性が必要だが、新聞には報道のほかに誘導という役割があることは今さら言うまでもない。われわれは読者に訴えたいことは社説やルポ、寄稿を通して主張していくつもりである。一方的とみられても、そういった読者との溝をいかに狭くしていくかに関心を払うだけである。

1960年


新聞社▼千号記念懸賞論文募集:1位1万円▼定期購読:年300円▼合否通知電報▼『京大を受ける人のために』180円▼学園評論(社説):今年こそ力強い学生運動を/ストライキでたとう/当局は集会を許可せよ/国会解散まで全学閉鎖を▼「大学への道」係(受験向け質問コーナー)常設/編入試験問題の連載▼「読者の広場」欄設置:第1回テーマは卒業後の生き方、賞金千円 時事▼安保改定反対声明:京大教官200人▼渡米阻止へ全学連、羽田デモ決行→学生78人逮捕▼安保採決強行、京大教官や学生ら12氏の意見▼京大当局、安保闘争で告示:処分を避け警告「批判の立場はわかる」▼学園評論:池田内閣は総辞職せよ▼文部省、大学への人事発言権を強化へ▼学園評論:文部省の動きを監視しよう▼砂川判決考察:「憲法の番人」でない最高裁▼道徳教育が必修:教員免許規則変わる▼統一社会党にみる仏新左翼の動き 教育研究▼白象伽藍を発掘:中近東学術隊▼九州の銅鐸、時代検証で学界二分▼脳腫瘍の増殖に成功:ガン研究打開の可能性▼科学にかける夢:火星ロケット/鋼鉄しのぐ合成樹脂▼クロレラ新加工法に成功▼フムボルト大学印象記:学術のメッカは今や大衆大学に移った▼高校教育課程改定:混乱と不審招くな▼連載「師」:足立文太郎先生「酒が生んだ解剖学者」▼大学院の問題点▼産学共同は何をもたらすか 大学運営▼薬学科、学部に昇格▼原子炉設置2億円計上:住民説得へ→第5候補に熊取町誘致→決定▼工化総合館を新築▼工薬に3学科を新設▼入試講評:人文地理「熟考して回答を」▼ミシガン大学と姉妹の縁結ぶ▼滝川前総長再び出廷:記念祭事件控訴審→証言食い違う▼総長が困窮学生に基金▼新設食堂の位置で平行線:協議会「西につくれ」、教養部「東につくる」 学生▼京大時計台前に1500人:全国の学生、安保阻止へ総決起▼本紙京大生調査:安保改定9割が反対/回答千件以上▼学園論壇(投稿):法学部に自治会を作れ▼同学会に平和賞:世界平和評議会▼主流派・反主流派分裂:大混乱の全学連臨時大会▼全学連分裂、全自連が新発足▼学生座談会:不合格者への助言▼ルポ:第9回教育系学生ゼミ→2700人の学生が討議▼戦争体験継承への道:新わだつみの会発足▼宇治分校自治会、結成難航▼薬学部自治会発足へ▼東南ア留学生座談会▼京大探検部トンガへ▼アイスホッケー5大学戦優勝▼京都学生駅伝、京大2位▼ボート部五輪予選へ▼スポットライト:ローマ五輪に馬術で出場の荒木氏▼豊かになった京大生の財布:宇治分校生活調査→食生活充実、聖徳太子5人ペロリ 文化▼文学に表れた京大生▼映画評:ナチス興亡の実態を暴く▼冬は底冷え:京都と京大案内▼書評:現代マルクス主義の硬直した既成性を打破/樺美智子遺稿集→左翼の爆風を復活せよ/戦後日本の科学運動(杉山幸丸・現名誉教授の院生時代の寄稿) 広告▼京大生協:安保改定阻止と物価値上反対のため、みんなの力を結集して新年早々から斗おう▼銀行(住友・三菱・京都信用/自動車学校(デルタ・西院)/伊藤忠/ダイハツ/テイジン/東京電力/日本通運/博報堂/富士フィルム//富士フィルムマツダ/丸紅飯田/村田製作所/名鉄電車

1961年


新聞社▼新コラム→若者の論理、複眼時評、今週のベストセラー▼応援歌歌詞募集:応援団主催、新聞社協賛▼定期購読:年350円▼編集員募集→1回生対象、作文「最近感じたこと」課す▼懸賞小説1位1万円▼合否電報通知▼女子事務員急募:高卒18歳以上▼第5回「読者の広場」募集:入選なし、佳作2編→造型性やアクチュアリティない▼第6回「私の安保総括」▼複眼時評執筆者:交代で健筆を 時事▼部落の要求は全国民の要求:解放同盟中執の寄稿▼炭坑のかげ:貧困につけこむ暴力▼どう見るソ連の超大型核実験▼右翼テロとジャーナリズムの責務:ジャパンプレス記者▼政暴法と新聞:言論の危機もヨソごと→東大新聞研究所員寄稿▼共産党綱領草案批判▼近畿学生部課長会議、国鉄運賃値上げに反対▼混迷する医療制度:病院と診療所の機能分化が急務▼学園評論:文部官僚の権力掌握に反対/国内法改悪に警鐘を/米ソの核実験反対→重要なことは軍事力強化を阻止し反帝闘争を組織すること 教育研究▼科学にかける夢:人工頭脳の可能性→経済性が障壁/人間なみに処理できる方式は見当すらつかない▼京都派憲法学の没落:大阪市立大教授▼資本論をいかに読むか▼日本のサル社会学▼日本列島生成に新説:磁気方向から発見▼入試講評:生物「読図能力が不十分」農学部採点教授談▼留学生は訴える:留学生会館が第一 大学運営▼非常勤職員削減か:研究体制に響く理科系▼スクスク育つ化石:構内のメタセコイヤ▼ガタガタの分校正門▼新設される学生ボックス▼スポットライト:吉田寮の世話に半生をささげた野田さん▼なぜうどん高くなる:苦しい経営に物価高の嵐▼再選・平沢総長インタビュー:学生会館建てたい▼黒板:せめて助教授まで選挙権を拡大できないか▼世界初の科学水族館:瀬戸臨海実験所に▼学園短信:滋賀大、愛知県女大、お茶大、立命大、早大、慶應大▼奈良道徳講習会阻止事件、全員に執行猶予▼カモにされる学生:ほくそえむ私学経営者 学生▼焦燥するアメリカの若者:全米学生協会の招待で渡米した編集員の寄稿▼最低賃金値上げ:600円▼体育会、会費徴収の全学組織に▼学園の眼:射撃場に体育会怒る→予算不足が絡む▼学生運動への提言:高校教諭「現実から遊離し沈滞の道をたどる宿命」▼関西六大学と京大野球部:合併問題で背水の陣▼京大生の食生活:満腹だが栄養不均衡▼京大生の生活観:真面目な学生ぶり▼教養部自治会が発足▼教養部代議員会にストで解散命令▼編集員座談会:主流派圧勝の背景を探る▼法学部自治会結成▼若者の論理:恋愛めぐり拭えぬ古い観念▼争鳴(投書):主流派と反主流派のマイクの奪い合いに「学生運動に僕たち1回生は如何なる態度でのぞんだらいいのか」▼前夜祭、模擬店や仮装行列:11月祭総予算150万円 文化▼ニュース映画の活路:映画美学の冒険の場→学生寄稿▼教員座談会:曲がり角に来た日本映画▼書評:テレビジョンの功罪▼現代日本における笑いの社会心理▼京の桜/年賀状に思う:入山雄一▼名前あれこれ:タバコさん・タコセさん 広告▼「祝11月祭」や就職説明会の案内に際して複数の広告で1頁埋める面も▼京大親学会/一般紙(朝毎経)/飲食店(進々堂、鈴蘭食堂、大安食堂、ハイライト、らんぶる、ユニオン、柳月堂)/沖電気/花王/キャノン/JAL/ソニー/電通広告論文募集/東京電力「諸君の将来を約束する」/東洋電機「新幹線で躍進」/トヨタ/日本長期信用銀行/阪神電車/藤田組「学生重役を望む」/丸三証券全面広告/ヤマハ

1962年


新聞社▼米国留学中の編集員へのカンパが1万2304円集まった→被曝写真などの送付に使用、平和会議で発表へ▼定期購読年300円「反戦自由の伝統を守って40年」▼合否電報1通100円▼懸賞小説→第3回は67編応募▼『京大を受ける〜』250円▼新コラム「文学の中の青春像」募集▼読者コラム(学園論壇・争鳴)募集▼編集員再募集:1回生若干名→3か月間は見習い 時事▼EECとイタリア:読売新聞論説委員▼ワイマール憲法の没落:法学部教授▼国際的交流としての新左翼→スターリンの世界観を覆す試み▼貿易自由化と日本経済の動向:関学経済学部教授▼ガガーリン京大を訪問:2千の学生を激励▼ルポ:創価学会→単なる宗教団体かファッショ勢力か▼ルポ:長崎造船の新左翼▼学園評論:戦う武器を守ろう:京都市長選では市公安条例撤廃を公約している革新系候補を当然支持する必要があると訴えたい/大管制粉砕まで逃走の手をゆるめるな▼現地に見る中央公聴会→抗議行動で公聴会の性格が暴露したという意味で高く評価しなければ▼札幌公聴会阻止闘争を見て:自らの姿勢を権力側に預けての闘争は明確な方向を打ち出せない▼教授会の権限縮小:国大協、管理運営法改正へ→善意が逆用される恐れ▼今年度求人先一覧→募集人員や初任給▼複眼時評:交通事故に思う→自動的にブレーキがかかるものができないか 教育研究▼アマゾンから珍客:ナイトモンキー持ち帰る▼研究室便り:金属微粒子の物性を開拓▼学園の眼:研究所教官も学生指導→文学部教授会、文部省に抗議▼教員座談会:教授という身分的特殊な地位は現実に合わない▼複眼時評:教官の給与改善=研究体制の改善である▼東南ア研設置の動き:まず現地調査団派遣▼文学部30人が落伍:卒論締切 大学運営▼ライス20円に値上げ▼生協赤字125万円▼争鳴:生協専務理事→記事「生協書籍部の赤字問題」に答える▼生協花谷購買部を新設▼教官囲み芝生談義:和やかに園遊会→約1500人がつめかけ大盛況/出席した総長ら教官と学生がジョッキ片手に懇親 学生▼寮自治は全学生の問題:吉田寮総務「大学当局は寮の自治封殺図る」▼経済学部、学生学会誕生▼スポットライト:37歳の京大生/ハンドボール学生五輪に出場の学生/3回生で外交官試験に合格した学生▼京大生の生活と意見:8割以上が改憲に反対→回答約800▼写真部、高島屋で全京大写真展開く▼対東大戦姿消す:国立七大学戦に吸収▼転機に立つ京大体育会:悩みは予算不足/体育会幹事長「現在の戦いぶりは目をおおいたくなる」「下宿で夢想する青白きインテリより、スポーツマン・インテリの方が全てにモテるのは当然」 文化▼音楽評:交響楽団演奏会→若々しく淡白な「運命」▼『原始社会』の今西書評に反論:著者「意図とかけ離れて受け取られた」▼海を越える日本詩歌:助教授翻訳、独で出版▼滝川先生と新聞:入山雄一 広告▼エッソ/塩野義/島津/ソニー「若い頭脳求む!」/大丸/日本オリベッティ全面広告

1963年


新聞社▼京大応援団が愛唱歌作成を計画、本紙は後援→ふるって応募を(賞金3千円)▼第4回懸賞小説→入選なし「例年になく低調」/第5回懸賞小説▼投稿募集→争鳴・学園論壇/購読料変更:年400円「学内唯一のマスメディア」/編集員募集 時事▼「政治集会は自治の範囲外」ポポロ事件、最高裁が無罪判決破棄▼資料:大管法→編集部「我々の反対の立場を再度確認する意味で特集」▼府学連学生京都市議会場に「乱入」:市長が学生告訴▼ルポ:原潜艦を迎える佐世保→軍港あっての佐世保、反原潜闘争の大きな壁▼学園評論:アジア政策に注視を▼この眼で見たキューバ:米経済学者寄稿▼黒人問題と中ソ論争:欧亜大連邦は夢か 教育研究▼滝川元総長の絶筆『激流』を読む:入山雄一名誉顧問「再建後の法学部教授会があんな状態だったとは想像のほか」「人間不信から自己嫌悪に」▼米エール大から京大図書館へ、言語や風俗、習慣から政治経済にいたるまで世界の文献を分類した貴重資料届く:世界に25組のみ▼海外出張教授の名前と行き先一覧▼工学部に鎮座する「天皇」教授▼複眼時評:産業界が真に産学共同を望むなら、工科系に金さえだせばという安易な考えをすてねば▼座談会:教育実習を終えて→増大する教師不信:詰め込み路線が浸透 大学運営▼1円玉なら安くなる:生協が釣銭不足に苦肉の策→今度は外売が休業:予想以上の赤字で→カレーなど値上げ▼「全学的な討論を」総長、選挙権問題で言明→本紙学生世論調査では85%が拡大賛成、教員アンケートでも圧倒的→結局拡大せず▼学生懇話室の8年間:修学問題が半数▼京大の数字→全国の敷地合計は約1470万坪、9割は農学部演習林▼今年度予算43億円▼教養部にゼミできる:独文など▼金5万8千円ナリ:国鉄から京大に寄贈のバス▼京女大の学生新聞「きづな」、大学側が処分示唆▼厚生補導の問題:早稲田大、当局が委員選挙/慶應大、第二大学新聞誕生→編集部「学生自治を圧殺しようとする」、背景に中教審の答申も▼総長、東南ア諸国へ▼農薬研設置決まる▼薬学部、大半を焼失 学生▼応援団、体育会を脱退:独立採算制で再出発▼劇研誕生の裏話:想像座の演目めぐり分裂▼学園評論:寮生に支援を→学生の権利主張は、真の意味で学内民主化を勝ち取るためにも絶対必要/寮生を支援し、全学的問題として対処を▼寮規定改正、学生自治を強調:対立点は入寮選衡権、今後再燃も▼京大ワンゲル、初の海外調査計画▼京大生の生活と意見:本社世論調査→社共支持が伸びる▼京大生の生活→2年間は吉田で授業/下宿難は不可避/運動部はアマ精神を堅持・資金不足がガン/文化部は「自己意識」追求の場・学生の3割が参加▼教養など5学部ストか:11・1府学連統一行動→各自治会準備活発▼全学連再建の方向:学生運動の現状をさぐる 文化▼家族の将来:崩れる「家」の社会的役割→哲学者寄稿「死滅し果つべき運命にある」▼書評:レーニンの盲点を指摘▼反論の反論:ソ連映画「僕の村は戦場だった」をめぐる紙上討論 広告▼一般紙(大阪・産経・サンスポ)▼証券各社/カネボウ/サントリー/シャープ/住友商事/デンソー/明治/森永/雪印

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