企画

【連載第五回】京大新聞の百年 平和運動追い全国へ赴くも、紙面は「京都大学の新聞」へ

2024.01.16

【連載第五回】京大新聞の百年 平和運動追い全国へ赴くも、紙面は「京都大学の新聞」へ

血のメーデー事件(1952年5月12日号)

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第五回。時系列で振り返る「通史」は、今回1950年から59年までを扱う。なお、内容は1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から記事を書き留める「拾い読み」は、1950年から57年までを掲載する。また、当時在籍した卒業生への聞き取りも実施した。連載を通して社会背景や編集部の理念を顧みることで今後の紙面づくりに活かしつつ、各方面の歴史考察への寄与を期待する。(編集部)

目次

通史④ 黒字化から改題へ(1950〜1959)
聞き取り① 『学園新聞』の理念と実情 1950年代在籍者に聞く
拾い読み⑤ 「時事」の話題 広く紙面に 学生生活から反戦運動まで

通史④ 黒字化から改題へ(1950〜1959)


大学にも押し寄せる右傾化の波


1940年代後半から、占領軍による「右傾化」政策の波が大学に及んだ。49年7月、GHQのイールズ顧問が新潟大学の開学式典で演説し、共産主義教員を排除すべきという旨を主張。その後、各地の大学をまわって同様の講演を続けた。同年9月には人事院規則により国立大学教職員を含む公務員の「政治的行為」が禁じられた。こうした動きに対し、大学教授連合や日本学術会議が反対の声を上げ、学生も呼応して各地で抗議集会に発展した。

前年48年5月、国立大学の授業料値上げ問題から反対のストが起きた。9月には全日本学生自治会総連合(全学連)が組織され、政治的な闘争へ踏み出す旨が決議されるなど、学生運動の先鋭化がみられた。

一方、京大の学生自治組織・同学会の内部では、49年12月の代議員選挙で、反ファッショを訴える共産党系の統一民主戦線派が過半数を獲得した。その背景として、同年6月にかけて大学当局が警察を構内に導入する騒動が相次ぎ、「学園の自由」の堅守を訴える潮流が強まっていたことが指摘できる。

こうした学内外の荒れ模様に対し学園新聞は、週刊発行を維持して事態の推移を追い続けた。49年11月からは、原則の2頁建てに加えて4頁で出す回数を増やすなど意欲的な報道を展開。その勢いは、『学園新聞』として5年目を迎えた春の紙面の挨拶文で「名実ともに全国唯一の週間学生新聞として堅実な歩み」と記すほどだった。ただし、続けて「まだまだ多くの問題を残している」と自省し、「苦難の道を歩まんことを誓う」とも述べている。実際、大学や学生に押し寄せていた不穏な波は、張り詰めた世界情勢のもと、簡単には落ち着かなかった。

1950年6月、緊張が高まっていた朝鮮半島で戦争が勃発した。その直前にはGHQ が日本共産党中央委員24名の公職追放指令を出すなど、占領政策が「反共」へ進んだ。同年2月からいわゆるレッド・パージが始まり、国立大学教員にも「赤狩り」の手が伸びた。朝鮮戦争による特需景気で食糧事情がよくなり、学生の生活環境も改善したものの、政治的な行動への風当たりは厳しかった。同年7月には警察が全学連の全国一斉捜査に踏み切っている。

こうしたなか、学生運動は政治的なテーマを帯びて活発化し、権力と対面した。50年11月には、前進座事件が起きた。京大演劇部が前進座の団員を招いて催しを企画したところ、「占領目的阻害」を禁じる勅令311号に抵触しうるとして、京都府警が立ち会いを要求。これに反発した学生が川端署に押しかけ、5人が検挙された。抗議の輪が広がって学内集会が強行開催され、大学当局は同学会の委員長を含む学生36人を処分した。

国内外の情勢をふまえ、「反戦・平和」が叫ばれたのもこの時期である。1951年春の京大文化祭では、医学部から出品された原爆症患者の実物標本の展示や講演会が深い印象をもたらした。これがきっかけで開かれた原爆展の「原爆の図」が反響を呼び、全国的な原水爆禁止運動に発展した。学園新聞紙上でも主要なテーマとなり、51年8月1日号で1面に特集を掲載したほか、学内外の教員や国外の反応をたびたび取り上げた。

京大天皇事件で思わぬ余波


学園新聞の宇治分校通信員・田中博(55年文学部卒)は、1951年10月12日朝、時計台西の編集室にいた。宇治で売った新聞代の納入を済ませると、取材陣に加えられ、正門付近へ向かった。このあと、関西巡幸の一幕から波紋を広げる「京大天皇事件」を目の当たりにすることになる。

田中らが待機していると、12時半ごろ、百万遍から正門にかけて警官が数㍍おきに並び、正門と裏門が通行止めとなった。その後の経緯は51年11月19日号1面に記されている。

〈午後1時20分天皇は京大に到着した。京大学生、職員他約2千人は正門から正面玄関まで幾重にも列をつくって待っていたが、天皇が玄関に到着する瞬間、学生の中から『平和を守れ』の歌声がおこり」、「スクラムをくむようにして御料車を中心に半円形に集まった〉〈20名ほどの警官は刻々増加され、2時にはその数500名に達した〉〈それまで傍観していた学生も『警官帰れ』『俺たちの大学だ』と口々に叫んでスクラムに入り、その数は約1800に達した。2時12分、天皇は予定より少し遅れて玄関に出、ちょっと会釈してそのまま乗車、車は急スピードで学外へ出て行った〉

50分ほどのできごとで、逮捕者もケガ人も出なかったが、余波は大きかった。一般各紙が報じたほか、ニューヨークタイムズが1面で「日本の近代史上かつてない無秩序なデモ」などと伝えた。

「事件」の翌日には、衆議院文教委員会で天野文部大臣がこの件に言及し、国会で審議中の大学管理法案をめぐる答弁のなかで大臣権限の強化を示唆した。15日には京大当局が同学会に解散命令を出した。

世間の反応も厳しいものだった。学園新聞は51年12月3日号で「国民はこのように見る」という投書特集を組んだ。「処分を止めて」/「学生たちに声援を送る」といった意見は少数派で、「京大を廃校にせよ」/「右傾派の潮流に名分を与える愚挙」と学生らを批判する声が目立った。京大当局は、紙面にみられた一連の意見をふまえたうえで対応を決定したという。

学園新聞は52年1月1日号で「嵐に立つ大学の自治」と題した特集を組み、立命館大総長らの論説と並べて学生の寄稿を掲載した。〈声高く叫ぶ必要があるときに沈黙したり(中略)しがちな私たちの弱点に眼を向けぬかぎり、自治を守るたたかいは、つねに敗北に終る〉との懸念をつづったその学生は、「事件」の前に天皇への公開質問状を起草した人物である。戦争拒否の可否などを尋ねる内容で、同学会が提出を試みたものの、大学当局に取り次ぎを拒否された。なお、同学会の再建は1953年まで待たねばならなかった。

「事件」の日の昭和天皇(京都大学大学文書館所蔵)



キャンパスの壁を越えたルポ


サンフランシスコ講和条約が発効したのが1952年4月28日。その3日後、「血のメーデー事件」が起き、警官隊との衝突で千名規模の死傷者が出た。吹田や大須でも火炎ビンが火を噴き、7月には破壊活動防止法が公布された。翌53年には内灘や砂川で米軍基地反対闘争が起こり、運動が全国各地へと広がる。学園新聞では、「講和への意向を問う」といった記事で論壇を提供したほか、「血の東京メーデー:乱闘の2時間を目撃して」と題したルポ記事で騒擾を報じている。

そして52年11月、京都で荒神橋事件が起きる。「学園復興」の集会に合流しようとした京大、同志社大などの学生約150人と、阻止を図った警官隊が鴨川の荒神橋上で衝突。木造の欄干が壊れて13人が河原に転落し、重軽傷を負った。学園新聞は11月16日号の1面トップで詳報した。

学生運動がキャンパスの壁を越えるのに応じて、学園新聞の編集部員も行動半径を広げ、3号にわたるルポ記事「内灘を歩いて」などで運動の伝播を発信した。

この時期、学園新聞の編集室は3回移転した。天皇事件を報じたころの時計台西・赤レンガ造りの2階から、すぐ北の木造平屋の一室に仮住まいする。次に、西部構内テニスコートの奥にあった運動部の用具庫として使われていた部屋へ移った。53年には、西部講堂の手前北側に木造2階の学生団体用の建物が新築され、そこに入った。

西部の小屋時代は、経済的に苦しい時期となった。京大を越え関西の学園を網羅しようという発刊当時の理想と経営戦略が、すでに通用しなくなっていた。加えて言論界では、51年の出版用紙の統制撤廃により新しい雑誌が次々と現れた。学園新聞の販売部数は低落の道をたどり、広告収入も振るわなかった。

しかし、編集部の士気は盛んだった。破壊活動防止法をめぐる議論などの政治・経済の話題と、映画・演劇・文学などの記事が同居する紙面をつくり続けた。大学にも同学会にも属さない「独立採算制」にこだわり、政党や各種団体を含めて「いかなる勢力のひもつきになってもいけない」という原点が編集部に確立されていた。

当時在籍していた者は編集会議の雰囲気について、盛んに議論していたと口を揃える。様々な闘争に向き合い、素朴な疑問から会議が空転することもあった。「書きたがり」が多く、社説にあたる「学園評論」のほか、現在まで続くコラム「黒板」、雑多な話題を取り上げる「道祖神」をめぐっては、テーマや執筆者選びで白熱したという。よく載せていたルポ記事も執筆希望者が多く、旅費が支給されるとあって取り合いになった。前述のとおり政治関連のルポのほか、伊勢神宮を参拝した 〈お伊勢さん-神様と民主主義〉、映画の撮影地を訪れた〈足摺岬ロケ随行記〉など、趣味が反映された記事も見られた。学生生活や学術研究を伝える記事にも紙面を割いた。

「受験産業のはしり」で潤う


1954年からの「神武景気」で、日本は戦後の復興から高度経済成長への助走を始めた。国民の経済状況が劇的に改善し、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫がよく売れた。学園新聞の紙面を見ると、三種の神器と呼ばれたそれらの家電の広告が載っている。このころ、映画会社・予備校などからも広告を得られるようになったほか、京大新聞社として企画・編集した受験ガイドブック『京大を受ける人のために』(1952年~)の売れ行きもよかった。

なお、これに先立つ「副業」として、49年の入試から合格電報を始めている。当時、市外電話は交換手が手でつなぐ待時方式で、数十分待ちも珍しくなかった。確実かつ速く伝えられる手段が電報だった。受験生の合否を本人に代わって編集員が確認し、郵便局から即時伝達するサービスで、千人以上の申し込みを受けて数万円の収入になったという。のちに全国でダイヤル通話が可能になり、大手予備校が合格通知サービスを始めたこともあって廃止した。代わりに手がけた受験ガイドブックは、当初の数十頁の小冊子から55年度には300頁の書籍に成長した。入試問題の傾向分析などを収録した専門雑誌として、「受験産業のはしり」と言えるアイデアだった。その後、受験ビジネスが一大産業化し、70年代に商業出版社へ売り渡した。

55年ごろに経理面の苦境を脱した折に、それまで滞っていた原稿料を清算することになった。卒業生のメモによると、この時点で不払いの執筆者がのべ200人以上いたという。膨大な数で支払いきれないということで、顧問の入山が伝・牧谿の『柿図』の複製を京都の美術印刷所につくらせ、詫び状を添えて各執筆者に届けた。

1955年晩秋、入山が65歳を機に京大新聞社の常任顧問を退いた。当時の編集員は、学生だけで経理を見ることになる緊張感を覚えたと振り返っている。なお、この年の決算は、収入・支出ともに約159万円(収入:新聞売り上げ約51万円、広告収入約93万円など/支出:印刷代約97万、編集員に支払う「奨学金」29万円など)で、1514円の黒字だったという。

『京大を受けるために』(画像は1976年版)



激論の末、スト回避の意思表示


学内では1955年6月、「創立記念祭事件」が起きた。開放的な祭を目指してフォークダンスなどを催そうとする同学会と、「厳粛に学内関係だけで行う」とする滝川総長が対立。交渉時に学生から暴行を受けたとして総長が警官を学内に導入し、学生2人が逮捕され、同学会が解散に追い込まれた。

米軍基地反対闘争が下火になるにつれて学生運動は、創立記念祭事件のような学内の騒動へエネルギーを向ける傾向が見られた。しかし、1957年になり、活力を取り戻す。各国の原水爆実験に反対する世論が高まるなか、全学連が各校にストを起こすよう呼びかけた。京大では同学会に代わって各学部自治会単位でクラス討議が進められ、吉田や宇治の分校ではスト突入必至という情勢となった。

学園新聞として、紙面での意思表示をどうするか。このときの編集会議はもめにもめたという。深夜になっても結論が出ず、翌日も、その翌日の原稿締め切り前夜になっても意見がまとまらない。13人の出席者は、次のような議論を交わしたという。

「学生の動きが社会の動きになり、歴史を変えた例は多い」
「原水爆禁止の世論の盛り上がった今がそのときだ」
「京大ではストが禁止されている。悪法といえども法だ」
「学生自治こそ優先。悪法撤廃には実力行動が必要だ」
「処分者が出る。同学会再建の見通しも立たない」
「学園新聞としての意思表示を避けるのか」
「われわれの討論結果を知らさねばならない」
「採決でもいいか」
「やむをえない」

結果は7対6の1票差で「スト回避」。57年10月28日号の学園新聞の見出しは、「ストライキは避けよう:11・1国際統一行動デーに望む」となった。ストの意義を認めつつ、50年の反レッド・パージ闘争時に出された「スト禁止告示」が生きており、強行すれば大量の処分者が出うると指摘した。出席者の一人は、「徹底した討論のあとであり、何ら不満が残らなかった」と回想している。

結局、ストは回避された。当日は2千人が集会やデモに参加し、吉田・宇治の両分校は実質的に授業放棄の様相を呈した。このあと京大の学生運動は、勤務評定阻止、警職法反対などをめぐって積極的な動きを見せ、60年安保闘争につながっていく。なお、同学会は解散から4年後の59年5月に再建された。この間、学園新聞は学生運動について、「一般学生から遊離した運動にならぬよう」「一般学生は注目を」という趣旨の呼びかけを繰り広げた。また、ルポ記事では55、56年に砂川、内灘、沖縄へ取材に行っている。58年には教育関係のルポも増えた。

『京都大学新聞』へ改題


1959年、学園新聞が大きな節目を迎える。世の中は神武景気後の不況を脱し、岩戸景気へ向けて好況だったが、京大新聞社の財政は苦しかった。大阪の印刷所には借金があり、前号分の印刷代を支払ってようやく次の号が刷られるという自転車操業だった。苦境を脱するため、①紙面を12頁に増量②懸賞小説の募集③ 「京都大学新聞」への改題④社史の編纂⑤東京、京都での祝賀会開催の5項目を実行することに決めた。懸賞小説の選者は伊藤整と野間宏に依頼し、1位1万円、2位5千円を掲げた。大卒初任給が約1万5千円の時代に、苦しい台所事情をふまえると大奮発と言えた。社史編纂は、結局この時点では日の目をみなかった。

用紙配給の都合で「関西一円」を掲げていた終戦直後から10年が経過し、立命館大学など周辺の大学ですでに学生新聞の復刊が実現していた。読者層も紙面の内容も「京都大学の新聞」になっていた。それでも改題は簡単な決断ではなく、入山に相談したうえで、卒業生にアンケートを実施したという。学園新聞の理想を大切にすべきという旨の反対意見も出たものの、「改題やむなし」の声が大勢を占め、理解を得た。大学当局との打ち合わせでは、改題自体は受け入れられたが、「新聞社」の紛らわしさを指摘されたため、「学生団体」と明記することにした。こうして名実ともに「京都大学新聞」となり、新たなスタートを切った。

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聞き取り① 『学園新聞』の理念と実情 1950年代在籍者に聞く


1950年代の学園新聞および京都大学新聞への改題について、当時を知る8名に話を聞くことができた。1946年の発刊時に掲げた「関西一円」の学園を対象とするという理念や、65周年記念書籍のタイトルにもなっている「権力にアカンベエ」という考え方について、在籍当時どう捉えていたのか。いま振り返ってどう感じるのか。また、現在とは異なる新聞制作の一コマや、通史では拾いきれない一人ひとりの思い出を、級友との会話を通して回想してもらった。以下では、福知山・東京・京都の3回にわたって実施した聞き取りの様子を掲載する。(聞き手 村・爽)

▼ご協力いただいた8名と聞き取り日時
芦田文夫氏(53-57年)
吉田忠文氏(53-57年)
2023年11月1日
@ホテルロイヤルヒル福知山&スパ
斉藤正学氏(52-56年)
梶宏氏(54-58年)
祖田修氏(59-63年)
2023年12月10日
@京大西部共用室
久野義治氏(52-56年)
野原明氏(54-58年)
緒林康孝氏(59-63年)
2023年11月4日
@京大東京オフィス

3回の聞き取りはいずれも、宇治分校にタイムスリップするところから始まった。当時1回生は宇治分校で学んだ。吉田氏は宇治分校について、「目の前に保安隊(現・自衛隊)の補給廠があった。鉄条網のすぐ向こうでは自分と同じ年代の若者が訓練している。彼らも状況が許せば勉強したかったのだろうかと、複雑な思いがした」と振り返る。

宇治分校の掲示板前に集まる学生(京都大学大学文書館所蔵)


「やむを得ざる便法」で掲げた「関西一円」の理念、改題は「必然」


入社の動機


格差感じ、「世の中を変えたい」

久野 2回生になり金銭・学業面の目処が立ち、熟考して記者になろうと思った。

野原 小中高で新聞部。家が貧しく学校で格差を感じ、世の中を変えたいと思った。政治家は金がかかる。ジャーナリストになって社会に影響を与えたいと思った。

緒林 ジャーナリズムに興味があった。同士の先端的な議論にふれ、記者就職は断念した。



斉藤 高校で生徒会新聞。受験から解放され何かしたいと思った。

 評論家的人間で社会への関心が強かった。新聞社の空気感が性に合った。

祖田 実家が農家で馬を飼っており、馬術部も考えたが、当時宇治分校にいた1回生の勧誘に来ていた岡崎満義さんという先輩から話を聞き、故郷が近い縁もあり、興味を持った。



芦田 新聞社でもらえる奨学金に目をつけた友人が、僕と吉田くんを誘った。面接を受けたら、友人は工学部だから忙しいという理由で不採用だった。後に映画監督になる森崎東さんという先輩が誰をも引きつける人柄で、彼の出身の旧制高校のような雰囲気の4年間を過ごした。自分が採用する側のときは、こいつは何かやりそうというおもしろみや覇気のある人を選んだ。

会議の雰囲気


怒号だった/自由に発言できた 歳の離れた復員の先輩もいた

斉藤 新制と旧制の学生が混ざっていた。旧制の人が学徒出陣を経て再入学する時期で、学園新聞にもいた。その中に僕らが入ると子ども扱い。年齢が4つ5つ違うし、軍隊で揉まれた強さがある。会議ではまず発行したばかりの新聞を見て反省会をやって、次の号の話をする。メインテーマを定めて、各面の構成を考えて。週刊だから大変だったね。



久野 怒号だった。やっつけるような。

野原 間違えれば総攻撃されるけど、自由に発言できた。執筆者を決めて要旨を発表させ、「それは違う」などと議論した。

緒林 言いたいことを言い合い、納得して結論を出す雰囲だった。宇治分校の1回生は会議に呼ばれず。



吉田 熱心に議論して、学園評論とか黒板の内容で意見を一致させる。決まったら従う。真剣勝負だね。

芦田 ものすごかった。誰が書くかも議論。

吉田 書きたい人がずいぶんいたからね。

芦田 議論して疲れて、みんなで安い酒を飲みに行く。

取材・執筆・寄稿


雑誌を読んで寄稿を依頼

芦田 荒神橋事件が印象的。「集団の中に入ったらあかんぞ」と注意され取材に行った。

吉田 研究室に行って、いろんな人に原稿を書いてもらった。湯川秀樹さんとか木原均さんとか。話を聞きに行くと、わかりやすく説明してくれた。「話すから書け」と言われて記事にすることもあった。

芦田 経済学の堀江栄一先生の自宅に行くと、「よう来たな」とこたつに入れてくれて、学問の動向をしゃべってくれる。すごくおもしろかった。そこで聞いた話を試験で書くと、いい成績が出た。



野原 学外の教員からも寄稿をもらった。滝川総長に「全分野で京大にいい先生がいるのになぜわざわざ」と言われ、「視野が狭い」と言い返したね。

久野 あのころは『世界』や『中央公論』、『改造』を待ちかねて読んだ。いい原稿を見つけると、著者を訪ねて「京大新聞に合うテーマを立てて書いてほしい」と頼む。そのために編集会議を通せるように一席ぶつ。この繰り返し。



祖田 宇治分校時代、一度だけ記事を書かせてもらった。宇治で赤痢が発生したというニュースで原稿用紙1枚ほど。自分の書いたものが活字になるのは初めてで、嬉しくて何回も読んだ。

 京大というより社会の底辺を見ようという考えで、ルポをよく書いた。西陣織の家内工業などを取材した。社会の階層があると実感した。

斉藤 いま思えば、社会の先端を進んでいるつもりでも、一般の学生や他の大学から見ると浮き上がって、一部の人がやっているという見方だったと思う。どこまで支持されていたか。

割付・印刷


印刷所で仕上げも

吉田 印刷所は京都新聞→都新聞→大阪の高速輪転と移った。

芦田 一字ずつ活字を拾ってつくった紙型に、鉛を流し板を作る。それを回転させて印刷する。



野原 原稿を持って印刷所に行って割付作業の「大組」に立ち会う。時間がないときはその場で原稿を書き上げて工場の人に一枚ずつ渡した。日曜に印刷、月曜の朝に届いてすぐ販売した。

入山雄一氏


編集には関与せず

祖田 卒業後、入山さんから養子になってもらえないかと言われた。約束はできないと伝えたうえで1年ほど一緒に過ごした。私が結婚して入山家を継ぐ話は消えた。入山さんは社史を書きたいとおっしゃって、数人で分担して各年代を調べたけど、ついに世に出なかった。年齢もあり、気力が薄れたのかもしれない。



久野 僕らのころには編集会議では何もおっしゃらなかった。できた紙面について感想を言われた。見出しの助詞を注意された記憶がある。それ以来、文章をつくるときに気をつかうようになった。当時は赤字で、入山さんが個人の信用でお金を都合してくださったこともあった。

緒林 僕らのときも編集には関与されない。年に1、2回ほど、昔話を聞かせてくれた。創刊の経緯とか滝川事件とか。

野原 夏に祇園の床に連れて行ってくれた。貴重な経験。

役職


芦田 編集長はみんなの議論をまとめる。どんな記事を書くかはみんなで議論をする。主幹は経営の中心となる人物。

吉田 編集長の勝手にできるわけではないし、また編集長から押しつけるわけでもないし。

芦田 それがいいところだった。

『京都大学新聞』への改題


独特の懐かしさ、『学園』へのこだわりも 有名無実化、変える必然性あった

斉藤 用紙割当の経緯があって、学園新聞は京大だけのものではないという意識でやっていて、京都女子大や奈良女子大、同志社とかへ売りに行くんだけど、実際にはなかなか受け入れてもらえなかった。僕らの先輩が広い学生を対象とするという考え方で学園新聞としたわけだけど、長続きしなくて。発刊当初の考えとは違ってしまったから、。

 変える必然性はあったね。



吉田 いろんな大学に売りに行った。各大学に通信員がいて。

芦田 すでに京大だけの新聞だったね。立命館とか他の大学でも用紙が渡って新聞が出るようになっていたから。



野原 理念は知っていたけど…

久野 ほとんど有名無実だった。

緒林 僕はこだわりがなくて、京都大学の新聞だから京都大学新聞でいいだろうと考えた。

野原 僕らは「学園、学園」と言っていたから、やはり「学園新聞」という名前にこだわりをもっていたね。改題を聞いて「なんで」という気持ちも少しあったな。

久野 独特の懐かしさがあるよね。「新聞」まで言わずに「学園」と呼んだね。ただ、「学園新聞」としたこと自体、やむを得ざる便法だったわけだから、本来は京都大学新聞でありたかったはず。改題は時間の問題だった。

「権力にアカンベエ」の感覚


人生観を貫く基本的な考え方 戦前の感覚/少し違った部分も

久野 社会に対して京大新聞が取ってきた姿勢が一言で表されている。

緒林 僕はノンポリ学生で、しかも広告取り中心だから編集経験の重みは違うけど、正義感はもっていた。僕らのひとつ上は、教科書に墨を塗って使った学年。鬼畜米英から民主主義万歳へ転じる経験をしている。一方で僕らは、その直後に小学校に入って、はじめから戦後民主主義の教育を受けてきた。世の中は平等で、おかしいことにおかしいと言うべきだと。そういうスタイルに魅力を感じる連中が京大に行くという風潮があったと思う。だから「権力にアカンベエ」という言葉はぴったり。過度な一般化はよくないけど、僕らの世代の人生観として一本貫かれているものだと思う。

野原 僕は緒林さんの言う墨塗りの世代だね。小学校4年のとき集団疎開に行って、忘れもしない8月15日、役所の庭に行ってラジオを聞かされた。何を言っているか分からなかったけど、終わって疎開先のお寺に帰ったら先生が、戦争に負けたと。「日本が間違っていた。アメリカやイギリスは民主主義で素晴らしい国だ」という話をされた。昨日まで打倒米英と言っていたのに。僕はその瞬間から教師は信用できないと思った。だからみんなに言った。泣かなくていいよと。戦争が終わったから帰れるんだと。



 これを書名にしたのはなかなかいいアイデアだった。

祖田 京大新聞の基本的な視点だと思う。社会問題を学生としてしっかり受け止めるという意味合いが込められている。

 そうだね。政治団体が人を送り込もうとする動きもあったけど、そういう思想に関係なく自由な雰囲気でやっていた。

斉藤 僕らは権力に逆らうばかり。「アカンベエ」は入山さんの感覚だな。僕はそこに対しても逆らう意識があったから、「入山さんはそういう考え方なんだな」と考えることもあった。



芦田 独立採算で、どこにも属さないという「学園イズム」が確立したのが僕らのころ。それまでは、あれだけひどいレッドパージだとか朝鮮戦争だとかを経験すると、学生が左翼的になるのも当然だった。それをしのいで、運動のやり方も落ち着いて、外へ出ていた学生もみんな帰ってきて、文化運動を幅広くやるようになった。「権力にアカンベエ」は戦前の感覚で、それとは少し違ったかもしれない。

吉田 私は主幹として、独立採算を守れなければ学園新聞に価値はないと思っていた。

合格電報


吉田 遠方の人などへ、代わりに編集員が合否を見て伝える。間違ったら大変だよね。

芦田 各学部が合格者名簿をくれて、合格はサクラサク、不合格はサクラチルと電報を打つ。左京電報局と話をつけて、あらかじめ住所と名前は打っておく。家に電話がない時代で、申し込みはたくさんあって電報局も儲かっただろうね。

今も部室にある宣伝のぼり



販売・広告・経営


唯一の情報源でよく売れた

斉藤 教員用のバスに載せてもらって新聞を宇治まで運んだ。箱に置いたり、昼休みに机を出して立ち売りしたり。

祖田 当時は情報源が少ない。宇治分校生のほとんどは、お金がなくて一般紙を取らないし、安価な学園新聞は唯一の情報源。宇治でよく売れた。

 活字に飢えた時代は採算がとれたけど、だんだん売れなくなり、広告で保った。名刺風の社名広告とか。教員から紹介状を得て営業に行った。

斉藤 広告代理店を通じて1面の書籍広告を載せた。その有無で格が違ってくる。入山さんの人脈で円滑にやれた。



吉田 朝鮮特需のころ書籍広告が増えた。岩波書店がよく協力してくれた。学生文化誌としての側面を評価してくれていたと思う。大学や自治会の言いなりにならず、学生運動・学術・芸術・映画と幅広い紙面づくりで。

芦田 進学率向上に伴い予備校の広告も増えた。広告と『京大を受ける人のために』の収入で赤字を黒字に転じた。それまでは赤字も構わないという風潮さえあったと思う。

吉田 経営問題は重要。他大学で売れなくなって、広告をとる努力をした。京大周辺の食堂からの小さな広告も大切にした。



緒林 営業で大阪に行った。御堂筋をぐるっと回ると1日で5つほど広告をとれたね。

野原 就職関係や書籍の広告が多かった。効果があると思われていたんじゃないかな。

久野 当時は学生がよく本を読んだからな。

野原 新聞を書店で売った。あとは箱に入れて各学部の教室の入口に置く。20~30か所あった。

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拾い読み⑤ 「時事」の話題 広く紙面に 学生生活から反戦運動まで


8年間の紙面概要(1950-57)


今回の「拾い読み」では、1950年1月から57年12月までを掲載する。この8年間は、週間発行で号外1号を含む計334号を積み重ねた。

原則2頁で、4頁以上の号もだんだん増えた。寄稿のほか座談会やルポルタージュが目立つ。座談会では教員や学生、新聞記者、映画監督、詩人、本紙編集員らの議論が収録された。アンケート調査もたびたび実施しており、学生処分や原水爆反対運動など、時事の話題を尋ねている。宇治分校での「世論調査」では数百枚の回答を得たという。かつて毎号あったスポーツ記事は大きく減った。投書欄は健在で、言及された個人や部署が後日号で反論を投稿するといった紙上での意見交換もある。

広告は書籍が毎号数多く載る。他にも一般紙や鉄道、メーカー、百貨店、劇場、大学近辺の飲食店やお土産屋などがある。予備校の広告が年々増え、59年3月23日号には27校載っている。紙面でも入試傾向の分析記事が増えた。以下、実際の紙面から記述を抜粋する。


1950年


新聞社▼購読料、年300円に▼投稿復活→政治・文化の論文や、ルポ・文芸を募り薄謝進呈▼合否電報:至急報70円、普通報40円▼創刊4周年記念行事:社告持参で映画無料招待/懸賞論文募集「平和擁護と学生運動」・「対日講和」→入賞作品なしと発表▼各高校新聞から通信員募集▼業務部員、販売員募集→在学生若干名▼学生新聞界の展望:学校当局の言論干渉/加盟校200超の全学新を通じて自由発行へ▼全学新新聞コンクール:審査員は一般紙各社代表→1位学園、2位東大、3位早大で、一橋、三田、同志社、法政、龍谷と続く▼200号記念:フランス映画鑑賞会・書評コンクール→特賞2千円▼本社通信員会議:今後の方針を懇談→通信員から不満も 時事▼共産党政治局員寄稿▼講和への意向を問う:法経工の学部長ら▼アンケート:憲法は守られているか→東大・京大・早稲田教授、読売新聞社長、詩人、声楽家▼京大平和擁護委、一日で街頭署名2500筆▼金閣炎上に思う:京大観光研究会員▼よみがえる傷痕→絵画「八月六日」▼ゴシップ:首相官邸で記者が人文研所長を撮影、夕刊紙に「湯川博士官邸へ」と誤掲載▼ルポ:共産部落→制度徹底、私有物は歯ブラシのみ▼ルポ:台風下に漁村を訪う 教育研究▼原子力と水素爆弾、平和的利用へ:京大教授▼軍事基地化反対:原子物理学者声明▼注目の前頭葉切裁術、学会で報告▼天気予報の苦しさ▼酢酸の新合成法▼京大教授が新星大根生む▼対馬の旅から:文学部教授談、日本語が与えた影響▼湯川博士帰国談:外国の学生新聞は「立派で日本の日刊紙以上」▼死体不足に泣く京大医学部▼大宅壮一:西園寺死後10年▼京大へトラクター寄贈 大学運営▼推進(投書):政治活動の制限、大学側は神経質▼痛い電気料値上げ、悲鳴をあげる京大各研究室▼各科目の入試傾向の分析▼学生控室竣工▼本のない図書館? 宇治分校▼京大図書館拡充へ:利用率も戦後最高▼鳥海学長、米より帰学:更生施設完備に驚嘆▼学生健保、今秋発足へ:製薬会社らが寄付▼補導部長、映画座談会も禁止:元松竹監督を招待、「外部から問題になっている人を招くのは政治活動」▼緊迫の10日間:レットパージ粉砕抗議▼学術会議「学問の自由に不安」▼「ストは学内秩序錯乱」:文部次官一問一答→本紙記者が訪問▼京府医大、全員復学なるか:教授公判へ▼宇治分校開校→寄宿問題で非難の声も▼東北大事件、学生処分決定▼広島大に平和研究所▼東大、アカ学生は奨学金停止へ 学生▼発足した新制京大自治会、新同学会入り可決▼「先輩サロン」→日銀支店長/京福電鉄社長/指揮者:朝比奈隆/京都市長▼就職戦線8銀行が回答→採否の鍵は面接態度/アカはダメ▼育英会、取得科目の少ない者に注意喚起→「黒板」:なるべく穏当に扱って▼映画館実現か:西部構内籠球部を劇場に→予算123万で竣工へ▼京大親学会好評:中高生の学習指導▼「推進」:衣類無償配給の対象者選定に不満→翌号の同欄で学生課が回答:数量少なくやむを得ない▼推進:生協食堂の改善を/分校の学生掛が不親切▼編集部主催、分校教授・学生の座談会:新制京大一年を顧る▼メーデー学生2千参加▼夜間学生、続出する退学▼阪大学生、『わだつみの声』をエスペラントに翻訳 文化▼栄える戦前文学▼仏映画の典型美▼映画評「白雪姫」▼映画界追放裏話▼歌舞伎役者寄稿 広告▼学園新聞編『新制大学案内』▼ニューヨークタイムズ国際版▼タイプライター修理

メーデーの様子 1950年5月8日



編集権の自由を〈157号(1950年1月30日)〉
本社、公認学内団体へ→全国最大の学生新聞として現在に至る/1月23日正式に独立の京大公認学内団体となり同学会同様取扱を受けることとなった/「学生の自主的編集の精神」以下22条に上る本社社規も承認された/学生課長談:学内団体になったからといって弾圧するものではない、編集権の自由は社規にも明確にされている

社告:創刊4周年に寄す〈168・169号(1950年4月17日)〉
今や名実ともに全国唯一の週間学生新聞として堅実な歩みを続け得ることはわれわれの欣快の至りである/昨年11月より月一回4頁制を断行し、多大の成果を収めてきた/独立採算制を維持し、学内における編集権の自由は確立/まだまだ多くの問題を残していることは甚だ遺憾/迅速正確なる、真実公正の報道に努め、平和を愛する読者諸氏と固く手をとりあってともに日本民主化、学問文化水準向上のため、苦難の道を歩まんことを誓う

創刊200号に際して〈200=通算578号(1950年11月13日)〉
敗戦直後「京都帝国大学新聞」の後身としていちはやく産声をあげた/前身「京都帝国大学新聞」は、軍国主義のあらしによく良心の灯を守りつづけながら、スタッフを次々と戦争に奪いさられて、ついに停刊したといううつくしいけれど、悲しい歴史をもっている/この抵抗が読者にふかく根を下して活動からこそ生れたものであった/「学園新聞」がいままでいろいろの困難にうちかつて生きぬいて来ることができたのも、読者のみなさまのつねに変らぬご叱正によるものであった/わたしたちの今後進んで行くべき道もここにある

創刊200号に寄せて〈200=通算578号(1950年11月13日)〉
入山雄一氏寄稿:やがて帝国大学の「帝国」は消えてしまうだろうから、われらははじめから京都大学新聞社で行こうと決まった/同学会も名実ともに学生の手にうつるであろうから(中略)すべてを学生自身のものとする建前をとった/不幸な運命に対して如何になすべきかという課題も、今は一応タナあげにしてよかりそうだ

1951年


新聞社▼583号より号表記に/1段16字詰15段制へ▼入試書類選考の有無を電報で通知▼創刊600号記念:学生寄稿募集「学生新聞のあり方」▼本社調査部の憲法等世論調査は、補導部当局から学内規定に触れるとの疑義を向けられ延期→翌月掲載:再軍備に8割が人権侵害訴え▼編集員募集→希望者は作文(題「時計台」)持参 時事▼改選後初の学術会議:再軍備反対延期▼疑われる英国の『善意』▼アカ追放の簡素化:教育公務員特例法成立す▼貧困に悩む国々→ユーゴほか▼私は講和をこう見る:立命館・大阪市大の学長、住職、京都市教育委員、同学会委員長ら▼製作の言葉:総合原爆展特集 教育研究▼チタニウム抽出成功▼宇治茶田荒廃の原因を発見▼農学部が病院に:人さわがせな映画ロケ 大学運営▼補導機構改革問題、学生の意向重視▼電力危機解消:学内の割当増加▼京大燃料化学教室全焼→教務が紙面で呼びかけ「事務に支障ないからご安心を」▼学内集会規定を施行:団体結成規程も▼学費滞納者を近く除籍か▼新制京大、地方から3年への転入学可へ▼学内掲示規定成文化→掲示や立看板の大きさを制限▼京大・目立つ転学志望:問題視される縦割制▼予備隊が宇治に駐屯→運動場予定地の接収に不満▼各大学に健康相談所:文部省、結核予防に対策▼旧防空壕を利用:由良に地下地震観測所▼大学、原爆展を禁止 学生▼京大にも琉球留学生▼学生に給食を:京大保健診療所が警告▼京大入試に関わった教授と学生の座談会▼新制京大、近畿出身5割▼学生相撲、ハワイへ派遣→渡航費捻出のため石鹸売り出し▼推進:西門の開門時間のばして▼京大女子学生座談会:女のくせになぜ法学部へと言われた/女子寮をつくって▼「君が代」をかきけす平和の歌:京大行幸に警官隊500/学生2千、平和を守れと合唱▼同学会に解散命令下る:「弾圧は許さぬ」自治会連合会議決議▼一橋大学国立町寮の防空演習、「演習に協力せよ」と「消すな平和の灯を」のビラ合戦▼仮装行列に警官、わきかえる龍谷大▼暴力をふるうほかない:龍大新聞社解散要求で紛糾 文化▼東西対抗ラグビー:関西はなぜ弱いのか▼ベストセラーから国民心理は分からぬ:日本出版協会事務局長 広告▼学生募集→大阪経済、神戸市外国語、京都薬科ほか▼鉄道(阪急・京阪・近鉄)▼新聞(朝日・日経・毎日)▼葵書房開店▼ラジオ機器▼武田薬品▼進々堂▼高島屋秋のモードコレクション▼大丸▼伊藤忠▼サンスター▼島津製作所▼井筒八つ橋▼京大中央食堂完成新聞社

教授を囲む放談会 1951年9月24日



1952年


新聞社▼コラム「道祖神」廃止▼はがきアンケート「今年の夢」▼1月14日より値上げ:2頁8円、4頁15円、年350円▼創刊7周年に寄せる:名実ともに全国における最大の学生文化紙を誇れるようになった/中正な立場・真実を報道の使命を守る/新しい企画を増やし、日夜頑張る▼2回生→編集員、1回生→通信員を募集、前者のみ作文課す▼出版物取次店大阪屋と契約▼医理農の各所で販売開始:15か所列挙▼学生からの遊離を反省:第5回全学生新聞連盟大会 時事▼学園の赤追放本格化▼国立大授業料値上げ:米軍駐留予算をふまえ「その百分の一を回せば値上げしなくて済む」と指摘▼日本経済の動向:大阪銀行頭取ら寄稿▼電力値上げ公聴会:大阪の事務局を訪ねた▼新聞記者座談会:都、朝日、毎日、読売の記者▼乱闘の2時間:ルポ、血の東京メーデー▼学園評論:破防法と自治→我々は戦争は絶対にイヤ/教授会も学生も立ち上がらなくてはならない▼京大教官に破防法でアンケート▼破防法でもめる参議院:議員寄稿▼私はかく公約する:5大政党代表者回答 教育研究▼死刑廃止は時間の問題:滝川幸辰▼結核新薬と死亡率 大学運営▼私学に値上げの嵐:国庫補助獲得へ活発化▼東大文、テープコーダー買入▼京大法に警官、官費で聴講生を受験▼またも私服警官:学長「自治擁護に職賭す」▼京大、タバコで消える非常勤講師の給与▼総長が女子学生を軟禁:京都外大事件、警官隊ハンスト学生に実力行使▼学生部、学内各団体に要望:火炎瓶事件をふまえ「学生を信頼している」「建物の管理に念を入れて」▼京大楽友会館発足:接収解除▼厚生課、市電定期値下げに動く:市内各大学に呼びかけ 学生▼八日市高校、新聞部に活動停止処分▼ルポ:女子大生は訴う▼「めーるりひと」:京大の玄関にある彫刻「雲」/死体保存室/新聞記者室▼ベル(投書):寄宿舎を建てよ/宇治食堂は高い▼黒板:学生保健所へ不満▼学生投稿:学生運動の方向→ストはかえって権力を挑発する/憲法擁護の運動が成果を収めるよう祈る▼宇治分校世論調査:徴兵に抵抗49%/授業料6千円痛い60%▼京大山本君、陸上でヘルシンキ五輪へ 文化▼映画評:ドイツ零年→広告も掲載▼中国からの手紙:「わだつみの声」に涙流す▼京の近郊を行く 広告▼朝日放送▼シオノギ▼日本新薬:抽選で10万円▼近畿大学予備校▼住友金属▼新三菱重工▼いすず自動車▼神戸製鋼▼川崎重工▼京都寶塚劇場

政治風刺絵 52年11月3日



1953年


新聞社▼編集員・通信員募集▼営業部員募集:固定給月千円と歩合月4千円程度 時事▼内灘を歩いて:文4回生▼原爆記念日に全関西平和大会▼独立を失った裁判所:松川事件・三鷹事件被告寄稿▼被災の京大生450人:水害で開学以来の被害→月額6千円の学費補助 教育研究▼インドの教育と学生:85%が読み書き不可▼国際物理学会、オッペンハイマー氏講演▼財政を2割賄う授業料:アフリカの基礎教育▼徴兵抵抗史 大学運営▼法学部ゼミ廃止決定:自治会は抗議▼西食拡張に署名千▼注目浴びる宗門大学:京都女子大/龍谷大▼学校の隣へ保安隊:桂高校、設置に反対▼生協書店で万引き相次ぐ▼警官隊京大学内に侵入:時計台前集会に学長が招請▼広がる抗議の勢力:血を呼んだ警察の暴力、学生石河原に転落→こくばん:また一つ京大の歴史に汚点 学生▼結核学生の寄稿▼ゴシップ:卒業憂う学生へ、体育教員「待っていますから話しに来て」▼各学部事務で聞いた新入生の印象▼競争率4倍:吉田学生寮入舎選抜▼京都で学生平和懇談会結成▼大学管理で全学投票:票少なければ同学会再建足踏み→服部学長は「規約草案に難点ない」「3千票ほしい」→4500名が賛成▼京大体育会発足▼秋季文化祭、11月祭と命名→大学「名称認めない」▼学園復興会議:討議内容決まる▼京女大生、同学会活動始まる▼こくばん:西部広場前でラジオ京都が街頭録音→講義同様、発言を嫌う学生が多い▼新学長に望む:若い人の声を聞け▼ジョンズホプキンス大学教授から三田新聞編集員への手紙▼東京の荻窪高校で19名を退校処分:新聞発行停止→全学新が抗議 文化▼京都市美術館日展評:美術史研究室生対談▼こくばん:ラジオの普及が目覚ましい▼座談会:独立プロを語る▼ルポ:お伊勢さん▼ローマ紀行▼歌舞伎を大衆に返せ:工繊大教授 広告▼トーキー映写機35万円▼岡崎公園にスケートリンク完成▼ひらかたパーク▼広告論文電通賞公募▼明治ヨーグルト▼予備校(大阪・清風・日本・難波・浪速)▼新聞(朝毎産日)

ボックスの引越し 53年10月12日



創刊700号を迎えて〈700・701号(1953年6月15日)〉
新聞は正しき者の味方でなくてはならない/京都帝国大学新聞(中略)発刊の趣旨『自由の精神』は新しく独立した学園新聞に受け継がれた

1954年


新聞社▼旧本部建物の取り壊し→西部構内西の建物に本社移転▼全受験生に新聞無料配布▼編集員募集:作文「最近特に感じたこと」課す▼京大新聞社主催、民族舞踊の集い▼懸賞写真募集・寸描:京大の学生生活 時事▼改憲めぐる政局の動向:参院議員▼市長選、同学会が候補3氏にアンケート▼緊縮財政の行方:成功の可能性は低い→證券会社取締役寄稿▼戦後反動立法の歩み▼水爆・汚職への憤り:響く5万余の平和の大合唱、統一メーデー▼水爆展に人波▼広島平和祭に湯川教授メッセージ「原水爆反対は日本人の義務」▼外国からの便り:イギリス、メキシコ→原水爆に激しい怒り▼学園評論:水爆展を盛り上げよう▼全員参加できるメーデーへ歌集発行▼平和をめぐる国際外交:力強いアジアの連帯感▼ルポ:西陣を訪ねて▼金融引き締めと京都の中小企業:京都市職員▼特集:農村の苦悩→村からの便り▼最高裁判決、学生選挙権ついに勝訴:府学連傘下各大学に通達▼医学部学生に朗報:市電途中下車を許可▼期待さるアジア・アフリカ会議▼「戦争か平和か」賭ける次期選挙 教育研究▼イタリアの日本研究家たち▼学園評論:航空科の設置が秘密に進むのは由々しい▼原子兵器の研究拒否:全国に先駆け京大で声明▼ソビエト原子力発電完成:気候を変えることも夢ではない▼自然科学者はかく訴える→自主的な研究を 大学運営▼自治機構持たぬ百余名の分校教職員:京大の植民地との皮肉も▼電子工学科を新設▼西部講堂改築▼西部食堂改装▼新書庫など増改築進む▼学生課、創造座に立ち退き要求:西部講堂の管理強化か▼京大教養部新発足:教授会新設▼京大当局の自主性喪失を悲しむ:参議院文部専門員▼学園評論:分校を吉田に▼学生生活委員会、全学的厚生機関を設置▼宇治火薬所復活へ:市民に強い反対▼京大、試験場に同大・立大を借用 学生▼京大女子学生懇親会、総長と会見▼第2回全国女子学生大会「女だから」に憤り集中:北海道〜九州の各大学・高校128校の学生800人▼窮地に陥る学生生活:相次ぐ食費値上げと下宿難▼大学オーケストラ連合結成の動き▼京大女子寮、学生自主的に選考▼『女の園』その後:ルポ、京女大▼処分解除に見通し立たず:同学会執行部、学長と懇談▼荒神橋負傷学生、賠償を要求▼京大、ケンブリッジ大に勝つ:全日本に勝てば五輪▼座談会:帰郷活動に参加して/署名の力に疑問/結論の押しつけは禁物▼合唱コンクール近畿大会、京大制覇の公算大▼市民との交歓を禁止:学生部委、11月祭を大幅に制限/演劇脚本を検閲/「大学の品位を保つため」 文化▼「映画は好きでもいい宣伝マンにはなれない」:映画館支配人寄稿▼国民文学論の現状を語る→桑原武夫・竹内好・中野重治▼渡部氏の書評に反論:経済学部院生→反論に答える:渡部助教授▼足摺岬ロケ随行記▼戦後揺籃期の生きる詩:詩人寄稿▼映画評:ロミオとジュリエット 広告▼劇場(花月、朝日会館、京極大映、京洛、文化会館、田園ニュース、藤和、北星、エンパイアニュース)▼雨がっぱ▼新聞(読朝毎産日/都/京都)▼大林組▼大力餅▼関西日仏会館▼京都百貨店協会(藤井大丸・丸物・大丸・高島屋)

映画ベストテン選出 54年1月11日



増頁と値下げのおしらせ〈755号(1954年5月31日)〉
名実ともに「日本一の学生紙」の名声を日一日と高からしめており、日本の学生の姿を知るためにもっとも有用な資料として、全国各地はもちろんのこと、アメリカ、中国をはじめ広く諸外国からも求められている→満30年を記念して3つの計画を発表:①増頁→月1回4頁としていたが、最近東京の広告社との協定がなり、6月より最低月2回の4頁制へ②2頁5円、4頁10円に値下げ、予約購読も年300円・3か月90円に下げる③記念行事→講演会、映画と音楽の回、コンサートなど

1955年


新聞社▼諸般の事情で卒業生号を発行できなかった▼特集:岐路に立つ学生新聞→解説:底をついた悪循環▼学生新聞への苦言:日経新聞勤務→幼稚な誤りが多い▼連日受験生より受験に関する問い合わせ殺到▼京大と新聞記者:各社から専任記者/他大学にはない結びつき→入山雄一寄稿 時事▼地方選挙に自治体労働者は訴える▼学園評論:学術会議の3原則を守るために→世論の喚起が最も必要▼政府、特別奨学金を3千円に引き上げ▼土地接収に苦しむ沖縄:現地からの訴え→軍部の強制は無茶▼ルポ:横須賀防衛大学校を訪ねて→失われる批判精神▼保守合同のゆくえ 教育研究▼河上肇と宮本百合子:良心に生きたインテリの生涯▼京大カラコラム探検隊:わが国の最初の荘途▼理科系を5年制へ→反対派と賛成派の教員の寄稿→時期尚早で見送り▼法学部ゼミを復活▼南極に結ぶ科学者の夢 大学運営▼苦しい教室不足:大学院博士コース▼戦後最大の新書庫完成▼総数46957冊:中央図書館昨年度▼女子は収容せず?:完成近い学生会館▼東一条に日独会館▼京大協組、総長に援助を要望:実現すればライスは9円に▼中央食堂、白米給食見送り▼「アカハタ」立売禁止:食堂は治外法権で黙認▼学部の問題点:教授と学生の往復書簡▼入試裏側:厳重な印刷、出題教官が校正▼学生寮など移転か:学内施設大改革の基本路線打出す 学生▼第9回河上祭低調:計画倒れ▼督促状の効果満点・授業料納入者、会計課に殺到▼ボックス問題:創造座遂に立退き→学生課「強制執行」通告▼受験生と保健:能率的な勉強法とは▼サークルを育てよ:宇治のサークル活動は低調▼学園評論:前夜祭禁止は不当▼学生会館入館問題、学生、自主選考を主張:後援会は学生課推選制を希望▼東西南北:託児所の設置を▼警官隊、時計台下で実力行使:創立記念祭、一方的な禁止、学生側「あくまで話し合いを」/滝川総長、同学会解散も考慮/2学生起訴→全国から激励の手紙百通▼同学会解散、高まる憤激の声▼郷里からの便り:高い水爆展を望む声▼近畿大会、棒高跳びなど優勝▼11月祭の準備活発化:学生側の態度慎重、フォームダンスは回避か▼野球部、立命館破る:岡部好投▼京大ボート部琵琶湖周遊随行記▼同大新聞発行不能に:自治会が会計管理決定 文化▼日本のうたごえ運動、「創作オペラ」に発展▼モスクワの青春群像▼沖縄小学生の手記:もう戦争はいや▼ルポ:富士を汚すもの→頭上にうなる砲弾▼菜食主義者の弁▼狂言の再発展:演出家寄稿 広告▼都新聞朝刊開始▼カルピス▼天寅▼紡績10社▼三菱扇風機▼八幡製鐵▼予備校8校▼聖護院八ツ橋

受験生に向けた記事 1955年3月21日



1956年


新聞社▼年間購読予約の新入生に合格者名簿進呈 時事▼時の窓:米赤狩り続く▼ルポ:生活保護を受ける人々▼学術会議総会、教育二法案に態度決せず▼学術会議のあり方:保守政権の翼賛機関にするな:立命館大教授▼ルポ:文化財は壊される→秋吉台爆撃演習場接収問題▼学園評論:国鉄値上げに反対▼憲法改正と参院選挙:学生寄稿▼無視される労働白書:みえぬ政策樹立への積極性▼ルポ:軍事基地その後→内灘、北富士▼旧ソ交渉、京大生はこう考える:本紙世論調査▼教授対談:刑法改正の問題点▼教員座談会・社会主義諸国家間の国際関係 教育研究▼嵐山のサルを相手に根比べ▼教員座談会:京大の原子力研究をめぐって/原子炉購入はどうなる▼座談会:スターリンは批判されたか▼米、宮地教授を拒否:中ソ学術視察が障害か▼日本最大の医学辞典、京大で編纂進む▼両立せぬ研究と原子力委:湯川教授、心境を語る▼科学の部屋から:重力変化の測定/ネギのにおい/ノイローゼとは▼文学部50周年史編纂へ大学運営▼ウイルス研究所新設▼学園評論:授業料値上げ反対▼悩みはなんでも:学生懇話室誕生▼図書館は利用されているのか:少ない貸し出し、原因は煩雑な制度に▼受験生に得点通知、出身校校長を通じて▼創立記念体育祭、賞品にビール▼戦後初の大園遊会:2千人/フォークダンスも▼原子炉設置問題に結論か:敷地は宇治火薬場跡→予算2億申請▼学生の政治運動を討議・国立7大学学生部長会議:▼合宿所おめみえ:農学部グラウンド▼授業料滞納率6割弱:2年間たまれば「除籍」▼一年後の総長選へ職組動く:選挙権拡大へ全職員にアンケート 学生▼松浦君敗訴、法学処分確定:大学の懲戒権内と認める▼波紋えがく政治活動禁止:学生側声明「基本的人権奪う」▼各学部自治会低調▼学園評論:性急な闘争を続けるな▼宇治自治会発足▼アイスホッケー京大初優勝▼座談会:京大入試に注文する→在洛の受験生ほか▼病苦と闘う休学生▼東ドイツの学生生活▼法律相談部創立10年、多い借地借家問題▼京大生、イランへ学術旅行▼第一回学内写真コンクール特選写真「某教授」▼ルポ・予備校の夏期講習▼砂川闘争、学生はかく闘った:同好会委員長に聞く▼学園評論:傍観者的態度なくせ、記念祭公判の資金難を救おう▼応援団結成へ体育会本腰:それまで有志が独自に動いていた▼国鉄運賃値上げ反対で全国自治代デモ▼師走の京大生:アルバイト、消えた生活困窮型▼今年の学生運動・本紙編集員座談会→質的な成長見えず▼入試直前の必勝計画 文化▼散歩に快適な京都▼学生鼎談:石原慎太郎「太陽の季節」をめぐって▼『学生生活』生まれる:『学園評論』から改題▼世界の古典演劇▼海外文学の動向→宗教的な傾向が支配▼日本酒の特性 広告▼牧場▼クリーニング▼テレビ▼汽船▼日本郵政▼銀行(三菱・京都・三和・富士・第一)

京大生の生活調査 1956年6月4日



京都大学と学園新聞〈834号(1956年3月19日)〉
時代感覚を鋭く/大学の歴史と共に/学園共通の広場→学生だけではなく、教授や卒業生のための新聞でもある

本紙創刊十周年にあたって〈837号(1956年4月16日)〉
変革期を生きる京大生の生活に密着し、その喜びと苦悩を紙面に表してきたことに誇りを感じる。

1957年


新聞社▼新聞を愛した人々:入山雄一寄稿▼「古都」「科学の部屋から」「旧著のあとがき」「東西南北」を刷新→「私の著作」「京大物語」「講座:原子力平和利用」「学園論壇」:投稿を募集、「争鳴」:読者の声欄▼学生新聞のあり方:ニュース取材を自己批判→明日の荒波へ邁進▼914号は「飛び番号・発行せず」 時事▼好況反映した就職戦線▼現地報告:ハンガリー事件 教育研究▼学術会議員にアンケート▼教員座談会:科学と民衆/死の灰の経験が障害▼科学の部屋から:金魚とフナ/イギリスの原子力発電▼サルトルと共産主義▼教育公務員特例法の解釈▼不足訴える研究費:ルポ、京大研究者待遇の現状▼座談会:京大事件の歴史的意義→当時辞職した教員ら▼教授対談:国際政治の現段階と今後の方向▼ルポ:京大農学部水産学教室▼法政大学教授会、原水爆実験禁止声明▼海外出張激増:戦後最高を記録▼新しい放射性排水処理装置▼人工衛星と京大観測陣:上層大気調査に成果▼学内ルポ:収穫期の農場▼ソヴィエト生物学の意義 大学運営▼宇治に原子炉設置→反対の声集まる→断念→高槻有力、阪大も協力→小委員会設置も難航→新候補地名乗り▼学園評論:関係者は深く反省せよ、宇治原子炉をどう解決するか▼東西南北:京大作業員の願い▼総長選、全職員参加の間接選挙へ:職組が運動展開→教員540名アンケート、半数が改革要求▼原子核関係の大学院講座新設▼行き悩む新制大学院▼激減する図書館利用者:9割が椅子だけ利用▼ライス値上げ決定▼平沢次期総長語る:学生を信頼し、規則のいらない大学へ 学生▼決定者昨年の8割増:関西53大学の就職▼記念祭事件公判、滝川総長証言要旨「三上がわたしを蹴った」→検察警察、両調書と食い違う▼三上君の無期限停学処分解除▼全学連、水爆実験反対決議▼尊属殺人をめぐる京大法律相談部座談会▼170万円の映写機、西部講堂で祝賀会へ▼京大生評判記:いまだに「帝大さん」/学生運動元気がない▼自動車部、ビルマ国内を走る▼応援団、対東大野球戦へ▼京大エイトで優勝:関西漕艇▼街頭募金や講演会:帰郷活動各地で進む▼砂川闘争弾圧に抗議:同大で集会▼分校10クラス、スト決議:国際統一行動へ▼学園評論:ストライキは避けよう/行動デーに望む▼京大2千人が決起:統一行動デー→実質的に授業放棄/処分避けスト回避▼学園論壇:スト回避、決して後退ではない▼京大文化祭近づく:姿を消した原爆展▼学生座談会:どんな司法官になるか、司法試験合格者に聞く 文化▼ルポ:歌舞伎→期待される学士俳優▼日本の中の朝鮮人町▼「新・平家物語」の完結▼私の著作:シェイクスピアと30年▼ソヴィエト芸術の現状▼座談会:大型映画化の課題 広告▼ビール(サッポロ・キリン)▼朝日放送主催の電子音楽コンサート▼図書新聞▼石油▼殺虫剤▼ポマード▼銀行▼生命保険(朝日・日本)▼建設会社(鴻池組・大林組・竹中)▼證券(野村・山一・大和・日興)▼阪神電車、セリーグ公式戦ナイター日程▼乳業(明治・森永・雪印)▼銀行▼いすずトラック▼トヨタ自動車▼日野ヂーゼル▼ゴルフ場▼日立製作所▼デイリースポーツ

全京大集会 1957年11月4日



900号に寄せて〈900号(1957年9月16日)〉
芦田譲治氏(顧問)寄稿:続いたことは支持を十分に受けている証拠。編集者には対立する見解や事情を正しく紹介し、人々に考える資料を提供してほしい

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