インタビュー

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.8 安芸高田市長 石丸伸二さん 自分の使い道を見つけたい

2024.03.16

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.8 安芸高田市長 石丸伸二さん 自分の使い道を見つけたい
この春、創立から127年を迎える京都大学。これまでの学部卒業生はおよそ22万人にも及ぶ。卒業生は幅広い分野で活躍するが、彼ら・彼女らは進路の選択に際し、何を考え、感じ、選び取ってきたのか。

「京大出たあと、何したはるの?」は、各界で活躍する卒業生の進路選択に迫る連載企画。これまで6名の卒業生の進路を紹介してきた。今号では、予備校講師として活躍する竹岡広信さん(工学部・文学部卒)、石丸伸二・安芸高田市長(経済学部卒)にお話を伺った。

目次

合理的な進路選択
「考える」ことと向き合う
銀行員としてのキャリア
「負けるはずがない」出馬
安芸高田の魂を残す
為政者として
日本を再生させる

合理的な進路選択


――幼少期を振り返って。

自分で言うのもなんですが、小学生の頃は大人びているところがあったみたいですね。親と先生との三者面談で、先生に「伸二くんは自分にも厳しいけど、人にも厳しいです」と言われたらしいんです。確かに思い当たる節があって、先生を助けなきゃっていう変な使命感で授業中に騒ぐ子に注意をした記憶があります。小賢しくて、同年代の中では精神年齢が高かったのかなという気はします。

――広島から京都へ。

それなりに成績が良かったからというのもあるのだけど、ただやっぱり、京都の街に憧れましたね。日本史でも度々出てくるし、由緒あるものも多いしということで、日本人としてすごく憧れや惹かれるものがありました。東大でもよかったのかもしれないですけど、街で京都を選んだんです。

――学部は経済学部に。

本当は理系に進んで、医者になりたかったんです。ただ、医者になるには6年間大学に通わないといけなくて、当時家にあまりお金がなかったのでダメだなと。また理系はおしなべて院まで進む人が多いと知って、お金がかかるからなしだなと思って文系にしました。

経済学部を選びましたが、その理由は手っ取り早く、手堅く稼ぐためでした。大前提として、実家がそれほど裕福ではなかったので、お金に不自由したくないという思いがありました。そう考えたときに、一番確実に、期待値高く稼げるのは金融機関だと。

もちろん就職して実現したい夢もあったんだけれど、その根っこには極めて合理的な判断、選択がありましたね。

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「考える」ことと向き合う


――学生生活を振り返って。

学部では、経済データの分析に統計的な方法を応用する計量経済という分野を専攻していました。最初から院に進むことは頭になくて、卒業に対するコスパを最大化しようと思っていたので、勉強は本当に最小限しかしなかったです。けれど、金融業界に入るつもりだったので、そのために必要な知識は身につけて卒業しようと思っていて、その中で財政や地方行政について学んだことは今の仕事にも活きています。

ただ、主には遊んでいましたね。ジャグリングドーナツという大道芸をするサークルに入っていました。地域のお祭りや幼稚園や小学校を訪れて出し物をしていました。そんな風に大道芸のスキルを上げて人前に出ることが活動だったので、本当に朝から晩まで練習していましたね。他になにしてたのかな(笑)

アルバイトは五条のホテルでウェイターをしていました。結婚式で料理をサーブするようなお仕事です。将来に役立つかなと思ったのもありましたが、単純に時給が良くて、20年前の当時で時給が1100円(※)だったんですよ。大変なアルバイトでしたが、今までの自分の人生では経験したことのない場面だったので、テーブルマナーや所作など、得たものは多かったと思います。

※編集部注
石丸さんが大学4年生だった2005年、京都府の最低賃金は682円。

――学生生活で印象的な出来事は。

NF(※)がジャグリングサークルの見せ場の一つなんです。図書館の前で大道芸をして、道行く人に投げ銭をしてもらっていました。30分の大道芸で、最高で1万2千円くらい投げてもらったことが印象的です。相手がなにを見たいのかを想像することで、人の心に訴えかける。そして自分のしていることに価値を見いだしてもらう、評価してもらうということは、今の仕事にも通じているような気がします。

※NF
毎年11月に吉田キャンパスで開催される京都大学の学園祭。正式名称は11月祭であり、”November Festival”の頭文字を取って、NFとも呼ばれる。

――進路に影響を与えた出来事は。

京大での4年間で成長したというと驕りがあるかもしれませんが、本当に色々な学びがありました。その中でも、抽象的ですが「考える」ということが大きかったと思います。大学の4年間、あらゆる場面で鍛えられましたし、これが京大生の強みではないかと考えています。授業はもちろんですけど、サークルや部活動でもやたらみんな議論が好きじゃないですか。議論の根っこにあるのは、考えるという思考の発露だと思うんです。

ジャグリングは基本的に個人技ですが、最終的にはパフォーマンスとして人にどう見せるかということが大切なので、練習において他人の意見がすごく大事なんです。相手に考えさせてアウトプットさせるということが当たり前に起きるサークルでした。

なのでNFなど本番の前には身内でリハーサルをして、みんなで「ここを直すべきだ」ってぼろかすに言い合うんです。でも、それを僕は当たり前だと思って受け入れていましたし、その結果、批判されることに対するネガティブな感情がなくなりましたね。

大学生活を通して、考えることに実直に向き合えたことは重要だったと思います。

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銀行員としてのキャリア


――銀行員としての生活は。

法人のお客さんを相手にお金を融資する仕事を2年ほどしたあとに、アナリストとしてお声がけいただきました。自分の専攻していた統計を使った仕事がしたいとはかねがね思っていたので、もうこれだけで出来過ぎなぐらいですね。そこからはアナリストとして、それ以上ないぐらい恵まれたキャリアを歩ませてもらいました。

まずは企画部の経営調査室という銀行の本部機能の中枢で、銀行経営に必要な、世界経済全体の見通しを立てました。そこで2年ほど働いたあと、上司に連れられて金融市場に携わる部署に行きました。株や債券など金融商品を扱う部署で、より現場に近く、お金が激しく飛び交う場所でした。当時の銀行の総資産の120兆円くらいの内、40兆円くらいを運用していたんです。そんな部署で自分の予測を出すという経験を3、4年ほど積ませてもらいました。

そして為替を扱う部署に送り出してもらって、その行き先がニューヨークでした。年間100日くらい出張して、カナダから南米を一人で担当していました。それも上司が送り出してくれたおかげで、かなり珍しいキャリアを歩めたので、めちゃくちゃラッキーでしたね。

――政治家になる構想はいつ頃から。

政治に関心を持ったのは、銀行員として経済を分析しだしてからですね。経済を見れば見るほど政治が大事だと分かるんですよ。経済を動かす根っこに政治があるので、政治がしっかりしないと経済が駄目になるんです。なので政治家になることは20代のころから頭にはありましたが、銀行員として充実したキャリアを歩ませていただいていたので、引退してから、50歳や60歳になってからでいいかなと思っていました。銀行員というのはジェネラリストなので、政治家という職業と親和性はあったと思います。

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「負けるはずがない」出馬


――2020年の市長選に出馬。

2020年に河井事件(※)がありました。安芸高田市の前市長が辞職して、その後任を決める選挙に市長の子分のような方が出馬して、無投票で決まる見込みだというニュースを見た。あんな事件があったんだから選挙しろよと思ったんだけど、安芸高田で生まれ育ってるんで、田舎の閉鎖的な雰囲気も、誰も手が挙げられないこともよく分かったんです。だから自分でやろうと思ったんですよ。ニュースを見た日に一晩考えて寝て起きて、気持ちが変わっていなかったので、会社に「辞めます」と連絡して、飛んで帰りました。出馬を決めたのが20年の7月8日で、投開票日まで1ヶ月しかなかった。迷っている暇はなかったですね。

※河井事件
19年の参議院議員選挙に立候補していた河井案里さんを当選させるため、夫の河井克行・衆議院議員(当時)が大規模な買収行為を行った事件。20年7月には、当時の安芸高田市長が60万円を受け取ったとして辞職した。

――勝算は。

田舎特有のしがらみが向かい風になる懸念はありましたが、同学年で0・5%しかいない京大卒の人間が、海外まで行ってキャリアを捨てて帰ってきた。プロフィールを比べても、負けるはずがないと思いました。そして、負けても失うものが僕の仕事だけなんですよね。困ると言われれば困りはしますけど、些末なもんじゃないですか。日本人が1億2千万人いる中で、失業者が1人増えるだけですよ。

リスクはめちゃくちゃ小さかったんです。一方でこの街に帰ってきて、政治の腐敗を正して、街の活性化に貢献できるリターンを考えたらコスパは無限大、金融を相手にしていた僕は「買い」だ、と思いました。けれどもし河井事件が起きていなければ、今も銀行にいたと思います。

――選択における後悔は。

銀行員としてのキャリアを捨てることについて、惜しいことをしたなと思わなくはないです。これまでの人生、たくさんの偶然と人の巡り合わせで歩ませてもらいました。もう一度やり直したとしたら、京大には入れても、同じ銀行員としてのキャリアは歩めないと思います。でもそれはあくまでも石丸伸二個人の話で、安芸高田市だけでも2万7千人も市民がいますから、それに比べたらすごく些細なことですよ。

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安芸高田の魂を残す


――市長のお仕事とは。

確かによく分からないですよね。政治家ではありますが、役割としては市役所、つまり行政組織のトップです。会社の社長みたいな感じですね。いろんな部署のそれぞれに対して計画や方針を決めるのが社長で、その行政版が市長です。具体的な仕事でいうと、僕の場合は職員と、議論、協議している時間が圧倒的に多いです。議論をして意思決定をするのが仕事です。

――安芸高田市について。

2020年に帰ったとき、すさまじく寂れたなというのが第一印象でした。生まれ育った当時賑わっていた商店街にはお店が2割くらいしか残っていないし、出て行ってからの20年で人口は3分の2くらいになったのかな。

それでも魅力はたくさんあって、僕が市長として推しているものは毛利元就、伝統芸能の神楽、サッカーチームのサンフレッチェ広島の3つがあります。

サンフレッチェ広島(※)について説明すると、トップチームだけでなくて、ユースの選手も練習場がこの安芸高田市にあります。そしてユースは寮制なので、高校生は安芸高田の高校に通ってくれる。サンフレッチェというチームはユースから昇格して活躍する選手が多くて、心情面では地元の子たちの活躍が見られるというのが応援する理由ですね。

より本質的であり深刻なのは、安芸高田の名前を後世に残したいということですね。この街は消滅可能性都市(※)だと言われていて、今の調子では、数十年後にはなくなるんです。でも、たとえ安芸高田市がなくなっても、サンフレッチェは残ってくれると思うんです。広島のサッカーチームとしてサンフレッチェがある限り、安芸高田市が存在したという事実が残るんじゃないかなと。そんなふうに、安芸高田の魂を残したいという思いで、サンフレッチェ広島を応援しています。

※サンフレッチェ広島
国内最高峰のJ1リーグで3度の優勝を誇る。全国に先駆け、高校年代のユースに全寮制を採用するなど選手の育成に力を入れていることが特徴で、今季の開幕戦では先発11名のうち6名がユース出身者。サンフレッチェの名称は日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(矢)」を合わせたもので、安芸高田ゆかりの戦国武将・毛利元就の「三本の矢」の故事に由来する。

※消滅可能性都市
20代・30代の女性の数が、2010年から40年にかけて5割以下に減る自治体を指し、少子化や人口移動に歯止めがかからず、将来的に消滅する可能性があるとしている。民間の有識者が2014年5月に打ち出した考え方で、全国の市区町村の半分にあたる896自治体を指定して、早急な人口対策を促した。

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為政者として


――市長としての仕事の面白さは。

難しい質問ですね。一般的には、街をデザインすることとか、意思決定をすることだと言われているんだろうなと思います。でも僕はもうちょっとマクロに考えていて、壮大な歴史の中で、大きく言えば為政者として、時代を担う人間として、この街にいるのが仕事の醍醐味でしょうか。でも、それは面白いというよりも、一人の人間が受け持つには本当に重たいものだなと感じます。

――議会や会見がインターネットで反響を得ている。

方向性としては初めから狙っていて、就任当初から首長は発信力を持つべきだ、インフルエンサーになるべきだと言っていました。ただ、これほどの反響をいただけるとは思っていませんでしたね。具体的な言動は細部の細部まで調整して、安芸高田をどのように見せるかということは徹底的に考えています。

――就任から3年半の一番の成果は。

真面目で地味な話なのであまり注目されないのですが、財政を未来志向な形に変えて、持続性を高めたことです。人口減少によって国からの交付金が減りつづける中で、お年寄りに振り向けていた予算を切り詰めて2024年度から小中学校の給食費を無償化します。子供の数は減り続けているので、この予算が増えることはないですからね。人口動態に対応するための変化をさせることで、就任当時は破綻しかけていた財政を、なんとか引き戻すことができました。この先も順風満帆である保証はないけれど、手応えはありましたし、満足しています。

財政説明会での一枚(安芸高田市提供)


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日本を再生させる


――原動力になっているものは。

自分の使い道、存在意義を見つけたいということかな。生まれてきた理由って言ってもいいかもしれないですね。自分が何を成すのか、何ができるのかということを考えることが、単純に純粋に楽しいんですよ。

大学時代、新入生を集めたオリエンテーションで「京大生とは小市民的幸福を追い求めず、ただ天地の真理を追究するのみ」なんて説明されたんだけど、これが刺さったんです。これが京大生としての原体験で、社会人になってからもこのことを思います。今まで受けた恩を返したいとか、大義名分的なものももちろんあるけれど、もっと本質的、根源的なものかな。考えて取り組んで社会を良くすることが、楽しくて幸せなんですよ。

――今後の夢や目標は。

大きいものから小さいものまでたくさんあります。実現しちゃったものも多いんです。そのうちの一つで、市長に就任してすぐに、新しいご当地グルメとして「あきたかた焼き」というものを作りました。これを提供してくれるお店がすでに30店を超えたんです。昨夏にはドイツのミュンヘンでも提供してくれるお店ができました。どうして取り組むかというと、サンフレッチェと同じで、安芸高田の名前を、魂を残したいんです。

大きくて抽象的なもので言うと、やっぱり日本を再生させたいですね。今の状態が良いとは思えなくないですか。再生させるということは昔の姿に戻ることじゃなくて、生まれ変わることなのかなと思うんですよ。安芸高田市で新しい動きは実際に起こせたのだから、日本全国で同じようなことはできると思いますし、いろいろな形で進めていくことができたらと思います。

それらの活動を通して、自分自身の効率的な使い方を追求したいなと思います。政治家というポジションを最大限に使って、影響を及ぼしていくことは、自分の役割だと。安芸高田はもちろんですし、それ以外のところでも、日本を蘇らせるために挑戦をし続けたいと思っています。

――京大生に進路選択のアドバイスを。

京大生は単に受験勉強が得意だったという浅い人たちではなくて、考えることが得意な人が多いと感じます。だから、妥協しないで、とことん考えぬいたらいいと思います。あらゆる仕事において、考えるという作業はものすごく大事なので、その強みを活かしてほしいですね。

まとめると「自信を持て」かな。京大生に足りないのはそこかもしれないね。自信というのは力なんですよ。筋力と一緒で、鍛えないと強くならないんです。大学生の間にいろんな身近なところでの挑戦を繰り返すことで成功と失敗を織り交ぜて、自分を信じる力を蓄えてほしい。そうしたら、もう大体のことはうまくいきます。

――ありがとうございました。(聞き手=匡)

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石丸伸二(いしまる・しんじ)
広島県・安芸高田市長。1982年8月、広島県吉田町(現在の安芸高田市)生まれ。2006年3月、京都大学経済学部を卒業。同年4月から三菱UFJ銀行に勤務し、アナリストとしてニューヨークなどアメリカ大陸の都市に駐在。20年8月、同銀行を退職し、前市長の辞職に伴う選挙に出馬し当選。X(旧Twitter)のフォロワーは約30万人を数える。趣味はトライアスロン。

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