インタビュー

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.6 NHKプロデューサー 加藤英明さん 紅白の危機 発想力で乗り越える

2024.02.16

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.6 NHKプロデューサー 加藤英明さん 紅白の危機 発想力で乗り越える
京都大学は2022年に創立125周年を迎え、これまでの学部卒業生はおよそ22万人にも及ぶ。卒業生は進路の選択に際し、何を考え、感じ、選び取ってきたのか。

今号では、京大法学部を卒業後、NHKで音楽番組の制作に携わり、紅白歌合戦のチーフ・プロデューサーを務めた経験も持つ加藤英明さんにお話を伺った。(史)

目次

京都で文化的体験に打ち込む
びっくりするほど仕事ができない
異動後大きな仕事を任される
アーティストが輝く演出を作る
予期せぬ事態を逆手に取る
日頃の信頼関係を大切に
好きなことをとことん追求して

京都で文化的体験に打ち込む


――京大を目指したきっかけを教えてください。

アメリカの高校に3年間留学していたので、その際に取得した国際バカロレア(※)を使って国内外の大学を複数受験しました。京大は国際バカロレアを持っている学生を評価してくれる大学だったので、受験を決めました。京大に所属する国際政治学の教授の本を読んでおり、著名な先生がいることは知っていましたが、どんな大学なのか何も知らないまま記念受験のような気持ちで受験しました。正直受かるとは思っていなかったので、一般入試と違う方法で入学したことに対してはずっと後ろめたさがありました。

※編集部注
国際バカロレア機構による教育プログラムで取得できる国際的な大学入学資格。

――大学ではどのような生活を送っていましたか。

法学部の政治思想史のゼミに所属していました。本当に自由なゼミで、週に1回集まって学生が好きなテーマについて1時間半発表し、討議していました。僕は当時好きだったE・W・サイードについてプレゼンした記憶があります。学生がやりたいことに柔軟に取り組むことを認めてくれる雰囲気がありました。

あまり真面目に大学に行っておらず、本を読んだり映画を見たり、ライブに行ったりしていました。僕は現代美術や音楽に興味があったので、文化的なイベントにもよく足を運びました。京都で文化的な体験がたくさんできるというのは、住んでみないと分かりませんでした。京都には自由な発想を生む土壌があると思います。

――いつからメディアへの就職を意識していたのですか。

3回生後半に周りが就職活動を始めたとき、自分が何をやりたいのかを考えました。キュレーター(※)を目指して大学院で学ぶ選択肢も頭をよぎりましたが、そのためには大学院試験の対策をしなくてはいけない。在学中に写真の仕事をしていたことがあり、漠然とメディアに興味があり、勉強を続けるよりメディアに就職して自分の経験を生かしたいと考えるようになりました。報道的なドキュメンタリーやエンタメなど様々な番組を放送しているNHKをよく見ており、知性や教養を大事する雰囲気に惹かれて、試験を受けました。

※編集部注
美術館や博物館で展示物の収集や管理を担当する専門家のこと。展覧会の監修や構成を担うこともある。

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びっくりするほど仕事ができない


――就職後、どのような仕事に携わったのでしょうか。

番組を制作するディレクターとして採用されました。写真や映画などのアートを扱う番組やドキュメンタリーを作りたいと思っていましたが、音楽番組の部署に配属され、最初に関わったのは「のど自慢」でした。「鶴瓶の家族に乾杯」にも携わり、全国各地に行ってそこに住む人と関わることがメインになりました。特に地方で毎週「のど自慢」の生放送をするという仕事は、職業として芸術に打ち込んでいる方と番組を作りたいという当初のイメージとは全く違うものでした。

――働く中でどのようなことを感じましたか。

京大を卒業したことに対して多少自信を持っていましたが、びっくりするほど仕事ができませんでした。実社会に出た後、仕事のやり方を1から学ばなければならず、大学で学んだことはほとんど生かせなかったです。先輩に怒られ、今でも言えないような恥ずかしい体験もたくさんしました。就職して、自分は何のために生きてきたんだろうと思いましたね。自分を信じて勉強して、色々なものをインプットして、いざ社会に出て番組を作るぞと意気込んでいたのですが何にもできなくて、3年目に1回やめようと。

――それでもNHKを離れなかった。

色々な人の知恵とノウハウを集めて番組を作る中で、魅力的な同僚や先輩に刺激されました。1つの番組を作るために、ディレクター、プロデューサー、カメラマン、音声、照明、編集者など何十人が関わっています。実は自分と似たような批判精神や問題意識を持っている人がいると分かり、もう少し続けてみようと思いました。

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異動後大きな仕事を任される


――いつから紅白に関わっていたのですか。

東京配属だったので、入局した当初から関わっていました。当時TBSは紅白の放送日と同じ大みそかに「輝く!レコード大賞」を放送していたので、赤坂のTBSから渋谷のNHKまでアーティストを短時間で移動させなくてはいけませんでした。僕はハイヤーを呼んでアーティストを運ぶ、輸送という仕事をしていました。1番下っ端がやる仕事で、ステージとは最も遠い場所にいたので、全然ぱっとしないと思っていましたね。

――「下っ端」から全体を統括する立場になる契機は。

4年目に大阪局へ異動になり、新たに完成したNHK大阪ホールのこけら落としの番組「わが心の大阪メロディー」の演出を任されました。不思議なもので、失敗を繰り返しながらも適応しようとか、結果を出そうとしていると、その姿を誰かが見ています。

エンターテインメント系番組は、スケジュール管理や全体の進行を担う「フロア」と具体的な中身を考える「演出」で担当が明確に分かれています。フロアから、いきなり演出を担当するようになったことでガラッと景色が変わりました。キャリアアップには段階があって、まずフロアから演出を担うディレクターになるタイミングがあり、そこからプロデューサーになります。僕はディレクターになる転機で、普通は3年かけてやるような大きな仕事を1年でやることになりました。ステージで音楽を生放送で届けるノウハウを短期間で叩き込まれるという機会を得たことが、後に紅白を担当することに繋がったと思います。

この番組は評判がよく、周囲から注目されるようになりました。東京に帰ってきて、「SONGS」など通年放送しているレギュラー番組の他にやりたい企画を聞かれるようになり、特集番組を任される機会も増えました。紅白の演出はやりたいからできるというものではなく、特番番組を通じて高い評価を得られた人に割り振られていきます。上司が僕に任せる決断をしてくれたことが大きいです。

――どのようなところが評価されたと分析していますか。

仕事は、やはり結果で全てを判断されます。放送を通じて世に出たものが、どれだけ耳目をひき視聴者に感動を届けたかを見て、上司が任せようと思ってくれたのではないでしょうか。

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アーティストが輝く演出を作る


――紅白の総合演出を初めて任されたのはいつですか。

2011年です。折しも東日本大震災によって日本中が暗く沈んでいた年でした。東北の復興に向けて何ができるかを考えなくてはいけない時に、エンタメは不要不急だという意見を聞くことも多くて、紅白なんてやっている場合かとNHKでも言われていました。

しかし、震災から半年くらい経つと、アーティストが寄附をしたり歌を作ったりと東北を応援する気運が生まれました。そこに、暗く沈んでいる人に寄り添って応援するというエンタメの根本的な役割を見出しました。明日への希望をせめて歌に託そうと「明日を歌おう」をテーマに掲げ、どうやって歌を届けたらいいかとスタッフと議論して番組を作り上げました。ありがたいことに多くの人に見ていただいて、翌年も総合演出を担当しました。

――その後、番組全体の責任者であるチーフ・プロデューサーを務めることに。

レギュラー番組として担当する「SONGS」の制作と並行して、紅白のチーフ・プロデューサーを任されるようになりました。チーフ・プロデューサーの主な仕事は、番組全体のテーマを考え、企画をディレクターと話し合いながら決めることです。キャスティングも重要な仕事です。プロデューサーが大きな方向性を示して、それに従ってディレクターが具体的な企画を考えていきます。チーフ・プロデューサーは18年、19年、20年、22年と4度経験しました。

視聴者に1年を振り返りながら、見たことのない特別な体験をしてもらいたいと思っています。どんな仕掛けを詰め込めば、新たな驚きや感動、発見をしてもらえるかを考えて、企画を練り上げます。不思議なもので大みそかのアーティストの歌はいつもと全然違って、1年の集大成の成果が出ます。1番輝く瞬間を届けるために、どのような演出をするのかを丁寧に考えていきます。

NHKホールの制作統括席で演出を確認する様子。画面には、実際の放送を想定した映像が流れる(撮影:田中聖太郎)


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予期せぬ事態を逆手に取る


――コロナウイルスの流行により社会情勢が大きく変化した年の紅白を担当した。

20年は、本来であれば東京オリンピックが開催される年でした。16年頃から準備を進めていたので、延期が発表された後、途方にくれましたね。ライブハウスで感染が拡大したことが大きく報じられ、エンタメは再び不要不急だと言われました。

従来通りの紅白を放送するためには、大勢の人をステージにあげて「お祭り感」を演出することが不可欠ですが、コロナウイルスの対策とは大きく矛盾しています。そこで、今までの紅白をある意味180度変えなければいけないと考えました。

――具体的にどのようなことを変えたのですか。

まずは収録を導入しました。事前に収録することで、アーティストや関係者は当日スタジオに来る必要がなくなります。しかし、これは紅白の歴史上、絶対にやってはいけない「ご法度」でした。もう1つはNHKホールの混雑を避けるために、複数のスタジオに会場を分散しました。

――「ご法度」を破った原動力は何ですか。

紅白には全て生放送でやるという伝統と、そうしなくてはいけないという思い込みがありましたが、コロナウイルスの影響でこれまで通りにはできない。そこで、この状況を逆手に取ってどうクリエイティブなものを作るかを考えました。番組を作る中で予期せぬ事態は起きますが、そこで止まると次がない。危機的状況を踏まえて次の道筋を提示できるかどうかは、制作者に求められている能力だと思います。

ずっと紅白を作ってきた先輩にはかなり怒られましたが、民放では当たり前に収録を導入しています。生放送にこだわり続けてきたことで失ったものもあるはずだから、いい機会だと考えました。視聴者が飽きずに楽しんでくれれば、生放送だろうが収録だろうが関係ないですから。

――先輩に従わず自分で判断した思いは。

ここで紅白の火を絶やしてはいけないという気持ちがありました。密の状態を作ってはいけないという制約の下で、収録も分散もせずやっていたら、貧相なステージになっていたでしょう。今までの豪華さをどうやって作り出すかという工夫が大切です。困難な状況を逆手にとって新しい方法を生み出すことができると、それは後に続きます。予期せぬ事態に対して1つずつ解決策を提示していくことで、難しい状況を乗り越えてきました。

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日頃の信頼関係を大切に


――制作側から見た紅白のやりがいは。

国民的音楽番組だと言っていただいているからこそ、やりがいもプレッシャーもあります。そう言ってもらえる番組を作り、次にバトンを渡さなければいけないという感覚が強いです。アーティスト40組が出演する生放送の番組を4時間半、全部やり遂げるのは大変なんです。司会やアーティスト、バンドがいて、大きなセットがあってという中で全体を1つに束ねて番組を作り上げることは楽しいですが、一方で苦しい面もあります。作品性の異なるアーティストに対して、1つの舞台を一緒に作りましょうと説得しなくてはいけません。民放の音楽番組が多くある中、紅白でしか見られないものを作り上げることは、決して楽なことではないです。

――アーティストと仕事をする上で意識していることは。

番組への出演を交渉することが僕の仕事です。企画がいかに魅力的であるかを誠心誠意伝えることが大切です。「面白いことを一緒にやりましょう」という感覚を持ち続けることを意識しています。この人と一緒に仕事すると何かインパクトのある事ができると繰り返し思ってもらうことが、紅白に出てもらう信頼関係に繋がります。日々のレギュラー番組で培った信頼関係が紅白のステージを作り上げています。

NHKホールのステージに立つ加藤さん。出演者とのコミュニケーションを大切にしているという(撮影:田中聖太郎)


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好きなことをとことん追求して


――音楽番組の役割は何だと考えていますか。

メディアには人の命を救ったり、社会的な問題を解決したりする力がありますが、僕自身、メディアの本質は「楽しいこと」だと考えています。テレビをつけて、深刻なニュースやドキュメンタリーばかり流れていても視聴者は見ないと思います。音楽番組やお笑い番組など人を楽しませるコンテンツが果たす役割は大きいです。落ち込んでいる時でも、歌を聴いて元気が出たと思うことがありますよね。そこに音楽が果たせる役割があると考えています。

――中高生や大学生、進路選択に悩んでいる学生に対して、何かメッセージを。

自分が好きなことを追求した方がいいと思います。感覚が教えてくれることを徹底的に煮つめた方がいい。グーッと突き詰めていくと、中途半端では見えないものが見えてくる。それを信じてやりたいことを見つけると、最終的には後悔しないと思います。

また、人との繋がりがとても大事だと思いますね。若い頃は周りと一緒にされたくないとつっぱねていましたが、今では同期や同僚の大切さを痛感しています。仕事仲間が同じ大学出身で打ち解けることや、大学の時の知り合いに連絡を取って新しい仕事が生まれることもあります。学生時代の人との繋がりを大切にしてほしいです。

――ありがとうございました。

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加藤英明(かとう・ひであき)
1973年東京都生まれ。ニューヨークにある国連国際高校を卒業し、93年京都大学法学部に入学。97年NHKに入局。その後音楽番組を担当し20年以上に渡って紅白歌合戦を担当。11年と12年の紅白歌合戦をディレクターとして総合演出、その後18年「平成最後」の紅白から19年、20年、22年にチーフ・プロデューサーを務める。現在はNHKプロジェクトセンターのエグセクティブ・プロデューサー。24年1月に放送されたNHKスペシャル「世界に響く歌 日韓POPS新時代」を制作した。

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