文化

〈映画評〉 ヱヴァンゲリヲン新劇場版 「破」

2009.08.12

今年の6月27日から上映が開始されている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』は、2007年の9月に上映された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』の続編であり、1995年から放映されたTVアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』の第8話~19話にあたるストーリーが再構成されている。しかし、TV版と今回の劇場版ではストーリーの所々や作品全体の作りに重大な違いが多く見受けられた。

まず、『ヱヴァ破』(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』。以下、このように略す)において最も特徴的であったのが、登場人物の多くが非常に行動的であり、また対人関係の構築に前向きであるという点である。人との接し方がわからない綾波レイは、一生懸命料理を覚え、さらには自分が好意を抱くシンジとゲンドウの二人に仲良くなってもらおうと食事会まで企画するという、TV版『エヴァ』の彼女では考えられなかった行動力を見せる。碇ゲンドウも、息子シンジとの食事会に行くことを承諾する。さらに、式波・アスカ・ラングレー(惣流・アスカ・ラングレーから改名)も、3号機のテストが綾波の食事会の日と重なった時にシンジや綾波に代わって自らテストパイロットに志願し、綾波の食事会にそれとなく協力するなど、よりシンジや綾波に好意的な態度を取っている。

また、登場人物が皆、明快で具体的な動機のもとに行動しているのも特筆すべき点だろう。終盤で現われる最強の使徒、ゼルエルに、綾波は「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」と言って向かっていく。新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアスは使徒との戦いを「自分の目的」と言い、シンジはゼルエルに捕食される零号機を見たことにより、綾波を助けるという目的をしっかりと携えてエヴァに搭乗する。ラストシーンでは、ミサトの言葉通り「誰でもない自分のため」にシンジは綾波の救出に向かい、シンジについていくことをためらう綾波に「来い」とまで叫ぶ。率直に言おう。『ヱヴァ破』の碇シンジや綾波レイは、TV版の彼らとはほとんど別人だ。『エヴァ』という作品に生じたこれほどまでの変化には、やはり時代全体の変化が介在していると言わざるを得ない。

評論家の宇野常寛氏は自著『ゼロ年代の想像力』において「決断主義」というキーワードでもって00年代のサブカルチャーの性質を表現している。宇野氏によれば、00年代の若者は社会が「何もしてくれない」ことを前提として受け入れており、ゆえに、「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という「サヴァイヴ感」を前面に打ち出した作品を積極的に支持したのだという。「サヴァイヴ系」の代表的な作品としては「僕は、新世界の神になる」の『DEATH NOTE』や、「東大に行け。人生を変えろ」の『ドラゴン桜』があげられる。この論理を踏まえて考えてみるならば、自意識の迷宮の中で哲学する「ひきこもり」的色彩を持った作品を嗜好した90年代の若者の共感を勝ち得たのがTV版『エヴァ』であるのに対して、不透明な社会の中で「生き残る」ために思索よりも行動をより重んじる「サヴァイヴ」系の作品に熱狂した00年代の若者の心をつかめるのが『ヱヴァ破』であるといえるだろう。

『エヴァ』という作品の空気を時代の要請に合わせて適切に変化させてみせた庵野秀明監督の才能と柔軟性にはただ感服するばかりである。彼は90年代に『ふしぎの海のナディア』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『彼氏彼女の事情』の3作品で、自己を肯定してくれるものの存在を渇望し、懊悩する若者を描いた。これらの若者の姿には庵野氏自身の姿が投影されていると彼が自分で認めていたことも相まって、「庵野は悩む若者の姿を描くクリエイターだ」という意識が世間に長い間存在した。だが、00年代的な行動力肯定の精神が『ヱヴァ破』の登場人物を通していかんなく表現されたことは、「90年代的引きこもり系思想の発信源」という呪縛から庵野氏を解き放つのに十分な役割を果たすだろう。『ヱヴァ破』は庵野氏のキャリアにおいても極めて重要な作品になるかもしれない。今後、公開予定の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q』も大いに楽しみである。00年代的な思想モードへの転換を遂げた新しい『エヴァ』の行方に、これからも目が離せない。 (47)



《本紙に写真掲載》

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