文化

映画評論 第8回 生きる自信が湧く映画『PERFECT DAYS』

2024.02.16

【寄稿】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ文学研究科教授

様々なメディアで話題になっているこの作品を、正月前後の休みを利用してすでに観た読者も多いかもしれない。二ヶ月前に全国公開されて以来、映画の感想もいろいろなところですでに書かれている。例えば、ドキュメンタリー映画作家の想田和弘氏は、フェイスブックで 「ユニークな物語構造が新鮮。とても落ち着いていて優しい、良い映画でした。日本人や東京をロマンタサイズしすぎな感じもありますが(笑)。場所や職業こそ違うけど、僕の生活も役所広司の生活とほぼ同じ感じです」 と記述している。確かに、日本人の生き方や東京という都市空間をロマンタサイズしている感は拭えないが、それでもなお心惹かれる本作品の魅力について改めて考えてみたい。

ヴェンダースと小津


ヴィム・ヴェンダースの作品を観るのは久しぶりだ。最後に観たのは2018年のドキュメンタリー映画 『Pope Francis: A Man of His Word』 だった。何と言っても彼の代表作は、『パリ、テキサス』 (1984)や 『ベルリン・天使の詩』 (1987)であり、ファスビンダーやヘルツォークといったニュー・ジャーマン・シネマの旗手たちと共に、ヴェンダースは1980年代の映画界に彗星のように現れた。彼はフィクションもドキュメンタリーも手がけるため、作品総数はかなり多く、内容も幅広い。短編やテレビ番組、ミュージック・ビデオなども含めると、86本の作品を世に送り出している。

ヴェンダースは、小津安二郎監督作品をオマージュしながら『PERFECT DAYS』を製作している。36年前に手がけた『東京画』(1988)に続き、二度目の小津へのオマージュである。1983年春、ヴェンダースは日本を訪れ、その時撮影したビデオフッテージを使って『東京画』を製作した。そこでは、小津の作品に頻繁に出演した笠智衆も撮影されている。これら二作品が、ヴェンダースの東京観を凝縮した映像なのだと言えるだろう。DVDで『東京画』を初めて観たとき、「オリエンタリズムの視点とは、こういった見方なのだな」と、妙に腑に落ちたことを覚えている。

1945年生まれのヴェンダースは今年で79歳になる。その彼が、ミニマリズムを前景化した斬新な秀作『PERFECT DAYS』を、東京・渋谷の公衆トイレの清掃員・平山(役所広司)を主人公として作り上げた。主人公の名前である「平山」は、小津映画の中で笠智衆の役どころに与えられた名前であった。映画史において、知る人ぞ知る、燻し銀のような名前をあてがわれた役所広司は、昨年5月カンヌ国際映画祭にて最優秀男優賞を受賞した。また、本作は第96回米国アカデミー賞授賞式に国際長編映画賞部門の日本代表として参加することが決まっている。3月11日早朝(3月10日現地時間)のオスカーのテレビ放送が楽しみだ。

繰り返しから生まれるロマンタサイズ感


先ほど言及した、「日本人や東京をロマンタサイズしすぎる感」に戻ろう。果たしてこの作品は観客の多くに、いったい何を、そしてどのように、ロマンタサイズさせるのだろう? それを考えるためのキーワードは、「繰り返し」ではないだろうか。

『PERFECT DAYS』の公式サイトは以下の文章で始まる。「同じことの繰り返しに見えるけれど、平山にはそうではなかった。すべてはその時にしかないもので/だから、すべては新しいことだった。」[1]誰が書いたものかは明示されてはいないけれど、この一文は作品の核を掴んでいると思う。平山は、ビルの谷間から東京スカイツリーを眺めることのできる、小汚いながらもきちんと整頓されたアパートに住みながら、渋谷区の公衆トイレの清掃員として生計を立てている。平山が毎日清掃をする公衆トイレの数々は、ただの公衆トイレとは異なる。それらは、ユニクロのグローバル・マーケティングを担当したプロデューサー・柳井康治が発案したTHE TOKYO TOILETプロジェクトのためにデザインされた、謂わば「アート・トイレ」である。『PERFECT DAYS』は、このアート・トイレの清掃員を主人公に据えた短編映画を作るという発案から始まった、所謂PR映画(広告や宣伝を目的として作られた映画)である。

平山は毎日、近所の誰かが落ち葉を竹箒で掃く音と共に目覚め、せんべい布団を勢いよくたたむと、急いで階下に降りて身支度をする。歯磨きをして、顔を洗い、口ひげを小さなハサミで整え、使い慣れた電気シェーバーで手早く顎髭を剃った後、清掃員のユニフォームを着用する。出かける前には、2階の日当たりの良い場所に集められた沢山の植木鉢に水をやることも忘れない。最後は、玄関口に几帳面に並べられた鍵や小銭や古い小型カメラをポケットに入れ、玄関の扉を開ける。いつもここでカメラが切り替えられ、平山が微笑みながら空を見あげる左正面からのショットが続く。仕事が楽しいに違いない。掃除用具が満載された小型のボックス・カーに乗り込み、まだ暗いうちから公衆トイレの清掃業務に向かう。車に乗り込む直前には、駐車場の片隅にある自動販売機で必ず缶コーヒーを一つ買う。それが平山の日課の始まりだ。『PERFECT DAYS』では、平山のこういった毎日のルーティーンが何度も繰り返し表現される。

早朝の哀しみ、日常の喜び


朝起きるのは苦手だという人も多いかも知れない。著者もその一人である。しかし、その理由は眠くて起きるのが辛いからではなく、睡眠から覚醒するとき、まだぼんやりと夢を見ているような時間が苦手だからである。半覚半睡時に、心の中に閉じ込めておいた深い哀しみや辛い思い出が甦ってくることが多く、目覚めると「ああ、また自分という身体の中で同じような1日を始めるのか」と気が重くなる。だが不思議なもので、一旦ベッドから抜け出し、家中のカーテンを開け、台所で湯を沸かしてコーヒーをいれ始める頃には、さっきまで抱えていた哀しみは、フッとすり抜けてしまう。このような早朝の哀しみについて、取り立てて人に話すことはないけれど、『PERFECT DAYS』を観ながらそれを思い出した。

平山は真逆だ。いつも同じようにサクッと目を覚まし毎日を始め、人からは粗末な仕事だと思われがちな公衆トイレの清掃仕事を黙々と行う。『PERFECT DAYS』は、こういった平山の毎日のルーティーンを過剰なほどに繰り返し表現することによって、毎日を繰り返す事への倦怠感や漠然とした不安を覚えがちなわれわれに、一定の共感を呼び起こすと同時に、その繰り返しの中にも実は喜びや発見があることを想起させる。繰り返しの中に生まれる喜びは、この作品の中では、映画という映像表現をとおして確信的に作り上げられている。例えば、車中で平山が聞く、カセットテープが主流だった時代(1960〜70年代)のヒット曲―「The House of the Rising Sun」(1964)や 「Perfect Day」(1972)―だったり、彼が寝る前に必ず読む文庫本―幸田文の『木』(1992) やパトリシア・ハイスミスの 『11の物語』(1990、改版2000)―だったり、昼食のサンドイッチを食べながら撮る樹木の写真であったり、浅草駅のガード下の飲み屋で一杯飲みながら食べる質素な夕食、仕事が終わった後に自転車で通う銭湯といった情景から、小さいけれども愛しい喜びが紡ぎ出される。われわれは、日常の中で、このような愛しい喜びをフッと感じることがあるが、映像でこの感覚を作り出すことは簡単ではない。

生きることへの自信


『PERFECT DAYS』の中で作り上げられた平山の生活は、座禅とはただ座ることであると説く禅僧・ネルケ無方の言葉に通じるものがある。座禅をして何になりますか?という問いに対して、ネルケは以下のように答える。

「『何にもならない』からこそ、座禅がいいのです。人間の一生も、結局、何かになるようなものではありません。しかし、この『何にもならない』一生を、『ただ生きる』ことが重要なのです。(中略)ただ生きることに自信を持つことだと思います」[2]

『PERFECT DAYS』の主人公が、生きる事に自信をもっているかどうかが問題なのではなく、この作品では、彼がただ生きていることが、繰り返されるシークエンスによって表現されている点が重要なのだと思う。私は、この禅僧の言葉と映画作品との共鳴から、『PERFECT DAYS』が禅的だとか、小津的だとは思わない。しかし、少なくとも言えることは、ヴェンダースが、「日本人」や「東京」という空間や、小津作品の中核となる生活における概念を、こういった感じに捉えているのだという事実である。新たな意味でのオリエンタリズムを再発見したような気がするが、必ずしも居心地の悪い気持ちではない。なぜならそれは、この映像にオリエンタリズムが内在するとしても、観客の立ち位置がどこであろうと、それがまさに今、多くの人々に求められる価値観に違いないと感じるからだ。『PERFECT DAYS』、2024年初頭の必見の一作である。

[1] https://www.perfectdays-movie.jp/?days(2024年1月21日アクセス)。
[2] ネルケ無方『ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅』(光文社、2012年)7頁。

◆映画情報
監督 ヴィム・ヴェンダース
上映時間 123分
2023年12月22日より全国公開。京都シネマ及びその他京都市内4館にて上映中。出町座では2月9日より上映。

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