文化

映画評論 第2回 『怪物』をめぐる二重の両義性構造 『怪物』

2023.08.01

【寄稿】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ文学研究科教授

今年はカンヌ国際映画祭から幾つもの吉報が送られてきた。役所広司がヴィム・ヴェンダースの『Perfect Days』で最優秀男優賞を受賞し、坂元裕二が『怪物』で最優秀脚本賞を与えられ、本作品は日本映画として初めてクィア・パルム賞をも受賞した。この賞はカンヌ国際映画祭の独立賞の一つで、LGBTQ+を題材にした映画に与えられる。近年クィア・パルム賞を受賞し話題を呼んだ作品として、トッド・ヘインズの『キャロル/Carol』(2015) やセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu』(2019)がある。『怪物』にとってこの受賞が、その後「両義性構造」とも言える喧噪を引き起こすことになろうとは、受賞当日誰も予期していなかったに違いない。今回は本作品にまつわる複数の両義性構造について考える。

『怪物』に内在する両義性は見えにくい。公式サイトは以下のように作品を紹介する。「大きな湖のある校外の町。息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。それは、よくある子供同士のケンカに見えた。しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み大事になっていく。そして嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した――。」[1] この粗筋からは、タイトルである怪物が一体なんなのか解らない。

現実に対する異なる見方がジグソーパズルのように互いを補完し、最後に事象の全貌が明らかになる。シングルマザーの早織(安藤サクラ)は、息子・湊(黒川想矢)が学校で担任からいじめられていると学校に掛け合う。湊の担任(永山瑛太)は、自分を真面目で子供思いの教師だと自認しており、むしろ湊が同級生の依里(柊木陽太)をいじめていると疑っている。しかし子供たちの視点から湊と依里の関係が描かれた時、新たな現実が現れる。[2]

作品に内在する両義性を明らかにするには、坂元裕二のインタビューが役立つ。彼は自分が体験した運転中の出来事について語る。赤信号で待っている時、目の前のトラックが青になっても動かない。信号に気づいてないに違いないとクラクションを鳴らしたが、それでもトラックは動かない。苛立ちを覚える。しばらくしてトラックがやっと動いた時、信号を渡り終えた車椅子の利用者が歩道に見えた。トラックは、この身障者を辛抱強く待っていただけだった。「自分が被害者だと思うことには敏感だが、自分が加害者だと気付くことは難しい」というその時の後悔――被害者であり同時に加害者である自己の両義性――を坂元は『怪物』で再生産したかったと語る。[3]

この作品のもう一つの両義性についても目を向けてみよう。受賞後是枝は、「一部で子供たちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれ(中略)というようなことが囁かれていると耳にしているのですけれども、観た方の感想で、なるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思う」[4] と語る。彼の本心に違いない。しかし、是枝の「間違いない」という考えにも、両義性がつきまとう点に注意を喚起したい。

本作品は、子供たちの葛藤を、彼らの言葉「かいぶつ、だーれだ」という表現に換喩している。ここで言う「怪物」は子供たちの性的マイノリティーとしてのアイデンティティであるわけだが、作品は意識的にそれを不可視化している。その行為は、是枝や坂元といった作り手の意図とはかけ離れた市場の原理――一人でも多くの観客に見せるための戦略――であったのかもしれない。[5] いつもは音楽を極力排除する是枝が、今年3月故人となった坂本龍一の音楽を過剰に映像に被せるあたりにも市場の原理を感じる。しかし、結果として本作は、意識的に性的マイノリティーとしてのアイデンティティを不可視化してしまった。

性的少数者の不可視化は、映画史の問題と否が応でも呼応する。ことにクィア・シネマに通ずる研究者や、性的マイノリティーを自負する観客にとって、先入観なく作品を見ることは難しく、またその様に見ることを操作されることは必ずしも「間違いない」とは言えない。「主にハリウッドを中心とした異性愛規範的なメインストリームの映画産業において、性的マイノリティは『怪物』や『悪者』として描かれることが多く、それらのイメージにはつねに死の影が付きまとってきた。(中略)1990年代初頭のニュー・クィア・シネマの波を参照項に、性的マイノリティをめぐる映画表現は反省を促され、新しい表現が積極的に模索されてきたはずだ」と、映画研究者・久保豊は記述している。[6] 本稿で俎上に載せた複数の両義性構造をどう考えるかは、最終的に見る主体である読者が決めることであるが、このような読みの楽しみを充分有する本作品は必見の一作であると思う。

[1] https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/about/(2023年6月30日アクセス)。
[2] 物語のこのような構造に関し、精神科医・斉藤環は『怪物』を『羅生門』効果を用いた作品ではないと強調している。斉藤環、「映画のまなざし転移 134 存在しないはずの場所に「怪物」は顕れる」、『キネマ旬報』(No. 1925, 2023年7月上・下合併号) pp.102-103。
[3] カンヌ凱旋記者会見、https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/news/#n20230619_press3 (2023年7月1日アクセス)。
[4] 同上。(文章を簡潔化させるため、一部の文末表現変更あり。)
[5] 『怪物』の中心的なプロデューサーは東宝の川村元気であり、彼の敏腕によって、新海誠の『君の名は。』(2016)は、世界全国でUS$382,238,181(日本円で約550億円)の興収をあげている。https://www.imdb.com/title/tt5311514/?ref_=nm_knf_i_2 (2023年7月1日アクセス)。
[6] 久保豊、「映画『怪物』はなぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか。映画製作の構造的な問題を考える」6/17(土)11:48配信https://news.yahoo.co.jp/articles/7448dd7d30ce087c87a39ed7e9e9a19b55c8b880 2023年7月1日アクセス)。

◆作品情報
『怪物』(2023)/監督:是枝裕和/脚本:坂元裕二/キャスト:安藤サクラ、永山瑛太 他/2023年6月2日全国公開

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