インタビュー

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.2 アナウンサー 新実 彰平さん 報道番組の「キャッチャー」として

2023.08.01

【卒業生インタビュー 京大出たあと、 何したはるの?】Vol.2 アナウンサー 新実 彰平さん 報道番組の「キャッチャー」として

大学入学まで
「甲子園のスター」と戦いたい


――京大を志望したのはなぜでしょうか。

実家が京大に近かったことも理由の一つですが、京大野球部の所属する関西学生野球連盟(※)では、テレビで見ていたような甲子園のスターたちと戦える、しかも甲子園球場が使える、というのが大きかったですね。高校は進学校でしたが、勉強、野球どちらも全力で取り組む、という環境でした。結局、高校はジャイアントキリング(格上の対戦相手を下すこと)が出来ずに不完全燃焼に終わった感覚があったので、大学こそは、という気持ちでした。夏の大会が終わってからは毎日、京大野球部のブログを読んで「ここで野球をするんだ」というモチベーションにしながら勉強をしていました。

※編集部注
京大のほか、近畿大・関西大・立命館大・同志社大・関西学院大で構成される野球リーグ。試合会場には、阪神甲子園球場などプロ野球で使われる球場も使用する。プロ野球選手を多数輩出するリーグでもあり、近年だと佐藤輝明(近大OB。現・阪神タイガース)、東克樹(立命館大OB。現・横浜DeNAベイスターズ)など。

――高校時代にはプロ野球の世界も視野に入れていたのでしょうか。

あるわけないですよ(笑)。当時は将来の選択なんて考えずに、とにかく京大野球部へ、という感じでした。高校時代から夢が定まっていて、それに向かって一直線に進む人の方が少ないのではないでしょうか。高校の野球部では、燃え尽きていたというか、大学に行っても硬式野球をしたいという同級生はほとんどいなかったです。ようやく野球漬けの毎日から解放されて、野球以外のことをする機会があるのに、「高校の延長みたいなことをいつまでやってるんだ」と周りからは思われていました(笑)。

大学在学中
「最高峰を知った」大学生活


――どんな4年間を過ごされましたか。

本当に野球一筋でしたね。逆に野球以外のことを本当に何もしなかったので後悔はあります。京大で勉強したはずなのに何もインプットされていないんですよ。法学部で政治や法律を勉強したんですが、明確になにかが仕事に活きているわけではありません。4回生の秋に野球部を引退して、親には「3か月でも留学したらどうか」と勧められたんですが、それを断って後輩の練習を見に行っていました。とても後悔しています(笑)。今となっては、親の言うことは聞いとくもんやなと痛感します。

――4回生の春にはキャッチャーとして首位打者とベストナインも獲得されました。

成績のとおり、3回生までは試合にそこそこ出られる程度で、ほぼ結果を出せずにいた(※)のですが、甲子園出場経験が豊富な監督に代わって、それまで受けたことのないような指導をいただきました。思い切ってやり方を大きく変え、ひと冬徹底的に練習をしたところ、劇的にバッティングが改善しました。オープン戦から春リーグにかけて3か月は「無双状態」で打ち続けました。ただ、兼任していた主務業も忙しくなり夏場に練習量を維持できず、状態は下がってしまいました。

※編集部注
新実さんの3回生秋までのリーグ成績
36試合出場 63打数 11安打 .175
新実さんの4回生春のリーグ成績
9試合出場 29打数 12安打 .414

京大硬式野球部時代の新実さん。4回生時には、のちにプロ入りする田中英祐氏ともバッテリーを組んだ(写真は新実さん提供)



――当時、ライバルはいらっしゃいましたか。

自分は誰かをライバルと言えるレベルにはなかったので、例えば小林誠司(※)のことをライバルとは到底呼べません。中・高と踏んできたキャリアも全く違いますし、彼は大学でリーグ優勝も経験しています。彼の能力、特に肩がすごいというのは大学生ながらにわかってましたけど、プロに入って「プロでもナンバーワンなのか」と驚きました。リーダーシップや人徳を含めて何ひとつ勝っているところはありません。


※編集部注
同志社大学OB。現・読売ジャイアンツ。同大時代には大学日本代表にも選出されている。強肩が持ち味で、2016年から4年連続でセ・リーグ盗塁阻止率1位を記録した。新実さんとは同じリーグの同級生・同一ポジションでタイトル争いを繰り広げた。

――リーグの中でも存在感を放つ存在になってもなおプロや社会人は考えなかったのでしょうか。

春の成績だけで評価していただければ、社会人野球からのオファーも、もしかするとあったかもしれません。しかし、実力がそのレベルにないことは自分が一番分かっていました。足も肩も、身体能力の面でかなり隔たりがあったので、プロや社会人は考えられませんでした。あとは、3回生の冬に関西テレビの内定をいただいていたことも大きかったです。

――改めて大学野球を振り返っていかがでしたか。

「最高峰」を知ることができたことは楽しかったですね。最高峰を知るということはつまり、自分の力のなさを知るということです。高校で野球を辞めていたら、自分は野球をそこそこやっていたと勘違いしていたと思います。はるかに高いレベルで取り組んできた人たちがいると知れたことが、大学野球を経験して一番良かったと感じるところです。

就職から現在まで
「テレビに出たいとは全く思っていなかった」


――アナウンサーという進路選択はいつ頃から意識されていたのでしょうか。

「アナウンサーになりたい」と考えたことは人生で一度もありませんでした。もともと公務員志望だったんですが、野球と就職活動の両立が難しく、諦めて民間就職に切り替えました。インフラ業界を中心に就職活動をしていましたが、テレビ局も受けました。テレビっ子だったので、バラエティーのディレクターになりたかったんです。そんな中、母から「どうせテレビを受けるんやったら、アナウンサーの試験も出したらええんちゃうの」と言われて。思いがけずエントリーシートが通り、面接も1次2次3次と受かって行って。最終面接に呼ばれたときは驚きました。

――周囲の反応はいかがでしたか。

今の妻と当時から付き合っていたんですが、内定が出ると話したら「別れる」と言われました(笑)。「顔と名前をさらす職業の影響の大きさを分かってる?そんな人生を選択するとは、これまで聞いてない」と。要は「ちゃんと自分で選択しているか」と突きつけられたんです。本当にその通りで、周りは当然、アナウンススクールに通ってから来るわけです。

内定後は「僕なんかでもやれるのか、やっていいのか」という気持ちに苛まれましたが、テレビ局で番組を作る職業のひとつとしてアナウンサーになるのも運命なのかなと思って入社を決めました。だから、夢と希望を持って入ったわけでもなくて、周囲からは反対をされ、自分自身も何ができるか全くわからず、そもそもテレビに出たいともまったく思っていませんでした。

――入社前に抱いた不安な気持ちはアナウンサーになってからどうなりましたか。

ずっと不安なままでした。ニュースをただ読むだけならあまり苦労せずできるようになりましたが、どう笑顔を作るのかとか、インタビューって何なんだとか、壁にぶち当たることばかりで。覚悟の決まらないままアナウンサーになってしまい、僕自身がテレビに出ることを楽しめていないのにカメラの向こうの視聴者を楽しませなければいけない、という葛藤がありました。

「取り繕わずに」できる報道との出会い


――入社後はどんなお仕事をされていたのでしょうか。

プロ野球の実況もしましたし、バラエティーの進行もやっていました。そのひとつひとつは貴重な経験で、素敵な出会いもありましたが、どこかで、なにか無理しないと成立しないような感覚がありました。

――そういう気持ちが変わる瞬間があったのでしょうか。

いいえ。慣れてくれば、プロとしてのスイッチの入れ方みたいなものを習得していきましたが、心の底から楽しいと思える仕事は多くありませんでした。でもそのギャップを作らずにできると感じたのが報道だったんです。取り繕う必要がないというか、極端な話、事実こそ価値なので。事実をわかりやすく、噛み砕いて説明することにやりがいを感じましたし、自分に向いていると入社半年ぐらいで思いはじめました。そこからは一貫して報道志望でした。入社4年目で初めてフィールドキャスター(※)に挑戦して、ようやく自分らしくできるお仕事をいただけたなと思ったことを覚えています。

フィールドキャスターはとにかく取材をし、話を聞き、事実に基づいてわかりやすく喋る。このことに関しては、もちろん取材のときに葛藤を感じることはありますけど、それを反芻してアウトプットに持っていくプロセスにはあんまり難しさは感じなかったです。しかし、メインキャスターはまた全く違う難しさに直面しました。

※編集部注
事件や事故の現場で中継をしたり、インタビューをしたりするレポーターのこと。

「テレビの報道は絶対にひとつに染まってはいけない」


――メインキャスターの難しさとは何でしょうか。

テレビの報道では、メインキャスターは自ら言いたいことを言う立場ではないと僕は思っています。ですが、「物言うキャスター」を見たい視聴者は多く、実際にそういう番組が視聴率をとる傾向もあります。しかし、地上波放送は総務省から免許を与えられて初めてできるものですし、そのかわりに放送法という法律で政治的公平性の担保が求められています。なので、政治的公平性を担保するために、結論を提示するのではなく、異なる意見の双方を紹介して視聴者に判断してもらう媒体でなければならない。例えば、ある事象について、Aと主張するコメンテーターだけが出演するなら、僕も「Aが正しい」と思っていたとしても、「でもBという考え方もありますよね」と投げかけなければならない。これがキャスターの責務だと思います。テレビの報道は絶対にひとつの立場に染まってはいけない。ときに僕自身の意見とは異なることも話して、意見の多様性を担保しなければならない場面がとても多いんです。

しかし、それをもって「世論に反したことを言っている」とか「コメンテーターと違う意見をわざわざ出している」とか言われることもあります。私のキャスターとしてのロールプレイングを僕個人の考えだと判断され、ネット上で厳しく批判されることは日常茶飯事で、それが一番大きなハードルだったかもしれません。

こういった、視聴者に考えさせる「面倒くさい」番組よりも、答えをわかりやすく、スパンと言ってくれる番組に視聴者の目が向いてしまう。そういう番組に視聴率で敗北することが多く、6年メインキャスターをやらせてもらいましたが、最終的には力及ばなかったですね。

――報道を通じてどういった瞬間にやりがいを感じますか。

たとえば、困っている人を取材し、悩みを解決して喜んでもらえた、などはわかりやすいやりがいです。やはりキャスターという立場としては、様々な選択肢を提示して、それらが視聴者の判断材料になったと思えたとき、大きなやりがいを感じます。ただ、視聴者から生の反応が返ってくるわけではないので、自分の中で納得できるような仕事をするしかない。報道に限らず、テレビ制作ってそういう仕事なんです。

大阪市内のスタジオでの1枚。これまで、メインキャスターとして菅前総理大臣へのインタビューやG20大阪サミットの取材なども経験してきた(写真は新実さん提供)



インフラを支える「扇の要」


――野球部での活動が生きたな、という瞬間はありますか。

野球実況の仕事はもちろんですが、報道の仕事にも野球部時代の経験が活きています。報道番組は100人規模で番組を作るので、まさにチームプレーなんです。

野球のキャッチャーはフィールドで唯一、他の選手と反対を向いています。つまり、ただ1人、他のプレーヤーから顔が見える存在なんです。ミスしたときに下を向くとか、苛立ちをあらわにすると他の選手に大きく影響を与えるから、「表情に出すな」と言われ続けてきました。

キャスターとしてスタジオに立ったとき「キャッチャーと同じだ」と感じました。カメラマンやディレクターも全員こちらを向いていて、撮影中はもちろん、CM中でも僕がどんな表情で喋るか、リアクションするかは全部見られているんです。だから僕は全てのチームメンバーのモチベーションに関わりかねない存在です。みんなが僕を見たときに、「彼がキャスターをする番組のためになら頑張ろう」「彼が言葉を紡いでくれるなら、取材を頑張ろう」と思ってもらえる存在にならないといけない。それに気づいたときに、実は野球部でやっていたことと共通することが多いと思いました。

――昨年度まで、夕方のニュース番組のキャスターを6年間務められました。毎日、というのはやはりハードな世界でしょうか。

そうですね。ミスをしたり、視聴者からお叱りを受けたりした翌日にもカメラの前に立たなければならないということが、大きな精神的負担だったときもありました。一方でそれは、すぐにリベンジの機会をいただける、ということでもあります。「今日は駄目だったけど、明日また頑張ろう」と思えるということはありがたい面です。

報道をはじめてから、帯のニュース番組は(自分が就職活動時に志望したような)インフラなんだと気づきました。日々の生活のルーティーンとして番組を見ていただいている視聴者の方から「今日も新実さんと片平さん(気象予報士)の顔を見れてほっとしました」というお声をいただいたときに、この番組は情報源であるだけでなく、生活に溶け込んだインフラなんだな、と実感しました。

――今までの中で特に印象的な取材はありますか。

香港のプロテストです。2019年に2回現地に行き、周庭さんという、「民主化の女神」と言われているリーダーの女性にインタビューをしました。そのとき「自由に意見を言えて、一票を投じる権利がある日本がうらやましい。そのことの重みや価値をわかっていますか」と問われたことは忘れられません。

取材は運動が最も激しい時期だったので、警察が催涙弾やゴム弾を打ち込んでくるなか、ガスマスクをつけて取材しました。途中、同僚のカメラマンが一瞬ガスマスクを外したところに催涙弾を打ち込まれ、目も鼻もやられて、涙をポロポロ流していました。そういうセンセーショナルな現場を目の当たりにして、そこまでして彼らが求めているものが、命でもお金でもなく、自由に意見を言う権利であることに衝撃を受けました。

「選択した結果」を正解にするために


――ここまでの進路選択を振り返ってください。

僕は思いがけずアナウンサーに採用されて、葛藤もありましたが、結果的にニュースを6年間やらせていただきました。この選択が良かったのかどうかは正直今でもわかりません。アナウンサーにならなかったら、誰に批判されることもなく、誰に嫌われることもなく平凡に家庭生活を送れたはずです。この人生が良かったと思えるかどうか、たまたまこういうキャリアを歩めたことをいい方に転がせるかどうかは、これからの自分次第だと思います。だから今は、これまでのキャリアを活かして社会に貢献する仕事がしたいと考えています。

――これから進路選択をする高校生、大学生にむけてメッセージをください。

選択に正解はないし、選択した結果を正解にできるかどうかは、選択した後に決まると思います。様々な選択を迫られる機会はいろんな形であるわけですが、どんな選択をしたときも、あらゆる後悔というのは押し寄せてくるわけです。だから、後悔しないために、選択後の行動が重要だと感じます。ただ、学生の時期はこれからしていく様々な選択の幅を広げるための時期です。言い換えると、来るべき選択肢が目の前に来たときに、選択できる自分でいられるようにするための時期です。たとえば、「留学に行けたのに行かなかった」という僕の大学時代の選択はおそらく間違っています。社会人になると勉強のための時間はなかなかとれません。だから、学生の皆さんには、今しかない余暇の時間を最大限使って、経験を積んでほしいです。その結果、社会に出たときに何でも選択できる自分になれていたら、それは最高です。後悔とともにそうお伝えします。

ありがとうございました。(聞き手:爽)

新実彰平(にいみ・しょうへい)
1989年、京都市生まれ。洛星中学校・高等学校を経て、08年に京都大学法学部に進学。在学中は硬式野球部に所属し、11年春にはベストナインと首位打者を獲得した。卒業後、12年にカンテレ(関西テレビ放送)に入社し、現在までアナウンサーとして活動している。17年から23年春まで、夕方のニュース番組『報道RUNNER』のメインキャスターを務めていた。就任時の年齢27歳は、関西の夕方ニュース番組史上最年少。現在は、プロ野球を中心としてスポーツ実況に携わるほか防災士の資格も取得し、多方面で活躍している。

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