企画

教習所特集 自分を広げるための免許

2009.04.04

免許を取る機会は、学生のうちしかない。それも1、2回のうち、と言ってしまってよい。学生の就活は3回前期まで前倒しになっている。社会人になってから、などと悠長なことは言っていられない。さぁ新入生のみんな。京大から免許を取りに行こう!




京大生が免許を欲しいと思う瞬間はどんな時だろうか、と考える。バイトやサークルの旅行でどうしても必要だ!といった時以外は、ほとんど無いのではなかろうか。

まず京都という町は道が極端に狭い。更に言えば一方通行も多い。交通法規の厳罰化も進んでいる昨今、京大周辺から無限に沸き出る自転車にぶつけでもしたら一大事である。誰もこんな大学の近くで、無理して車に乗りたくないと思うのが普通だろう。

そんな事情を反映してか、吉田構内の駐車場面積も非常に狭い。実は学生証さえ持っていれば、誰でも車で吉田構内に入れるというのに。一般向けの駐車場が見当たらないので、京大の象徴たる楠の木付近まで駐車車両が進出しているという有様となっている。

このようにネガティブなことばかり思いついてしまう。しかしこれは免許を「車を運転したいがために取る」という観点だけから見て考えているから、こうなってしまうのだ。このような考えでは車の運転に興味のない人にとって、教習所はまるで縁のないところで終わってしまうことだろう。しかし私は「免許を取得する」という行為は、それ以上の意味があると考える。車と人との出会いは、非常に感動的なものだ。

【キミは助手席でなく、運転席に乗るべきだ】



運転に興味がない人であっても、一度だけ体験という名目でいいから教習所に行って、車の運転席に乗せてもらうことをオススメする。大抵の教習所は、どうしても運転者適正に自信がない人のために、体験であればタダで車に乗せてくれるので、電話で相談してみると良い。もちろん教官は助手席に着いてくれる。

アクセルを踏んだ瞬間に、約1トンの鉄の塊が重低音を響かせて動き出し、シートから背中に加速のGを感じた時、あなたは大学生になった時よりはるかに具体的に、自分が「大きく」なったことを感じるだろう。最初はその巨大なパワーに面食らってしまう。しかし教習を経て徐々に慣れてくると、その1トンの鉄塊はあなたの手足の延長として顕在化していく。「運転席に座ると人が変わる」と言われる人がいることも納得できる。人は車と合体することによって、新たなるステージに昇ることができるのだ。

教習所の説明を少しだけ。教習所は学校の一種なのだが、大学の単位制に高校以前の担任制度を組み合わせたような、いわば大学と高校の中間のような学校で、なかなか不思議な気分を味わえる。実技の指導には基本的に専属の教官が1名つき、その教官が担任となる(教習所による)。実技で不安な箇所や、卒業までの時間割の調整を相談することになる。

教習所の生徒に大学生が多いのは事実だが、年齢はかなりバラバラだ。教習への出席も任意の日で、自由に時間割を組むこととなるため、同じ日に入所した人と同じ日に卒業することはまずない。卒業に要する時間は、毎日通ったとして最短で1ヶ月弱。卒業するには「技能」と呼ばれる実技訓練と「学科」と呼ばれる座学を規定時間受講した上で、各々の課す試験を通過しなければならない。試験の合否についてであるが、受験の記憶生々しい京大1回生であれば基本的に余裕である(逆に2回以上になると怪しくなる)。

教習所を楽にサッサと卒業する要諦であるが、筆者の個人的なアドバイスを二点だけ覚えておいて欲しい。一つ目は、技能講習の日程に間を空けないこと。これは指導教官の都合にもよるので難しいところだが、技能講習の間が空き過ぎると、運転の勘が鈍り、下手をすると「補習」として追加の技能講習を課せられるハメになる。場合によっては追加料金まで発生するので注意が必要だ。

二つ目は、試験を決して甘く見ないこと。特に筆記試験は、全て2択問題とはいえ、妙な引っかけ問題を多数含む。その上9割の正答率を要求してくるので、まぐれで合格はほぼあり得ない。これに落ちると試験費用が確実に追加で発生する。満点を取る心意気で臨むと良いだろう。以上二点を心に留め教習に臨めば、免許取得は目の前である。(京)

編集員座談会

自動車税や車検費用、車庫代金にガソリン代、年間50万とも言われる車維持費用は、学生個人がバイトで賄える範疇を遥かに超えています。それでも学生が車に乗ることは意義があると思う。そんな探究意識から始まった座談会。かなりグダグダしてますが、車に僅かでも興味を持っていただければ幸いです。(編集部)

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《本紙に写真掲載》

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