文化

映画評論 第1回 名誉と権力を握ったレズビアンの結末 『Tár /ター』

2023.07.01

【寄稿】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ文学研究科教授

映画を見る前から、私たちはすでにその作品についてなんらかの情報を得ているものだ。さて、『Tár / ター』を映画館に見に行くとき、私たちはすでにどんなことを知っているだろう。

まず、名優ケイト・ブランシェットが主人公を演じており、彼女の演技が今までで最高だと噂されていること(アカデミー賞主演女優賞他6部門ノミネート)。舞台となる保守的なクラッシック音楽界では現実にはないが、女性が名門ベルリン・フィルの首席指揮者になるという寓話が描かれていること。そして主人公リディア・ターが、レズビアンであり、パートナーであるバイオリニストとともに養女を育てていること。また、この作品が単なるスーパー・ヒロインのエンパワーメント物語ではなく、転落の物語であることまで、オンラインの情報網から簡単に知ることができる。しかし、これだけすでに知っていても、それでもこの作品には見る価値がある。それは何なのだろうか。

『Tár /ター』は、音楽映画であり、サイコ・スリラーであり、女性映画であり、そしてクィア・シネマでもある。こういったジャンルの複合性が、作品を単純な物語の収束(起承転結的な展開)へと向かわせることなく、間断なく観客の心に情動を起こす。本作は2時間38分とハリウッド映画としては長尺であるが、起伏のある物語展開、台詞の妙味、細やかな演出によって、映画が終わるまで観客を飽きさせない。特に、東南アジアのどこか(ベトナムを想定しているのだろうか)での最終場面は圧巻だが、ここではあえて詳しくは書かない。

リディア・ターの隆替を描いたこの作品は、一見解りやすいメロドラマと思われがちだが、細かい謎が要所要所に散りばめられており、それらは映画が終わっても完全に解き明かされることはない。このような謎に気づきながらも、観客の多くは作品の流れに圧倒され、物語の波に乗るような形で2時間38分を過ごすことになる。無数の謎が、躓きとなり、緊張感となり、ひいては質の高いサイコ・スリラーへと昇華される。さて、それらの謎とはどういったものなのか。

主人公リディアの絵に描いたような輝かしい経歴が映画冒頭の公開インタビューで明らかにされるが、それは果たしてどこまで信憑性があるのだろか。また、彼女の名前がリディアではなく実はリンダという平凡な名前であることが明らかにされるにつけ、Tárという名字に思いが馳せる。Tárという名前には、はなから捏造の香りがする。主人公はアメリカ人という設定であり、それだからこそ英語での題名では落とされずにいる「a」のアクセントが、妙に「ヨーロッパ的」な名前に見えてしまう。これは、多くの北アメリカに住む人々にとっては、気取った感じだと受け止められがちだ。もしTárが彼女の実際の名字だとしても、彼女は子供の時からアクセントを用いて自分の名前を書いて育ったわけではないだろう。おそらくクラシック音楽界の象牙の塔に馴染むために、自ら後に採用したのだろうと読み取れる名前である。

また、この名前は明らかに「Tarred and Feathered (タール羽の刑――初期アメリカ開拓地で行われていた拷問および刑罰の一種。私刑対象者を全裸または上半身裸にして身体に木タールを掛け、その部分に多量の羽毛を付着させ晒し者にする――)」を想起させるだけでなく、彼女自身が「Tar-get――処刑の対象者」であることも連想させる。また、Tárの綴り変えは、「art」であり、また「rat」と解釈することもできる。[1]

最後になったが、この映画の核心は、なんといってもレズビアン/女性が限りない名誉と権力を手に入れ、それを乱用する過程と結果を描いている点だ。彼女の周囲には三人の女性が登場し、その誰とも確執を持つ主人公は、最終的に#MeTooムーブメントで失脚する男たちの代役を果たす。しかし、これを「代役」と解釈するか、あるいは人間社会における普遍的な愚かさとして読み取るか、そこが観客に課せられる作品からの思考的挑戦なのかもしれない。必見である。

[1] Megan Feeney, “Tár,” Cineaste, XLVIII: 2 (2023):46-48.

『Tár / ター』(2022)/監督・脚本:Todd Field/キャスト:Cate Blanchett ほか/2023年5月12日全国公開

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