企画

京都大学新聞社 編集員が綴る 大学受験〔体験記〕

2023.01.16

この面を開いた受験生の皆さんは、一次試験や私立入試を控え、本格的な受験期に突入していることと思う。難易度が安定しない共テの対策や、コロナとインフルの同時流行など、心配の種が尽きないことだろう。

ここでは、昨年大学受験を経験した4名の編集員が、応援の気持ちをこめて自身の体験を赤裸々に綴っている。試験勉強にひたすら向き合う日々を彼らが如何に過ごしたか、その一端を覗いてみよう。受験生活最後の1か月を前向きに過ごす一助となれば幸いだ。(編集部)

目次

駆け抜けろ、受験生
受験は体力勝負か?
諦めないで もう少し
「高望み」のその先へ


駆け抜けろ、受験生


締切に追われながらこの体験記を書いている間、テレビでは箱根駅伝が流れている。10人のランナーが各々の役割を果たし、襷をつなぐ光景に心を動かされる。団体戦はいいなと感じる。一方、受験は個人戦だ。頼れるのは自分の頭脳だけ。そんな孤独な戦いだ。私はこのレースで一度大敗を喫した。それも「スタート前」にだ。

現役のときも京大を受験した。受験前、母が付き添いを提案してきたがきっぱり断った。もうすぐ大学生なのに、いつまでも母と二人三脚なんて恥ずかしい気がしたからだ。そうして、冷え込む2月末の京都駅に大きなスーツケースを抱え私は一人で降り立った。

駅に降り立った瞬間、自分の犯した過ちに気づく。どの受験生も保護者と一緒に受験に臨んでいるのだ。しかも、両親が連れ添い、まるで家族旅行のような受験生までいるではないか。孤独だった私は一気に不安の渦に飲み込まれた。涙をいっぱいにためながら改札をくぐる。「とりあえず、京都来たし北野天満宮でしょ」と考えてバスに乗るも、迷いながらようやくたどり着いた頃には閉門していた。縁起の悪さを感じたが、誰にも話す事ができず「もしや、明日の試験結果を暗示しているのか」とネガティブ思考に陥る。翌日の試験の出来は良くなかったと思う。神にも見放され「スタートダッシュ」に失敗していたのだから、まあ納得である。そのままズルズルと浪人していた。

そして、1年前に涙をのんだ京都駅のホームに再び降り立つ。今度は、母も一緒だ。なんだかうまくいきそうな気がした。印象的なのは当日の朝食時の出来事だ。普段はうるさいくらいおしゃべりな私も、緊張感で、さすがに試験前は無口だった。去年のようにミスしてしまうかも、不安に苛まれる私の横で、母は他愛も無い話をしてくれた。思えば、母なりの声援だったのかもしれない。1年たった今、会話の内容は覚えていないが、その会話のおかげで一瞬ではあったが雑念を振り払うことができたのは鮮明に記憶している。心強い「伴走者」の助けもあって、今度は合格を手にすることができた。ありがとう。

受験は個人戦だ。でも、ただの個人戦ではない。様々な人の助けを受けながら走り出し、ライバルと抜きつ抜かれつの熾烈なレースを繰り広げる。道中、挫けそうなときもあるだろう。そんなときは沿道に目を向けてほしい。歩道いっぱいの観客が割れんばかりの声援を送っているはずだ。さあ、ラストスパート。ゴールはすぐそこだ。

ちなみに、浪人時は前年よりも2時間早く京都に到着し、念願だった北野天満宮への参拝を果たした。「山の神」ならぬ「受験の神」頼みも結構大切かも、と思ったあなたは5面の神頼み特集も併せて読んでみてほしい。(爽)

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受験は体力勝負か?


「受験は体力勝負」とはよく聞く言葉である。正直なところ、まったく本気にしていなかった。元々運動習慣のない私の体力は高校卒業時には既に底辺を這っていて、これ以上落ちようがあるとは思えなかったし、それでも模試で疲れ果てて体力が尽きたこともなかったからだ。しかし私は二度目の共通テストの日、知ったのである。下には下がある、と。

予備校に通うことが決まった春、私はとある決意をしていた。「階段があるときは階段を使おう」。私は運動が嫌いだ。早起きも嫌いだ。予備校の科目には存在しない体育の代わりに早起きしてランニングしても、一週間も続かない。だからせめて駅や予備校の校舎内の移動は階段を使おう。高校時代から運動習慣のなかった私だ、この程度でも十分なはず!そう思って始めた浪人生活だった。

春は良かった。涼しいから頑張れた。問題は夏だ。暑い暑い屋外を歩いて汗だくなのに更に階段?そんなご無体な。そう思って自分を甘やかしたのが良くなかった。暑さに弱い私はエレベーターに頼る生活のやめ時を見失い、気づけば冬になっていた。

そして共通テストの日。会場へは、自宅の最寄りのひとつ隣の駅から直通バスが出ていた。この駅には自転車で10分、電車を使うより速いから自転車で行こう、と安易に決めた。時間の余裕、リュックの中身、よし。出発だ。

漕ぎ始めてすぐに気がついた。ペダルが重い。リュックの重さだけでは片付けられない。風景が全然進まない。平坦な道なのに、まだ半分も来ていないのに、ひどく息切れしている。腿がだるぅくなって、立ち漕ぎをしても遅すぎてよろめく。私を追い越していくバスの運転手が迷惑そうな顔をしている。ごめんなさい、私だってこんなつもりじゃなかった。息も絶え絶え目的地に辿り着いた頃には、出発してから20分も経っていた。後から思えば、体力云々も然ることながら、一年間空気を入れていなかった自転車のタイヤも立派な戦犯だったのだろうと思う。

なんとか体力を回復させ、一日目のテスト自体は問題なく終わった。帰りはたまたま会場が同じだった友人と「バスに乗らずに駅まで戻ろう」という話になって歩き始めた。斜めの分かれ道で正しい方を選べれば、ほぼ直進だけで30分ほどで着くはずだった。正しい方を選べれば。歩いてきた道に疑問を覚える頃には電柱に書かれた住所は隣の市で、目的の駅に着く頃にはすっかり暗くなっていた。ここからまた自転車だ。明日のテストより気が重かった。

二日目もえっちらおっちら自転車を漕いだ。昨日より少しだけ楽になった気がした。帰りは昨日の失敗に学んで大人しくバスを使った。

行き帰りの印象が強すぎて、共通テスト自体の記憶はもうほとんどない。そんな私から語れる教訓なんてものもまた微々たるものだけれど、敢えて言うならこんなところだろうか。

自分の体力を過信するな。

あと、自転車の空気はこまめに入れよう。(楽)

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諦めないで もう少し


授業中は過去問に齧り付き、休み時間は赤シート片手に単語帳をめくる。放課後は予備校の自習室に引きこもり、数学の難問に頭をひねる。そんな生活を約1年。気づけば周りの全てが受験に染まっていた。友人との会話は試験の愚痴で始まり、ユーチューブのオススメ欄は受験コンテンツで溢れた。休日は模試で潰れ、移動のお供は小説から参考書に変わった。

そんな生活にも救いはあった。勉強が捗った日には、程よい疲労感と大きな達成感に包まれた。やり通した参考書の数だけ、自分が強くなった気がした。担任に成績を褒められた時は、今までの苦労が泡のように消え、温かな恍惚が全身を満たした。

それでも週に1度ほど、全くやる気が湧かない日があった。そんな時は勉強をやめて違うことをしようとした。罪悪感を覚えながら、机から離れた。しかし、普段勉強ばかりしていた分、急に与えられた自由な時間に戸惑った。自分が何が好きで、何をしたいのか、よく分からなかった。仕方がないから机に戻り、参考書を開いた。文字は追えるのに、意味が分からなかった。時間だけが過ぎていき、気づけば1日が終わっていた。

受験勉強それ自体はひどくつまらなかった。断片的な知識ばかり試す私大の社会や、無意味に冗長な共通テストの数学をはじめ、大方の試験は単なる苦痛でしかなかった。そんな試験の対策に日々を犠牲にしていると、生きる気力も目的も失いそうになることもあった。いっそ高卒で働こうかと思った。ひどい時には、日本に生まれたことまで呪った。今振り返るとかなり大袈裟な話ではあるが、当時はそれほど辛かった。

それでも諦めなくてよかった。かつて程ではないにせよ、社会で学歴が見られるのは変わりないし、なにより大学生は楽しい。大学では、勉強は強制されるものではなく、自主的に行うものになる。点数というひとつの物差しで測られることも随分と減る。勉強は最低限にして、サークルやバイトに精を出すのも良い。各々に居場所があり、好きなことを好きなように追求できる場が広がっている。今、歯を食いしばって受験勉強をしているみなさんには「とにかく耐えて」というほかない。しかし過度に自分を押し殺し、受験にのめり込みすぎるのは禁物だろう。「受験が全て」になってしまう。そんな時は、周りを見渡して、受験と無縁だった世界を思い出してほしい。毎日は、いつかのための犠牲ではなくて、無目的に完結するものだということを忘れないようにして欲しい。受験に踊らされないように。自ら踊れる強さを持って。皆さんの健闘を祈っている。(順)

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「高望み」のその先へ


受験生諸賢におかれては、厳しい寒さの中、日々自己研鑽に努めていらっしゃるところでしょう。この新聞がお手元に渡っているころには、共通テストを終え、各大学の2次試験に向けて勉強されている方が多いでしょうか。

私は、自分が合格するところを想像することすらできない「高望み」している受験生へのエールとしてこの文章を書いています。共通テストで合格を確信したり、模試では良い判定を連発したり、といった模範的(?)受験生には1ミリも役に立たないこと請け合いです。ここで回れ右して他の編集員の体験記を読んだり、他の記事を読んだりする方がタメになること間違いなしです。

さて、全然届きそうもないのに、〇〇大学へ行きたい、僕・私は〇〇大学志望なんだ、と意地を張ってしまっている「高望み」受験生のみなさん。私も高望み受験生だったので、みなさんの気持ちは痛いほどよく分かります。受験生のころ志望していた大学は、周りの大学に比べてとびきり輝いて見えるものだったなあと思います。受験生のときは、妥協してしまうことは自分の大切な何かを削ってしまう気がしていました。高望み、大いに結構だと思います。

ここで、ある少年の話をさせていただこうと思います。少年は小さい頃、クイズ番組で快刀乱麻を断つように回答していく京大生に憧れ、この大学に行けばこんなかっこよくなれるんだ!という思いを抱くようになりました。その思いを抱いて約10年、高校3年生になった彼は初志を貫く決意をするのですが、どんな模試を受けても見るのはDやEの文字だけ。周りが簡単にできることができない。前はできたはずの問題が解けない。入試直前は勉強すればするほど不安になってしまい、試験前日には予備校の広告を見て電車で大泣きするほど感情が不安定になっていました。それでも、当日の合言葉は「なにくそ、負けるものか!」。そんな気分で臨んでみると、運が味方し、想像以上の点数でぎりぎり滑り込んだそう。母校では「合格するとは思っていなかった」と何人にも打ち明けられたとさ。おしまい。

挫折を乗り越えて目標を達成するなんて筋書きは、受験を描くフィクションの王道ではないかな、と思います。こんな話は受験の体験記にありふれたものなのかもしれません。でも、陳腐に思えることこそが、受験生は挫折しながら成長するということを良く反映していると感じます。先述のような受験生活を送ったので、学業的に有益なアドバイスをお伝えすることは残念ながらできません。それでも今思えば、1年前、挫折の中で挑戦を決意したこと、諦めなかったことは、当時高校生だった自分が考えていたよりもずっと、自分自身を成長させ、人生を大きく方向づけた気がします。

あれだけ辛く苦しかった高望みの日々も、思い返せばこの上なく充実していたな、としみじみと感じます。ハードルがどれほど高く見えても、それを跳び越えられるのは自分しかいないのです。だったら、一度跳んでみませんか。その先で待っているのは、想像以上の自分だ。高望みでいい。頑張れ、受験生。(匡)

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