企画

【連載第十二回】吉田寮百年物語

2022.04.16

《連載にあたって》

京大が吉田寮現棟の明け渡しを求めて寮生を提訴した問題で、4月13日に第12回口頭弁論が開かれた。本紙では2019年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。前回第十一回では、2018年からの約3年を振り返ったうえで、寮の補修に関する寄稿を取り上げた。今回は、連載の締めに向け、これまで約10年ずつに区切って載せていた通史を総ざらいするべく、総集編を掲載する。また、自治寮での生活や団体交渉の経験について、寄稿を通して考察する。

※「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人からなる。京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
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目次

通史総集編 吉田寮の歩み(1897年〜2020年)幾度の廃寮危機を乗り越えた現存最古の学生寮
コラム 自治寮が培う生活の自律性

通史 総集編 吉田寮の歩み(1897年〜2020年)
幾度の廃寮危機を乗り越えた現存最古の学生寮


京大創立と同時に誕生

京都帝国大学の創立は1897年6月18日。そして、創立とほぼ同時の同年9月11日、京都帝国大学寄宿舎、現在の吉田寮が誕生した。寄宿舎は第三高等学校(現・本部構内)の敷地に建つ大学事務室の建物内に設けられ、当時の総学生数47人の約半数にあたる24人が舎生となった。

1898年8月、三高が現在の吉田南構内に移転した。京大は、本部構内(現在の附属図書館の北東)に残された三高の寄宿舎を譲り受け、それが2代目の寄宿舎となった。建物は、一見、2階建に見える3階建で、90人程度が生活できた。寄宿舎の北側には、外廊下で繋がった食堂と浴室があった。

戦前から続く唯一の学生寮

明治期から戦前まで、大学生を対象に継続して運営された帝国大学の寄宿舎は、京大が唯一であり、それが吉田寮である。吉田寮の運営は平坦ではなく、戦前の内に既に「閉舎」の危機を迎えている。

1905年12月、生活上の規律の乱れが正されなかったことから、木下広次総長の命令で寄宿舎が一時閉舎された。82人の舎生は全員が退舎し、翌1906年1月、寄宿舎が再開された。

再開にあたり、木下総長は告示で、「本学寄宿舎カ研学修養上重要ナル一機関タルヘキ所以ノモノハ在舎学生カ特ニ規律アリ制裁サル一ノ〔ひとつの〕切磋団体ヲ組織スルニ由リテ存ス」と述べた。寮生が寮自治会を組織することを、「それゆえ、本学は寄宿舎を重要な教育機関と位置付ける」と、全学に示したことになる。

1912年7月、菊池大麓総長が、学業優秀な学生に良好な学習環境を提供することを目的に、相部屋であった寄宿舎を閉舎した。舎生は反発し、抗議の意味で全員が閉舎よりも前に自主的に退舎した。閉舎・解体した寄宿舎の建材を転用、または移築し、翌1913年9月、現在の吉田南構内に全室個室の寄宿舎が開舎した。この建物が現在の吉田寮現棟と食堂である。

その後の大正デモクラシーの時代、舎生によって総会などの寄宿舎の自治機構が整備され、元号が昭和に変わり不況と強まる戦時色の時代も、世相の変化の中で寄宿舎は存続した。

1935年、寄宿舎の敷地の管轄が三高に移り、寄宿舎の存続問題が再発した。寄宿舎の移転や廃止が議論になったが、1937年、日中戦争が勃発し、時勢の急転で寄宿舎の存廃問題は棚上げになった。

戦時下の寄宿舎

1940年から、寄宿舎内での思想・政治などの会合が禁止に。1941年には、舎生総会の開催が禁止された。

太平洋戦争が始まり、1943年秋、学徒出陣で文系学生の大半が去った。1945年に入ると、総務日誌には連日、空襲警報の有無が記されている。

「自治憲章」「寄宿舎規程」の二重基準

1945年8月15日、日本は敗戦。寄宿舎は、復員学生の収容問題に直面した。生活難の折り、入舎希望者は多かった。全員は収容できず、「寄宿舎在籍のまま動員された者」を最優先に、以下、訳あって退舎した者のうち「出陣学徒・応召学徒・動員学徒」の順で入舎の優先権を定めた。

敗戦を境に社会が軍国主義から民主主義に転換する中、寄宿舎では、戦後数年間は、戦前からの自治の秩序が保たれた。

1955年12月、舎生は40年続いてきた「舎生規約」を大改正し、規約の名称を「自治憲章」に改めた。

一方、1959年2月、大学評議会は「京都大学寄宿舎規程」を承認した。

この時、舎生と当局が話し合い、光田作治厚生課長と芦田譲治学生部長の「この規程は自治運営のあり方を何等変えようとするものではない」「この規程を最小限の管理事項のみとしたい」という趣旨の発言に舎生が納得した。

結果、京大において「自治憲章」と「寄宿舎規程」のダブルスタンダードが生じたが、入舎希望者への選考や水光熱費の大学負担など実際の寄宿舎の運営は、従来のやり方が継続された。

「吉田寮」に改称

1959年制定の「京都大学寄宿舎規程」の中で大学が初めて正式に「京都大学学生寄宿舎吉田寮」の名称を用いた。1960年には自治憲章が改正され、「吉田寮」の名前が採用された。それまでの「舎生」は、次第に「寮生」へと呼び名が変わった。

1962年5月、寮生は自治憲章を踏まえて、大学に寄宿舎規程の改正を求める運動を起こした。結果、入退寮等に関する相違は完全には解消しなかったが、寄宿舎規程に、「寮生活の運営は、寮生の責任ある自治による」と、寮自治の存在が盛り込まれた。

この頃、京大は年々定員を増加させており、寄宿舎の不足が目立っていた。寮生は「増寮運動」を開始し、1965年4月、熊野寮が開寮した。

学生部封鎖から京大闘争へ

1968年、全国で学園闘争が起きていた。京大では吉田寮と熊野寮の執行部系の寮生が、奥田東総長、岡本道雄学生部長と数次にわたる団交を行っていた。寮生からの「無条件増寮、京大20カ年長期整備計画白紙撤回、経理全面公開」の要求を奥田総長は最初は全面拒否。1969年に入り譲歩するも、1月16日午前1時、団交が決裂、全寮闘争委員会が学生部建物を占拠し封鎖した。この封鎖が京大闘争の引き金になった。

1971年2月、淺井健次郎学生部長が団交で、「入退寮権は一切寮委員会が保持・行使すべきだと考える」と確約している。この頃、大学は学生運動への対応に追われ、吉田寮と熊野寮に関する寮生の要求はほぼ受け入れた。ただし、新寮建設については、寮生の要求する無条件増寮を認めなかった。

一方で、同年6月、文部省の中央教育審議会が答申の中で、学寮を「紛争の根源地」と断定し、学寮のもつ教育的機能を不要とした。文部省は、これをもって、以降、寮自治を否定する政策を全国の大学に貫こうとする。

第一次在寮期限

文部省が進める、寮を含めた大学の管理強化が、京大にも及ぶときが来た。

1978年4月、沢田敏男学生部長(のち総長)は、就任後、吉田寮および熊野寮とは団交を行わない旨を宣言し、また就任以前の確約の内容については「是々非々で対応する」と述べた。沢田学生部長は、岡本道雄総長と、また、1979年12月からは自身が総長として、文部省の政策に沿った寮の「正常化」を進めた。

沢田総長が主導した吉田寮の「正常化」とは実質的には廃寮であった。

1982年10月、京大広報において、吉田寮廃寮に向けた「基本方針」が北川善太郎学生部長の名で発表された。

「基本方針」に基づき12月14日、当時の大学の最高意思決定機関である評議会は、「吉田寮の在寮期限を1986年3月31日とする」と決定した。

吉田寮「在寮期限」は、学生自治会の猛烈な反対運動を呼んだ。文・理・農学部と教養部で、吉田寮廃寮に反対する学部長・評議員団交が行われた。工学部でも工学部長が追及された。各学部長・評議員は「寮生との話し合いによる合意もなく一方的になされた評議会『決定』は不当である」とし、学生部の独走に反対した。「在寮期限」による廃寮は、教官層の信頼を失い、その結果、基本方針にあった吉田寮の入寮募集停止は見送られた。

沢田総長は任期中に吉田寮を廃寮にすることができず、1985年12月、西島安則総長が就任した。西島総長は吉田寮を「在寮期限執行中」とする判断を下し、約140人の寮生との話し合いによる問題解決を選択した。

吉田寮は、食堂炊事人の配置転換や当時薬学部構内にあった「吉田西寮」の取り壊しを容認するといった現実的な譲歩を大学に提示する一方、事務折衝や団交を粘り強く求め、大学はこれに応じた。

1989年、吉田寮は河合隼雄学生部長との団交で、西寮撤去、自治会による寮生名簿の一括提出、寄宿料の自治会徴収による一括納入等に応じることで合意した。3月25日の西寮撤去開始、4月14日の寮生名簿提出と寄宿料納入を受け、4月18日、評議会が「在寮期限の執行完了」を承認した。これにより第一次在寮期限は終結した。

入寮資格を拡大

第一次在寮期限の終結前後、吉田寮は入寮できる学生を全ての京大生に拡大した。男の学部学生のみから1985年度(※)、男女の学部学生に。以降、1990年7月に留学生、1991年度に院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学部生(現・医学部人間健康科学科生)、1994年度には「京都大学学生との同居の切実な必要性が認められる者」を入寮資格者として募集。こうして家族や介護者などを入寮可能とした。寮生は200人以上に増え、1993年、吉田寮は全室を相部屋とした。

大学と吉田寮の間には団交確約体制が戻った。万波通彦学生部長、瀬地山敏学生部長、益川敏英学生部長、宮崎昭学生部長、三好郁朗副学長、尾池和夫副学長、東山紘久副学長、西村周三副学長、赤松明彦副学長と、前任者と交わされた確約を引き継ぎながら、新たな交渉と合意が積み重ねられた。

(※)募集要項は1974年度から対象を男女学部学生としていた。

新棟を建設・食堂を補修

2013年7月、吉田寮の食堂に並ぶ敷地で新棟の建設が始まった。赤松副学長と前年9月、「運営について一方的な決定を行わず、吉田寮自治会と話し合い、合意のうえ決定する」と確約が交わされていた。

2014年4月、食堂補修工事が着工。建築家・山根芳洋氏の協力で2012年、現存する京大最古の建物と判明した食堂は、老朽箇所が修繕された。

現存最古の国立大学学生寮であり、しかも今も寮として稼働している現棟の老朽化対策が残る焦点となった。

第二次在寮期限は明渡訴訟に

2004年4月に京大は国立大学法人となり、2014年6月の法改正で教授会の法的位置付けが変更されたことで、いよいよ京大も大学の運営を理事会がトップダウンで行う体制に変わった。これにより、吉田寮に関する大学の態度も大きく変化した。

2014年10月、山極壽一総長就任と同時に杉万俊夫副学長が就任。吉田寮と杉万副学長の団交が開かれ、2015年2月12日、杉万副学長は引継ぎの確約書に署名した。しかし、3月以降、他の理事の意向が働き、杉万副学長は吉田寮との交渉を進められなくなった。

7月28日、大学は吉田寮に対し2015年度秋季からの入寮募集停止を要請した。

9月、杉万副学長は後任者未定のまま辞任すると発表され、11月、川添信介副学長が就任した。

入寮募集を続ける吉田寮に対し、大学は2016年、2017年と募集停止の要請を繰り返した。話し合いを求める吉田寮に対し、川添副学長は職員が取り次ぐことも拒否するよう指示した。

2017年12月19日、「吉田寮の安全確保についての基本方針」が川添副学長の主導で決定され、大学の公式サイトで公表された。「基本方針」の概要は①入寮募集の停止、②2018年9月末までの全寮生の退去であった。現棟の耐震性を理由にしながら、2015年竣工で耐震性に問題の無い新棟からも寮生に退去を求める。吉田寮の抗議と話し合いの要求に対し、大学は2019年4月26日、遂に寮生20名を相手取って現棟の明け渡しを求める訴訟を京都地裁に提起した。2020年3月31日、大学は25名を追加提訴した。

2020年10月、湊長博総長と村中孝史副学長が就任。湊総長は吉田寮の質問状には一切回答せず、村中副学長も吉田寮との話し合いを拒否し続けたまま、大学は第二次在寮期限の明渡訴訟を継続している。

一方、吉田寮は入寮募集を継続しており、新棟を中心に現在も100人以上の寮生が生活を送っている。

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コラム 自治寮が培う生活の自律性


奈倉道隆 東海学園大学名誉教授
(1960年卒業元寮生)

吉田寮での経験が卒寮後どのような意味をもつのだろうか。吉田寮の役割を考える上で気になる点の一つであろう。この点について、かつて京大寄宿舎(吉田寮)に住み1960年に卒業した奈倉道隆氏に老年科医師・介護福祉士の視点から寄稿していただいた。

寮生活の収穫は多いが、86歳の今も大切にしているのは「生活の自立と心の自律」である。

故郷を離れ京都へ来た喜びは、親からの自立であった。ほぼ仕送りなしに生きられたのは入寮しバイトに恵まれ、奨学金と授業料免除が受けられたからであった。しかし、寮生と協調しつつ、自分の意思を貫いて生きる自律性を保つためには、強い意志と努力が必要だった。

つらい時、親切な人に出会った時、差し出される支援はありがたい。ついそれに依存したり、初心を見失ったりすることも少なくない。支援に頼って自律性を失いやすい自分を自覚する。自律は、自力で生きようとするのではなく、たとえ支援を受けても、自分の意思をしっかり持ち、「他人に追従しない生き方を貫くこと」だと思う。

寮で楽しかったのは、夜更けを厭わず話し続けるダべリングであった。寮生の故郷は全国にまたがり、大学での専攻も多岐にわたり、いろいろな人生経験を持つ若者が集まって思い思いに語るこの場は、講義以上に魅力があった。何の拘束もない自発的な集まりであり、いつ自室に帰るのも自由である。いつまでそこに留まるかは自己決定にゆだねられている。自治寮には帰寮時間・就寝時間などの規制はなく、自主的に行動することが求められる。学期末試験の時には自分の行動計画を持たないと惨めな結果となる。先のことを予測して、やること、やめるべきことを自発的に実行するほかはない。

自治寮の生活のおかげで鍛えられた「自立と自律」は、卒業後の老年医学・介護福祉の研究・実践に役立ち、また子育て・家族生活の力ともなった。退職後の今は、高齢ボランティアの力となって生きがいを生み出している。介護は、高齢者ができないことを代わってするのでなく、本人のしたいことが自律的にできるよう環境を整えることが最も大切である。長寿の時代の高齢期は、自立が困難になっても自律性を保つことは可能であり、一生涯これを大切にしたい。辛くとも自ら活動して身心を活性化し、フレイルと呼ばれる身体の虚弱化や認知機能の低下を防止したい。

自治寮で培われた自律の生活習慣が、健やかな生涯を築くのに役立ち、日々の生活の生きがいの源泉となっている。


紙面では、石原明子 熊本大学 大学院人文社会科学研究部 准教授のコラムや、写真も掲載しています。ぜひご覧ください。

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