企画

【連載第六回】吉田寮百年物語

2020.02.16

《連載にあたって》

京大が吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を相手取って起こした裁判の第4回口頭弁論が3月11日、京都地裁で行われる。こうした状況を受け本紙では、昨年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。第五回では、1960年代後半からの学生部封鎖を振り返ったほか、寮自治会と大学との確約書について考察し、寄稿から寮生活に迫った。今回は、1970年代後半からの「第一次在寮期限」を振り返るほか、3つの史料から寮自治会と大学との団体交渉を考える。

※吉田寮百年物語編集委員会……メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
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《通史》第一次在寮期限(1977年~1989年)

大学の管理強化の深まり

1977年、開港を翌年に控えた成田空港では、建設反対派と機動隊が衝突し、反対派の支援者1名が死亡した。また、反対派の襲撃で、警官1名が殉職するなど緊張が高まっていた。反対派の学生が大学の学生自治会や学寮を拠点としていたことから、政府・文部省は、各国立大学に1978年3月7日に「大学国有財産取扱規程(3・7規程)」を設けさせた。その内容は「国有財産に教育及び研究に支障をきたすこととなる用途及び目的の阻害を生じ、又は生ずるおそれがあると認めたとき」はその旨「総長に報告しなければならない」とするもので、反対運動の過程で生じる占拠(スクワッター)を封じることを意図していた。同時に文部省は、「学園における秩序の維持等について」(4・20通達)を通知。「授業妨害その他の暴力行為の発生を見、あるいは施設の一部が不当に占拠される等の事態のなおあることは、まことに遺憾」とし、「学園の秩序維持と暴力行為の根絶のため、厳正適切な措置をとられるよう」命じた。この2つは、大学の管理強化を狙ったもので、京大では学部自治会がその実質化阻止を訴えた。

寮の「正常化」へ 確約の破棄

1978年4月、沢田敏男・農学部教授(のち総長)が学生部長となった。就任後、吉田寮および熊野寮とは団交をしない旨を宣言し、また就任以前の確約の内容については「是々非々で対応する」と述べた。京大では寮に関して、1950年代から、団交(または会見)で確約としてルールを決め、その確約を引き継ぎながら運営してきたが、沢田学生部長の発言はこの方針をを否定するものだった。さらに、炊フを始め寮内の職員(守衛や事務員、掃除人)が退職しても、今後は公費では補充しないこととした。沢田学生部長は、連載第四回で紹介した文部省の方針に沿った学寮の「正常化」を進め、寮自治会はこれを「中教審路線、及び3・7規程、4・20通達にもとづく管理強化」と非難した。

1979年9月14日、国の会計検査院は京大の寮費の支出について、同年春に行われた調査に基づいて文書で改善勧告を行った。内容としては、会計検査院が検査のための立ち入りができなかったことから、「寮は占拠状態である」と指摘した。さらに、前年度の学生部の支出について、4寮に関わる光熱水料2900万円が大学の超過負担であること、寄宿料49万円が未徴収であることが記された。この3点の指摘を受け岡本総長は、3年以内に改善することを約束した。

1980年1月10日付けで、翠川修・学生部長名義の文書が寮生に郵送され、併せて2月1日の京大広報にも掲載された。 それには寮の「正常化」へ向けた基本的な考え方が述べられており、沢田学生部長の進めた「正常化」を承継した内容になっていた。

特に対立項目になったのは、入寮届けである。学生部は、京大新聞で発表された入退寮者名簿は記載事項が正確でないため、今後は新聞発表に基づく寄宿料の徴収を行わないと主張した。ついては、寮生の確認のため、個人が入寮届けを提出することを求め、提出しない寮生を「不正規寮生」と規定した。

「在寮期限」の評議会決定

1982年10月、学生部長名義で、吉田寮廃寮に向けた「基本方針」が京大広報で発表された。「基本方針」に基づき12月14日、当時の大学の最高意思決定機関である大学評議会で、「吉田寮の在寮期限を1986年3月31日とする」と決定した。会計検査院に改善を約束した3年という期限が迫る中での決定だった。大学は、寮自治会との交渉による「正常化」を断念し、現自治会と縁を切って「正常化」する方針に転換した。他大学では入寮募集の停止による廃寮を実現していたが、その方法では正規寮生が退寮するまで6・7年かかることから、短期間で廃寮にするため「在寮期限」方式を編み出した。

ところが、吉田寮の「在寮期限」を含む基本方針は、学内での合意形成が不十分なまま進められたため、学生自治会の猛烈な反対運動を呼んだ。文学部、教養部、理学部、農学部で、吉田寮廃寮に反対する学部長・評議員団交が行われた。工学部でも工学部長が追及された。それぞれの学部長・評議員は「寮生との話し合いによる合意もなく一方的になされた評議会『決定』は不当であり、その『決定』に賛同したことを自己批判する」とし、学生部の独走に反対した。「在寮期限」方式は、教官層の信頼を失い、その結果、基本方針に盛り込まれていた「1983年3月の吉田寮入寮募集停止」と「1983年度の熊野寮の在寮期限設定」は見送られた。

学部長団交と並行して、1983年1月には、5年ぶりに学生部長団交が行われた。しかし、神野博学生部長は、3回の団交を経て、逆に強硬路線に転換。2月に話し合いを一方的に打ち切ったのち、3月から光熱水料の請求書を4つの寮自治会に送付した。寮自治会は、話し合い抜きの請求は認められないとして、支払いに応じなかった。

1983年4月15日の会計検査院の来寮阻止行動に起因して、吉田寮と熊野寮の寮生8名が逮捕され、うち5名が起訴された。時計台と学生部棟への抗議行動が建造物侵入等に当たるというのが理由だった。吉田寮は裁判や光熱水料請求への対応 (1984年2月から支払い開始)に追われ、そのため「在寮期限」の課題に十分に取り組めないまま膠着状態に陥った。

ところで、北海道大学恵迪寮は1983年に新寮に移行していたが、1985年にかけて寮自治会運営を成功させていた。恵迪寮モデルは、設計と運用次第で新寮建替が必ずしも文部省の中教審路線に基づいた寮をもたらさないことを示唆していた。そこで、吉田寮は新寮の獲得で在寮期限を無力化できると考え、新寮獲得を大学との争点の中心に位置づけた。この点を熊野寮は批判した。

1985年の寮生大会で、当時流行していたフランス現代思想を援用して、治外法権的な寮自治はあり得ない、また自分たちは権力(監視)から逃れられない、故に抵抗はいまこの生活の場から始める、という「あらゆる隔離・分断・差別・抑圧を許さない」自主管理を宣言した。寮自治に都合が良いよう新寮に設計を折り込むことと、既設の寮で自主管理を営み続けているダイナミクスをそのまま新寮にもちこむことの両方が、新寮での自主管理を実現するものと考えた。この「仮説」は、2015年の新棟の設計思想につながり、検証された。

新寮予算の見送り

1985年7月、吉田寮は新寮予算の確保に向け、寮南側の新寮予定地の埋蔵文化財調査を実施するよう学生部に要求した。その年の京大の文部省への概算要求のトップは吉田寮新築だった。同月29日から始まる調査が実施されれば、60人規模の新寮予算が確保される見通しだった。しかし、吉田寮の新寮獲得方針を批判していた熊野寮自治会書記局が調査を実力で阻止した。そうした結果、その年の予算化は厳しくなった。また9月13日には、熊野寮自治会常任委員会を名乗る集団が吉田寮寮生大会の議事に介入しようとした出来事もあった。以降、寮の課題で吉田寮と熊野寮は距離を置くようになった。

しかし、「在寮期限」到来を目前にして「寮生追い出し」という事態に、多くの学生団体が対立はしながらも廃寮反対の声を挙げ、そのことが大きな力になった。

さらに新任の西島安則総長は、京大新聞のインタビューで「京大らしい対応をしたい」、また学生部の新年のあいさつで「吉田寮へは愛情を持って接したい」と、必ずしも強制退去を望んでいないことを明言した。

「在寮期限」の執行完了

1986年3月31日、在寮期限を迎えたが、大学は吉田寮を「在寮期限執行中」という扱いとし、140名の在寮生が継続して居住することを認めた。ただし、食堂の廃止、1名を除く職員の配置転換、入寮募集の停止を行った。吉田寮は入寮募集停止にもかかわらず自主募集を続け、その後も百数十名の寮生数を維持した。同年4月28日から5月1日に寮南側の新寮予定地の埋蔵文化財調査が実施された。6月には、施設部試案の新寮プランや、寮生設計による代替案も出されたが、概算要求のタイミングを逸した。

1988年8月、大学は老朽化が著しい吉田西寮のⅣ棟を解体、撤去した。Ⅳ棟撤去をきっかけに学生部と吉田寮の話し合いの機運が生まれた。11月、河合隼雄・学生部長との第1回目の団交が行われた。学生部長は吉田西寮の撤去と、名簿の提出および寄宿料の支払いをもって 「在寮期限の執行を終了すること」を提案した。吉田寮は、問題の長期化が新寮予算や現寮の補修予算の障害になっていることを重視して、提案を受け入れた。1989年2月までに、河合学生部長と5回の団交を重ねた。西寮撤去、寮自治会による寮生名簿の一括提出、寄宿料の自治会徴収による一括納入等に応じることになった。

3月25日、西寮撤去が開始されたのを受けて、27日に入寮募集停止の措置が解除された。そして、吉田寮が4月14日に寮生名簿を提出して寄宿料を納付すると、同月18日、評議会で「在寮期限の執行完了」が承認された。

明治期から数えると、1905年の一時閉鎖、1913年の近衛への移転、1935年の存廃問題に次ぐ、4回目の廃寮問題はこうして終結した。

《歴史こぼれ話》もう一つの「吉田西寮」

現在、「吉田西寮」もしくは「西寮」といえば、ほとんどの人は吉田寮現棟の西、東大路通りに面して立地する木造3階・地下1階の「新棟」をイメージするであろう。しかし、1980年代末まで、現在の新棟とは異なる場所に「吉田西寮」と呼ばれる京大の学生寮が存在していた。薬学部本館の南側で、現在は薬学研究科総合研究棟などが立地する。

この吉田西寮はもともと学生寮として建設されたものではない。現在の薬学部構内から東南アジア地域研究研究所やアジア・アフリカ地域研究研究科に至る一帯の敷地には、かつては京都織物株式会社の本社・工場が所在していたが、旧「西寮」はその従業員(女子工員)宿舎として1920年・23年に建てられた4棟の木造2階の建物である。

戦後、京都大学は京都織物から従業員寄宿舎を含む敷地の一部を買収して医学部薬学科(現・薬学部)の校地として整備するとともに、1959年に旧・寄宿舎を学生寮に転用し、以降「吉田西寮」と称した。これに伴い従来の吉田寮(現棟)は「吉田東寮」と呼ばれるようになった。しかし吉田西寮の敷地は、「薬学部が入用の際には返還する」との条件で学生部が借用したという経緯があったため、翌60年に発足した薬学部からの返還要求が本格化することになった。この時、吉田寮自治会は返還要求に反発して「新寮(熊野寮)建設までは西寮を明け渡さない」旨を当局に通告した。結局、1965年3月末に熊野寮2期工事の予算が下りると、寮自治会は西寮第3棟のみの撤去に同意し、同棟を明け渡すことになった。

この吉田西寮は独立した自治組織を持つ女子寮・室町寮・熊野寮と異なって吉田寮の一部とされ、西寮に在住する寮生は西寮総会とともに吉田寮全体の寮生大会に参加した。当時は一人部屋も存在していた東寮と違い、西寮はそれぞれ2~3名が居住する31室の相部屋からなり、定員は76名となっていた(86年3月時点)。居室はかつて女工が寝起きしていたカイコ棚式のベッドを改造して荷物を収納するスペースとした独特の間取りであった。当時、西寮は原則として1・2回生が居住した。年度初めに入寮した寮生は、それぞれ割り当てられた居室の先住者が東寮に引っ越しするまでの1カ月程度の期間、Ⅰ棟1階の通称「大広間」に大勢で寝起きする習わしとなっていた。

1965年以降も使用された3つの棟(Ⅰ・Ⅱ・Ⅳ棟)のうち、西南側のⅣ棟は老朽化を理由に85年3月限りで居住放棄となり、88年8月には建物自体が撤去された。そのため、最後まで使用されたのは東側のⅠ棟・Ⅱ棟である。そして前頁の「通史」で振り返った経緯により、翌89年3月には京大当局と吉田寮自治会の妥結内容に沿って居住者は東寮に移住し、同月末には当局による撤去が始まったため建物は現存しない。しかし当時の寮生の間では、入寮時に経験した「大広間」のある種カオスな雰囲気を初めとして、旧「西寮」の思い出が話題に上ることも多い。

紙面紹介

2020年1月16日号紙面では、以下の記事も掲載しております。

・史料から見る吉田寮1「赤松明彦」
・史料から見る吉田寮2「河合隼雄」
・史料から見る吉田寮3「西村周三」

このほか《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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