企画

【連載第五回】吉田寮百年物語

2020.01.16

連載にあたって

京大が吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を相手取って起こした裁判の第3回口頭弁論が、昨年12月26日、京都地裁で行われた(本紙今号2面に詳報)。こうした状況を受け本紙では、昨年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のありかたを考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。第四回では、1960年代の増寮運動を振り返り、吉田寮の「自治」を考察した。今回は、1960年代後半からの学生部封鎖を振り返るほか、2本の寄稿から確約書や寮生活に迫る。

※吉田寮百年物語編集委員会
メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
第一回 第二回 第三回 第四回 第六回 第七回 第八回

《通史》学生部封鎖とその後(1968年~1977年)

京大方式で対立の激化を回避

1968年、全国の大学で学園闘争が多発した。きっかけは、学費値上げ、学生会館の管理運営権など様々であったが、共通点があった。それはマスプロ教育といった教学環境の歪みの是正を求める「学園問題」と、ベトナム反戦・70年安保の「政治問題」を連結させたことだ。

一方、京大は平静を保っていた。奥田東総長は、話し合いを基調とする「京大方式」で寮問題などの収拾を図り、火種の発生を押さえていた。京大方式とは、第一に文部省の方針に追従するのでなく、京大の大学自治の範囲で独自の解決を図る、第二に学生・寮生らの要求する話し合いには応じ、場合によっては確約を結ぶ、第三に確約の実行をすぐに行わないが、紛争が収まる点には校費を出して譲歩するというもの。寮生は、これを「国大協の自主規制路線」と呼び、非難した。

「最高形態としての闘争」と寮生が自称した熊野寮の寄宿料不払い運動を実施しても、光熱水料徴収を記した京大寄宿舎規程の撤回、及び炊フ公務員化は実現しなかった。そのうえ、奥田総長は団交の場で「2千人増寮計画」について、1967年の寄宿料不払い闘争や、1968年から大学の職員を排除した「自主入寮選考」を実施したことを理由に、予算化できないと発言していた。寮生は「口実にすぎない」とこれを非難し、両者の対立は深まっていった。寮生は次第に、「話し合い路線」では寮の要求は実現できないと考えるようになった。

学生間の対立

もう一つの対立があった。日本共産党の青年組織「民主青年同盟」(以下「民青系」)の勢力と、民青系と路線を異にする勢力(以下「反民青系」)の対立である。戦後の学生運動は、当初は日本共産党の影響の下、全学連を中心に統一した基調で進められていた。それが、60年安保の少し前から、学生運動は大まかに先の2系列に分裂。1959年に再建した京大同学会(全学自治会)は反民青系の拠点であったが、1965年以降は民青系が優勢となる。吉田寮と熊野寮の執行部は反民青系が優勢だった。

1969年当時、民青系は寮運動も含む学生運動を「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」ための戦いと位置付け、民主統一戦線を唱えていた。対して、反民青系は寮運動を「帝国主義的大学再編と治安弾圧粉砕」のための戦いと位置付け、その一部は「前段階武装蜂起」を志向し始めていた。当時文学部助教授の高橋和巳はこう書いている。「マルクス主義的な用語が(略)双方からとびかいながらも、発想法が全く違っているのだ」(『わが解体』)。両者の冷静な対話は難しくなっていた。

また、暴力の行使が公然化した。以前にも、反対運動の示威行動、占拠という過程でやむにやまれぬ形で、権力者や機動隊に暴力を行使する場面があった。その暴力が矛先を変えて、学生間の意見の対立の場に持ち込まれるようになった。民青系は、反民青系を「トロツキスト・修正主義者」と定義し大学からの一掃を掲げた。一方、反民青系は、民青系を「闘わない既成左翼」と呼び、大衆運動で乗り越えることを主張し、両者はたびたび衝突した。寮の課題は、それぞれの文脈の中で位置づけて主張され、それは1980年代まで続いた。

3項目要求から学生部封鎖へ

1968年12月12日、反民青系の寮生は大胆な対学生部闘争を開始。民青系との路線の違いを際だたせる目的で、より戦闘的な運動方針を選択した。吉田寮と熊野寮の執行部系の寮生約150名は、奥田総長、岡本道雄学生部長と18時間に及ぶ団交を実施。会場となった学生部会議室の外では、教養部自治委員会を終えた民青系の学生60名が団交反対で押し掛けたが、執行部系の寮生らは学生部入り口にバリケードを築いて入室を拒んだ。

この団交で、執行部系の寮生は「3項目要求」を行った。3項目要求とは、「無条件増寮、20年長期計画白紙撤回、経理全面公開」である。

「無条件増寮」とは、「○管規」や光熱水料徴収を適用しない新寮とすること。「計画撤回」とは、同年11月に発表された京大の長期整備計画に吉田東寮の廃止が含まれていたことを受けて計画の撤回を要求したもの。また、「経理全面公開」は、財源が無いため炊フ公務員化はできないという回答に対して、その根拠である経理を明らかにするよう求めたもの。いずれの要求も奥田総長は拒んだ。

1969年1月14日午後5時から、反民青系の吉田寮生と熊野寮生からなる全寮闘争委員会(寮闘委)の約200人と、学生部長との団交が始まった。途中から総長も出席した。議題は、3項目要求についてである。総長は、前年12月の団交の立場から譲歩した。「無条件増寮」は拒否したが、「長期整備計画」について、全面白紙撤回はできないとしつつ寮に関する部分は撤回したほか「経理公開」は実現の方向で検討すると回答した。しかし、寮闘委は3項目要求の完全獲得を追求した。

1月16日午前1時、3日間に渡る団交が決裂すると、その場にいた寮闘委はただちに学生部建物を占拠した。1968年は、世界中の大学で「スチューデント・パワー」と呼ばれる社会運動が同時に発生した稀有な年だった。1968年4月のコロンビア大学、5月のパリのソルボンヌ大学、6月の東大、10月のロンドン経済大学など、多くの大学で学生が大学の建物を封鎖した。

学生部占拠について寮闘委は「長い増寮運動のなかで話し合いを続けても問題は解決しないことを知った寮生の新たな問題解決の表現であり、蓄積された怒りの表現」と説明した。

1月16日、寮闘委らの封鎖貫徹の集会(約300名)と、日本共産党及び民青系の「五者連絡会議」(同学会・職組・院協・生協・生職組)の封鎖糾弾の集会(約400名)が、学生部前と時計台前で隣接して開催された。その周りを千人の学生・教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気に包まれた。大学から支給された黄色いヘルメットを被った民青系の同学会行動隊が学生部の封鎖解除を試みたが、寮闘委はそれを跳ね返した。

折しも、東大では学生が占拠する安田講堂で、機動隊との攻防戦が1月18日・19日に行われていた。機動隊の占拠解除に伴う研究施設の荒廃の映像は「京大を第二の東大にするな」という感情的な危機意識を秩序派に引き起こさせ、「紛争化を避けたい」の一点で総長と民青系の「五者」が連携した形となった。

1月21日、学生部封鎖を支持する学生らによって全関西総決起集会の開催が学生部前で予定されていたが、これを阻止するため、民青系の「五者」が本部構内をロックアウトした。本部正門に高さ3㍍、奥行き5㍍もの「逆バリケード」が築かれ、集会参加者が本部構内に入れないようにした。学生部を封鎖する寮闘委は、本部構内で孤立した。本部構内の外にいる学生部封鎖を支持する学生らは、「逆バリケード」を何度も突破しようと試みたが、放水や民青系の同学会行動隊のピケで本部に近づくことができない。このような衝突が、雪の降る中、夜間も含めて3日間続き、「狂気の3日間」と呼ばれた。

学生部封鎖解除 京大闘争へ

1月23日午前10時半、寮闘委は学生部の窓に白旗を掲げ、封鎖を解除した。11時、「五者」は法経一番で、封鎖をしていた寮闘委の寮生60名を取り囲んで「暴力学生弾劾」集会を開始した。1500人の学生教職員が参加した。ところが、会場からは逆に民青系学生への非難が起こり、学生部封鎖を行った寮生が、寮運動の意義と「五者」の運動妨害について発言すると、会場からは寮闘委支持の声が続出した。弾劾集会の目的が未達になると、森是議長ら「五者」は会場から退席した。寮闘委がその場で学生部長団交を呼びかけると、残った1200人らと寮闘委は、学生部長さらには総長を法経一番に呼び入れ、闘争破壊の責任を追及した。総長は25日の再団交を約束した。

1月25日、約束の総長団交の直前に全学闘争委員会(後の京大全共闘)が結成され、寮闘委は全学闘争委員会に合流した。総長団交は、27日まで53時間続いたが、決裂した。

その後、教養部、文学部、医学部、工学部が無期限ストライキに突入。農学部や理学部も長期ストへ。京大闘争では、研究体制のあり方や創造的な知的活動が議論の俎上に載せられた。闘争に関わった学生の意識は多様だった。党派に属する学生は、固有の革命理論に基づく政治運動の拠点作りをめざしていたが、大多数の学生は、管理社会に堕した日常性を打破し新しい活力を求めようとする傾向が強かった。そういった多様性が、京大闘争を深く、長く継続させた。京大闘争は、その年の3月の入試粉砕闘争を経て、9月21日の時計台封鎖解除まで高原状態を保った。反面、寮の課題は京大闘争の中で、小さく扱われるようになった。

寄宿舎OBとの繋がりの終焉

年に一回、銀杏並木が色づく秋に、舎友会総会が開催され、そこでは舎友(卒寮したOB)と在寮生が交流する機会を持っていた。

ところが、1969年の総会では、OBが「古き良き時代の思い出話」を始めると、ヘルメットを被った現役の寮生が「ナンセーンス」とヤジを飛ばし「舎友会粉砕」をアピールした。舎友会総会の行事は、この事件で途絶えた。

入退寮権に関する同意へ

寮生による自主入寮選考が続いていた。この状態が続くと、大学は入寮者の把握と寄宿料の徴収ができない恐れがあった。それでは予算執行にも支障をきたすことになる。

1970年1月、新任の前田敏男総長は京都大学新聞のインタビューで、自主選考を認める発言を行った。現状を追認することで、宙ぶらりんな状態を解消することをめざした。

1971年2月、淺井健次郎学生部長は団交で、「入退寮権は一切寮委員会が保持・行使すべきだと考える」とし、入寮者の募集、選考、決定および退寮者の決定を寮委員会が行い、新入寮者氏名を京都大学新聞に掲載することになった。学生部はその新聞発表をもとに寄宿料債権を発行し、寮生から寄宿料を徴収することになった。

光熱水料については、学生部は寄宿舎規程にある徴収の項目の削除は拒んだが、徴収方法を明示しないことで「継続審議扱い」となり、実際には寮生から徴収されなかった。炊フについては、臨時職員という扱いであったが、全員が公費負担で雇い入れられた。

大学当局は、1969年の京大闘争以来、くすぶり続ける学生運動への対応に追われ、吉田寮と熊野寮に関してはほとんど寮生の要求を受け入れた。ただし、大学は新寮建設については、条件付きでなければ予算化できないとして寮生の要求する無条件新寮を認めなかった。

寮内での対立と寮生数の激減

1974年、大学内での学生間の対立は寮生の裁判に発展した。「全寮連を支持する会」の寮生が、4月27日の吉田寮の寮生大会で執行部系の寮生に暴力を振るわれたとして、京都府警に告訴した。6月25日、2名の寮生が逮捕。他2名が指名手配され、後にそれぞれ逮捕。4名のうち3名が起訴され、3年後に執行猶予付き有罪判決となった。事件以降、「全寮連を支持する会」は「寮は暴力学生に私物化されている」と訴え、合格者へビラを配布。そのため入寮希望者は激減し、寮は定員割れを起こした。公判維持に寮自治会活動の労力を割かれたことおよび定員割れは、増寮運動の動きを止めた。修学院の新寮用地は宙に浮いたままになり、その後、留学生向けの国際交流会館に転用された。

教育面で学寮を不要とする文部省方針

文部省は1971年6月の中央教育審議会答申で、学寮を「紛争の根源地」と断定し、学寮のもつ教育的機能を不要とした。1962年の学徒厚生審議会答申では、学寮に対して少なくとも一定の教育的機能を認め、大学による適正な指導の下での寮自治の遂行を期待していた。しかし1969年の学生反乱を経て文部省は、そうしたわずかながらに認めていた「寮自治」についても好ましくないものと見なすようになった。

多くの大学の学寮では、この中教審答申に基づいて、光熱水料の徴収が進められたほか、大学が入退寮権を握るようになった。電気通信大学、大阪大学、岡山大学などの学寮では、こうした動きに反対した寮生が徹底抗戦を図ったが、大学側は機動隊の力を借りて廃寮に追い込んでいった。

竹本処分を敢行 学寮の「正常化」へ

ところで京大では、1972年11月、学生自治会の主流がそれまでの民青系からノンセクトと呼ばれる反民青系に移り、その後も数年間、千名規模の集会動員と教養部ストライキが維持される状態になった。その理由として、1974年に同学会議長を務めた伊藤公雄氏(京大名誉教授)は「それまでもっていたアタマでっかちのところを克服する形で、地域と結びつき、反公害闘争と結びつき、生活破壊と闘う運動と結びつき、底辺労働者と結びつきながら同学会運動というものが表現された」(『京大史記』)と語っている。たとえば、教育実習生への差別的指導問題を契機とした同和教育の改善や、毒物垂れ流し問題から起こった安全センター運動など、大学側が学生の改善提起を受け入れざるを得ない状況を作っていった。大学は学生自治会への対応に追われたため、吉田寮と熊野寮については1971年の合意の秩序を維持し、衝突を避けた。

70年代の闘争で最大の課題は、1972年から継続された経済学部の竹本信弘助手の分限処分粉砕闘争だった。時計台に白ペンキで書かれた闘争のシンボル「竹本処分粉砕」の文字が消し去られるのを境に、学生たちの自治会運動への関心は徐々に薄れていった。これによって1969年から9年間続いた「京大の紛争状態」は終結した。大学は寮の「正常化」に着手した。

《解説》竹本処分粉砕闘争とは

京大全共闘の理論的な指導者の一人だった経済学部の竹本信弘助手は、1971年8月に起こった朝霞市での自衛官殺害事件の重要参考人として指名手配されて以来、潔白を主張して地下に潜行した。翌1972年、京大当局はこの事件を契機に竹本氏を免職処分に付そうとしたが、学内の反対運動によって阻止された(第一次竹本処分粉砕闘争)。その5年後の1977年6月18日、京大の大学評議会は大学創立記念日でもあるこの日に「無断欠勤」を理由に竹本助手の分限免職処分を決定した。学生は「欠席裁判、政治思想処分」と非難し、ストライキ(教養部、農学部、文学部、経済学部、教育学部)や教官放逐作戦で応じた。大学側は機動隊導入でこれに答え、力によって学生たちに応対した。それがかえって学生たちの反発を生み、学生たちは総長室や経済学部長室などを占拠。闘争は一段と激しさを増した。以上が第二次竹本処分粉砕闘争の概要である。

1977年12月27日、機動隊が警戒態勢を敷く中、大学は時計台に書かれた「竹本処分粉砕」を5年ぶりに消した。しかし、1978年1月10日、ナワバシゴに登った6名の学生が、スプレーで再び「竹本処分粉砕」と書きつけた。学生は建造物侵入罪で逮捕(のち起訴)されたが、学生が一般学生(京大山岳部)だったことで大学側はショックを受けた。闘争は一部の活動家と大学とで繰り広げられたのではなく、OBぐるみ、教官ぐるみで、京大の「大学自治」をめぐる反撃として組織されていたのである。

1977年、学外で開かれた授業221件、中止された授業139件、学外で開かれた会議126件、という数字が当時の京大のおかれた状況をよく示している。

ポスト「紛争」期に全国の大学では、文部省や各大学当局によって学内の管理強化が進められたため学生運動は沈静化に向かっていた。そうした中、以上のように左派学生運動がなお勢力を維持していた京大について、その例外的状況を当時の週刊朝日は「いまどき学生運動なんて、京大は人民の海に浮かぶガラパゴス諸島のようだ」と評し、多くの絶滅危惧種が生息する孤島にたとえた。この言葉を流用して経済学部同好会(自治会)の中に文化サークル「ガラパゴス・プロダクション」が発足。そこから京都造形大の浅田彰氏や、東京藝大の毛利嘉孝氏らが育った。

紙面紹介

2020年1月16日号紙面では、以下の記事も掲載しております。

《論考》吉田寮と大学の「確約」について(寄稿:木村大治・アジア・アフリカ地域研究研究科教授)
《記録》寮生活は思想を育む(寄稿:高橋龍太郎・多摩平の森の病院院長)

このほか、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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