企画

【連載第九回】吉田寮百年物語

2021.02.16

《連載にあたって》

京大は2019年4月、吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を提訴し、来月4日には第6回口頭弁論が開かれる。こうした中、本紙では2019年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。前回第八回では、2002年からの約10年間の動きを振り返り、老朽化対策を巡る寮内での検討状況の変遷について考察した。今回は、2008年からの7年間を振り返り、寮食堂の補修や新棟建設の決定に至る過程を見るとともに、寮の価値について言及された2本の史料などを掲載する。

※吉田寮百年物語編集委員会……メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回

目次

    《通史》吉田寮食堂補修・新棟建設決定と歴史的価値の発見(2008~2014年)
    《史料》吉田寮の建築的意義について(確約より抜粋)
    《コラム1》京大の耐震化推進 取り残される吉田寮、西部講堂
    《コラム2》二度目の吉田寮耐震調査
    《解説》吉田寮をめぐる予算


《通史》吉田寮食堂補修・新棟建設決定と歴史的価値の発見

2008~2014年



歴史的建造物と認識されていなかった

2000年頃まで、吉田寮生じしん、自分たちが住んでいる吉田寮を歴史的建造物と認識していなかった。1985年の鉄筋コンクリート造りの新寮建替え方針はその証左であり、大学当局も同様に歴史的価値を認識していなかった。たとえば、『京都大学百年史』(1998年)では、吉田寮に関する記述は皆無で、歴史的建造物のリストの中に吉田寮の名前は無かった。

はじめて、吉田寮の歴史的価値について言及したのは、2005年度「京都大学総長裁量経費」による西沢英和・宮本慎宏・石田潤一郎各氏の調査・研究報告「京都大学学生寄宿舎吉田寮について」(2006年9月 日本建築学会大会学術講演梗概集)である。同報告では、「吉田寮周辺には学生集会所や楽友会館など、戦前の建物が多く残っており、当時の学生施設地区の面影を残している。(中略)吉田寮を含む学生施設群が登録文化財に指定され、今後も保存活用されていけるかが重要な課題である」と述べられている。

吉田寮を明治・大正時代の歴史的建造物と評価する声が建築専門家たちの中で、大きく広がるのは、吉田寮食堂の存廃を巡る議論がきっかけだった。

建て替えと増棟の計画案

2008年10月、西村周三氏が副学長に就任した。副学長の諮問機関である学生生活委員会の第三小委員会(寮務担当)の委員長には川添信介・文学研究科教授が就いた。川添氏は、東山副学長からの話し合いの路線を継承しつつ、大規模補修は財政的な問題から「可能性は極めて低い」として、老朽化問題を「建て替え問題」と設定し、新寮を建てることを前提とした議論を速やかに進めるため2週間に1回の話し合いを行うことを吉田寮に求めた。加えて川添氏は、東山副学長は認めていた寮生による自治自主管理や、自治会による入退寮選考を問題視する姿勢を見せ、確約の締結に否定的だった。西村副学長も含めて、確約書の第1項に引き継がれてきた「吉田寮の運営については今後とも寮生と団体交渉を行い、合意の上決定する」との文言に不服を唱え、合意がなくとも大学当局が決定することが必要と主張した。そのため、大学当局と吉田寮との交渉が難航することは不可避であった。

こうした大学当局の姿勢に対し、吉田寮は、老朽化問題解決の道を探ること自体には賛同を示しつつ、議論を進めていくにあたり最低限保証されるべき事項を確約書にまとめることを要求した。

2009年4月20日、西村副学長から「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」が示された。4月24日、寮生に対して説明会が開催された。それによると、焼け跡と吉田寮食堂の位置に新しい寮(吉田寮A棟)を建てる。A棟は、吉田寮現棟に居住する全寮生が移転できるよう、現吉田寮の定員(147名)より増やす。そして、A棟に吉田寮生の移転が完了した時点で、現棟を取り壊し、そこに吉田寮B棟を建設。A棟B棟合わせて寮の定員は300名以上になる案だった。文科省への概算要求を視野に入れ、入寮選考については基準を副学長と自治会で定めることや、在寮年限を原則2年とすることを盛り込んでいた。のちに、概算要求は、文科省と副学長とのやり取りの中で厳しいことが判明したため断念されたが、2009年度までが期限となっていた目的積立金の使用を念頭に、新棟に関する議論は続いた。

吉田寮が新棟や現棟の老朽化対策を話し合うための前提として求めた確約の引き継ぎに関しては、2009年10月8日から翌9日にかけての団体交渉で、「大学当局は吉田寮の運営について一方的な決定を行なわず、吉田寮自治会と話し合い、合意の上決定する」という中心部分のみ確約締結に至った。大学当局と吉田寮との意見の隔たりは大きかったが、吉田寮と西村副学長双方が「新寮・新規寮の建設と現吉田寮の老朽化対策について誠意を持って合意を形成する努力を行う」ことを文言として追加することで、合意にたどり着いた。そのほかの部分は、2010年7月23日、西村副学長が就任して1年10カ月後に締結された。西村氏が退任する3カ月前だった。

新棟の交渉再開と中断

2010年10月に副学長に就任した赤松明彦氏は、「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」を西村氏から引き継いだ。

新棟を議題にした団交は、2010年2月18日(西村副学長)が最後だったが、2011年3月8日に確約の引き継ぎが行われたことを受け、翌4月27日に赤松副学長と新棟について団交が再開し、5月と6月、10月に交渉が持たれた。建替えの前提となる条件について、自治会が運営を行うことや、入退寮者の決定は自治会が行う現行の方式を維持することは、合意がなされるなど前進を見せた。寮生の経済負担については、学生の学ぶ機会を保障するための福利厚生施設として寄宿料は理想的には無料であるべきとの吉田寮の主張に対して、赤松副学長は理解を示しつつも、他大学や国際交流会館(留学生宿舎)との兼ね合いから、学内での説得のために寄宿料を4700円に設定することを主張した。

吉田寮食堂の存廃をめぐって

同年6月13日と30日の団交で、吉田寮食堂の存廃について議論がなされた。吉田寮は、吉田寮食堂を補修することを主張。その理由として、①外部に開かれたスペースとして様々な人が集う食堂は、寮生が内向きになることなく福利厚生施設としての吉田寮のあるべき姿を考えるために必要であること、②吉田寮食堂が学内の数少ない自治・自主管理スペースとして存続してきたこと、③吉田寮食堂の雰囲気や構造が代替不可能であることを挙げた。これに対し、赤松副学長は吉田寮食堂を取り壊すことを主張。また、食堂を取り壊せば新棟の収容人数が増加するため、定員増加を達成できるとした。対して、吉田寮は、1989年に当局によって撤去された西寮の定員(76名)の回復は必要だが、吉田寮食堂という自治にとって意義あるものを壊し、悪影響を及ぼしてまで定員の増加を望んでいないと反論した(編集部注:吉田寮食堂の意義については、本紙2020年12月16日号連載第八回「自主管理空間としての吉田寮食堂」(寄稿:唐仁原俊博・会計年度任用職員/元寮生)も参照)。

2012年2月、建築家・山根芳洋氏の協力で吉田寮食堂の実測調査が実施された。調査の結果、吉田寮食堂は1889年に第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された建物が、1913年に吉田寮竣工に合わせて吉田寮の西隣に移築されたことが判明。京大最古の建物だった。

2012年4月10日、部局長会議で吉田寮新棟建設とこれに伴う吉田寮食堂の取り壊し、及びこの件に関する吉田寮との交渉打ち切りが決定された。このことが赤松副学長の4月19日付け「旧食堂の取り扱いと吉田寮新棟の建設について」発表で明らかになった。同文書で、吉田寮食堂の取り壊し及び代替スペースの新設、新棟建設を吉田寮に通告した。

一方、4月20日、吉田寮は「大規模補修」による現棟保存方針を決定。以降、吉田寮は、吉田寮新棟建設(増築)、及び大規模補修による現棟と吉田寮食堂の保存を、公式の方針として主張することになった。この決定は、1985年の新自治寮建替え方針からの転換であり、2000年から10年以上、「現棟の建替えか、大規模補修か」で揺れていた議論に区切りをつけることになった。

2012年4月23日に開かれた「吉田寮食堂取り壊しに関する説明会」には、150名近くの吉田寮生や熊野寮生、食堂使用者らがつめ掛けた。吉田寮は「当事者の意見を無視した一方的な決定であり容認できない」と、「吉田寮食堂の取り壊し強行、交渉拒否に反対」する旨を発表していた。

赤松副学長は、2014年3月までに吉田寮A棟を新築、ついで2016年秋までに現寮を取り壊して吉田寮B棟を建設するというプランを提示し、①A棟には十分な定員を確保し寮の収容人員不足を解消したい、②A棟の建設を決定することで、現吉田寮の老朽化について議論でき、寮生の安全の早期確保にもつながると説明し、「寮生の自治を否定するものではない」と理解を求めた。

吉田寮は大学側の一方的な決定の撤回を要求。さらに対案として食堂を含めた現吉田寮の補修と焼け跡のみを敷地とする「A棟建設案」を提出し交渉継続を求めた。さらに吉田寮の建物は歴史的な意義を有するのみならず、過去の寮生が寮のあり方を追求する中で形作られてきた建物であり、自治寮として継承していくべきものであるという理念を主張。続いて①大学が提案する現寮の建替え工事計画はそもそも第2期中期計画の期限に間に合わない。一方、自治会側の提案する補修案を採用すれば工期が大幅に短縮され、第2期中期計画期間中に工事が完了する公算も大きい、②吉田寮は現棟(吉田寮食堂含む)を補修したうえでA棟を建てた場合でも当局の主張する十分な定員を確保できる、③吉田寮の老朽化対策が必要なのは事実であるが、これは補修でクリアできる問題であり、むしろ補修をした方が早急に問題を解決できる、と具体的な利点や大学側プランへの疑問点を挙げて赤松副学長らを追及した。

赤松副学長は「(食堂を除く)現吉田寮の補修については検討していきたいが、食堂とA棟について考えを改めるのは難しい」と述べつつも、吉田寮食堂取り壊し決定の撤回と交渉継続を確約した。

現棟補修の検討の本格化

2012年6月には、二度目の吉田寮耐震調査が実施された(次頁コラム2)。その結果をうけ、2012年9月18日、赤松副学長と「現棟の建築的意義」を認める確約を合意(次頁史料)。さらに、「現寮の処遇は補修の意義を踏まえた上で継続協議していくこと」「新棟を木造と鉄筋コンクリートの混構造で建設すること」「寮食堂を補修すること」を合意した。以降、建替えを主張していた京大は、現棟の老朽化対策として、大規模補修を選択肢の一つに入れることになった。新棟の設計・着工へと歩を進めた2013年8月、大学からひとつの現棟補修案が提示された。吉田寮も対案を出し、補修に向けた協議が本格化した。

建築基準法の制約と京都市条例

現棟の補修に当たっては建築基準法による制限が問題となった。京都大学周辺が準防火地域に指定されているため、木造建造物は準耐火構造を活かした場合でも、延べ面積(各階の面積の合計)を1500平米以下とする必要があった。建築基準法の施行前に建築され、3000平米を超える吉田寮現棟は、補修する際には現行法に適合させなければならなかった。

木造建築物であっても、一部を鉄筋コンクリート造などの耐火構造にして木造部分を複数に分割すれば、それぞれの木造部分が基準面積の範囲内である限り、建物全体では面積制限を回避できた。木造・鉄筋コンクリート造の吉田寮新棟は、この方式を採用している。

2013年8月に当局が提示した現棟補修案は、現棟の東半分を撤去し、さらに一部を鉄筋コンクリート造に置き換えるなどを施して、建築基準法の要求を満たそうとした。

吉田寮はこれに反対し、対案として、鉄筋コンクリート造への置き換えなどをせずに出来る限り現状を保存したいという観点から、「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」の活用を提案した。

建築基準法には、国指定文化財および地方自治体が条例により保護対象とした歴史的建造物は制限を免れるとした「適用除外」条項がある。京都市が2006年にまとめた近代化遺産調査のリストに吉田寮現棟もあげられており、保護対象となる可能性は十分にあった。この着想に基づく現棟補修案は、2014年1月に吉田寮から大学に提示された。安全性の確保に懸念があるとして難色を示す大学に対して、吉田寮は、建築基準法の制限が画一的で柔軟性に欠けていると指摘、個別の事情に応じた安全対策を考えることを主張した。

新棟と吉田寮食堂補修工事の着工

新棟は、2012年9月18日の交渉で、赤松副学長が、「運営について一方的な決定を行なわず、吉田寮自治会と話し合い、合意のうえ決定する」ことや、入退寮者の決定は現行の方式を適用すること、寮生の経済負担については今後も継続して協議を行うことを確約した。その後、吉田寮と学務部学生課奨学厚生掛及び赤松副学長との間で設計に関して協議が行われ、2013年6月に合意し、7月8日に敷地の囲いがなされた。工事開始に先立って、吉田寮生らが焼け跡に置いていた単管パイプなどの物品を撤去。並行して吉田寮食堂の補修工事は、2014年4月に着工した。

全学委員会と補修交渉の停滞

現棟補修に向けた交渉が軌道に乗り始めたかに見えたが、2014年2月、赤松理事は自身に代わって老朽化対策に関する当局の意見をまとめる全学委員会を、責任の所在が曖昧になり交渉の進みが遅くなるとして寮自治会が反対していたにもかかわらず設置した。

設置強行に対して吉田寮は、自治会との合意なく委員会を設置するのは確約違反であるうえ、委員会での決定に自治会の意見が反映されない恐れがあると抗議。その後、赤松副学長の意向も踏まえ、全学委員会規程を改定する方向で議論が進められ、改定案は両者の間では合意した。しかし、赤松副学長の体調不良などにより、第一回委員会開催は延期され、結局両委員会とも一度も開かれないままに赤松副学長の任期とともに同年9月に廃止されることとなった。
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吉田寮の建築的意義

2012年9月18日確約(赤松副学長署名)より抜粋

京大が進めた「耐震化推進」方針で、大規模な木造建物は「建物ごとに特性を考慮する」、「耐震化を進める」とされた。赤松副学長と吉田寮とで結ばれた確約は、まさに大学の方針「特性を考慮」した内容となっている。以下に確約から該当箇所を転載する。

第一に、吉田寮現棟は周辺環境とともに、建築として優れた価値を有する。吉田寮現棟には優良な木材が使われており、居室は全て南向きに配置されている。また、三棟ある居住棟それぞれの間には豊かな樹木群が生い茂る広い庭がある。そのため、日当たり・風通しが大変優れており、寮生の快適な生活を可能にしている。また、吉田寮現棟の庭には多種多様な生命が生き生きと根づいており、その庭は吉田寮生のみならず、広くその庭を訪れる人にとって憩いの場としても機能している。

第二に、建築史から見た価値が吉田寮現棟には存在する。吉田寮現棟は明治・大正期に洋風建築が普及していくなかで建てられた和洋折衷の建築物である。この時代に建てられた西洋の建築意匠・技術によって建てられた学生寮や寄宿舎は多いが、それらのほとんどは建て替えられてしまった。したがって、吉田寮現棟は明治・大正の建築意匠・技術を今に伝える希少な建築物となっている。このように歴史を体現して今に伝える建築物は、過去の事実を知り、未来の新しい考えを生み出す拠り所として貴重なものである。なお、こうした価値はある建物単体としてではなく、吉田寮現棟と隣接する吉田寮食堂棟などと不可分の建築群として、はじめて形成されるものである。

第三に、一世紀にわたり動態保存され続けてきたことによる価値を吉田寮現棟は有している。このことは、自分たちの生活・活動の場をより良くしようとしてきた人びとの不断の試行錯誤の結果であり、またそうした結果を引き継ぎ、今後も絶え間ない努力を可能にする場として、吉田寮現棟が存在することを意味する。この価値は、たとえば吉田寮現棟の一部をモニュメントなどとして残すのではなく、使い続けることによってこそ受け継がれていくものである。この価値もまた、第二に挙げた価値と同様に、吉田寮現棟のみならず、それに隣接する吉田寮食堂棟などからなる建築群によって、体現されていると言える。

2012年9月18日

(署名)副学長 赤松明彦

(印)吉田寮自治会



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《コラム1》京大の耐震化推進 取り残される吉田寮、西部講堂

2003年11月17日、文科省が学校施設耐震化推進方針を決定。生命身体の安全を守るため、耐震化予算が各大学に継続的に配分されることになった。京大は、文科省の方針を受けて、「京都大学耐震化推進方針」を2006年5月に決定し、建物の建震調査と、耐震化工事を計画的に進めることになった。

2007年3月の「京都大学耐震化推進方針―保存建物・木造建物・原子炉施設―」で表のような方針が示された。なお、吉田寮は「保存建物」対象外である。なお、2007年時点で、木造建物は、2万4千平米(京都大学保有施設の約2%)あり、8割以上の木造建物が、耐震補強が必要な状態にある。大規模な木造建物とは5百平米以上を指す。

木造建物のうち、「保存建物」は「清風荘(1911年竣工)」「演習林事務室(1931年竣工)」があたる。保存建物以外の「大規模な木造建物」は、「元総長官舎(1912年竣工)」「吉田寮現棟・吉田寮食堂(1913年竣工)」「西部講堂(1937年竣工)」「女子寮」「京大職員官舎」「木質材料実験棟(宇治)」「西部課外活動棟」などが該当していた。

方針決定後、耐震化が進み、2007年から2016年まで、「京都大学施設の耐震性能」が毎年発表、「耐震化率」が示された(グラフ参照)。最後の発表の2016年、1・5%に減少した「耐震補強が必要な建物」に「(宿舎、寮を含む)」との註が付けられた。

「大規模な木造建物」のうち、元総長宿舎は補修され「三才学林」に転用。木造建物ではないが熊野寮は2011年に耐震化工事が竣工。西部課外活動棟は建替え(2008年~2010年)。

2016年6月に発表された2015年度計画への評価では 、「2015年度においては学内予算により、『京都大学(吉田南)総合研究棟耐震改修工事』他23事業の耐震化事業を実施し、耐震化が必要な職員宿舎(芦生、犬山、野口原)および学生寄宿舎等(吉田寮、女子寮、室町寮、西部講堂)を除き、全ての耐震化を完了した」と記された。女子寮は、2019年3月に建替えられた。2021年2月時点では、「大規模な木造建物」は、吉田寮と西部講堂である。

taishinka

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《コラム2》二度目の吉田寮耐震調査

2012年6月から7月にかけて、財団法人建築研究協会が7年ぶりに吉田寮を調査。「京都大学(中央)学生寄宿舎吉田寮等耐震調査業務報告書」がまとめられた。

ここで注目に値するのは、極めて稀に発生する花折断層からの想定地震動でも倒壊しない限界変形の準拠規準を「1/30rad以下」という重要文化財(建造物)耐震診断指針の数値に変更していることである。前回の調査で用いられたのは、『伝統構法を生かす木造耐震設計マニュアル・限界耐力診断』による「1/20rad以下」という一般的な木造軸組向けの規準であった。

また報告書49頁には、現棟の診断結果として「現状では耐震性能が不足していると判断され」るものの、早期の除却等ではなく、「耐震補強の必要性が認められ」ると記されている。こういったことを踏まえて当時の寮自治会が現棟の保全と大規模補修を求める方向に進路をとったのであろう。

これまで『京都大学百年史』等の大学の公的刊行物において、文化財に指定されているなど社会的な評価の高い建造物を紹介するために紙幅が割かれているが、吉田寮の現棟や食堂が取り上げられることはなかった。しかし通史の前回と今回で見たように近代以降の建造物への評価軸が多彩になった近年、京都市の近代化遺産の調査対象にも取り上げられるなど文化財としての認知度が高まったことは確かである。

同じく市の調査対象となっている建物として、京都大学花山天文台の動向も注目されている。長年にわたり天文学の発達に寄与する一方で地域に開かれ、親しまれてきた天文台として、京都市が文化財に登録することを提案したところ、京都大学は将来世代への負担になるという理由で拒否した。これに対し、市の提案を受けた当時の台長である柴田一成名誉教授が、地域の遺産として文化財登録を実現するべく、市民と連携して署名活動などを進めているという。

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《解説》吉田寮をめぐる予算

国立大学法人化によって国立大学の会計は、私企業と同様の形式を取るようになり、各年度で予算を使い切る方式から、積立が可能に変わった。形式としては、ある年度に生じた剰余金のうち、「法人の当該事業年度における経営努力により生じた」と文部科学大臣に認定された場合に目的積立金として計上するというものである。この積み立てが承認されるためには、法人の中期目標において使途が明示されている必要がある。目的積立金は、6年の中期目標期間内であれば自由に取り崩して使用することができるが、期間を超えて目的積立金を保持するためには、新規に積み立てを行う場合と同様に文科大臣の承認を受けなければならない。

京大当局は2007年、第1期中期目標(2003年~2009年)の中から「重点事業」を定め、「今後検討を行う事業」として「吉田寮の建替え」を挙げ、それに目的積立金を充てる計画を公表した。さらに、第2期中期目標(2010年~2015年)の重点事業実施計画に「吉田南構内再生整備事業~学生寄宿舎の整備~」を盛り込み、この積立金を繰り越す申請をした。この時吉田寮は、予算の性質を理由に合意形成が軽視され、なし崩し的に建替えが進められることに懸念を示し、繰越をしないよう当局に求めた。これに対し西村副学長(当時)は、繰越した予算を吉田寮以外に転用・保留することは可能だと説明して理解を求め、吉田寮はそれを追認した。

しかし、2011年4月以降赤松副学長と新棟の交渉が進められる中で、予算の転用は不可能であると大学の認識が変化していることが発覚した。赤松副学長は、「西村前副学長の頃と違って、最近、予算の監査の目が厳しくなってきている」と説明し、「厚生補導担当副学長として、吉田寮自治会に正確な情報を知らせなかったことを謝罪する」と発言し、建替えを強行しないことを口頭で約束した。

その後、新棟の建設や食堂の補修に、この目的積立金が使われた。文科省に予算を申請するのではなく、学内の裁量で使える積立金を使ったことで、新棟は、文部省省令で定められた「新々寮4条件」(自治会による入退寮選考を否定、全部屋個室、食堂なし、文部省の定める負担区分の適用)を適用する必要がなくなり、相部屋として使える部屋が設置されるなど自治会の意見が取り入れられた。また、吉田寮は2012年4月の「説明会」において、施設部が提示した資料に基けば、現棟の建替えでは第二期の内に予算が消化できないことを指摘し、現棟補修の有効性を主張した。大学当局もその主張を一定受け入れざるを得ず、現棟の調査(
    《コラム2》二度目の吉田寮耐震調査
参照)を行い、補修の意義を認めた確約書(
    《史料》吉田寮の建築的意義について
参照)に合意した。しかし、第二期中に現棟の補修は実現しなかった。

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紙面紹介

2021年2月16日号紙面では、以下の記事も掲載しております。

・《史料》学寮の意義について(西村周三氏)
※2010年2月16日号掲載の寄稿「複眼時評」の再掲

このほか《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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