京大近所探訪 特別編 VOL.8~14(2022.05.16)

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京大周辺の様々なスポットを取り上げる連載「京大近所探訪」。これまでに7回掲載してきた。今号では特別編として、活動体験の1回生に加わってもらい、新鮮な視点で大学近辺を探訪した。2頁にわたって7カ所を紹介する。連休は終わったが、制約の多い日々はしばらく続きそうだ。気晴らしに散策はいかがだろうか。(編集部)

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目次


    Vol.8 法然院
    Vol.9 大田神社
    Vol.10 聖ヨゼフ修道院「門の家」
    Vol.11 栗原邸
    Vol.12 おかいらの森
    Vol.13 東山二条 雨庭
    Vol.14 深泥池

Vol.8 法然院


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【墓と紅枝垂桜】

京大吉田キャンパスから徒歩30分。哲学の道をそれ、坂を登るとひっそりと佇む建築物が見えてくる。17世紀に建てられた歴史ある寺、法然院である。そこには日本を代表する文豪、谷崎潤一郎の墓がある。大きな期待を胸に境内に足を踏み入れた。しかし、大概の偉人の墓がそうであるように、そこには何か特別なものが隠されているわけではなく、あるのは墓石と数本の卒塔婆だけである。春には見事な紅枝垂桜が迎えてくれるはずだが、取材日に桜は見る影もなく、青々とした新緑が土砂降りの雨に打たれて喘いでいた。

この紅枝垂桜は、谷崎が大の京都贔屓になったきっかけのひとつである平安神宮の紅枝垂桜を思わせる。東京出身の谷崎は、当時西洋に大きく影響を受けており、いわばエキゾティズム的関心から日本の古都である京都、奈良に深い関心を持つ。移住後、京料理と京都の桜の虜となった谷崎が京都に骨を埋めるのはいわば当然の成り行きであったろう。

彼は墓を法然院に決めた理由について、こう述べている。東京からやってきた知人が「アゝコゝ二爺サンノ墓ガアツタツケナ」と訪問してくれるのにちょうど良い場所だからだ、と。谷崎は鴨川堤で自分で探してきた鞍馬石を墓石に決める。自筆で「寂」、「空」と刻まれたその2つの石は、時代が移ろうとも確かにそこに存在している。(順)

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【墓へと続く階段】

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Vol.9 大田神社


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【木漏れ日の射す境内】

上賀茂神社の摂社である大田神社。実はその歴史は上賀茂神社よりも長い。鎮座年代は不詳だが、賀茂最古の神社として、927年作成の「延喜式神名帳」という神社一覧にもその名が記されている。それゆえ長寿福徳の信仰が寄せられており、また天岩戸開きの際に神楽を舞ったといわれる天鈿女命を祀る社として芸能上達のご神徳もある。緑に囲まれた閑静な境内は、参詣に訪れた人の心を落ち着かせることだろう。

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【カキツバタの絨毯】

ピンクのつつじが華やかな鳥居の前には右へ折れる小道がある。その先に広がるのは世にも幻想的な濃紫の海だ。この風景を作り出したカキツバタは、約2千平方メートルの大田ノ沢に約2万5千株も自生している。群生の美しい眺めは平安時代から人々を魅了しており、著名な歌人である藤原俊成も「神山や大田の沢のかきつばたふかきたのみは色に見ゆらむ」と詠んでいる。また1939年には国の天然記念物に指定された。取材時にはまだ沼沢の半分ほどしか咲いていなかったが、見頃である5月中旬には一面のカキツバタが見られるはずだ。是非一度足を運んでみてほしい。(楽)

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Vol.10 聖ヨゼフ修道院「門の家」


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【老朽化を感じさせない堅固な造りの「門の家」】

北野天満宮から程近く、古都に佇む洋風建築が周囲と対比され目を見張らせる。聖ヨゼフ修道院「門の家」である。「門の家」は1920年に旧住友家衣笠別邸の門衛所として建てられた。1971年に衣笠邸の住宅部分が取り壊され跡地に修道院が建設されて以降、旧門衛所は「門の家」と呼ばれ、現在は修道院のゲストハウスとして使用されている。女子修道院であるため、男性来訪者が利用する場合が多いようだ。

設計は工手学校(現在の工学院大学)出身で住友営繕の多久仁輔、施工は住友関係の住宅のほとんどを手掛けた八木甚兵衛の手による。「門の家」の建築様式の特徴は、ハーフティンバー様式が用いられていることだ。ハーフティンバー様式とは、柱・梁などの骨格を外にむき出しにし、それらの間に煉瓦・土・石を積んで壁とする工法で、イギリス・フランス・ドイツなどのアルプス以北のヨーロッパの木造建築で広く採用されている。その名称の由来については、壁と木造部分が半々となることや、割られた材木を外部に見せることなど諸説ある。現在では、その美しさや木材を組み合わせることによる優れた耐震性が評価され、日本の洋風住宅には比較的早くに導入された。

「門の家」の外観は茶系の色を基調とした簡素な造りながらも、黒い木造部分が壁面のアクセントになっており、ハーフティンバー様式特有の個性的な味わいがある。1998年には、広大な旧住友家邸宅の面影を伝える貴重な遺産として、また歴史的景観の構成要素としての重要性が評価され、国の登録有形文化財に指定された。

北野天満宮に近いこともあり、付近には飲食店が多い。北野天満宮に参拝し、食事をした後に「門の家」を見に行く、という小旅行もいいかもしれない。ただし、修道院内部は通常非公開でシスターが生活しているので、くれぐれも迷惑はかけないようにしよう。(嶋)

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Vol.11 栗原邸


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【緑の中に、静かに佇む】

京都市営地下鉄東西線の御陵駅で降車して北へ進むこと10分、生い茂る木々の間に栗原邸はじっと佇んでいる。

明治・大正期の染色学者で京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の2代目校長である鶴巻鶴一の邸宅として1929年に建築された。日本のモダニズム建築を代表する邸宅として、2014年に登録有形文化財に登録された。特殊な形状のコンクリートブロックによる合理的な構造と、練られたデザインにもとづく装飾的な造形とを兼ね備えている。

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【栗原邸の傍を流れる、深緑色の琵琶湖疎水】

栗原邸のすぐ傍には琵琶湖疎水が流れており、明治から現在に至るまで、絶えず京都へと水を運び続けている。琵琶湖疎水沿いは、春には花見に人が訪れ、秋には小学生の駅伝大会が開催されるなど、山科区民に広く愛されている場所だ。そんな区民たちを見守りながら、栗原邸は山科の地に歴史を築いてきた。

そんな栗原邸だが、継承者が見つからず、現在売りに出されている。2018年には栗原邸保存研究会が購入者を募るために期間限定で「継承のための一般公開」を行うなどしてきたが、8日時点で継承者は決まっていないという。引き続き、「建物の歴史的・文化的価値を継承し、長く居住もしくは活用」する購入者を募っている。(滝)

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Vol.12 おかいらの森


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【おかいらの森の様子。現在でも古い瓦が出土することがある】

叡山電鉄三宅八幡駅から北西に向かって6分ほど歩くと、閑静な住宅街の中に取り残されたような小さな森が見えてくる。小高い丘のようになったその場所は、おかいらの森と呼ばれる平安時代中期の貴重な遺跡だ。

おかいらの森は正式名称を小野瓦窯跡という。小野瓦窯とは10世紀の律令施行細則である「延喜式」に記述が確認できる国家直営の瓦工場で、平安宮や藤原氏の邸宅、大寺院といった建築物に使用するための瓦をここで生産していた。一説によると「おかいら」という呼び名は「お瓦屋」が訛ったものではないかといわれる。

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【おかいらの森から出土した平瓦。中央部分に「小乃」の文字が確認できる】

もともと古い瓦がよく出土することで知られていたおかいらの森であったが、2004年に京都市により一部発掘調査が行われた。その結果、地中からは平安時代に築かれた半地下式の平窯が非常に良い保存状態で発見された。またおかいらの森の丘は焼き損じた瓦や灰などを人工的に積み上げて形成されたものであることが判った。これは瓦の生産が盛んであったことを示している。調査から6年後の2010年には、小野瓦窯跡は京都市の史跡に指定された。

このおかいらの森は現在、東に徒歩で10分進んだ先にある崇道神社(上高野西明寺山)の御旅所(祭礼における神輿の仮の安置所)にもなっている。この2つの場所の関係性をより詳しく知るため崇道神社を訪れ、宮司の井口忠男さんに話を聞いた。井口さんによると、かつておかいらの森に仮屋を立てて神事をしていた伊多太神社が崇道神社と合祀されたために、おかいらの森が崇道神社の御旅地になったという説があるそうだ。この上高野の地は古くは小野郷と呼ばれており、古代豪族の小野氏が治めていた。良質の土が採れるこの地で瓦作りが盛んになったのは自然なことだといえる。

今回現地を訪れたときには瓦を見つけることはできなかったが、実際におかいらの森から出土したという瓦を井口さんに特別に見せていただいた。平瓦と軒瓦の2種類があり、両手で持ってみるとずっしりと重い。瓦に施された唐草文様や蓮華文といった仏教美術の意匠を目にすると、これらの瓦は千年の時を過ごしてきたのだということを感じさせる。(有)

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Vol.13 東山二条 雨庭


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【東山二条の交差点にある雨庭】

京都でまち歩きをして味わえる楽しさは、建物にしつらえられた園芸植物によるところが大きい。民家、店舗、マンションなど、建物の種類を問わず、主の趣向を凝らした鉢植えや花壇で入口付近を飾っているのを行く先々で見かける。そこを訪れる人と道行く人々へのもてなしの心が表されていて和まされる。

今年3月下旬、約半年の施工期間を経て、東山二条交差点の南東角の歩道に庭木や庭石のある緑の空間が完成した。同地は、東大路通から文化施設が並ぶ岡崎地区への入口にあたる。京都市が、2017年度以降、市内で整備を進める「雨庭」である。これまでに同地を含め8地点に設けられている。花壇とベンチを備えた「ポケットパーク」も街中の緑の演出だが、「雨庭」の特徴は雨水の排水管理構造を持つことだ。地上に降った雨水を、下水道に直接放流せず一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させている。

「雨庭」は、1990年にアメリカで治水対策として生み出されたものだが、伝統的な日本庭園も雨水を利用する構造を有している。日本では、京都市都市緑化協会現会長で景観生態学・造園学が専門の森本幸裕・京都大学名誉教授が「雨庭」の重要性を主唱してきた。雨水流水抑制効果に加え、緑化・修景、水質浄化、ヒートアイランド現象の緩和といった効果も期待できるという。記者は、「雨庭」を中心としたまちづくりを考える同氏のワークショップに参加したことがあるが、雨量、選定地の面積や勾配の角度の計算、デザインや植栽する植物の検討など、設計段階だけでも多くの過程を経る必要があることを経験した。設置の実現には、財源の捻出、近隣関係者との合意形成も必要である。

京都には、主として寺社に継承されてきた庭園文化がある。身近なところに自然を取り入れ楽しむ生活文化はもともと日本人にあったが、室町時代以降は生花や茶道の流行により植物を愛でる風潮が広がり、町屋にも「坪庭」が作られるようになった。江戸時代以降普及した植木鉢で身近に園芸植物を楽しむ文化が庶民の間に広がった。

また、道路景観の第一人者の東京大学名誉教授・堀繁氏は講話で、都市への入口など要所に植栽するのは日本の都市の伝統であると指摘し、「木は人間をもてなす最強の材料」と述べている。歴史ある庭園文化と造園技術力、裾野の広い園芸文化を背景に、市内の「雨庭」整備は行われている。なお、市は「京都市街路樹サポーター制度」を利用して日常管理を行うボランティアを募集中である。(苑)

【参考】道路環境研究所編『景観からの道づくり基礎から学ぶ道路景観の理論と実践堀繁講話集』(2008)

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Vol.14 深泥池


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【今でも希少な植物が残る浮島】

深泥池(みどろがいけ/みぞろがいけ)は、京都盆地の北の端にある周囲約1・5キロ、面積約9万平方メートルの天然の池である。池のほとりにはカキツバタが可憐な白い花を咲かせ、耳をすませば魚のはねる音が聞こえる自然豊かな場所だ。池の北東部は木がまばらに生える浮島に覆われており、取材時には白い水鳥の姿も見えた。深泥池の浮島は、本来冷温帯から寒帯にかけて形成される高層湿原であり、温帯に位置するこの場所では独特な生物群集がみられる。特に池が形成された氷河時代の植物が今でも保存されている点で大変貴重である。このために、深泥池は1927年に水生植物群落として、1988年には生物群集全体に対象を広げて、国の天然記念物にも指定されている。

さらに、深泥池は歴史的に京都市民の生活や文化と深い関わりを持ってきたことでも知られる。平安遷都以降、平安京という大都市の郊外となった深泥池は、貴賤を問わず多くの市民に親しまれた。古くは839年に淳和天皇が狩猟に訪れたという記事が『類聚国史』などに見られ、和泉式部も深泥池を題材にした歌を詠んでいる。また鞍馬寺・貴船神社への参詣道としても栄え、時代を超えてたくさんの人々に利用された。

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【神社には雨水を司る高龗神〈たかおかみのかみ〉が祀られる】

近辺には「深泥池貴舩神社」や「深泥池地蔵堂」があり、長きにわたって地域住民の信仰の場となっていることもうかがえる。深泥池貴舩神社は、貴船神社の分社として江戸時代に建てられたものだという。神社の境内には江戸時代の文人画家・池大雅の生誕碑も建てられている。

深泥池は稀少かつ豊かな自然と深い歴史とをあわせ持つ名所である。ぜひこの地を訪れて、深泥池が京都の市民とともに歩んできた歴史に思いを馳せてみてはいかがだろうか。(砂)

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